一片の紙

練習を重ねていくにつれて、不和は解消されていった。
今は、少しでもいいものを作りたいという思いで一致している。
子ども心にも、親や近隣の人が喜ぶ様は思い描け、それを見れることに喜びを覚えていたのだ。
香代はまだ、肩身の狭い思いを感じてはいたが、歌っている時間を苦痛に感じることはなくなった。
もう、いることに申し訳なく感じたり、自分の歌がいかように評価されているかを気にしたりはしない。
学年全体で合わせて練習する機会も増え、クラスで練習する時よりも曲の厚みも拍動感も異なる雰囲気に驚く。
それでも時々、厚みの足りないところや、音のずれているところなど、あれっと思う点も出てくる。
確かに、クラスで合わせるよりも、数が多い分曲の雰囲気は変わるが、だからこそ、という課題があるのだ。
特に、曲の小さい部分での厚みと言うのが難しい。
小さな声で百何十人の声を重ねて、聞いている人のところまで響かせる音を作らないといけない。
人数が多すぎるから、音が目指しているのよりも大きく感じるのだ。
でも弱めたら、今度は逆に届かないような気がしてしまう。
そんな挑戦を何度も、何度も繰り返し、いよいよ当日を迎えることになった。
ずっと待っていて、ずっと恐れていた、この日が……。

事前に出されていた指示に沿って、香代は白いシャツと黒スカートをはいていた。
上に着ているコートは紺色をしているが、これはホールについた時に脱いでいる。
もっとも、香代は黒のスカートを持っていなかったので、この日のために買ったものだったりもする。
このときの思い出次第で、今後着る機会が増えるかが決まりそうだ。
「いよいよ、今日なんだね。」
香代に気付いた優美が、そう声をかけた。
そう言う優美も、白シャツに黒スカートという格好だ。
シャツには小さな灰色の水玉模様がちりばめられていた。
おそろいのものを買ったわけでも、学校指定のものを買ったわけでもないので、多少違うものが混ざっているのは仕方ない。
白のハイネックを着ている人や、丸襟の人も辺りを見渡してみれば見つかる。
普段ズボンをはいている沙希も、この日ばかりはスカートをはいていた。
あとで本人に聞いたところによると、さゆりのを借りたらしい。
やはりというのか、らしいというのか。
今後もはくつもりがないものを、このときのためにわざわざ買うなんてと思ったらしい。
それを聞いたさゆりが、ちょうどほしかった黒のスカートがあるからそれを買うために利用したのだとか。
一方の男の子たちは、黒の長ズボンという指示だった。
真っ黒のズボンを持っていない子もいたようで、横のところに灰色のラインがまっすぐに入っている子がいた。
それでも、いつもと違った格好に、落ち着きと大人びた雰囲気が誰からも漂わせていた。
本番という神聖な場に挑もうという心意気が感じてきそうだった。
そしてステージは、香代が思い描くよりもずっと大きく、明るかった。
クラスごとに固まった並び方。
事前に決められた入り方。
何度か入り方の練習をしたはずなのに、ついつい下を見てしまう。
段差につまずきやしないだろうか、そればかりが頭にあるかのように。
上から降ってくる照明が、心なしか眩しく感じるくらいだった。
しかしそれも、入場しているまでのこと。
いざ自分の場所に立てば、背筋を伸ばし、まっすぐ前を向くまでだった。
香代たちの前にも、いくつかの小学校がこのステージ上で歌っていたが、みんなこんなに緊張していたのだろうか。
向けられた視線の数に、香代はそんなことを考えずにはいられないでいた。
それでも、指揮者が立ち、伴奏の音が聞こえてくると、そんなことを考えている余裕はない。
入るタイミング、音、大きさ、そのどれをも間違えないよう意識を集中させる。
みんな、この日のために頑張ってきたのだ。
最後はやっぱり、満足して終わらせたい。
後悔や反省と言った、負の感情は持ちたくない。
達成感と充実感で、終わるのが一番だろう。
約五分という時間は、瞬く間に終わり、香代たちは退場することになった。
終わった解放感からか、少し周りを見る余裕が生まれる。
頭も自然と持ち上げられていた。
そんな香代たちが退場し終わった後、次の学校がステージに入ってくる。
きっと、彼等も頭をうつむかせながら入ってくる。
これから起きる重圧に、怖れと、希望を持たせながら。

「終わったー!」
休憩時間の時、雄太が思いっきり体を伸ばせて言う。
周りにはほかの学校の生徒もいて、皆それぞれ違った顔をしていた。
終わった学校はすがすがしい表情を、これからの学校は緊張にこわばらせて、といった具合だ。
「そうだね。あっという間だったなぁ。」
そんな雄太に、龍が相槌を打っていた。
香代は、そんな様子を遠くから見ていた。
指示のあった服装はどこも大体同じはずなのに、それぞれの学校が醸し出す空気は違う気がする。
そして、そんな中でも二人の様子が目立っているように、香代には感じられていた。
「何見てんのよ。」
後ろから突然優美の腕が回され、香代は軽く首を絞められた体勢になった。
優美は香代の視線の先に気付き、わけがわかったかのように「ははあ」と声を漏らす。
人は決して少なくなかったが、優美にも、二人の姿が見てとれたようだ。
「せっかくなんだから、話に行けばいいじゃん。お疲れ様って。」
優美が香代を小突く。その時、龍が香代たちの方を振り向いた。
龍が軽く手を上げたところで、雄太も気づいたようだ。
香代は小さく手をふり、優美は龍と同じように軽く手を上げる。
「お疲れ。」
香代たちのところまでやってきた龍が言った。
「あれ?もう一人は?」
雄太が聞いた。
沙希がいないのがよっぽど珍しいのだろう。そう言えば、と龍もキョロキョロ視線をさまよわせた。
「沙希ちゃんはたぶん、さゆりちゃんのとこだと思うよ。家族ぐるみの付き合いがあるから。」
優美がそんな二人に教えてあげる。
「そう言えば、香代ちゃんのお母さんは?」
家族と言えば、と思い立った雄太が聞いた。
「あー、たぶん、俺のとこと一緒にいるよ。」
その問いは香代ではなく、なぜか龍が答えた。
「うん、今日、お休みとったって言っていたから、たぶん、そうだと思う。」
香代自身は確認していないので、本当のところは分からない。
しかし、龍の母親ならあり得る、と思えるところがあった。
「そっか。隣同士だもんね。」
と優美が納得する。
東家と相沢家、こちらもこちらで、家族ぐるみの付き合いと言ったところだろうか。
そうしているうちに、休憩時間も終わり、このイベントも終わりを迎えた。
この次は、五年生として、卒業式で六年生を送りだすというイベントに向けての準備が始まる。
そして春になれば、六年生として、一番上の学年として、あわただしい一年が始まった。

六年生にもなると、ひそやかに受験についてささやかれるようになる。
香代自身は特に受験の予定もなく、小学校のすぐ隣にある中学に進学するつもりではいた。
家から近いし、同じようなメンバーでいられるので、多少なりとも安心感があるからだ。
それに、忙しそうな両親の背中を見ていると、幼心にも負担をかけさせたくないと思うのだ。
実際、受験するという人は、クラスで二、三人くらい。
学年で見ても十人弱と言ったところだった。
ちょうど沙希とさゆりの兄が高校受験を終えて、高校に進学したこともあり、沙希は中学入ったら塾通いになりそう、と言っていた。
学歴や技術は、まだ将来を左右させる要素である昨今、どうせ受験するならいいところを、という願いらしい。
香代にはまだ想像できない未来ではあるが、一年生として電車に乗り、通学する兄の姿を見る沙希にはだんだん理解できるものとなったらしい。
ただ、香代に何となくわかっていたのは、将来、みんながバラバラの道を歩んでいくのだろうということだった。
違う高校に通い、会わなくなり、離れていくのかもしれない。
そのとき香代がどこへ行くのかは、誰もわからない。
みんなが先を進む中、一人取り残されているのかもしれない。
それは誰も知らない未来であり、寂しさを伴う響きでもあった。
それでも、そんな話になったのはこの一回だけで、あとは普通にあわただしく日常を送るだけだった。
卒業式の準備も徐々に始まり、暦上は春を迎えるころまでには、受験組は何度か学校を休んでいた。
香代は特に気に留めてはいなかったが、それが受験日だったことを知るのはもう少し先の話である。
三月の天気のいい日に、香代たちは卒業式を迎えた。
辛い思い出も、良い思い出もあった小学校と、これでお別れになる。
長かったような、短かったような六年がこれで終わるのだ。
最後の校歌を歌いながら、ふとそのことに香代は思い至る。
転校生、転入生、転勤した教師、新任の教師、いろいろな出会いと別れはもちろんあった。
感覚としては、そのまま上がるのとほぼ同義なのに、区切りが別物であるように感じさせる。
十人くらいが抜け、ほかの小学校出身の人がたくさん加わり、四月からは中学生としてまた学校が始まる。
場所は近いのに、制服に身を包み、教師も変わり、違った心持で授業に挑むことになるだろう。
願わくは、このメンバーで同じクラスになること、ただそれだけだった。
2009年2月9日発行。

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