二つ時 ―時の捕らわれ人―

辺り一面、闇色に包まれていた。何も見えない、漆黒。
地上とは違う空間のようで、三半規管が麻痺した感覚を覚える。そしてそれに伴う吐気。込みあげてくる感覚に襲われるだけであって、実際何も出てこない。
飛行機が離陸するときのような、何とも形容し難い空気が辺りを漂っている。
そんな不思議な空間を歩いていると、辺りが闇であることも手伝ってか、前を歩いているのか、後ろに進んでいるのか、それどころか、未来へ歩いているのか、過去へ戻っているのかすら分からなくなる。

――パタ。

不意に何もないはずの空間からひとつの足音が聞こえた。

――パタ。パタパタ。…パタ。……パタタッ。

どうやら音の主は、歩いたり小走りしたりしているようだ。さまよっている、そんな印象を受ける。
そのとき、ボワッと光が現れた。仄かな、けれどこの闇の中では異質で眩しげな光。
光の中でうっすらと少女の輪郭を映し出している。
「誰か…誰かいますか…。」
闇の中で、微かに少女の声が響いた。今にも消え入りそうな小さな声で、しかし、この闇の中では十分大きな声。少女の顔は不安に彩られ、声が震えている。やがてその声も、闇に吸い込まれ再び音が消えた。
今度は足音すら聞こえなかった。少女は立ち止まり、辺りを探っているようだった。
恐らく人の気配を探しているのだろう。とてもそんなものがあるような気はしないが。

――新入りかな。
――新入りだね。

不意に頭上から声が聞こえた。聴覚が捕えたような、脳に直接響くような声。幼さを孕んだ、男の子の声だった。
少女は上に頭を向けた。勿論、闇しか見えない。
「誰?誰かいるの?」
少女の声が呼び掛ける。しかし返事はなく、静寂な闇が辺りを支配するだけだった。
「そう…。」
寂しそうに彼女は呟いた。そしてまた、パタパタと歩を進めていった。

少女―美里がこの空間にやって来たのは二日前だ。いや、時の感覚は失せていたから、いつから来ているのか、分からない。不安になっているから長く感じるだけで、実際まだ一日しか経っていないのかもしれない。
気が付いたときはここにいた。
一瞬、何か強い力を受けた気がするが、そのことは全く思い出せない。でも確かに、目を開けた次の瞬間、美里は闇の中にいた。全てを包み込むような、全てを飲み込むような、終りなどないような、上下左右そんなものを見出すことが出来ないような、闇。
闇の中で一人、取り残されていた。誰もいなく、先も何も見えない場所にただ一人、たたずんでいた。
急激に不安と孤独が押し上げてきた。誰か人間に会いたい、その思いが美里をつき動かした。人に会って、ここがどこか聞こう、何で暗いのか、それも聞こうと美里は走りながら思っていた。
動くとき、必然的に足は走っていた。怖さから逃れようとしていたのか、それとも一人の寂しさを埋めたく走っていたのか、それは分からないがとにかく必死だった。
息が荒くなり、走るのをやめた。走っても走っても、無限の闇が続くだけで誰にも会わなかった。立ち止まり呼吸を整える。孤独だったり恐怖だったりした感情が追い付いてきたのか、徐々に再び巣食って行く。
歩きながら、時に小走りになって、美里は人の影を求めてさまよった。不思議と空腹感は起きない。眠気も起きないような気がして、適度に疲れる都度横になることにした。
宙に浮いているような感じがした。走っていたときは確かな硬質音がした。確かな感触が足から伝わっていていた。しかし横になってみると、そうではない気がする。下があると言う感覚と、下がないと言う、相反する感覚。それと、今自分が立っていると言う感覚。寝ているはずなのに立っている感じを覚え、美里は少し怪訝に感じた。
いったいどれくらい横になっていただろうか。疲れた、と言う感情が消えたと共に美里は自分が上だと思う方に体を起こした。寝ているうちに、とうに上下感覚は失せている。はじめは吐気すら覚えたがもうだいぶなれたようだ。人間の適応能力はすごいなと今更ながらに感心する。
そして再び、人間の気配をさがして美里は歩き出した。空腹感はやはり感じない。美里はこのような生活を繰り返した。いつまで続くのか、それは美里自身ですら分からないことだった。
そうこう繰り返して、美里の体内時計で言う二日目、美里は人の声を聞いた。幼さを残した二人の少年の声。二人は美里を新入りと呼んでいた。何に対しての新入りかは容易に想像がついた。しかし奇妙なことに、声は上から聞こえた気がしたのに、上には誰もいなかった。暗くて見えないだけかもしれないが。それに、その声は闇に溶け込んでいて、染み入るように直接脳に響いてきたようにも感じていた。
いったいここはどこでなんなのだろう、そんな思いが美里を支配した。勿論そんな問いに答えてくれる人などいないが。
美里に恐怖は勿論有った。人が誰一人も見えない、漆黒としか形容のしようが無い闇にいるのだから当然ではある。それどころか、感覚自体が怪しい。自分の感覚が当てにならないのだ。
誰か人に聞けば、美里の抱いた疑問のいくつかの答えが得られただろう。しかし、美里にはその誰かに会う機会が与えられていなかった。そこには人が一人もいなかったのだから。そして、人の姿を視認できるほどそこは明るくなかったのだ。
それなら、何故男の子たちは美里の姿を確認できたのだろうか。ふと美里は疑問に思った。本来なら、暗すぎて見えるはずは無い。しかし、このとき美里は一つの事実を知ることになった。疑問に持って、自分を見てみたらなんと、自分の身体がほんのりと光っているではないか。
美里の身体は光っていた。その光は決して明るくは無く、蛍のようなどこか弱々しい光ではあった。輪郭がうっすらとぼやけている。そんな状態に、美里の身体はあった。これなら美里が見えて不思議ではない、と納得した。
納得してはいた。いたのだが、どうやらそれだけではないようだ。また、美里の体内時計において数日の時が流れた時、再び接触する機会にあった。今回は老人、と言う印象を与える声だった。しわがれていて男性だか女性だかわからない。

――おやおや、珍しいね。こんなに形の残った人だなんて久しぶりだよ。

その声は突然、美里の耳に届いた。やはり、どこにも人の姿は見当たらないし、気配もしなかった。そしてそのいっている内容が意味不明だった。

――解せないって顔しているね。どれ、話に付き合ってあげよう。

その声はそういった。完全に美里が見えているようだ。
「誰なんですか?姿を見せてください。」
美里はそういった。言いつつ辺りを探っている。『人』がいるのなら、その『光』が見えるはずだと美里は思っていたからだ。『光』が見えないのなら、人を判別することなんて出来る筈が無い、そう信じていた。

――あなたにはまだ、可能性があるようだね。悪いことは言わないよ。ここにいないほうがいい。ここは、あなたのような人の来るところじゃないよ。

その声が言った。何を、と美里が言う前に、『声』はこの世界について語ってくれた。

それは声の主がこの世界に来たときに遡る。彼女も元は一人の人間だった。しかし、この世界に来たとき、彼女は既に人ではない姿をしていた。目は無い。耳も無い。鼻も、顔も、身体も…。彼女の身体を構成するものすべてが既に周りの闇と同化していた。
自分をとどめる壁を失った感覚を覚えた彼女は、自分という中身も見えない『外』へ流出しているような感覚を味わった。どこまでが自分なのか、どこからが闇なのかがわからない。自分の記憶も、名前も、すべてが薄れるような、すべてが闇に吸い込まれるような、そんな虚無感。辛うじて残った記憶をかき集めて、彼女は『彼女』としての核を維持している。
「ここにいる『人』はみんなそんなものなんだよ。」
彼女はそう言った。かつて人だったものがみんな溶け込んでいて。彼女が完全に消失するのも時間の問題だとか。
「ここは…『時』から外れた人の死に場だからね。」
「『時』…ですか……?」
寂しそうに言う老女の声に美里は聞いた。彼女が言うには、空想とか、生きることに疲れた人が時折現実逃避に行うことは、時間という不可視の流れについていくための体力をつけることらしい。その体力が尽きたとき、人は時間という不可視の流れからはずれる。
「それじゃ……あなたも、大変なことが……。」
美里はそれだけを言う。彼女はそれには何も答えず、話をつづけた。
不可視の流れからはずれた人は、時間軸が異なるがために他人からは見えない。同じ時間軸に存在している物にしか触れられない。初めはそんな段階だった。
ところが、その時間軸が遠くずれていくと、本筋が見えなくなり、この『闇』に組み込まれるようになる。最初はやはり戸惑ったよ。一面が闇で、自分も見えないのだから。誰にも見えず、誰にも見られず。文字通り独りなのだということを知った。
その時、自分でない声が聞こえた。それが、自分の外から聞こえるような、自分の中から聞こえるような、奇妙な感覚を覚えた。そして、みんな彼女とおなじ背景を持っていることを知った。
「ここはそんな人の集合体でできた世界だとも知った……。」
今、彼女が目の前にいたら、きっと遠い眼をしていたのだろう。美里にはそんな女性の姿が想像できた。

「ところで、あなたはどうしてここに来たんだい?」
それが、彼女の過去の回想を終了合図となった。美里はもう少し彼女の話を聞きたいと思っていた。だが、彼女の言葉はそれを許さない。
「気づいているだろう。あなたの光が弱くなっていることを。もう時間はないんだよ。」
そう、美里の輪郭を縁取る光は弱々しくなって、所々で闇がのぞきだしていた。

――時間がない。つまり、すぐにでもこの世界にとらわれる危険性があるということ。

それでもいい、そういう自分がいた。もうこのまま世界から離れた所にいたい。老女の声は、この選択をためらわせはしたが、闇に堕ちる暗い願いを吹き飛ばしはしなかった。しかし、老女の問いには答えなければならない。そんな義務感も感じた。
「……あれ?」
美里は呆けた声を出した。老女の問いに対する答え、そんなもの、美里には持ち合わせていなかったのだ。
「なんでだっけ……?」
首をかしげて美里は考えた。老女の話が本当なら、美里にも何か生きることを投げ出したくなるような辛い出来事があったはずだ。それがなぜか出てこない。知る必要はない、知らなくても闇に堕ちることに快感を覚える現実があればいい、そんな誘惑がもたげる。
悩み込む美里の姿に老女は満足そうな空気を醸していた。姿の見えない相手である以上、美里は自分の肌で感じたものを頼りにしている。
「やはり思いだせないんだね。本能的に抑圧しているのかもしれない。ここにいるみんなそう。程度の差はあるけれど、辛いことがあったという程度までしか思い出せないんだ。」
老女は一息つき、でも、と言葉を続けた。
「戻るには、ちゃんと原因が分からないといけない。そのことが鍵になるから……。」
「でも、それなら、なぜ私には戻る素質があると思うのですか?鍵も見つけていないのに。」
美里には解せなかった。帰る道もない人間に対して、ここにいるべき人間ではないから帰れという心情が。むしろ、追い返すのではなく、辛いという境遇を共感されるものではないのか。
「希望があるからだよ。今の逆境を乗り越えられるだけの希望が。」
文字通り、希望の光、と言うことなのだろう。美里はそう解釈した。しかし、先ほどの辛いこともそうだったが、美里には希望の心当たりもなかった。
「まだ気づいていないのかもしれない。ささやかな楽しみだったのかもしれない。それでも、立派な今≠ヨあなたを結びつけている何かだったんだろうね。」
考え込む美里に助け船を出すかの風に老女が言った。
楽しみ…楽しみ…楽しみ…。美里は何度も老婆の言葉を反芻した。反芻することで何か思い出せると信じているかのように。何か見落とした、大事なことに気づけると思っているかのように。
何度、同じ言葉を繰り返しただろうか。美里は喉の渇きを覚えた。水、と思ったところで、闇の中に水は存在しない。そもそも衣服も、食物も、何もないのだから、無理もない。ほしいとも願わなかったから、特に気にも留めていなかったが。
「やはり、思い出せないよ。」
声に涙が雑じった。駄々をこねている子供みたい、言いながら美里は思った。老女はそんな美里に何も声をかけない。あたかも初めから存在しないかのように静かだった。気配も感じられない。
話を聞いてくれるという約束だったのに……!美里の内に沸々と浮かび上がる感情。これは――怒り?
「ちょっと、どこへ行ったんですか!返事してくださいよ!」
美里は感情に任せて声を上げた。誰もいない暗い闇の中では、声も吸い込まれそうな錯覚を覚える。そんな大声出さなくたって聞こえているよ、そういう返事をきっとすぐに返してくれるさ。そう自分に言い聞かせる。
だが、いくら耳を澄ませても、聞こえてくる音はなかった。気配も感じられない。本能的に、美里は老女が消えたことを感じ取った。
姿の消えた人間は、その意識体もいずれ闇に飲み込まれる。無数の意識が混濁した、虚無へと果てる。それがこの世界に来た人間の末路なのだろう。そして、それが寿命と呼ばれるものなのかもしれない。
美里の理性はその事実を告げるが、感情が受け入れさせなかった。美里に残ったもの、それは取り残されたという感情。それはなぜと言う絶望であり、怒りでもあった。また取り残されたんだ、その思いが美里の怒りに油を注ぐ。

――そうだ、怒りだ。

美里の脳で誰かが囁いた。それは過去の美里自身。美里の最後の記憶だった。

美里と言う少女は、高校受験を終え、四月には高校一年生になることが決まっていた。美里は進路に異存がなかった。たった一人の親友がいて、たくさんの友達がいて、学校は楽しい場所と思っていた、普通の少女だった。
ただ、それはあくまでも表の顔。たった一人の親友が知る、美里の別の暗い一面は、その年の少女にしては珍しくないのかもしれないが、背負っていくには重い荷物だった。
美里のたった一人の友人はこの日、とても申し訳なさそうに美里に謝っていた。彼女に非があった、と言うわけではない。それでも、美里と小さいころからの約束を破ったことに対する謝罪。
仕方がなかった、で片づけないのがその親友の良いところでもあり、美里の嫌いなところでもあった。いっそ、開き直ってくれれば簡単に関係を切ることができるのに、と言うのは常々から思うこと。
「本当に、ごめん。」
彼女は何度目ともつかないほど、体を折り曲げ、美里に謝った。美里はそれを冷めた目で見つめ、
「ううん、夢だったんだもん。がんばってね。」
そう言った。うまく笑えただろうか。そう自分に問いかけるが、もちろんだれも答えない。親友の方もようやく体を起こし、乾いた笑みを浮かべた。
「ありがとう。」
彼女はそれだけ言う。美里には、それ以上かける言葉がなかった。様々な感情が織り混ざっていた。祝福と、失望と、怒りと。なぜ、という問いは、どうしてだれも答えてくれないのだろう。先月までは、一緒の高校に行くんだって言っていたのに。それなのに、彼女は突如としてその道を、自らの意思で断つのだろう。
振り返ってみたら、美里はただ、未来を見据えていた彼女がうらやましかっただけなのかもしれない。しかし、このときは、自分を差し置いて先へ―離れて―行かれることに対して、ただただ無性に寂しさと孤独と、裏切りを感じていた。
二人でくぐるはずだった高校の校門を一人でくぐり抜ける。あとに残された―捨てられた―自分だけが通り抜ける門。光り輝いていたはずが、牙を向けてきたような錯覚を覚えた。ひたすら問いかけるのは、なぜ、と言う問い。

――なぜ、置いて行かれるの。なぜ、一人なの。なぜ、私だけ取り残されるの。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。ねえ、なんでよ。

小さい頃の嫌な記憶まで呼び起こし、なぜと問う声がどんどん大きく頭の中でこだまする。仲間内で遊びに行くとき、決まって一人で取り残された。かくれんぼで鬼の時、「ダルマさんが転んだ」で鬼の時、あたりにはだれもいなくなって――探しても見つからなくて。あたかも誰かと一緒に遊んでいたことが幻だと言うかのように。
しかも、そういう時、たいてい空は闇に包まれようとするときだった。太陽が消え、それとともに人が呑み込まれるような恐怖。幼い美里は恐怖で良く泣いた。そして決まって親友が美里を迎えに来るのだった。彼女はおとなしい子だったから、一人で遊んでいたにもかかわらず。それから二人で探して、結局見つからなくてあきらめて。それで戻ってみるとみんないて。それの繰り返し。たわいもないいたずら。
だが、美里にとって、親友とつないだ手のぬくもりだけがすべてだった。その手がなかったら、何度自分が闇に飲み込まれていたと錯覚しただろう。

――母親が何度か、美里をおいてどこかへ出かけた時のように。

もうつかむ手はないんだと思ったとき、襲ってきた感情の流れを表す的確な言葉を美里は持っていない。ただ、これで闇に飲み込まれても助からないんだという認識を感じただけ。この世界にとどめる紐が切れた気分だった。
そしてそのあとからの記憶が定かではない。もしかしたら、また家で一人取り残されていたのかもしれない。家族から誕生日を忘れられていたのかもしれない。家族なんて、もう、機能していないのだから。

「そんな現実だったら、戻らなくてもいいじゃない。」
美里を襲った記憶の奔流が一通りおさまった時、美里は呟いた。老女の声はもちろん聞こえない。また取り残されたのだ。何も言わずに、一人にされたのだ。
それが現実だ、と美里の脳で誰かが囁く。いらない人間は、どんどん切り落とされていく。そして美里は、切り落とされる側の人間なんだと。切り落とされる人間に、存在価値なんてない。

――こんな記憶、なくてよかったのに。

つうっと一筋の涙が流れた。まだ自身の形が残っていることに美里は驚いた。手を閉じたり開いたりしてみる。透けて下が見える、なんてことはない。それどころか、弱りかけていた光が強くなった気さえする。

――希望があるからだよ。

なぜ、と問いかける美里に、老女の言葉が呼び起こされる。そんなバカなことありえない、そう美里は思う。切り落とされて、裏切られて、それでどこに希望を持つのだろう?

――ずっと一緒だよ。

幼い少女の声が聞こえた。誰だったっけ。一瞬美里は考え、すぐに答えを得る。幼い頃の親友の声だ。あのころは本当に、ずっと一緒にいられるんだと信じていた。
「ウソツキ。」
だから美里は小声でつぶやく。誰かに聞いてほしかったわけでも、彼女にきかせたいわけでもなかったから。

――ずーと、ずーと、どんなに離れたって、一緒だよ。

彼女の声が聞こえる。思い出だけで、信じるだけで、大丈夫だといえるほど美里は強くない。それだけれど、心の中では知っていたのかもしれない。彼女の受験の意味も、彼女の気持ちも、自分の気持ちも、すべて。
寂しくなって、不安になって、声が聞きたくなった時は電話すればよかったのだ。きっと彼女はいつでも答えてくれた。それなのに、美里は自分自身の手で繋がりを切っていたのかもしれない。彼女はいつでも手をさしのばしてくれていたのに……。
ふと、美里は体が軽くなる気がした。今ならば親友のもとへ飛んで行けそうな、そんな気さえしてくる。
未だに美里に希望はないけれど、手をさしのばす彼女に何かあるとき、今度は美里が手をさしのばしてあげたい。不思議とそんな想いが湧きあがってきていた。拒絶した手を、今度はしっかりつかんであげたい。その時彼女はどんな表情をするだろうか。
もしかしたら、これが老女の言った希望だったのかもしれない。何々したいという、未来に対する願望。それらが美里の背中で羽を広げる。
暗い闇の世界にいるはずなのに、あたり一面が白い光で包まれていた。まぶしすぎて、美里は眼を思わず閉じた。何がどうなっているのか、美里に知る由もない。
次の瞬間、無重力空間に放り出されたような感覚とともに、美里の意識が途切れた……。

「美里、美里。」
必死になった少女の声が聞こえる。体が強くゆすられて、気持ちが悪い。
「う、う〜ん。」
美里の口からくぐもった声が漏れた。
「美里、大丈夫なんだね。」
急に人が美里の胸に飛びつき、美里はせき込む。美里に飛びついた少女は、申し訳なさと気恥かしさから、離れた後は顔をうつむけた。やがて美里はゆっくりと目をあけ、周りを確認する。目の前にいるのは、美里と同じくらいの年の少女。
「…千鶴…?」
弱々しく美里は目の前の少女の名前だけ呼ぶ。千鶴と呼ばれた少女は力強く頷いて答えた。
「どうして…ここに…?」
覚醒しきれていない頭で美里は再度問う。
「だって美里、最近おかしかったじゃない。いても立ってもいられなかったんだから。」
どれくらいの付き合いだと思っているのよ、千鶴は笑ってそういう。
「もう、びっくりしたんだから。美里の部屋に来たら、いきなり倒れた美里がいるんだよ?」
千鶴の声を遠くで聞きながら、美里は一人回想をしていた。

――戻って、来たんだ。

かろうじてそれだけ認識する。しばらくいなかったんだという話は、とてもではないが実感を伴わない。夢でも見ていたのだろう、そう思う。でも、そのおかげで大切なことに気づいたのかもしれない。
部屋の時計を見て、美里は驚愕した。日付は一週間ばかり記憶から進んでいた。手探りでリモコンを探り、テレビをつけてみる。ニュースで表示される日付は、確かに美里の記憶から一週間進んでいた。
「ねえ…千鶴。この一週間私がどうなっていたか知っている…?」
恐る恐る美里は尋ねた。体が寒い。何か恐ろしい予感が体にまとわりついていた。横に視線をよこすと、千鶴は口を開けたまま固まっていた。
「それ、私も美里に聞こうと思っていたの。一週間、どこにいたの?」
やはりこちらも、恐る恐ると言った風に口を動かした。そのことが、美里の体験を夢ではないと物語らせていた。
きっと千鶴は信じないだろう。美里自身、信じられない。だが、戻ってこられたのは、千鶴が呼びかけ続けていたからだと美里は思う。勝手に裏切られたと思い、すべてのしがらみから断ち切れたと思っていたけれど、それは美里の思い過ごしだった。学校が変わるからって、物理的距離が離れるからって、お互いが相手を思っていれば、友情と言うのは続くのだろう。そのことを教えてくれた親友は、一笑に付すことなく聞いてくれるだろう。もしかしたら、信じてくれるかもしれない。
「私も信じられないんだけれどね……。」
そう言って美里の口は、一言ひとこと、言葉を紡ぎ出した。弱い自分を見つめながら。