一片の紙

「練習、どう?」
久しぶりに相沢家で勉強している香代に対して龍が声をかけた。
香代の家は相変わらず共働きで、今でも香代は時々龍の家にお世話になっている。
龍の母親はなぜか香代をいたく気に入り、「ここを第二の家だと思って!」とことあるごとに言っていた。
「うーん。まずまず、かな。」
香代はそう答えた。暫定的なパートわけはすでに行われていて、何かと同じパートで集まる機会は多かった。
少し郊外に位置するこの場所ではまだ、一クラス四十人くらいというのは当たり前。
男女比は半々くらいで、それぞれが高い方と低い方に分かれるので、一パート十人ほど。
意外と少ない人数に、嫌でも顔をあわせてお互いの声の聞こえる位置での練習。
練習自体は苦痛ではなくても、どこかあらを探されているようでいたたまれない。
そのため、声を出さなきゃと思っても、声が出ないのだ。
「東さん、もっと声出せないの?」
「東さん、やる気あるの?」
「東さん、強弱ついていないよ。」
そう言う声を、もういくつかけられただろう。
その都度香代は小さな、消え入りそうな声で「ごめんなさい…」というのだった。
「よしっ!香代ちゃん、ちょっと土手まで行ってこようよ!」
香代の「まずまず」という答えをどう解釈したのか、龍がそう提案した。
「へっ?」
それがあまりにも唐突だったがために、香代はそんな間抜けな声しか出ない。
龍はその様子にただ笑うだけ。
「もうっ。」
そうは言うものの、香代もつられて笑っていた。
そして二人は仲よく土手へ向かう。
一年生の時遠足で通ったという、苦い思い出が香代にはまだ残る地へと。

そう、そのことは完全なる龍の失敗だった。
龍は純粋に、大きな声で人目を気にせず歌える場所ということで香代を連れていったにすぎない。
実際土手は、草原が広々と広がる以外、人の姿がほとんど見られない。
「大丈夫、香代ちゃん?」
龍が心配そうに香代の顔をのぞき込む。
香代の顔は青ざめていて、素人目からしても体調がよくないことがありありとわかる。
「う、うん……。」
そう返す香代の声は弱々しくて、とてもそうではないだろうと思うには十分だ。
「ここ、あの時、通ったから…それを思い出して…。」
そう苦々しく香代が言うことによって、龍もようやく合点した。
一年生の遠足で、貯水池に落とされた香代。
その遠足の往復は、この土手を通り道としていた。
遠足の帰り道、着替えも髪の毛を拭くための大きなタオルも当然持ち合わせていない香代は、全身ずぶぬれのまま学校まで歩いた。
その様は、この事件に関わっていない人たち―特に違うクラスの子供や先生たち―の目も引き付けた。
香代は普段以上の視線にさらされて、学校まで戻らなければならなかったのだ。
しかも、一人だけリュックサックを背負わないで手ぶら状態、で。
泥で汚れたリュックは龍が自分のリュックの中にしまっていたのだ。
思い返してみると、そのあとほとんどこの土手に近づいていない。
最もそれ以前からも行っていなかったかもしれないが。
龍の方はと言えば、もう少しあとの時期になると虫取り網を持って駆け回ることが多い。
夏から秋にかけた季節は、トンボやバッタ、コオロギ、カマキリといった虫がこの土手で見つけることができるからだ。
「大丈夫だよ。今は誰もいないし、俺がそばにいるから。」
実際あの時も龍は近くにいたのだが。
それに、龍がいるだけで香代の慰めになるのか、自分で言っておきながらもわからないでいた。
「ほら、香代ちゃん、一緒に練習しよう。」
少し前にいた龍がそう言って香代に手を差し伸べる。
「う、うん……。」
今度はおずおずと、香代はそう答えながらその手を取る。
楽しそうに、実に楽しそうに、龍は課題曲を歌い出す。
学年で一つの合唱をするのだから、もちろんそれは香代が練習しているのと同じ曲。
龍も香代と同じく高い方らしく、メロディは一緒だった。
ただ、男の子と女の子で若干音の高さが違うような気がする。
香代ちゃんも、と投げかけられた視線に、香代も曲を紡ぎ出した。
最初は龍の声が大きく聞こえたが、歌っていくにつれてどちらの声もはっきりと聞こえるようになる。
龍の声が香代を誘い、香代の声が龍を包み込む。
練習というのはいつの間にか名前だけで、二人で思いつく限りの曲を歌いあった。
それは香代の声がかれるまで続き、そのあとは龍の家でジュースを二人で飲んだ。

そのあとは、気を取り直して勉強の再開となった。
先生が違えば宿題の出し方も若干異なり、二人の解く問題はすべてが同じというわけではない。
でも、根本的なところは同じなので、行き詰った時は二人で首をひねって考えた。
二人とも特に勉強ができない、というわけではないので、大体は計算ミスだったり、文章の解釈の問題だったりした。
「兄さん、答え教えてー!」
静寂を崩すのは、きまって龍の弟である亮次の声だ。
早いもので、亮次ももう三年生になっていた。
ちなみに、ものを頼む態度になっていないと龍は決して教えないため、呼び名も「兄さん」を半強制させている。
「まあまあ、亮次くん。どこが分からないの?もう少し考えてみようよ。」
答える気配のなさそうな龍に対して、香代が声をかける。
香代はあくまでも、亮次の解きかたを誘導するだけ。
これは龍と決めたルールで、安直に答えを上げるということだけは亮次のためにならないと思うからだ。
香代から見たら、それでも龍は厳しい方だと言えるだろう。
もちろん、友達の答えを写すことはよしとしていない。
実はこれが、龍自身が大人になりたいという渇望の裏返しでもあるのだが、そのことには誰も気づいていない。
「えっとね、この問題。」
そう言って亮次が指すのは九九の問題。
こればかりは九九を覚えないと話にならない。
考え方としてよく持ち出される足し算の計算を香代は持ち出した。
「えっと、これは、7×9ね?じゃあ、ね、亮次くん。
七個の飴を持っている人が、九人いたら、飴って全部で何個になるかな?」
その香代の問いに、亮次は九人の棒人形とそれぞれに七という数字を書き出す。
そして、七足す七は十四、十四足す七は二十一、と一つずつ足していく。
「六十三!!」
答えが出たと同時に亮次が叫んだ。
「正解。七九(しちく)六十三。覚えた?」
「うーん。がんばる。」
にっこり微笑んで見せる香代に、亮次は念仏を唱えるように、「七九六十三…」と繰り返す。
「香代ちゃんにありがとうは?」
実は様子を見ていた龍が口をはさむ。
そう言うところはお母さんみたい、と香代はくすくす笑う。
「香代お姉ちゃん、ありがと!」
そう言ってドタバタと亮次は自分の部屋へ駆けもどってしまった。
龍がため息をついて、その様子にあきれた声が聞こえる。

「ホント、香代ちゃんが来ると助かるわ〜。」
そう言うのは龍の母親。
「料理は手伝ってくれる。亮次も龍も勉強はする。いっそのこと毎日来ない?」
楽しいわよ、とまで言う。
龍の母親の話によると、香代が来ない日はたいてい二人ともまず遊びに出かけてしまう。
出かけない時は二人でテレビゲームをしているそうだ。
香代が来ている時は、三人で遊ぶこともあるのだが、あまり盛り上がらないからか、それともプライドからか、すぐに勉強に切り替わる。
終わった後遊ぶのも、パズルゲームが主流で、アクションとかはほとんどやらない。
そして、香代が手伝っているのに…という口実で、食器を並べるなどの仕事を龍たちにも手伝わせる。
まさに、龍の母親にとってはいいことづくめなのかもしれない。
このときも、お茶碗は香代が洗っているため、龍の母親は珍しく空いた時間にテレビを楽しんでいる。
亮次は早々に自分の部屋に引き揚げたようだが、龍の方は残って後片付けを手伝っている。
「香代ちゃん、本当にいつも手伝ってもらってごめんね。」
申し訳なさそうに龍が言った。
もっとも、それは普段家事を手伝わない龍や亮次が言えたことではないのかもしれないが。
「ううん、いいの。お世話になっているんだし。」
お客様なんだからもっと堂々としてもいいのに…というのは、さすがに毎回のやり取りなのでもう言わない。
「龍もその心配りを見習いなさいよ。じゃないともてないわよー。」
背中を向けている龍の母親が、椅子越しに息子を揶揄する。
学校での龍の評価を母親が知らないわけがないのに…と香代は思う。
「いい男なんてね、そう言う心配りができなきゃだめよ。顔だけなんてすぐ飽きるから。」
相変わらず振り返りもせずに、龍の母親はケラケラとそう揶揄した。
龍は渋面を浮かべた後、やれやれとため息をついて香代に向き直った。
「こういう人だからね、気にしなくていいよ。」
香代は苦笑することしかできず、そのタイミングでインターホンが鳴った。
「はーい!」
龍の母親が立ち上がり、玄関へ駆けていく。
二言三言、言葉を交わす声が聞こえてくる。
「香代ちゃーん、お母さんよー!」
今日も帰りの遅かった香代の母親が迎えに来たのだった。
「じゃ、香代ちゃん、また明日。」
龍が言った。香代も即座に荷物をまとめてから、「また明日」と返した。
2008年8月10日発行。

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