一片の紙

朝起きて、夏の割には空が暗いのが当たり前となったこの日、香代は窓から外を眺めがっかりしたような安心した表情をしていた。
外は容赦なく降る雨の音以外聞こえない。
湿度が高くじめじめして気分が不快になる、そんな季節になっていた。
誰もがそこから来る不快感によって怒りっぽくなっている。
何かと香代に当たりたくなるのもわからなくも無い。
ただでさえ、彼女たちは香代のことをよく思っていないのだから。
雨が降っているから今日のプールは中止だな、と香代は思った。
ほとんどの子がプールを楽しみにしているように、香代もプールは好きだ。
好きなのだが、香代は泳げないので、そのことをネタにされることを恐れていたのだ。
泳げないからからかわれるのではないか。
彼女たちは香代の欠点を血眼になって探しているのだから。
だから香代は、昨年のプールの授業は一度も出ていない。
運がいいのか悪いのか、雨でつぶれたり健康面の問題から入れなくなったり。
水着を忘れた、と言うときもあった。
本当はわざと持っていかなかったんだけれど。
プールバッグの中に水着以外を入れておいて、水着だけわざと抜いた、なんてことが。
流石に二度も同じ手は使えないだろうから、それ以降この手段はとっていない。
二度も忘れたら、そそっかしい子だと笑いものになるだけだろう。
「行ってきます。」
香代は傘を差して、玄関で待っている初めての友達である龍と並んで歩いた。
雨の音が大きすぎて他の音は一切聞こえない。
しかし、そこに流れている時間はとても心地のよいものだった。
蒸し暑く、しかも雨が降っている、とても気分のよいとはいえない天気ではあったが、何故か温かく懐かしい感じを覚える。
似たような温もりを昔、どこかで体験したことがある、と香代は思いつつ龍の横を歩いた。
通学班は基本的に一列に並ぶ決まりだが、そんなもの誰も守っていない。
香代の右隣にはいつも龍がいた。
集合場所へ行く時も、班で通学中も。それは雨だろうと強風だろうと関係の無いことだった。
雨が降ることは嫌なことだけれど、龍が隣にいることが何よりも温かなことだと香代は感じていた。
梅雨の不快感をも払拭できるだけの強いものであることを、香代は認識していた。
それが何なのか、香代にはわからないことだったし、考える余裕なんてこのときの香代には無いことだった。
目下の悩み事はプールであり、香代はその解決策を探すことにいそしんでいた。

「台風来ても学校来るー?」
休み時間のとき、優美がほかの二人に聞いた。
ニュースとかでもちらほら台風の接近について話を聞いている時期だ。
台風の時に学校へ行くかどうかと言うこともメンバーの少ないグループでは当然気になることだった。
「ううん、私は行かないよ。」
香代が答えた。さすがに一人で行くのは危険すぎる。
「私も行かないと思うな。家遠いし。」
そう答えたのは沙希だ。確かにこの三人の中では一番遠いのは沙希の家だろう。
「それじゃ私も休むか。」
優美が少し名残惜しげに言った。
休みの人が多いとデザートが一人二つだったりするんだけどな、と小声で呟いている。
行きたければ行けばいいのに、とは思ってもそのことは口に出さない。
グループの子がいないということはクラスで孤立することに直結していることを知っているからだ。
「あはは。そんなことを考えている人がいっぱいいたらいくらなんでも二つは無理だよ。」
沙希が苦笑しながら言った。無理無理、考えていそうな人多いって、と手まで振る。
まあ別にいいんだけどね、とすぐにけろっとした表情を優美は見せた。
「それにしてもこうじめじめしていると何もする気が起きないねー。」
思いっきり伸びをしながら沙希が言う。
次の時間は本来プールの予定だったからみんなのんびりしている。
さすがにプールは出来ないのだからその代わりに室内で何かレクをするのだろう。
確かに沙希の言うとおり、何かをしようと言う気にはならない。
レクをするといってもレクが出来る雰囲気では無い。
次の時間は何をするのだろうと香代は思いつつ、沙希の言葉に同意した。
「そうだね。でもじっとしていてもじめじめしていて気分悪いから嫌だよねー。」
何をするにもやる気が起きない。そんな怠惰的な空気が場を支配していた。
それは生徒に限らず先生も同じような気がする、ふと香代は思った。
なんというか、やる気と言うエネルギーが湿気に吸い取られていくような、そんな感じだ。
長いんだか短いんだかよくわからない休み時間の終わりのチャイムが鳴った。
とりあえずみんな自分の席へ戻る。その動きは非常に緩慢としていて亀のようだった。
先生の声が遠く聞こえる。やる気が失せて意識が遠のいているような錯覚を覚える。
耳までばてて、聴覚が機能していないようだ。
結局起きてはいたものの、この時間何をしたのか、香代の記憶には何も残っていなかった。

雨の日と晴れの日を繰り返し、やはりじめじめした日々を香代たちは過ごしていた。
前夜の天気予報では台風がこの地域を通過すると予報されていた。
幸い、授業で育てた朝顔の植木鉢はまだ学校においてあるから家に戻す必要はなかった。
しかしだからこそ、学校においてある朝顔の状態が心配になった。
心配であっても、台風が過ぎ去るまではどうにもなら無い。香代は学校に行くことが不可能に近いのだから。
両親は共働き。台風の中交通機関に影響さえ出なければ仕事へ向かうだろう。
そして一人っ子である香代を、愛娘を一人で学校へ行かせるような親がどこにいるだろうか。
窓をきつく閉めているのに風のうなる音が聞こえる。
近くの公園などに生えている木の一本や二本は倒れているだろう。
人が外に出たら、子どもだったら飛ばされても不思議では無い気がしてならない。
雨がガラス窓を打ちつける音が聞こえる。それは雹が降っているのかと錯覚するほどだった。
一人で家にいるのはきっと寂しいだろうしつまらないだろう。
でもテレビがあるから、何とか暇はつぶせるかもしれない。
何をしようかと香代はあれこれ考えを巡らせたが、結局それらは杞憂に終わった。
香代は、龍の家に預けられたのだ。
それは一人ぼっちの香代を気遣い、また香代を一人にすることから生じる不安ゆえだった。
家が隣であり、両親も非常に懇意の仲にあるのだから、安心して預けられるというわけだ。
香代は母親に手を引かれ、隣の家の門で母親と別れた。
龍の母親も龍も、快く香代を迎え入れたのは言うまでも無い。
「さあさあ香代ちゃん、自分の家のように過ごしていいからねー。」
と龍の母親は言う。これもこれでいつものセリフではあるが、人の家でお世話になる以上香代はかしこまっている。
迷惑は絶対にかけてはダメだと、何度も自分に言い聞かせてきているのだ。
「何かゲームでもする?」
そのままだったらずっと立っていそうな香代に龍は声をかけた。
龍の家は、テレビは玄関を入ってすぐ右手の畳の部屋にあった。
そこの部屋にはテレビゲームやビデオなどがたくさんある。
ちなみに家の間取りは香代の家と大差ない。香代たちが住んでいるところは同じ間取りをした家が四、五個並んでいるところなのだ。
左手の部屋はやはり香代の家と同じくダイニングキッチンになっている。
そして正面にあるのは階段。香代の部屋は階段を上って左手の部屋だった。
しかし何度か龍の家にお邪魔している香代ではあるが、龍の部屋には一度も行ったことが無い。
正しくは、一階にあるダイニングルームとテレビの置いてある部屋以外はどこにも行っていないのだ。
ふと、龍の部屋はどんなものだろうという興味が湧いてきた。
すぐにその考えは取り払い、香代は深く考えないことにした。
お世話になる以上迷惑はかけないしかけられない。自分が知っていいことと悪いことがある。
浮上した“興味”を抹消し、香代は龍と一緒にテレビゲームで遊んだ。
さすがに香代と遊ぶゲームに格闘ゲームは向いていないと判断したのだろう。
二人はパズルゲームで遊んだ。途中で龍の弟が混ざって二人が三人になったというのは余談ではある。

お昼時に一度ゲームは中断された。それはもちろん、昼食をとるためではあったがむしろ天気予報や台風の進路予報を見るためであった。
「もう香代ちゃん来てくれるから助かるわ。」
龍の母親が言った。さすがに野菜を炒めると言った火を扱う仕事は手伝っていないが、野菜を切るなどの仕事を香代は手伝っていた。
「いえいいんです。こうしてお料理の勉強も出来るわけですし…。」
「確かにね〜。女の子は今でも、料理が出来ないと大変だからね…。」
等といった会話をしながら、料理は着々と出来ていく。
この間、龍とその弟の亮次は天気予報を見ている。
台風の進路予想や暴風域、現在の全国各地の様子などが繰り返し放送されている。
台風はまもなく伊豆半島を上陸するそうだ。
強風・波浪・大雨警報が出ている。
予想雨量も二百ミリを上回っている。
台風接近の影響によって止まった電車や運休飛行機がずらずらと表示される。
それからまた全国各地の様子が映る。
けが人の数などが読み上げられる一方で、傘が飛ばされる映像が映る。
川が氾濫する映像が映る。
浸水の被害状況が報道される。
半壊、全壊、床下浸水などなどの数が読み上げられる。
その数の多さが、自然災害の凄さなどを感じさせる。
それは、この『自然』が恐ろしく感じる瞬間でもある。
そして、自分たちが家で何の被害も受けずに過ごせていることに安堵を覚える。
外は荒れ狂う海のように唸りを上げ、草々が風に耐える音が聞こえる。
風は時たま弱くなるが、二十分も間を空けずに再び強くなる。
雨脚が激しくなってきたのは台風が接近してきているからだろうか。
空は相変わらず暗い。夜、とまでは行かなくても夜を彷彿させる暗さだった。
こんな暗い中香代は危うく一人で過ごすことになるところだった。
それはどんなに寂しく、怖いものだっただろうか。
お世辞にも大きくは無い家でもさすがに一人だと寂しい。
今この家にいるのは四人。その数に言いようの無い温かみを感じさせられる。
台風だって乗り越えられるような、そんな力強さまで感じられるのだ。
「準備できたよ。」
香代がテレビを見ていた二人に声をかけた。
「どうだった?」
ダイニングルームへ向かい移動を始めた龍が横に来たとき、香代が聞いた。
「そろそろ伊豆半島に上陸だって。この後からひどくなるよー。」
龍の右手が優しく香代の背中を押した。
お昼を食べに行こう、そういっているようだった。
そしてその温もりは、すべての恐怖から香代を守っているようにも感じられるのだった。


2006年5月6日発行。
ここから第四部です。
メルマガによりますと、家族構成がこのとき決まった模様。
当時の文章によりますと…

香代は三人家族(一人っ子)と言うのは一番最初にあったような気がしますが…
龍は二つ年下の弟との四人家族。
沙希は四つ上の兄との四人家族。
優美は三つ年下の弟との四人家族。
雄太が未定。姉にするか妹にするか…。90%の確立で二つ上の姉の四人家族になります(笑)

だとか。

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