一片の紙

「香代ちゃん、一緒にプール行かない?」
龍に誘われたのは夏真っ盛りのある日のことだった。
この日も最高気温が30度を超えると予報された暑い日だった。
これまで、香代が学校のプールに出たことは一度も無い。
夏休みのプールは必修と言うわけではないので香代はあえてその全てを無視してきた。
香代は慌てて夏休みの予定表を確認してみるが、この日はプールはなかった。
「雄太とさ、市民プール行くんだよ。香代ちゃんも友達誘って一緒に行かない?人数多いほうが楽しいじゃない。」
屈託なく龍が言う。香代は断るべきか否か悩んだ。
プールは好きだ。学校のように誰かに見られるわけではない。
彼らなら、泳げない自分をどうこう言うことも無いだろう。
でも。市民プールだ。“会ってしまう”可能性は否定できない。
「大丈夫だよ香代ちゃん。人たくさんいるから、気づかないって。」
香代の不安を見透かした風に龍が言う。
一人で家にいてもつまらないし、暑いでしょと、半ば強引に香代のプール行くことが決定した。
気づいた時には優美と沙希に電話も済ませていて、水泳用具を準備するところだった。
龍が来たのが10時。1時は日が一番高くて暑いからそれより早めに家を出ようと言うことで11時集合となった。
集合場所は龍と香代が通学班の集合場所としているところ。
一緒に行く大人は龍の母親と雄太の母親、それと優美の母親だ。
他に一緒に来るのは龍の弟である亮次、優美の弟の優哉、雄太の姉の裕美の三人。
沙希の兄は来ないらしい。流石に四つも違うとあまり一緒に遊ばないのだろうかと香代は疑問に思う。
勿論、これは他人のことであって香代には関係ない。
ただ、一人っ子の香代には兄弟と言うものが未知であるが故に興味深いものだったのだ。
11時になる前に人はそろい、香代たちは自転車に乗ってそろって市民プールへ向かった。

ロッカー室で着替え荷物をロッカーに入れて鍵を掛ける。
ロッカーの鍵は三人の母親たちが管理する。
香代たちは鍵を預け、シャワーを浴びてから軽く準備運動をしてプールへ駆け出した。
目指すは目の前で流れている、流水プール。
青い壁で出来たプールは、ところどころに一メートルぐらいの赤い壁がある。
赤い壁。そこは排水口だと香代は理解していた。
正しくは吸水口と言うのかもしれないが、その近くに来ると強い力がかかり、後ろから押されるように感じるのだ。
吸われる、と言う感触は少しあるがそれよりも押される、と言う感触のほうが強い。
ビーチボールにつかまって浮いている沙希、浮き輪をちゃっかり使っている香代。
流れるままに歩く他三人。彼ら五人は“赤い壁”の近くで押される感触に楽しんでいた。
もちろん、すぐそばにいれば監視員に怒られるため、人一人分くらいの距離をあけて。
立っている方が強く背中を押される気がして楽しいので、潜ったりすることは滅多に無い。
通り過ぎてしまうと、優美と沙希はビーチボールを飛ばし合って遊びだす。
雄太はそのまま泳ぎ、後に取り残されたのは龍と香代の二人となった。
去り際、雄太が何かを龍に耳打ちする。
雄太にわかっていたこととは――香代のためを思ってやっているということ、それだけだった。
「じゃあ香代ちゃん、泳ぐ練習、しようか。」
龍が言った。龍が香代を誘った目的こそが水泳の特訓だった。
「えっ、でも、人にぶつからない?」
心配そうに香代が聞く。確かにプールは人ばっかりで混雑していた。
「大丈夫だよ。ほら、あそこにも泳いでいる人がいるでしょ。」
龍の指差す先にはクロールをしている人がいた。
流石に人が多すぎて数メートルしか泳げない。
「どれくらい泳ぐかは問題じゃないんだから。まずは蹴伸びからやろう。」
蹴伸び。顔を水面につけて、手はまっすぐに伸ばしただ浮いただけの姿勢。
壁を強く蹴れば蹴るだけ、息を長く持たせれば持つだけ、遠くへ行けるもの。
これくらいなら香代でも出来る。「じゃあ次はバタ足。」と龍に言われすぐにバタ足に切り替わる。
バタ足になると急にうまく進めなくなる。足を伸ばして、もっと力強く、と龍からのアドバイスが聞こえる。
「ふぅっ。」
息が苦しくなって、香代は頭を上げた。
龍の指導は決して厳しいわけではない。それでも、なかなか上手くいかない自分にもどかしさを覚えていた。
ふと他の六人のことが気になって香代は辺りを見渡してみた。
優美たち三人は相変わらずのようだった。
亮次と優哉は優哉のほうが一歳年が小さいと、年が近いためかすぐに仲良くなったようだ。
まだ幼稚園児二人で遊ぶのは余りにも危険すぎるためか、裕美がそばについている。
いつの間にか膨らませ終わっていたのだろう、そばにはゴムボートがあった。
亮次がゴムボートにいる優哉に向けて水をかけている。ゴムボードに水がどんどん溜まり、優哉は必死に水を掻き出す。
裕美は危なくならない程度にその様子を見守っていて、彼らが楽しむ姿を楽しんでいた。
その様子を確認してから、香代は再び泳ぎの練習に入った。
伸ばして伸ばして、膝が曲がっている、と水中にある耳にくぐもった龍の声が届く。
伸ばした腕の先を掴む龍の手は、ひんやりと心地よい水中で唯一の温もりだった。
冷たい水の感触も、龍の手の温もりも心地よく、香代は必死になってバタ足を頑張った。

プールから上がるよう合図がなった。
このプールでは、長針が12を指すとプールから上がるようベルがなる。
そしてその十分後になると入ってよいと言う、同じベルがなる。
その十分間は、監視員たちは点検等に時間を当て、利用客は休息に当てる決まりになっていた。
ちなみにベルを無視して中に入っていると監視員のお咎めは避けられない。
残り数分でプールが入れるとなると、プールのふちは子どもで密集するのは言うまでも無い。
今か今かと待つ子どもたちの姿は“待て”を言われた子犬のよう。
「あーあ。あれやりたいねー。」
優美が指差した先には青と緑のぐるぐる巻きになった二本の滑り台。
緑の方は少し高いところから始まっていて、そのどちらにも長い人の列が出来ていた。
滑り台を流れる早い水の流れがスリルを呼び、だからこそ子どもたちに人気なのだ。
「去年家族で行ったときお兄ちゃんに、お前は後二十センチがんばって伸ばさないと無理だって言われたよ。」
一瞬、過去を懐かしむような目つきをして沙希が言った。
それはスリルがあって面白いものではあるが、危険でもあった。
身長制限があり、上り階段の手前には赤い線の引かれた白い柱が立っている。
その線を越えない限り、遊ぶことは許されない。
「悔しかったら俺の身長超えてみろって、言っていたなあ…。」
はあ、と沙希はため息を吐く。それにつられたかのように優美も吐いた。
「ため息吐いたって身長は伸びるもんじゃないだろ。なあに、そのうち遊べるんだからそんなつまらない顔しない。」
景気づけるように雄太が言う。
「だってよ、せっかく遊びにきているのにつまんなくなっちまうぞ。」
そしてニカッと爽やかな笑顔を二人に向けた。
ブイサインまでしてみせる。
「うん、そうだね。」
二人の顔に笑みが浮かんだ。
「あんたもたまにはいいこと言うじゃないの。」
「うおぉっ。何を言うか、オネエサマ。俺はいつもいいことしか言わないぞ!」
雄太の頭を小突く裕美と反論する雄太。本当に仲のよさそうな姉弟の様子を、他の人たちは笑ってみている。
「あんまり優哉をいじめすぎるなよ。」
「亮次お兄ちゃんは優しい?」
優美と龍はそれぞれの弟に言う。
「いじめてなんていないよ。」
っと言うのは亮次。少し頬を膨らませている。
「うん。」
と答えたのは優哉。
「そっか、よかったね。」
優美は嬉しそうに微笑み、他は拗ねた亮次をからかって遊んでいる。
そしてあっという間に十分の休憩時間が終わり、ベルが鳴った。

いつの間にか、時刻は五時を回っていた。
香代たちは着替え終わって、駐輪所の前に立っていた。
亮次と優哉はすっかり疲れきった顔をしている。
母親たちは泳いでいないこともあってか、まだ元気そうだが他はみんな疲れきっていた。
「ずいぶん焼けちゃったね。」
少し赤くなった自分の腕を見ながら優美がボソリと呟く。
「夏だからね。外で遊んでいたら普通にこれくらい焼けるって。」
日焼けに頓着しない様子で沙希が言う。
最近の沙希は特に、男らしい強い一面を見せる様になっていて香代はどっちが本当の沙希かわからず混乱する。
以前の気の弱い少女が沙希なのか、男のこのような姿が本当の沙希なのか。
沙希本人の話によると、兄の影響を受けて男らしくなってしまうのだとか。
幼稚園時代の仲間の輪から外れることに抵抗はあったが、入っていることに居心地の悪さを覚えていたらしい。
抜けて清清している、と語っていた。
「龍君、今日はありがとう。」
香代は笑顔を向けていった。
「ああ。」
龍も微笑んで答えた。
結局香代はバタ足をマスターし、クロールの練習に入ったところで終わった。
クロールといっても、息継ぎなしのクロールだ。
息継ぎを入れてしまえばまだなれていない香代のこと。
頭が上がり、身体が沈んでしまう。
基本フォームを上手くこなせるまでは息継ぎは教えないつもりだった。
「でもなんでわかったの?」
香代は泳げないことを誰にも話したことが無い。
泳げないと言うよりも、泳いだことが無いのだが。
「秘密。」
龍はくすくす笑いながらそういう。
「もうっ!」
香代は膨れて見せるが、すぐに笑った。
その後も何度かみんなでプールに遊びに行った。
泳ぎの練習をしたり、純粋に遊ぶことを楽しんだり。
まだ二年生なんだからちゃんと泳げる必要は無いと、正直なところ龍は思う。
香代と水害は無縁で、泳げないと命に関わる問題はまず無い。
プールの授業でも、クロールはまだやらない。
バタ足はやるが、その後は流れるプールだったり、もぐって遊んだり、自由に遊んだり。
二年生の授業と言うのは所詮、水と戯れることが中心となっているのだから。
それでも、バタ足と言う基本フォームがなっていないことや、泳げないと言うことは香代の立場からしてコンプレックスになっているのだろう。
クラスに弱みを見せられない香代。弱みを見せられて大歓迎するのは男の子たちであって、女の子たちではない。
女の子たちはそこにつけ込み、香代を苦しませてゆくだろう。
香代は女の子なんだから――女の子と距離を置くことは後々辛くなる。
付け入るものがなければ険悪な関係にはならない。
だからこそ、香代は泳げるようになりたいのだろう。
女の子たちに付け入られて、泣きたく無いからなのだろう。
龍に出来ることならば、香代の為に何でも協力する。
たとえ小学二年生がクロールを泳げる必要性が無くても、香代が泳げるようになりたいと言うのであれば協力するしかない。
関わった以上、もう逃げない。龍の決意は固かった。


2006年8月24日発行。

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