一片の紙

間に運動会を挟んだことを除けば、特にたいした出来事も無く一年が終わろうとしていた。
寒さが骨身にしみ、手袋とマフラー、コートが離せない季節となっていた。
日もだいぶ短くなり、朝起きるのは億劫になってきた。
そして夕方は、五時にはもう真っ暗になり、夜だった。
空があまりにも澄んでいるがゆえに、その黒は限りなく黒い。
どこまでも底が見えず、見ていると自分が吸い込まれそうな錯覚を受ける。
それなのに、星がまったく見えないのが奇妙だった。
雲でも出ているのだろうか?その疑問に答えは返ってこない。
月は細かったが、それでも、とてもまぶしい白い光を放っていた。
つい数日前に新月を迎えたとは、到底考えられないくらい明るい。
ふー、と吐いた息は白かった。
外は寒かったが、香代は温かさで満たされていた。
空が澄んでいて、寒さも月明かりも香代を刺すように鋭く放たれていたが、香代はとても温かなものに包まれて守られているような気がした。
銀の光は、きれいだけれど監視しているようで怖かったのに…。
一年前の冬、外のあまりにもきれいな景色に目を見張りながらも、得体の知れない恐怖で一歩も外に出られなかった自分を思い返した。
今、香代が外を歩けるのはきっと、香代をつかんでくれる手があるからだろう。
寒さや恐怖やその他すべてから守ってくれるような、そんな温かさで包んでくれる手があるからなんだろう。
託児所の子供たちではなく、保母さんたちでなく。
そして、あまり一緒に遊ぶようなことは無かったが、それでもやはり香代の大好きな両親でもなく。
彼らは確かに多方面で香代に温かさを与えてくれた。
それでも、彼らは物理的、もしくは心理的に離れすぎていた。
香代がほしいと思ったときには、彼らはいつもそばにいなかった。
しかし、一年で状況は大幅に変化した。
その意味では優美の存在は大きかった。
龍と雄太では、いろいろな意味で気を張り詰めなければならなかった。
いつ、どこで、誰に見られているかが常に恐怖だった。
今なお幼くて、どのように付き合えばいいか分からず、ぎこちなかった。
その状態を打開したのは優美であり、沙希だった。
彼女たちは香代の良き理解者となり、また、香代が“龍や雄太が唯一普通に話す女の子”ではなくなった。
それは、他の女の子たちの“香代だけ別格”という言い分の根拠を打ち消すものとなった。
未だに対象は香代だけだが、それでもいじめの理由に龍たちとの仲を持ち出されなくなったことで、龍たちと気軽に話せるようになったのは香代にとってありがたかった。
もちろん、香代が話をしていると、刺すような鋭い視線は感じるのだが。
いじめは相変わらず続いているが、今となっては単なる不満解消のためだけにやっているようなもので、根拠がない分たちは悪いが、龍や雄太や、数少ない友達みんなといることを許されたのはせめてもの救いだった。
この時間だけが、今の香代にとって何が何でも守りたい貴重なものだった。
ふと上を見上げて、香代は月とにらみ合った。
両目には、決して屈しないと強い意志をこめて。

それから数時間が経った。香代はパジャマに着替えていた。
チラッと机の上に目をやった。そこには三十センチほどのテディベアがあった。
沙希からもらったものだ。他にも、優美や、雄太からもらったものもある。
龍からもらったものは、なんだか怖くなって、まだあけていない。
それでも、右手に残る龍の手の力強いぬくもりが香代の全身を包んでいて、今はそれだけで十分だった。
月に対して決意した香代に答えるかのように、隣にいた龍は香代の手を力強く握り締めたのだ。
それは、六時でお開きになったクリスマス会の帰り道の話だった。
数時間前まで、五人で優美の家で騒いだのが夢のようだった。
今年のクリスマスイブは日曜日で、その日にクリスマス会をやるから、と招待状を優美から渡されたのは一週間ほど前のことだった。
明日のクリスマスには終業式があって、そのことが憂鬱ではあった。
終業式に遅刻しないためにも、もう寝るのがいいだろう。
香代は布団の中で、今日のクリスマス会について思いを馳せた。
そうすることで胸が温かくなり、幸せな気分になった。
あまりにも幸せな気分になっていて、香代は両親が帰ってきたことに気づかなかった。
そのころ、“香代”は優美の家に着いたところだった。
初めて参加するクリスマス会がどのようなものか、胸をドキドキさせて心配しつつも楽しみで興奮していた。
右手で持った招待状は汗を吸い込みしわが着いていた。
チャイムを鳴らす。優美が笑顔で香代を迎えてくれた。
「香代ちゃんいらっしゃい。龍君は一緒じゃなかったんだ?」
隣に住んでいる龍と一緒に来たと思っていたのだろう。
「ううん、一人で来たの。」
香代は首を振り、それから優美の家に上がった。
まだ誰も来ていないようで、香代は優美と二人で他の三人が来るのを待った。

「そういえば優哉君は?」
はじめてあったときと同じように二人で人形で遊んでいたときに、思い出したかのように香代が聞いた。
てっきり女の子の遊びに参加したくなくて一人でこの家のどこかにいるのではないか、と思っていたのだ。
「友達の家。クリスマスパーティらしいよ。」
人形で遊びながら優美が答えた。
「だから今は本当に二人だけ。そういえば香代ちゃんは何で一人できたの?」
「え…っ。別に…。特に理由はないんだけど…。」
それほど不自然なことかなぁ…と小声で付け足す。
確かに、家が隣同士、お互い優美に呼ばれていることは知っていた。
普段の関係から考えても、一緒に行くと誰もが疑っていなかったのかもしれない。
「それに龍君、雄太君と一緒に行くかもしれないし…。」
我ながら言い訳だよな、と香代は思った。
理由という理由に悉く矛盾が感じられた。
「ま、いっか。ここで男の子が一人増えても気まずくなるだけかもしれないし。」
優美がそういったことで、この話は終わりになった。
そしてすぐに沙希が来た。
時刻は予定の五分前。ある意味ちょうどいいタイミングだろう。
「いらっしゃーい。」
優美が沙希を迎えた。
「お邪魔します。」
恐る恐る、といった感じで沙希が部屋に入る。
「あ、沙希ちゃん。やっほー。」
部屋に入ってきた先を見て香代が声をかけた。
「あれ?香代ちゃんだけ?」
部屋に入り、首をきょろきょろさせてから沙希が言った。
どうやら沙希も優美と同じことを考えていたようだ。
ちなみに呼び名のほうはこの数ヶ月の間で下の名前をちゃん付けに変わっている。
苗字をさん付けで呼ぶというのはどうも堅苦しくてあわないのだ。
「私だけって。優美ちゃんと同じこと考えた?」
「あ、優美ちゃんも同じことを考えていたのか〜。何かあった?」
笑いながら言う沙希が急に真顔になって聞く。
「えっ。何かあったってどういうこと…?」
その気迫に押されて、思わず香代は後ずさる。
何かあったってどういうことだ。
「何もないんだったらいいけど…。」
憮然とした香代の顔を見てか、沙希が言う。
きっと、前優美とケンカしたように龍とケンカしたと思ったのだろう、と香代は自分に言い聞かせる。
「絶対何もないって。少なくともケンカだったら龍君はすぐに折れる。」
優美が笑いながら言って、沙希もそれで納得した。
うわさの二人が着いたのはちょうどそのときだった。

最初は外で鬼ごっこをやった。外は寒かったが、走っているうちに体は温かくなった。
男の子二人と沙希は走るのが速かったから、結果的に鬼はほとんど香代と優美がやっていた。
それでもたまに香代たち以外が鬼になると、少しの間は香代と優美が狙われることはほとんど無かった。
むしろその場合、主に狙われるのが男の子二人だったのだが。
それから近くの公園で、ジャングルジムや鉄棒、ブランコなどで遊んだ。
高鬼もこのとき遊んだ。
上に上がっていられる時間は三十秒というルールを設けて。
高鬼は足の速さで鬼は決まらないので、ほぼ均等にみんな鬼になった。
振り返ってみると、香代が外で友達と一緒に駆け回って遊ぶというのは初めてのことかもしれない。
冬の冷たい風が火照った頬に当たって気持ちがいい、なんて感触は初めてだった。
三時まで二時間ほど、五人はずっと駆け回っていた。
さすがにくたくたになったが、体はとても温まったし、とても気持ちよかった。
そこで五人は優美の家に戻った。
テーブルの上にはクリスマスケーキが置かれ、優美の母親が五人にジュースを出した。
ケーキを食べながら、五人は取り留めのない話をした。
サンタさんはいるかいないか、去年のクリスマスは何をもらったか、などクリスマスに関連する話や、この前のテストの話、好きな本の話、テレビ番組の話など日常的な話もした。
その後は、トランプやビンゴなどの室内ゲームを遊んだ。
ババ抜きは沙希はポーカーフェイスで相手としては怖かったが、逆に雄太はすぐに顔に出て分かりやすかった。
七並べ、大貧民、神経衰弱、ダウト…それぞれの個性が現れて、それぞれの得意分野でそれぞれが白熱していた。
最後にプレゼント交換があったのだが、なぜかみんな全員にプレゼントを持ってきていて、“ドキドキの交換”とはならなかった。
“みんな考えていることは同じだね”と、五人で笑いあった。
“来年は、一人一個ずつだよ?”と優美は言った。
“今年は一人ひとりみんなに、あげたかったからさ…”と香代は言った。
一年間、香代が学校生活を楽しめたのはこの四人全員のおかげであって、それぞれに感謝の意を表したかったのだ。
香代の学生生活を変えてくれたことに。
“だから今年はアリなんじゃないの?”沙希が言った。
来年以降は改めて感謝されても困る、ということなんだろうか。
それとも改めて感謝するようなものでもないということなんだろうか。
“それでも来年も香代ちゃんの分は用意していそうだよな”と雄太がぼそりといった気がするのは、果たして香代の空耳だっただろうか。
そのことはきっと、いつか知ることができるだろう。

六時になって、空がすっかり暗くなった。
ピンポーン
と、優美の家のインターホンが鳴った。
沙希の兄、望だった。沙希も女の子なんだから迎えに行きなさい、と母親に言われたらしい。
望は六年生だけあって、とても大きく見えた。
なんというか、オトナというものではないけれど、でも纏っている空気が明らかに香代たちが持つものと違っていた。
そして、沙希が帰ることをきっかけに、みんな帰りはじめた。
雄太は一人で帰り、香代と龍は二人で帰る。
いつから手をつないでいたかは覚えていないが、いつの間にか手をつないでいた。
背負ったリュックにはみんなからもらったプレゼントがカタカタと鳴り、独りでないことを伝えてくれているようだった。
周りでいつも見守ってくれる友達がいると思うと胸が温かくなった。
きっとこのとき、手をつないだのだろう。
玄関先で別れ、香代は一人でクリスマスイブの夜を過ごした。
暖かい余韻に浸りながら。

いつの間にか香代は、深い深い眠りについていた。
香代の部屋のドアが少し開き、わずかな光が差し込んだことに香代は気づかなかった。
香代の両親は、幸せそうに寝ている愛娘をやさしく見守っていた。
香代の幸せそうな寝言が聞こえる。きっと、夢の中でも友達と遊んでいるのだろう。
両親は枕元に、あまり大きくはない四角いプレゼントを置いた。
今回両親は、どのおもちゃにするかで悩んでいた。
しかしそれはおもちゃではなかった。
おもちゃは確かに、楽しませることはできるが、それでも一人で遊んでいれば虚しさが広がるだけ出る。
大切なものを記録するものとして、好きなものをいつまでも記録にとどめるものとして。
つらいことや悲しいことがあっても、温かい思い出を支えとして思い出せるように。
そんな思いをこめて選んだのがアルバムとカメラだった。
ありきたりの安物カメラだけれども、中に“宝物”が詰まることを信じて。


2006年12月24日発行。
クリスマスということで、お昼に発行。

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