一片の紙

龍が大丈夫だと請け負ったこともあってか、香代は自分の声に自信を持つようになった。
不思議なもので、自信を持てるようになると、周りのささやき声は自分の悪口には思えなくなってくる。
たとえそれが香代に対する悪口であったとしても、香代の歌を否定するものではない、そう思えるのだ。
もう、声が出ないのかと咎める人はいない。
強弱が付いていないと責める人もいない。
そして、やる気あるの?と尋ねる人もいなかった。
何よりも、「東さんに負けないよう頑張らないと。」と香代を評価する声も聞こえるようになり、それがうれしかった。
「東さん、本当はうまいんだね。」
そう声をかけたのは、香代の隣で練習していたクラスメイトだ。
名前は…三谷(みや)さゆりだったはず、そう香代は記憶を呼び起した。
香代はさゆりが時々沙希と話をする所を見ていたので、さゆりの存在は記憶に残っていたのだ。
一度沙希にそのことを尋ねてみたら、沙希の兄である望とさゆりの上の兄が友達だからそのつながりだと言っていた。
さゆりの家は三人兄弟で、上二人が男、末っ子のさゆり一人が女だった。
そのためか、小さい時は沙希と姉妹のように一緒にいたという。
今まではさゆりとはクラスが違うこともあってか、香代の記憶からは全くなかった。
「え、そんなこと、ないですよ。」
そう言って香代は首を小さく、しかしはっきりとプルプルと振った。
「そんな、謙遜しちゃって。」
香代とさゆりのやり取りを見てやってきた沙希が言った。
こつんと香代の頭を小突く。
「あ、さゆ、お兄ちゃんが借りたもの返してくれって本預かっているから、あとでいい?」
「あ、うん。わかった。」
小突いたまま顔をさゆりの方へ向けた沙希とさゆりがそう話をする。
沙希の手はそのまま香代の頭に乗ったままだ。
「あのー、沙希ちゃん?手はどかしてもらえませんか?」
存在を忘れられていないか冷や冷やした様子で香代が言った。
「ん?重かった?」
わざと見当外れのことを言っているのか、そう言いながらも沙希は笑っていた。
「人の体重を載せられるほど、私の頭は丈夫じゃないよ。」
香代も笑いながらそう言葉を返した。
「さっちゃん、練習は?」
心配そうにさゆりがそう言葉をはさんだ。
ちょうどそのタイミングで、アルトパートの方から沙希を呼ぶ声がかかった。
ドアの方で手招きしているのは、練習場所を変更するからだろうか。
「あー。じゃ、私は行くから、二人もがんばって。」
そう言って先が手をひらひらさせながら離れていった。
「まるで嵐が去ったみたいだね。」
どちらともなくぽつりとつぶやいた。
「うん、そうだね。」
もう一人がそう応じた。
沙希がいる時といない時とで、場の盛りあがり方は違っているように感じられた。

団結力を要する行事というのは、結束力を強める効果のある反面、外れた人はより孤独に追いやられる気がする。
合唱祭の練習が始まったばかりの時、香代は自分が一人ぼっちなのだということを強く感じていた。
ほかの人が楽しそうに練習する様子を見ながら、どうあがいてもそこに追いつけない感覚。
友達はいるはずなのに、パートやクラスが違えば完全に離れ離れになってしまう感覚。
近くにあったものが、急に遠くに感じられた。
今まで守られていたと感じられた壁が取り払われ、無防備な“香代”が外に出ている感覚。
恐怖という言葉が妥当かはわからないが、それに支配されていた。
それが、龍の助けがあり、さゆりから声がかけられるようになり、徐々に楽しさを感じるようになっていた。
同じパートで、どのように練習したらもっとうまくなれるかという話題にも加わることができるようになってきた。
最初のうちは嫌悪の表情を示していた子たちも、今は香代の意見も認めている。
気づけば、香代は一人ではなくなっていた。
授業でグループを組む時は、相変わらず沙希やさゆりと一緒のことが多かったが、そうでないこともたびたび見られるようになった。
「あずまさーん、一緒にくまなーい?」
そう声をかけられると、香代はたいてい応じていたのだ。
組んだ先でちょっかいを出されることも、意見を無視されることもない。
リーダーを押しつけられることもない。
修学旅行の部屋は、沙希もいるものの大部屋だった。
香代や沙希のほかにも七人くらいの女子と一緒の部屋だ。
自由時間をどうするかという相談に、香代も一緒に考えた。
この、輪に加われるという感覚がまやかしなのか香代にはわからない。
ただ願うなら、もう少し夢を見続けたいということだけ。
2008年10月22日発行。

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