一片の紙

驚くべきと言うのか、優美と沙希が話をするのはこれが初めてだった。
そのため、初めのうちはどうしても香代を媒体としての会話となった。
しかし、話していくに連れて二人の間も打ち解けていくものとなった。
勿論、だからといって香代が除外されたものとなっているわけではない。
三人でとても楽しそうに笑いあい、おしゃべりをしていた。
そんな様子を遠巻きながら眺めて微笑む少年がいた。――龍だ。
彼はどんな時でも、香代のことを遠くから見守っていた。
その視線に香代は気づいていないようだが、それは気にしていない。
そんなこと、龍にとってどうでもいいことなのだから。
龍にとって大切なことは……なのだから。
「たつーっ、サッカーしよーぜー!」
そんな龍に雄太が声をかけた。手にはサッカーボールを持っている。
他の数人の男子たちも雄太の周りに集まっていた。
どうやらそのメンバーでサッカーをやるつもりらしい。
龍は再び香代たちのほうへ視線を向けた。
三人と言う輪の中で、香代の笑顔はまぶしいくらいに輝いて見えた。
そんな香代の表情を脳裏に焼き付けるかのように龍はいったん目を閉じた。それから、
「わかったー!今行くー!」
そう叫んで雄太たちのほうへ駆けて行った。

龍と雄太は他の男子たちと校庭を駆け巡った。
久しぶりにいい汗をかいた、と龍は思った。
最近いろいろなことがありすぎて、運動と言う運動は体育の授業以外全くやっていなかった気がする。
全くやっていないといえば、最近“書いて”いない。
龍は香代にとってあの紙がどういう意味を持っているか知らない。
そして龍自身にとってそれらの紙がどういう意味合いを持ち、どうしたいのか理解していない。
どうして二年ほど前の自分があんな行動に出てしまったのか、今でもわからない。
そして今でもときたまにあのような行動に出ている自分がいる。
どうしてそのような行動に出るのか。自分のことなのに龍は知らない。
薄々と理由は感づいているのだが、何でそうするのか本当にわからないのだ。
そのような行動に出る都度龍は自分に対して戸惑いを覚える。
そして自分が彼女に何をしてあげたいのか、答えの見つからない問いを投げかけ続けていた。
最近はそのようなことをしていない、と言うのはする必要が無いからだろうか。ふと龍は自分に問いかけた。
考え事をしているせいか、いつの間にか足は止まっている。
「たつーっ、何考えてるんだよー。サッカー楽しもうぜー!」
雄太の声で龍は我に返った。
龍は考え事を夜に後回しすることにし、サッカーを楽しむほうへ専念した。
そして昼休み終了のチャイムが鳴って、龍は教室へ戻った。
雄太たちを置いていち早く戻るのは、やはり香代のことが気になってか。
さすがにこの頃になるとそれが当たり前で、誰も何も言わなくなっていたが。
使ったものもサッカーボール一つくらいなので、誰ももう文句は言わない。
それに、彼らも龍の気持ちがわからなくは無いところがあるのだから。
ただ、その気持ちが龍よりも強く無いだけで。

龍が教室に戻ってきた時、そこには誰もいなかった。
チャイムが鳴って間もないころだからまだみんな教室へ戻る道のりにいるのだろう。
しかし、龍にはどうしても一つの不安がぬぐえずにいた。
優美がいる。沙希もそのような子では無い。そのことは理解しているつもりではあった。
それでも。龍はどうしても香代がリンチにあっている可能性を否定できないでいた。
実際一年ほど前、香代はそのようなことにあっている。
その後の話は聞いていないものの、香代が話さないだけなのかもしれない。
以前、いたずら電話がかかってきた時も香代はその事実を龍に黙っていた。
何か香代にあったことは気づいていたが、その何かが『なんなのか』がわからないことが、龍を心配にさせていた。
そういう意味では今回も同じだった。
香代は最近何があったのか龍に隠している。
異性だから話しにくいと言うことももちろんあるのかもしれない。
優美と何があってしばらく絶縁状態だったのか、その理由を龍はいまだ聞き出せない状態でいる。
そんなわからないことがたくさんあるから、龍はますます不安になっていたのだ。
本当は昼休みも放課後もずっとついていてあげたいと思っていた。
しかし、そのことは逆に香代を苦しめるだろう。幼いながらも龍はそのことを理解していたのだ。
だから龍は、気が気ではあるが香代に何事も無いことを願うだけだった。
今回もきっと、三人でどこかに遊びに行っただけだろう。不安になるのは杞憂だと龍は自分に言い聞かせた。
割とおとなしい三人だから、きっと図書室にいるだろう。
図書館にいるのならそろそろ帰ってくる頃だ。大丈夫、何も起きてはいない。何も起きない。
龍は何度も何度も自分に言い聞かせた。
その言葉は暗示のように何重にも龍の頭に刻み込まれていった。
自分の席に座り、次々と帰ってくるクラスメートたちを見ながら龍は香代の姿を探し続けて。
目はせわしく動き回り、耳はわずかな音でも漏らさないよう張り詰めて。
全神経を視覚と聴覚に集中させて龍は香代が戻ってくることを確認しようと必死になっていた。

その声はそろそろ本鈴がなると言う時に聞こえた。
龍は廊下に飛び出し、声の聞こえたほうへ身体を向けた。
そこで龍は駆け足の音ともに三人の少女の駆けて来る姿が見えた。
そう、それは香代たち三人の姿だった。
先頭を走るのは沙希。それに続いて優美、香代ときている。
「はあはあはあ…。疲れた。」
扉に手をかけ、香代は荒い息を吐きながら言葉を吐いた。
三人は本鈴が鳴る前に何とか教室についていた。
「お疲れ。」
龍は香代に笑顔を見せていった。
呼気を整えることで精一杯の香代はその声は聞こえているものの下を向いてはあはあ言わせていた。
「う、ん。つか、れた。としょ、しつに、いって、いた、の。」
息も絶え絶えに、香代は言った。
どうやら大方龍の予想通りだったようだ。
走ったことによる疲労も見られたが、楽しく過ごせたようなので龍はそれ以上何も言わなかったし、香代に何かを言わせるようなこともしなかった。
ただ香代の呼吸が落ち着くまで背中をさすってあげただけだった。
もちろん、それほどの距離があるわけでも無いので数十秒後には香代の呼吸もほとんど通常なものに戻っている。
香代と別れ、龍は自分の席へ戻っていった。
本鈴は後一分としないうちに鳴るだろう。
龍は一度香代に視線を送ってから、次の授業に使う教科書を取り出した。
香代も龍と同じように教科書とノートを出すところだった。
次の時間は国語。龍の机の上にはドリルとノートと教科書が乗っていた。
香代に友達が徐々に出来てきて、香代の笑顔が“再び”取り戻されつつあることを龍は嬉しく思っていた。
まだまだ龍が初めて見た頃の“笑顔”には至っていないものの、きっとそれ以上の笑顔を見ることが出来るだろう。
その反面、龍は寂しくも感じていた。この先、龍が関わることは極端に減っていくだろう。
香代が龍を必要としない日が来るのかもしれない。
そのことを考えると、一抹の寂しさを覚えるのだった。
龍はそのような相反する感情を抱えながら、本鈴が鳴るのを聞いた。


2006年3月9日発行。

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