一片の紙

この日、龍は久しぶりに香代と一緒に帰った。
と言うのも、この日は何かの訓練らしく“集団下校”をすることになったからだ。
つまり、通学班と同じメンバーで帰る、と言うことだ。
それなのでこの日ばかりは香代と龍が一緒に帰ることを咎める人はいない。
いない、はずだ。そのはずなのだが香代はもちろんのこと、龍や雄太、優美、沙希でさえ声が聞こえてくるようだった。
“家が隣だからって浮かれるんじゃないよ”と言う声が。
いわば香代は晒し者になっているような気分を味わっていた。
そんな状態でいて、必死に耐えている香代を見ていると龍はかばいたくなる衝動をこらえきれなくなる。
自分が香代の盾になって、香代に浴びせかけるこの視線すべてを受けて立ちたい。
香代を攻めるすべてのものから香代を守り、香代の苦しみを軽減してあげたい。
そんな思いがますます強くなっていくというのに、現実はただただ虚しく、龍が出来ることは何もしないことだった。
龍が香代を助けることが香代を苦しめていくという現実。
どうして世の中はこうも上手くいかないものだろうと少しばかり恨めしくなる。
自然と手に力が入り、悔しさでいつの間にか握っていた手が更にきつくしまる。
奥歯はぎゅっと噛み締め、キリキリ音が聞こえてきそうだ。
龍の視線は若干下を向いていて、そのため隣にいる香代が驚いていることに気づいていない。
「どうしたの…?」
眉間に皺を寄せ、ものすごい剣幕になっている龍の顔に恐れを感じていたのだろうか、香代の声は若干震えていた。
その声で龍ははっと我に返り、香代のほうをいつものような顔で向いた。
「ううん、なんでもないんだ。なんでもないから、香代ちゃん、心配しないで…。」
その時龍はどのような顔をしていたのか、龍自身はわからない。
しかし、香代の顔が驚きから不安や心配、罪悪感といった感情が織り交ざったような表情になったのを見ると龍はうまく隠せなかったようだ。
自分が何も出来無いと言う現実に悔しさを感じていたことに。
久しぶりに一緒に帰った筈なのに、その空気は重く、二人は他の班員がその場にいないような気分になっていた。
とても重く、重くのしかかり、辺りが暗く、お互い相手がかろうじて見える程度にしか認識できずにいた。
言葉は少なくなり、ほとんど無言だった。
周りはわいわいうるさい喧騒の中だったのかもしれないが、二人の間には一切音はしなかった。
二人の耳には一切音は知覚されなかったまま、お互いの家にたどり着いた。
どことなく重い雰囲気を感じたまま、二人は別れたのだった。

久しぶりに龍はスケッチブックを開いた。
龍は他の男の子たちとは違い、絵を書くことが趣味とする男の子だった。
しかしここ最近はずっと、スケッチブックを手にしていない。
それは龍が密かにモデルにしている少女と関係があった。
スケッチブックを手にしていた頃の龍は、それでしか彼女を救ってあげることが出来ないと思っていた。
彼女は龍のことを知らなく、龍も彼女と話す機会なんてなかったから、そうすることが一番だと龍は思っていた。
いつも寂しそうな表情を浮かべていた彼女に、何とかしてあげたいと言う幼心からだった。
たまには大好きなお菓子を一緒に落としたこともあった。
自分が好きなものだからきっと好きだろう、と言う安直な考えからきたものだ。
落ちてきた紙を大切そうに持つ彼女の姿を見ると、龍はそれだけで自分の心が満たされるような気になった。
彼女の心の奥底にある不安定な部分、脆さを支えてあげられているのだと龍は信じていた。
そして、脆さを支えていると言うことが龍にとって、彼女を守るということになっていた。
実際に対面したことが無いからこそ、精神面で守っていると感じることがそのまま実際に守っていると言う感覚に直結していた。
しかし小学校に入って状況は一変した。
元来家が近いのだから、何かと話をする機会が多いのは当たり前のことだった。
しかし、その状況が彼女を苦しませていた。
彼女にはこの付近に住んでいる友人が誰もいなかった。
そして龍も、雄太も、クラスではとても目立つ存在だった。
雄太がどう思っているか龍は知らないが、龍にとってそれは煩わしいものでしかなかった。
彼女がいないときは、龍はすべての他の女の子たちに同じように接していた。
それが他の女の子たちの中で順序付けをしないと言う平等の関係を築いた。
ところが彼女が来たことによって、龍は彼女と多く接するようになっていた。
その理由は二つ。一つは彼女には友達がいなく、輪に積極的に加わろうとするようなタイプの子では無いから。
そしてもう一つの理由が、龍にとって彼女は特別だったからだ。
彼女を精神的に守っているということによって龍は自分が誰かを守っていると言う一種のプライドを築いていた。
彼女の笑顔を見たとき、龍の中の何かが解けるのを龍は感じていた。
龍の中にたまっていた、何か重く暗く、醜い何かが消えていくような感覚。
彼女はきっと俺を必要としている、と幼い心で確信していた龍はその時、自分も彼女を必要としていたことを知った。
だから彼女のことがもっと知りたくて、彼女は他の女の子と違って特別だから、だから、彼女だけは接し方が違ってしまった。
龍はもともと自分で意識して平等に接していたわけではなかった。
ただ興味が無かったのだ。友達として同じように接していた、ただそれだけのこと。
その扱いの差が、彼女をより女の子の中から孤立させていることを今の龍は知っている。
彼女がそのために苦しんでいることを知っている。
一時期龍は彼女から離れたほうがいいかと考えたことがある。
彼女が自分を忘れて、明るく輝けるようになるのならそれでいいと思ったことがあった。
そう考えた時、龍の胸はきりきり痛むが、龍は彼女のほうが辛かったからこれくらい大丈夫だと自分に言い聞かせ続けた。
ただしこの考えも雄太の言葉によって払拭された。
雄太はこの考えは龍が、この問題に対する逃げだといった。
厄介ごとから自分は逃げて、彼女を一人にさせているだけだと言った。
彼女が助けを求めているのは他でも無い龍であることを雄太は言った。
自分が逃げているからには人のことは言えないけれど、と雄太は言っていたが。
あれほど助けてきたのに、自分の立場が危うくなったら逃げるのかと、そう言われた気がした。
龍は遠目ながらも彼女を見守ることにした。
今の彼女には数は少なくてもとても優しい友達がいるから大丈夫だろう。
そして何かあったときは…その時は周囲がどんな目で見ようと龍は彼女を守ると心に決めた。
スケッチブックを開かなくなっていたのは宿題に追われていたからではなく、彼女に何をしてあげられるか、それをずっと考えていたからだった。
まだその答えは見つけていない。それでも、龍は久しぶりに彼女を書いてみたくなったのだ。
書けば答えが見つかるとは思っていないが、書くことによって何かが見えるような気がして。
それとこの日の集団下校時に溜まっていた醜い感情を晴らすために。

朝日が照らす中、龍は鬱々とした気分で起き上がった。
結局気分は晴れていない。どうも思うように絵が書けなかった。
部屋に置かれたゴミ箱には丸められた紙屑がたくさん入っていた。
帰り、新しいスケッチブックを買わないとな。
その光景を見て龍は思った。
でも買いにいけないか。龍は首を振り、ため息をついた。
龍が絵を描くことを趣味としていることを知っているのは、実はほんの一握りの人だけだった。
幼稚園にいた頃も、案外外で遊ぶことが多かった気がする。
別に彼女たちのイメージを壊したく無いとか言うわけではなく、龍がスケッチブックを買う姿を意外と見られることに抵抗があったのだ。
それをどう解釈されるのか、龍には想像がつかない。
最悪彼女に被害が及ぶ可能性があった。
考えすぎなのは十分わかっていたが、しかし否定できずにいた。
女の子と言うのは大体が室内で絵を書いているものなのだから。
そして男の子は外で遊ぶものなのだから。
彼女に贈る、と言う考えは十分ありうる気がしてならなかったのだった。
「あのさ、スケッチブック残り少ないから、新しいの欲しいんだけど…。」
だから龍は朝食の時、母親に買ってもらうよう頼むことにした。
「あら、そう。わかったわ。買ってくるね。」
どこか楽しそうな風に、龍の母親は答えた。
それもそのはず。龍の絵の才を一番喜んでいるのがこの母親なのだから。
彼女自身、一時は絵で生活する道を考えたほどだったのだ。
途中で料理に興味が移り、とても凝った料理を時たま作るようになったと言うのは余談だが。
それに、この母親は絵のモデルである『彼女』にも非常に興味を持っている。
くっつけようとしているのではないか、と疑いたくなるような提案をすることもしばしばだ。
「また書いたらお母さんに見せるのよ?」
ニコニコしながら龍の母親はそう付け加えた。
「上手くいったらね。」
素っ気無く龍は答えた。龍の絵を一番よく見る人間であって、いろいろとアドバイスをしてくれる人間。
それが龍の母親だから、龍は困った時は必ず母親のところへ行った。
画材も母親のお下がりだ。油絵の具、アクリル絵の具、水彩絵の具…絵の具だけでもいろいろな種類がある。
絵を描くことに関して言えば、龍の家は道具には困らなかった。
足りないものは言えば必ず買ってもらえる。
だから龍はこの家に生まれてきたことを感謝するのだった。
そして龍が絵を書くことは、ほんの一握りの人以外知ることの無いシークレットであり続けるのだ。

「おはよう、香代ちゃん。」
いつものように、昨夜の集団下校でも何事もなかったかのように、龍は香代を迎えに行った。
「おはよう。」
香代がにこりと微笑んで言った。
いつもとなんら変わらない風景。いつの間にか当たり前になった日常。
龍と香代は一緒に通学班の集合場所へ行き、班員を待つ。
そしていつものように途中で雄太が加わり、学校へ行く。
校門では沙希と優美が既に着いていて香代を待っていた。
「じゃあまたね。」
香代は手を振り友達のほうへ駆けて行く。
その様子をどこか寂しく、そして嬉しそうに見送りながら龍は手を振り別れる。
日常と言うものはただただ穏やかに流れ、だから重要なことにはなかなか気づかないのかもしれない。
嬉しさの反面寂しさを抱えた龍はしばらく香代たちのほうを見ていた。
とても明るく笑うようになった香代。
龍が望んでいた香代の姿。
もう龍に出来ることは無いのかもしれない、そう思うと少し寂しい。
「ほら教室行こう。」
雄太が龍を突っつき、せかす。
龍はその声に従い昇降口へと歩を進めた。
途中、昨日の集団下校の時の話しを小声でしながら。
自分の醜い感情を表面化しないよう、雄太にしか届かないようにするかのように。
季節はもう、入梅しようとする頃。
龍と香代と、クラスの関係が複雑化しているそのものを空であらわすような季節になっていた。


2006年4月5日発行。
だらだら続いた第三部はここで終了!

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