一片の紙

食事を摂り終り、香代は使った茶碗類を洗っていた。
流しの前にある窓から伺える外の様子はただただ暗い風景だけだった。
風の唸る音は相変わらず聞こえる。台風が接近してきているのだからそれもそうなのだが。
部屋の中はそれに負けじとうるさい。
亮次と龍が白熱の戦いを繰り広げているからだ。勿論テレビゲームで。
香代が茶碗を洗っていることと、二人がものすごく燃えていることから、恐らくは格闘ゲームだろう。
『いっけー!!』っという亮次の掛け声だけでは判断できないが。
しかし、隣の部屋にいると言うのに亮次も龍も、燃えていると言う空気は伝わってくる。
熱中している、と言うことが何故か少し、うらやましく感じられた。
「いつもこうなのよ。ごめんね、手伝ってもらって。」
くすくす笑いながら龍の母親が言った。
「いえ、本当にいいんです。お世話になっている以上はなんかしないと…。」
肩身の狭い思い、と言うのはあながち嘘ではなかった。
「もう、そんな遠慮しなくていいのよ。」
頼んでいる自分のことを棚に上げていないか、と言う点は疑問ではあるが龍の母親が言った。
そしてその直後、後のことは私がやるから、とか、もうこれだけやってくれれば十分助かったわ、とか言って半強制的に香代はキッチンから追い出されたが。

香代としてはどこへ行こうか、微妙なところだった。
人様の家にお邪魔している以上勝手に他の部屋へ行くのは良く無いだろう。
かといって、隣の部屋に行き、龍と亮次の邪魔をするのも気が引ける。
どうしようか悩んでいたところ、亮次の残念そうなため息が聞こえた。
どうやら、ひと段落着いたようだ。
今なら入っても迷惑にはならないだろう、そう香代は自己判断した。
そっと、やはり気が引けたので恐る恐る入ってみると…
「あ、香代ちゃん。何する?」
にっこりと香代に向かって微笑む龍と目が合った。
「えっ、あ、う。…何しよう?」
戸惑いながら出した答えはこのようなもので、何かもっとましな答えはなかったのか香代は我ながら疑問に思ってしまう。
互いに、微妙な沈黙が流れる。
お互いが、お互いの共通な話題を模索する沈黙――。
痛くはないのだが、なんだか悲しくなってしまうものだった。
何故なのか、その理由に、香代は心当たりがない。
ふと横に視線を向けてみると、亮次が一人でゲームで遊んでいた。
次何をやるか決まらない間、暇つぶしに遊んでいるようだった。
「あの、龍君は、何したいの…?」
気まずくなって、香代が聞いた。
「俺…?別に…何でもいいよ。普段香代ちゃんは家で何しているの?」
普段、と聞かれて香代はあれこれ考えをめぐらす。
しかしまず最初に浮かぶのは自分の机の中の“あの時間”で、それ以外は宿題といったことしか思いつかない。
女の子の遊びを龍や亮次に押し付けるのは気の毒だが、その反面男の子の遊びを香代がやるのも酷だった。
女の子と男の子。室内で遊ぶものとなると意外と一緒に遊べるものは少ないのかもしれない。
「うーん、あ、そうだ。さっきのパズルゲームやろっ。トーナメント戦だからみんな遊べるよね。」
香代が提案した。それを聞いた亮次がゲームを中断し、ソフトを香代が望むものに変えた。
「手加減なしだからなっ。」
亮次が念を押すように言う。
「うん。わかった。」
ニコニコして香代が答える。
「よし、それじゃ優勝は俺のものだ!」
早くも優勝宣言する亮次を苦虫を噛み潰したような表情で見るのは龍。
雨の音は相変わらずうるさいが、それをも吹き飛ばすような熱い闘志を燃やす亮次。
亮次の存在感が余りにも大きくて、台風が来ていることを忘れるくらいだった。
香代の寂しさは、いつの間にか消え去っていた。
「そんなのやってみないとわからないじゃないの!」
先ほどまでは見事に完敗の香代が言う。
初めてだから仕方ないと見守っていた龍だったが、ふと、香代が帰る前までに一回は亮次に勝つような気がした。
香代が抱える何かを一時でも忘れることが出来る気がして。
香代の悲しい顔を見たく無い龍にはそれがありがたかった。
たかがゲーム。されどゲーム。
そのゲームによって香代の“心の負担”が少しでも軽減されるのであれば、それが龍の本望だった。

結局、戦績は亮次の全勝優勝で終わった。
だが、香代はかなり強くなっており、最後の方では僅差で亮次に敗れたほどだった。
なお龍に至っては、午後の闘いに入ってからそう回を経ないうちに香代に完敗。
まあ龍の場合、勝ったあとの香代の笑顔を見るのが嬉しくて、負けたことに対して何も思うことは無かったのだが。
香代の笑顔は、何一つ暗い影が見えなかった。
今までのように不安と恐れと何かわからないものを抱えたままの笑顔ではなかった。
だから、龍は満足だったのだ。龍が見たい香代の笑顔を見れたのだから。
「香代ちゃんも一緒にご飯食べようね?」
龍の母親の言葉によって、香代はそのまま夕飯もお世話になることになった。
その言葉には形容のしがたい威圧感が含まれていたと言うのは余談ではある。
「あ、はい。…そうします。」
そして香代の返事が少し青ざめた風に見えたのは決して見間違いでは無いだろう。
台所ではやはり、役立たずの男二人はいなかった。
香代が野菜を切る、小気味の良い音が鳴り響き、少しすると龍の母親の豪快に炒める音が響いた。
私語は無いかと思いきや、ほとんど龍の母親の一方的な話が多かった。
それも主に、龍の幼稚園時代の話を中心としたもので。
一方、台所から追い出された二人はと言うと、やはりテレビを見ていた。
結局台風の去る気配は見せていない。
ゲームをしようかとも考えたのだが、明日の天気を知っておかないと明日の予定が立てられない。
それで一番困るのが誰だかはわからないが、少なくとも龍の母親は困る。
彼女に何か言われたくなければおとなしく天気予報を見るしかない。
天気予報までまだ時間はある。だが、ゲームをやって時間を忘れたら怖い。
そのことから二人はおとなしくニュースを見ることで合意した。
まだまだ幼い二人ゆえ、ニュースはつまらない。
すぐに飽きてアニメを見だした事は言うまでも無い。
この、夕方五時台から七時台の間はゴールデンタイムとも呼ばれ、アニメ番組はたくさんやっているのだから。
話が終わりコマーシャル、エンディング辺りになるとちょうど天気予報の時間。
見逃す心配がゲームを遊ぶよりは低いため、アニメ番組を見て、おとなしく楽しんでいた。

夕食が終わった頃、相沢家に一本の電話が掛かってきた。
電話の主は香代の母親。台風の影響で電車が止まったのだか、遅れているのだかで帰りが遅くなるそうだ。
「仕方ないから香代ちゃん、先お風呂はいれば?」
母親の帰りが遅くなることを告げた龍の母親が言った。
ちなみに父親の帰りは元から遅いためこの際触れない。
「え…でも…。」
「だってお母さんいつ帰ってくるかわからないんだからさ。寝る時間になって帰ってきたら、寝るの遅くなっちゃうでしょ?」
口ごもる香代にウィンクをして答える龍の母親。
「それに着替えはちゃんと預かっているのよ。」
そういって、彼女は洗面所に置かれてある袋を指差す。
香代はその袋の中を確認してみる。
確かに香代の着替えの一式がそこにはあった。
「タオルは勝手に使っていいから。龍、香代ちゃんにどこにあるか教えてあげてー。」
まさに用意周到とはこのことを言うのだろう。
勝手に人様の風呂場を借りるなんて悪いと香代は思い戸惑っている中、母親に押し出された龍と一緒にタオルの場所を確認した。
この着替え一式がこの場にある理由は、龍の母親の提案であることはいうまでも無い。
もしかしたら、と言う場合があると何度も力説され、香代の母親が折れたのだ。
そしてそのまま時は流れ行く。
お風呂から上がった後は学校の話をしていた。
このために空いた授業はどうなるのだろう、と言う話から始まり学校に行った子達はどうなったんだろうと言う話になって、給食の話で落ち着いた。
「それにしても、先生は大変だねー。」
話を聞いていた龍の母親が言う。
「だって、一人でも生徒が学校に来るなら学校に行かなきゃならないじゃない。先生たちってたいてい少し遠いところから来ているんだよ。」
意図を理解出来ていなさそうな子どもたちにそう補足して。
「何で少し離れたところからくるんですか?自分の家の近くじゃダメなんですか?」
香代は少し身を乗り出して聞いて。
「それは先生に聞いてみればわかるよ。」
と、結局ははぐらかされたけれど。
そうこうしているうちに外は色と言うものが一切失われたかのように暗くなっていた。
香代も、龍も、眠くなって着ていた。
亮次に至っては既に爆睡状態だった。
仕方ないので、龍は寝ている弟を背負って二階の子ども部屋へ運ぶ。
「ああ、和室に運んで。」
その様子に気づいた龍の母親が言った。
意味がわからないといった顔を龍がした。
「香代ちゃんいるでしょ。お母さんが帰ってくるまで一緒に寝たら?大丈夫、お母さんが来たら負ぶって連れて行くから。」
本当かよ、と半分疑いの眼差しを龍は向けつつも頷く。
「えっ、私も、ですか?」
戸惑いながら香代が聞く。
「うんうん。眠いでしょ?」
龍の母親はそう言って促す。
そして、香代の母親が帰ってきた頃には、起こすのがもったいないくらい熟睡した香代が龍と顔を向かい合わせ幸せそうに寝ていた。


2006年8月16日発行。

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