一片の紙

香代にとって正月と言うのは、家族でのんびり過ごせる唯一の日だったかもしれない。
中小企業だったり管理職だったりで香代は日頃両親に構ってもらったと言う記憶をほとんど有していない。
年末は年末で大掃除で慌ただしく…勿論香代も掃除の手伝いをした。
それは自分の部屋から始まり、ダイニング・キッチンと言ったところや、トイレ掃除と言ったところにまで至る。
ごみの山はすぐに沢山でき、香代はそれを父親と運んだりもした。
みんながみんな掃除に必死になっていて、会話はほとんどなかったがそれでも香代は幸せだった。
胸に言いようのない温かさが込みあげてきて、その感触に満足していた。
その空気は、大掃除の辛さをも吹き飛ばしてくれる。
たまに隣家の掃除の音を聞いては、今の龍の様子を想像するのも楽しかった。
だから香代は、大掃除を嫌いになることは決してなかった。
そしてお正月と言うのは、誕生日と同じくらい大好きな日だった。

31日夜、今年は龍の家で相沢家と東家のメンバーが全員集まっていた。
例年三人だけで過ごす年越しはひっそりとして厳かで、それはそれで大切なものではあったが、七人と言う大人数で過ごすと言うのも悪くはないのかもしれない。
うるさくて、お祭り騒ぎのようにはしゃいでいるが、笑う門に福来ると言う言葉のように、幸せがどんどんなだれ込んでいるような気がしてくるのだ。
料理をつくったのは両家の母親、そして香代はお手伝い。
父親二人は酒の席にでもなっているのだろう。
先ほどスルメイカだかなんだかを持っていったのだから。
耳を澄ますと二人の会話とゲームの音が聞こえる。
勿論、遊んでいるのは残された二人、だ。
かなり白熱した戦いになっているらしく、双方の声に興奮の色が滲出ている。
興奮しすぎてジュースを溢さなきゃいいが…
そう香代は思い、様子をうかがった。
案の定、テーブルの上にはビールが乗っかり、まだあまり飲んではいないようだが飲み出してはいたようだ。
また、テーブルの上にある二つのコップにはカルピスソーダが入ったままになっている。
既に半分ほど飲み干され、二人からは少し離れたところにおかれているから問題はないだろう。
香代は晩御飯の手伝いに戻ることにした。

食卓を七人で囲む。
それは予想以上に人数が多く、お皿の置く場所が足りなくなるほど場所をとるものだった。
当然一人前の食事を全員分出しておくスペースなんてどこにもない。
そんなことが出来るのは旅館ぐらいだろう。
仕方ないので、食べるときに自分のお皿に盛っていく、と言う方針をとる。
そうすると決って人気あるものばかりがどんどん減っていく。
亮次なんかは肉食中心の取り方をしていた。
それだと体に悪いぞ、と龍が忠告すると、好きなものを食べていーじゃん、と口を尖らせて反論していた。
その隙に彼の母親が亮次のお皿にたっぷりと野菜を入れたので、亮次はそれをみて目を丸くするだけ。
戻すと言う選択しも、残すと言う選択しも許されていないらしく、亮次は渋々と食べていた。
嫌いな野菜が混じっているらしく、たまに目を瞑っているときがあった。
例年では味わえないそんな賑やかな光景をみて香代はクスクス笑った。
“それにしても好き嫌いは大変ね”と香代の母親が言った。
断っておくが基本的に香代には好き嫌いがない。
あくまでも一般的な見識からのべたのだろう。
そしてここから双方の母親は一年の苦労話を始める。
どんな一年だったか振り返り、何に苦労したかを振り返り、そのことを吐き出すことによっておいていこうとするかのように。
新年には持ち込まないように。
香代も一年を振り返ることにした。
前年の今頃はちょうどいろいろと辛くなった頃だっただろうか。
年賀状は龍と雄太と担任の先生と託児所の時の友達と数枚届いた。
そんな少人数コミュニティに優美と沙希が加わった。
喧嘩もした。
仲直りもした。
龍や雄太と学校で話すことはめっきり減った。
それでもまだ、龍は朝必ず迎えに来ている。
夏休みに泳ぎ方も教えてもらった。
冬休みはスケートの約束までしている。
…まだ果たされてはいないけれど。
クラスの空気も大分軽くなって、直に攻める女子も減った。
陰で何かやっているのかもしれないが、それは香代のしるところに及ばない。
去年一年間は託児所から小学校と言う環境の変動があった年だ。
今年一年はクラスは変わっていないとはいえ、内部構造は激変したと思う。
イタ電はもうかかってこない。
罵声を浴びせられることは滅多にない。
彼女等は虎視眈々と香代の弱点を狙っているが、それも大きな出来事に発展するまでには行かなかった。
「去年は…大変だったよね。」
同じことを考えていたのだろう、龍が言った。

そのあと、年越しだから夜更かしOKと言われたにも関わらず、香代は眠ってしまった。
禁止されたものを許してもらうと喜ぶのが人と言うもので、亮次はおおはしゃぎしていた事くらいしか、香代の記憶には残っていなかった。

香代が目を醒ましたのは誰かが香代を呼んだからだった。
空はうっすらと青みがかっていてまだ暗い。
寒いからね、と言う言葉は半覚醒状態の頭には届いていなかった。
なされるがままに厚着して、外に出る。
頬に触れる冷たい空気が眠気を飛ばした。
ふと横をみてみると元気そうな龍と父親に抱かれぐっすり眠った亮次がいた。
どうやら相沢家に一緒に初日の出を見に行くことを誘われていたらしい。
「あけましておめでと。」
香代の視線に気付いた龍が微笑んで言った。
「お、おめでと。私結局寝ちゃってたね。」
苦笑いしながら香代が言う。
龍は、そんなことどうでもいいんだよと言いたげに首を振った。
「それより起こしちゃって大丈夫だった?」
「うん、少し眠れたし。日の出みるのはじめてだから楽しみ。」
「文字通り“初”日の出なんだね。」
龍が笑いながら言った。
そしてみんなで日の出が見えるよう東側の開けた場所へ移動した。
空が赤く染まり、太陽は赤い宝石のように光輝き。
これから一年が始まるんだと言う思いと共に太陽の荘厳さを見せしめられた。
どこまでも透き通るような美しさに引き込まれ、魅了され、光の力強さに太陽の偉大さを思いしらされた。
その感動はあまりにも大きく、香代は声を出すことが出来なかった。
息が止まったかのような錯覚まで受けた。
それをじっと見つめる龍が逞しく見えたと言うのはまた別の話。
このときの香代には太陽に感服するしか出来なかった。

次に香代が目を醒ましたのは郵便配達のバイクが去ったころだった。
“初”日の出はあまりにも美しすぎて、印象強すぎで、あたかも夢のようだった。
実際、それが夢なのか現実なのか、香代にははっきりと言うことが出来ない。
「龍君から年賀状来てるわよ。“初”日の出はどうだった?って。
龍君、年賀状出さなかったのかしら。」
初日の出を夢見心地に思い出していた香代をしってか知らずか、母親がそう言う。
香代は食卓の上に数枚おかれた香代宛ての年賀状をみた。
一番上にあるのが龍からのなのだろう。
裏返して本文の下の方をみると、確かに『相沢 龍』の文字があった。
龍君の名前って字が難しいんだね、と以前話した事があるのをふと思い出した。
香代は勿論、『相沢たつ様』と平仮名で書いている。
上の方をみると可愛らしい猪が描かれていた。
昨年の年賀状もそうだが、龍からの年賀状のイラストは色鉛筆で優しいタッチで書かれている。
お姉さんはいないし、書いているのはお母さんなんだろうか、と言うのはもう二度目になる疑問。
香代自身はそこまで得意ではないのでいっそのこと学びたいとさえ思ってくる。
本文をみてみると確かに母親が言うように、初日の出について書かれていた。
隣だから直接配送したのかもしれない。
他の年賀状をみてみると、雄太のは家族写真の入ったものだった。
優美は女の子らしくキラキラ光るシールを沢山張っていた。
沙希のはお店で買った可愛い絵柄のついた年賀状だった。
届いていたのはその四枚。
それぞれにそれぞれの個性が出ていて温かかった。

朝食とも昼食ともつかない食事を終えて香代は両親と一緒に凧上げをした。
風を受けて凧はどんどん上がる。
上がる力が強くって、香代まで上がるんじゃないかと思わず考えそうになる。
母親はレジャーシートを敷いてそんな様子を微笑ましそうにみていた。
父親は香代のそばで一緒に凧の様子をみている。
「随分高く上がったなぁ。」
小さくなった凧をみて父親が呟く。
「うん、今日は凧あげに向いているみたいだね。」
香代が答える。
少し走った時にかいた汗はもうひいていた。
「それもあるけど、香代もうまくなった。」
そう言って父親が香代の頭を撫でた。
そのあとも暫くは凧をあげ続けた。
それからフリスビー投げをしたり、縄跳びの技を披露したりした。
両親はすごいすごいと褒めてくれるから決して悪い気はしない。
日が沈むとこま回し、お手玉と何故か昔懐かしき遊びを始めるのも香代にとっては両親と遊ぶ欠け替えのない大切な時間だった。

最後に晩御飯に、例年大晦日に行う、一年間何があったかを両親に話した。
優美のことも沙希のこともこのとき詳しく話した。
泳げるようになったことを報告したら、いつか海へ行くか?と父親が言い、龍とスケートの約束をしていると言ったら楽しんできてねと言う言葉の他にあれこれ心配の言葉を言われた。
学校のことも聞かれ、テストの成績や硬筆展、図工の作品のことなどを話した。
三年生になったら習字の授業が入ることもこのとき伝えた。
お父さんは習字が得意なのよ、と母親が言った。

お年玉はもらわなかった。
それ以外は何でもない風景だったかもしれない。
それでも、香代にとっては唯一で、大切な両親と過ごす時間。
さっそく、クリスマスにもらったカメラを取りだし、シャッターを切っていた。
みてみるともう既に十数枚とられている。
忙しいことが分かっているからわがままは言わない。
香代がわがままを言うときはそれを優先させてくれるときもしばしばある。
大切にされている、大切にしたい、そう思ったときにシャッターを切るようにしている。
まだ現像されていないけれど、香代はカメラの中に入った思い出を思い浮かべて、それだけで温かな気持で満たされるのを感じていた。
まだ一年は始まったばかり。
どんな年になるかは分からないけれど、楽しい年になる様な気がした。


2006年12月31日日付変わる20分前に発行。
本編とずれるから、と言う理由で番外編収録です。

戻る