一片の紙

始業式になり、二学期最初の水泳の授業は見事な快晴に恵まれた。
クラスメートたちははしゃぎまわり、香代は何か意を決したような切羽詰った風な顔をしている。
夏休み、その後も何度か香代はみんなと一緒に練習していた。
大丈夫、と自分に言い聞かせても緊張で固まってしまう。
この夏例え何度泳いだといっても、学校のプールで泳ぐのはこれが初めてだ。
初めて着た、スクール水着を何度も見て、変になっていないか何度も確認をする。
まずは準備運動。それからシャワーを浴びて、帽子を被って。
初めて被る水泳用帽子は、香代の長い髪をしまいこむにはいささか無理があった。
「香代ちゃん、ゴム使う?」
優美が香代にゴムを渡した。
「ありがとう。借りるね。」
長い髪を乱暴に一つに束ね、それらをまとめて帽子にしまいこむ。
余った髪は優美と沙希が丁寧にしまった。
「大丈夫、リラックスして。緊張していたら余計泳げなくなるし。」
沙希が声をかける。
プールサイドの並び方は背の順ではあったので、小柄の優美、割と背の高い沙希、そのどっちつかずの香代と、三人が隣同士に並べなかった。
これが出席番号順でも、隣になることはまず無いのだが。
「さすがにこんなところで問題なんて起こせ無いから、大丈夫だよ。また後で自由時間のときに遊ぼ。」
そういって沙希は後ろのほうへ行く。
先生がいつまでも並ばない生徒たちへ向かって、早く並ぶよう笛を吹いた。
優美も、また後で…と慌てて自分の場所へいった。

泳ぐことに関して言えば、結局は香代の杞憂に終わった。
水に慣れる、と言うことで、隣の人の背中に水の掛け合いをしたり、十秒間もぐったりした。
先生が色とりどりのゴムで出来た貝をプールに投げ入れ、その貝を拾う、と言うゲームも何回かした。
貝を拾うには水中で目を開ける必要がある。
ゴーグルを持ってきていない香代は、初め、目に水が入ってくるからか痛む目と戦った。
何度か瞬きをし、塩素消毒された水に目を慣らす。
貝が見えると深く潜ってとる。素直に取れたときと、見つけてすぐにほかの子にとられるということがあった。
目が痛いし、視界が安定しないから、それは仕方ないと香代は思っていた。
しかし、後わずかと言うときにとられると、さすがにそれは悔しく感じられた。
その悔しさが闘志を掻き立て、目の痛みを忘れさせる。
こうなるともう他のことは眼中になかった。
時間の許す限り、香代は必死に貝を拾った。
そして終わった時、香代の手の中には四つの貝が握られていた。
赤・黄色・それと緑が二つ。
一個も取れなかった子や、二三個取れた子などがいて、香代のは多いほうだった。
目を数度瞬きさせると、忘れた痛みが戻ってきた。
このときになって初めて、香代は相当無茶をしていたことを知った。
「香代ちゃん凄いね!」
優美がやって来て言った。
そういう彼女の手には貝が一つ握られている。
「沙希ちゃんはさすがと言っても、香代ちゃんも凄いよ。」
見てみると沙希の手には、五個、貝があった。
「東さん、頑張ったじゃん。」
にこっと笑って沙希が声をかけた。
香代は嬉しくなって、『うん』と大きく頷いた。
そんな光景を龍はプールサイドの反対側から嬉しそうに眺めていて。
他のクラスメイトの女の子たちはいやみを浮かべた目で見ていて。
嫉妬している目。気味悪いものを見るような目。
気の毒そうに見つめる同情の目。純粋に賞賛する目。
同じクラスメイトの女の子と言うのに、大雑把に分けて四種類の目が香代を見ていた。
何かと人目を集めていたが、不思議と香代には恐怖は湧いてこなかった。
何か、力強いものに守られているような気がして、純粋に安心できる気がした。

その後、流れるプールと称してクラス全員がプールに入り、反時計回りにぐるぐると回った。
人の動きが流れを生み、だんだんと流れるプールっぽくなっていく。
生徒全員がプールに入っている分窮屈で、そして賑やかだった。
自然と、香代の顔にも笑顔がほころぶ。
そしていつの間にか、香代のそばには友達たちが集まっていた。
左に龍、右に優美、沙希。
雄太は少し後ろにいた。
香代たちは何人もクラスメイトを抜き、そして抜かされた。
有る程度流れが早く安定すると、先生は自由時間の合図を出した。
ビーチボールをとりに駆け出す者、逆走する者、友達と水の掛け合いをする者…等、みんなそれぞれの遊び方で自由時間を楽しんでいた。
「相沢ー、矢崎ー、一緒にやらないかー?」
やや茶色く焼けた男の子が龍たちに向かって大声で聞いた。
「行こうか、龍。」
「うん。」
今行くー、と雄太は声を張り上げ、龍は香代に目配せをし、二人は泳ぎ去っていった。
「私たちはのんびり泳いでいりゃいいさ。」
「えー、鬼ごっこしようよ。」
沙希の言葉に対し優美が言った。
「やることなくてもつまらないから、いいよ。」
とりあえず香代は同意する。
そしてじゃんけんが始まった。
いつまで経ってもあいこになって面白みが無いのでいつの間にか水中じゃんけんに切り替わっている。
不思議なくらいあいこが続いて、ようやく香代が負けると言う結果に落ち着いた。
「香代ちゃん、十数えるんだよー。」
優美が泳ぎながら言う。いつの間にか沙希が遠くへ行っていた。
速い…。そう香代は思いながら十を数え出し、二人を追いかけた。
優美が捕まり、今度は優美が鬼になる。
クラスメイトが邪魔でなかなかうまく逃げられない。
しかしそれは鬼も同じ事で、なかなか上手く追いつけないでいる。
香代があと少しでつかまると言う時、プールから上がるよう笛が鳴った。授業終了の合図だ。
身体についた塩素漂白剤を洗い落とし、目を洗い、それから服に着替えた。
何事もなくプールの授業が終わったことに香代は安堵した。


2006年10月19日発行。

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