一片の紙

「もしもし…?」
香代が受話器を取った。しかし返事はない。
しばらく返事を待ってみたものの、やはり返事はなかった。
少ししたら、ガチャリと受話器をおろされる音が聞こえた。
「…。」
ツーツーツーと言う音だけが聞こえた。
仕方なしに、香代は受話器を置いた。
いわゆる無言電話であるが、家に香代しかいないことを知っての行動だろう。
電話番号くらいなら、連絡網から入手することはできる。
しかし、今までそれを行わなかったのは、家に香代以外の人がいる可能性があったからだろう。
目的は香代に対する嫌がらせである以上、香代以外の人が受話器を取ることを願わなかったのだろう。
っと推測を並べてみるが、事実、香代しか家にいないときに限ってこういう電話はかかってきた。

誰が掛けたのか、おおよその見当はつくが証拠はない。
そして香代はこういうことを両親に相談するには気が進まないでいた。
話したら心配をかけてしまうだろう。
香代の両親は共働きだ。香代のことにいちいちかまっている余裕はない。
もちろん、親として子のことは心配するべきではあるが、子供としてはそんな些細なことで迷惑を掛けたくはないものだ。
香代も彼女の両親がどんなことで苦労しているのか、またその理由が薄々とではあるが理解していた。
そのようなことと比べると、香代自身のことはどんなに些細な問題だろうか。
香代一人が我慢すれば問題は大きくなることなんてないのだから。
時が経てば、きっとなくなるだろう。
それまでどれくらいの時が流れるのかは定かではないのだが。
確かに、香代も心細いとは感じている。
もっとかまってほしいと思っている。しかしそれはわがままに過ぎない、そう自分に言い聞かせていた。
そして学校について聞かれるとき、笑顔で楽しいと答える自分に胸が痛むのだった。

その翌日、勤めて平静を装う香代だったが、龍にはすぐにばれた。
いつものように香代を迎えに来た龍は、香代の顔色が優れていないことにすぐに気づいた。
無理して笑顔を作っている、とわかったのは何年も香代を見てきたからなのだろう。
「香代ちゃん、大丈夫?何があったの?」
心配そうに、龍は聞いた。
「え、どうしたの?何もないよ。」
香代が笑って答えた。そんな香代の笑顔はどこか空回りしているように龍には映った。
「ううん、香代ちゃん、無理しているでしょ。わかるよ。」
そういう龍は浮かない顔をしていた。
その目は、自分に真実を言ってほしいと切に願っていた。訴えていた。
香代の顔は一瞬、困惑の色を浮かべた。
言うべきか言わぬべきか。
おそらくそれで悩んでいるのだろう。
心配かけたくないと言う思いと、問題を発展させたくない思い。
その二つが言うことを躊躇わせた。
しかしその一方では、わかってほしいと言う願いもあった。
理解してほしい、支えてほしい、助けてほしい。
そんな感情は、香代の心の叫びそのものだろう。
人は一人では生きていられないのだから。
人間と言うのはとても弱い生き物なのだから。
それなのに人は、人の弱みに付け入るのだ。
それならば…己を守るのは虚構によって作らされた強がりと言う鎧のみ。
だから香代はこう答えた。それが龍を傷つけるとも知らずに。
「本当に大丈夫だよ、何もないよ。気のせいだよ。」

その香代の異常は、通路挟んだ隣である雄太もすぐに気づいた。
だからと言って、龍に出来なかったことが雄太に出来るであろうか。
雄太は香代に声をかけること自体躊躇われていた。
香代は、何事も内容に振舞っているものの、授業は上の空だ。
一人で考え事にふけっているのだろう。
先生が香代を呼ぶ声が聞こえる。
「東…おい東、聞いているのか!」
「…は、はいっ!」
雄太が香代の方を突っつくことによって、香代はやっと気づいた。
「まったく。授業はちゃんと聞けよな、じゃあ教科書を読んでくれ。はじめからだ。」
香代は席を立った。音読するためだ。
立つときそっと、雄太に向けて小声でありがとうと囁いた。
クラスは…女子を中心にくすくすと笑っていた。
やっぱり効果あるね、などとこそこそ囁きあっている。
先生は一瞥をくれただけで注意はしていない。
龍はそんなクラスの雰囲気に怒りを覚えた。
教科書を読む香代と、その様子を心配している雄太はクラスのこの状態に気づかなかったのだ。
しかし、クラスのほぼ中央に座っていた龍には、そのような変化が手に取るように伝わってきた。
それゆえ怒りを覚え、いてもたってもいられない状態を必死になって我慢していたのだ。
だから龍は、休み時間になるや否、問い詰めようとした。
「ねえ、香代ちゃんに何があったか知っているの?」
そう聞かれた女子たちは互いに顔を見合わせ、ほくそえんだ。
その顔は、何も知らないようだね、と言わんがばかりだ。
「さあ、私は何も知らないね〜。」
聞かれた女子はそう答えた。この際嫌われようがなんだろうが、お構いなしだというような投げやりの表情に見えた。
「嘘だ、何か知っているだろ。」
龍が言った。その目つきは非常に鋭く、女の子を泣かしかねない。
「本当に知らないんだよ!!」
その女子は叫んだ。凄い強気な女の子のようだ。
龍が何か言おうと口を開きかけたとき、誰かが龍の手を引っ張った。
龍が後ろを振り向くと、そこには香代がいた。
首を横に振って寂しそうな笑顔を向けて。もういいの、大丈夫だから、と訴えていた。
「でも…。」
困ったような顔で龍が行ったがその後が続かなかった。
香代はお構い無しに龍を引っ張ってゆく。
二人とも無言でその場を去っていった。
後に残った女子たちは、何よあれ、などと不満を言っていた。

龍が香代に何があったか知ったのはその日の夜のことだった。
この日、香代の両親はどちらも夜遅くにならないと帰ってこない。
それ故、香代の母親は出かける前に龍の母親に香代のことを頼んでいたのだ。
龍の母親は香代に会いたがっていたこともあり、快く承諾した。
彼女が香代に会いたい理由は、龍はいつも香代のことを話す時、とても楽しそうな顔をしていたからだ。
そして夜、龍は香代を迎えに行った。
晩御飯が出来たから香代を呼びに言ったのだ。
香代も龍も、帰るまでこの事実を知らなかった。
だから一緒に龍の家に行ったわけではない。
ピンポーン。
インターホンが押された音がした。しかし誰も出てこない。
「香代ちゃん…?」
龍がドアを開けてみた。鍵はかかっていない。
入ってすぐ左手にダイニングルームがある。
しかし香代はそこにはいなかった。
玄関の目の前に当たるところには階段がある。
おそらく香代は二階の自分の部屋にいるのだろう、そう推測して龍は階段を上ることにした。
もちろん玄関の鍵を掛けることは忘れなかった。
「香代ちゃん…?お邪魔しているよ…?」
そう声をかけてから階段を上る。
上った後、左手の部屋から光が漏れてきた。香代はここにいるようだ。
扉が閉まっているので、龍は軽く叩いてから戸をあけた。
香代は慌てて何かを隠すように引き出しを閉めた。
「あ、龍君。そっか、もうそんな時間なんだね。」
そういった香代の目は少し赤くなっていた。
その時、電話がなった。香代の部屋に子機があったので、香代がそれを取る。
「もしもし…。」
やはり無言電話だった。たちの悪いいたずらではあるが、もともとクラスから外された身である香代にしてみたらとても辛いのだろう。
龍は香代がどんな目にあっていて、クラスの女子たちが何をしたか知った。
「お願い、このことは黙っていて。」
香代が言った。納得のいかないような表情で龍は「でも…」と口答えした。
「私が我慢すれば言いだけだから。だから、お願い。」
香代が必死に頼む姿に、しぶしぶながらも龍は頷いた。
しかしその表情には、納得していないことがありありとわかる。
「だけど、何かあったら必ず俺に言ってよ。電話の事でもいいし、画鋲を仕込まれたことでもいい。
どんなに些細なことであっても絶対に言ってよ。」
例え非力な俺でも、少しくらい力になれるのなら、と小声で龍は付け加えた。
「うん、ありがとう。」
やはり泣きそうな笑顔で香代は言った。龍は心臓が鷲掴みされるような気持ちになったがそれは顔に出さない。
そして二人仲良く、龍の家へ向かった。


2005年9月19日発行。
短いですが、第二部了。
このころには、全12回に予定変更しています。

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