ラヴァンド・ちょっといい話         

 ダーの花言葉は「清潔」「期待」「疑惑」「あなたを待っています」など・・・   
                        

 

                                                               香りの良いラベンダーバンドルズ。
 お部屋に飾ったり引き出しに入れたりして、1年中たのしめます。
 本来の使い方はアイロンかけの時の霧吹き代わりだったようです。
 ボールに水を入れ、バンドルズを浸し、それを洗濯物にふりかけて 
 アイロンをかけていたそうです。


   Christiane Meunierさんの 『 Lavandes & Lavandins 』(本の頁で紹介)
   その一部を四賀さんが翻訳して下さいました。

    ラベンダー●刈り集めから栽培へ〜

   野生のラベンダーの刈り集めは、毎年夏、プロヴァンスの山岳地帯で行われていましたが、
  今世紀の初頭になると、ヴォクリューズ県やドローム県のラベンダー自生地の地権者たちが
  少しずつ土地の改良に取り組むようになりました。
  大きな石ころを取り除いたり、密集し過ぎているところを間引いて陽当たりをよくしたり、
  雑草を抜いたり、またそれが可能な地形のところでは鋤で耕したりし始めたのです。
  彼らは土地を豊かにして野生のラベンダーの生育を助けようと、時には肥料代に若干の
  投資をしたりもしました。
  それというのも、せいぜい一家で食べる分ぐらいしか作物を作っていなかった伝統的な
  農業に比べると、ラベンダーはより有利で魅力的な現金収入をもたらしてくれたからです。
  そこで、プロヴァンスでは当時、こんな言葉が生まれました。
  「バイアシエール(土地の言葉でラベンダーの自生地)は麦畑よりも価値がある」半月鎌での
  ラベンダーの刈り取りは最初は女性たちの仕事でした。女性たちは朝の5時から8時頃、
  つまり家事労働やいつもの畑仕事を始める前に、山に行って刈り取りに従事しました。
  そして刈り取られたラベンダーは彼女たちのエプロンの中に集められ、畑に積み上げられたり
  大きな風呂敷で背負われて運ばれたりしました。
  こうした習慣からプロヴァンスでは刈り集めたラベンダーをエプロン単位で計るこんな
  言い方が生まれました。 「今日はエプロン何杯分だった?」 ラベンダーを売るときも、
  しばしばエプロン単位で蒸留業者からの支払いが行われました。 しかし、男たちは
  エプロンに代わる運搬用具、大きな布の端と端を結び合わせて袋状にした「トゥルース」
  というものを考え出し、やがてこれでラベンダーを運搬するのが一般的になっていきました。

   当時は女性たちのほかに子供や急ぎの農作業がない人たちもラベンダーの刈り集めの
  ために山岳地帯の刈り取り場に徒歩やラバに引かせた二輪馬車などで出かけていました。
  一家総出の作業でも間に合わないときは、夏の間だけ近所の人や山仕事をしている
  木樵りなどの手を借りることもありました。 さらには、家族労働では足りない分を補うために
  イタリア人、スペイン人、北アフリカ人など、外国人からなる大掛かりな刈り取りチームも
  編成されるようになり、プロヴァンスのラベンダーの刈り集めは大きく変化していきました。

   ラベンダーの利潤性が高まり、栽培も本格的に行われるようになるにつれて、主立った
  業者たちはさらにこの事業にお金と時間を投入するようになりました。 移動型だった初期の
  蒸留噐は固定型に変わり、刈り取りの中心地、それも水の便がいいところに蒸留器が
  据え付けられるようになっていったのです。
  大きな農家の中にも、自前の蒸留器を持つ家が増えました。 そして蒸留器の持ち主の中でも、
  他人の収穫分を買い付けられるだけの資金力のある人たちは、やがてラベンダーの蒸留業者
  や仲買人となり、こうした仲介業務も急速に発展していきました。 そして1930年代には必要な
  条件がすべて整い、「ラベンダー栽培」がひとつの文化として確立したのです。
 
   このラベンダー栽培の確立には、実にさまざまな階層の人々が関わっており、ここでその
  すべての名前を挙げることはできませんが、例えば以下のような人々を挙げることができます。
  リヨンのアブリアル教授、彼はラヴァンジンの種類を分類整理し、その命名を行いました。
  科学的な研究とアロマテラピーに関する貢献を行った人としては、やはりリヨンの人で
  企業経営者でもあったルネ・モーリス・ガットフォッセ。 彼は貧しかったプロヴァンス地方に
  ラベンダーの栽培を導入し、エッセンシャルオイルの利用を促進させるために長い間さまざまな
  面で努力を傾けました。 発明家としてはニヨン近郊の出身であるフェリックス・エイスリック。
  彼が発明した蒸留器具や刈り取り機械はラベンダー栽培のありように激変をもたらし、
  家内工業の域を出なかったラベンダー栽培をひとつの産業へと発展させたのです。

 
   ●野生ラベンダーの刈り集め時代の暮らし
 
   (ルネ・ボントゥーとその妹、レーヌ・ボントゥーへのインタビュー) 
   私たちの父は「わしは15の年には、もう山に入ってラベンダーの刈り取りをしとったもんだ」
  とよくいっていたものですが、ここニヨンの人たちが水の便がいいところに蒸留所を作るように
  なったのは1890年頃からです。 山では朝からラベンダーの刈り取りが始まり、午後になると
  「トゥルース」で運び下ろされる。 それを計量したり、買い取ったり、蒸留したりということが、
  その頃から行われるようになったんです。
  私と妹が山に入って刈り取りをするようになったのは1898年からですが、私たちはよく、
  空にまだ星の光が消え残っているころに山の高いところに登り着いたものです。 でも、その後、
  1910年頃になると、家族労働だけでは足りなくなって、10人から15人ぐらいの刈り取りチームを
  作らなければならなくなりました。

   刈り取り作業員たちは、山の中にある私たちの家の放牧場に1週間ずーっと居続けるので、
  私たちは彼らに夜具を届けなければなりませんでしたし、食事もほとんど毎日運んでいかなければ 
  なりませんでした。夜明け前に食事を運んで山に行き、午後になると刈り取られたラベンダーを
  運んで山から降りてくるのです。 そうした運搬作業用に私たちは二輪馬車を一台持っていました。

   山の刈り取り場で「昼食」を食べるためにお昼前に出かけることもありましたが、ラベンダーの
  刈り取り時期の山での「昼食」というのは、朝の5時から6時半くらいに食べるんです。 
  コーヒーとチーズ、豚肉のソーセージ、果物の砂糖漬けなんかが「昼食」のメニューでした。

   「夕食」は正午頃です。豚肉のソーセージと野菜が一皿、それから時には若鳥やウサギの
  肉なども出ましたが、肉が「夕食」のメニューに加わるのはごく稀でした。 夏は暑いので、
  肉の保存が難しかったのです。
  私たちは野菜サラダなども作りました。 でも、緑の葉物の野菜はほとんど手に入らないので、
  大体、毎回タマネギやキュウリやトマトのサラダでした。 といっても、トマトはこのあたりでは、
  その頃はまだ青いのをサラダに入れて食べていたのです。
  北フランスでのように赤いトマトを食べる習慣を持ち込んだのは第一次大戦から帰ってきた
  兵士たちなんです。 それに、私たちの家には小さな畑しかありませんでした。
  ラベンダーが商売になるので、畑にはラベンダー以外のものはなるべく植えないようにして、
  せいぜいインゲンを植えるぐらいにしていたのです。 それと、当時は行商の食料品屋が
  いろんな品物を持ってこの地方にも回ってきていましたので、私たちはそういう行商人から
  豆類などをかったりしていたのです。 行商の食料品屋にはジャガイモやパンもありました。
  食料品屋のラバは毎週、少なくとも20キロのパンを運んで、このあたりの山道を昇り降りし
  ていたんです。

   「昼食」が終わるとみんなは昼寝をしますが、女たちは別です。
  女たちは洗濯をしたりしなければなりませんし、そういう仕事をすませてなるべく早く刈り取り
  作業に戻らなければならないんです。
  夕方の5時頃になると、また食事の時間になるのですが、メニューは「昼食」とほとんど同じ
  ようなものでした。 果物が出ることはまずありませんでしたね。果物はこの地方では非常に
  貴重なもので、1年のうちでもとくに夏場はほとんどお目にかかれなかったんです。
  そのかわり、チョコレートや砂糖漬けはずいぶんよく食べましたよ。 ある年など、私たちは
  栗の砂糖漬けを90キロも作りました。皮むきの、なんとまあ大変だったこと!

   刈り取り場では新しい製法のチーズが喜ばれていました。 というのも、それは自分の取り分
  ごとにちゃんと包装されていましたし、少しずつ食べるのにちょうどよくて、パンにも塗りやす
  かったからなんです。
  午後には、たいていは野菜のスープでしたが、食事がさらにもう1回出ました。
  あとは、ワインです。 誰もが刈り取ったばかりのひんやりとしたラベンダーの束の下の「穴蔵」に
  ワインの大瓶をしまっておいたものです。 そこに置いとくと、ワインはいつまでもひんやりと
  したままだったんです。
  水は水源地まで探しに行かなければなりませんでした。 水くみに使っていたのはジョウロで、
  みんなが同じコップで水を飲みました。 それを嫌がる人もいましたけどね。

   私たちは、時にはその場で料理をすることもありました。 といっても、もちろん流しもコンロも
  ありません。 朝のコーヒーを沸かすのにも、焚き火をしなければなりませんでした。
  1937年のことを覚えていますが、私たちは7月14日から8月15日までの間に1000食もの
  食事を作りました。 間食や昼食は抜きにしてです。 しかし、外国人の労働者たちがやってきて、
  彼らの仕事がそれまでの小規模な手作業に取って代わると、山の刈り取り場で食事をすることも
  なくなっていきました。

              (クリスティアヌ・ムニエ著『ラベンダーとラヴァンジン』より/エディ・シュッド刋)

  
    ☆お千代さんが2002年10月25日、札幌市南区南沢にある北海道東海大学を見学し、
     貴重な株の写真とパンフレットを送って下さいましたのでご紹介しましょう。 
                                                                            
  北海道内のラベンダー栽培のルーツであるこの南沢地区にもう一度
  ラベンダーの花を蘇らせようと北海道東海大学では「札幌校舎
  ラベンダーキャンパス計画」に取り組んでいます。
  2002年・1400株、2003年・1500株、2004年・1200株と3年計画の植栽です。
  写真の株は50年以上経過している貴重な株が大学へ寄贈されたもの。
  10年後、かつて一面のラベンダーに彩られた畑がキャンパスに再現される
  のをたのしみにしましょう。

       

      

 
  ☆ ミス・キャサリン(ノーフォーク作出)の名前の由来 ☆

  ミス・キャサリンという名前は、ノーフォーク・ラベンダーファームの支配人だったトム・コリソンが、
  この特殊なラベンダーのために名付けたものです。
  彼は1979年に引退しましたが、その後も植物コンサルタントとして仕事をし続けました。

  彼はピンクのラベンダーを発見した年に生まれた孫娘の名前にちなんで、ミス・キャサリンと
  名付けたのです。

  残念ながら、彼は今年(2002年)初めに亡くなりました。ノーフォーク・ラベンダーファームでは
  彼の思い出を記念してノーフォークの牧草地に植樹を行いました。

       
 
               ☆ 濃いピンク色の愛らしいラベンダーにファンも急増中!

     

                   


  《花人たち・Vol. 2 「土をつくる」》 より抜粋させていただきました。

 「ほんとうの園芸家は、花をつくっているのではなく、土をつくっている。」(カレル・チャペック)                                                             

 ★ラベンダー畑のための土

  ラベンダーの原産地は中性から弱アルカリ性(pH7〜8)であるため、その大半が酸性から
  弱酸性(pH5〜6.5)という日本の土では調整が必要になります。一度調整しても土には
  強い復元があるので1年に1度は調整し直す必要があります。
  庭で栽培する場合はすべての土を新しくすることはできませんし、地域により土質には差が
  あるので一番注意したいのは排水です。斜面や少し盛り土をした乾く場所を選んで下さい。
  今までにかなり多くの植物を育ててきた庭や畑ではかなりの肥料分が残留しているので
  多肥に向かないラベンダーは1〜2年は無肥料でもよいでしょう。特に窒素分が多いと枯れ
  やすいので注意が必要です。

 ★鉢植えラベンダー向きの用土

  鉢土は排水がよく、よく乾燥し、有機質や肥料分があまりなく、pH7〜7.5がよいでしょう。
  ラベンダーの栽培がうまくいかない原因の大半は潅水量が多いことや肥料の使いすぎ、
  排水の悪い土の配合などによることが考えられます。

  土の調合は赤玉土4〜5に日向土3〜4、パーライト1〜1.5、ピートモス1から1.5、苦土石灰
  は7号鉢に対し、小さじ1杯が目安。
  別の配合では川砂4、日向土3、パーライト1.5.ピートモス1.5など。

   pH(ペーハー)とは水素イオン濃度を示す指標であり、7が中性で
     それより小さいと酸性、大きいとアルカリ性という。
     (アジサイの花はpHが高いと淡紅色、低いと青紫色になるそうです。)
     
     プロヴァンスは石灰岩質のアルカリ性、タスマニアは赤土のラテライトなので酸性、そのため
     タスマニアでは毎年、haあたり1トンもの石灰を与えてpHを矯正、ファーム富田ではpHを
     7.0以上に調整しているそうです。



  「La lavande」(リンクの風参照)の最初の項目 Son histoire
  (その歴史)をラヴァンド仲間の四賀さんが訳して下さいました。

  
四賀さんはたくさんの草花やハーブ、野菜も育てているガーデニング
  の達人です。フランス語も堪能でプロヴァンス・ラベンダーについては
  いろいろな文献を読まれています。
  富良野に魅せられ春夏秋冬、何度も足を運ばれています。

  ラヴァンド その歴史
  
  ラベンダーの語源はラテン語の「ラヴァール」(洗う)で、
  この植物は古代ギリシャ・ローマ時代から知られていました。

  古代ローマ人はその素晴らしい香りに注目し、お風呂に入れたり、
  衣類を香り付けするために利用していました。

  ラベンダーの原産地はペルシャおよびカナリア諸島で、
  フランスには おそらくワインやオリーブをもたらした
  フォーカイア人(注1)によって導入されました。

  古代の人々はラベンダーに治療的な効力があることを非常に
  早くから見抜いていたようです。

  (注1)フォーカイア人・・・マルセイユに植民地を築いた古代ギリシャ人

  ラベンダーは古代の有名な毒消し薬「テリアカ」の主要な成分の
  ひとつでした。
  「テリアカ」は毒を持っている動物の咬み傷に効果があると
  されていた解毒剤で、紀元前1世紀にポントの王ミトリダト(注2)
  によって作られたといわれています。

  (注2)ポントの王ミトリダト・・・ポントは小アジア(地中海と黒海の
      間のアジア最西端の地域)の北東部にあった古代王国。
      強大なペルシャ帝国の支配から脱して独立を保ち、ミトリダト
      (ミトリダテス6世 前132頃〜前62)の時代に最も栄えた。
      ミトリダト王は毒殺を逃れるために、毒物を少しずつ摂取して
      免疫を得たといわれており、フランス語で「ミトリダティゼ」と
      いえば毒物に慣れさせるという意味。

  また普通名詞の「ミトリダト」は解毒剤という意味で、「ヴァンドゥール・
  ドゥ・ミトリダト」(ミトリダトを売る人)というとペテン師という意味になる。

  →モーツァルト;歌劇『ポントの王ミトリダーテ』
    ラシーヌ;韻文悲劇『ミトリダト』 

  中世には、いくつもの医学的な小冊子がラベンダーについて
  言及し、消毒作用があることと強い香りを持っていることを
  紹介しました。
  当時の人々は、ペストが流行すると、ラベンダーを家の中に
  まき散らしたり、ペストがさらに広がるのを防ぐために家の中
  で燃やしたりしました。

  18世紀には、セヴィニエ夫人(注3)がノミなどの害虫から身を
  守る方法として、ラベンダーオイルとアーモンドオイルを
  主成分とする香油で、1日2回、体をこすることを推奨しました。

  彼女はラベンダー、ローズマリー、マジョラムから作る
  「ハンガリー女王水」にも熱をあげていました。
  「これは実に素晴らしい」と彼女は書いています。
  「私は毎日、その香りに酔っています。
  いつもポケットに入れているのです。
  煙草の中毒と同じで、一度癖になってしまうと、もうそれなしでは
  いられないのです」
  同じ頃、フランスの宮廷では香水が大流行していました。
  手袋、ハンカチ、かつらなど、ありとあらゆるものがいい香りを
  していなければなりませんでした。
  しかし、香水を使うことは悪臭を消すための唯一の方法でも
  あったのです。

  (注3)セヴィニエ夫人(1626〜1696)・・・娘などに宛てた多数の
      手紙が死後出版され書簡作家として有名になった。
      その手紙は簡潔な文体とイマジネーションの豊かさ、
      当時の風俗の紹介などの点ですぐれている。
  
  →『セヴィニエ夫人の手紙』(岩波文庫)
 
  19世紀になると、社会のすべての階層の人々が香水に熱中
  するようになりました。
  ラベンダーのエッセンシャルオイルの消費量は飛躍的に拡大し
  それに伴って価格も高騰しました。
  野生のラベンダーの刈り集めが盛んに行われるようになり、
  人手が足りないときは外国人労働者の助けを借りるように
  なりました。

  しかし、ラベンダーの大規模な栽培が始まり、「ラベンダー畑」が
  出現するのは1920年代になってからのことです。
  プロヴァンスは現在、ラベンダーで有名ですが、この地方の大地が
  見渡す限り薄紫色に覆われてゆくのは20年代初め頃のことなのです。
           


   
   親愛なるラヴァンド仲間から届いたラヴァンドに関する興味深い文献をご紹介しましょう。

    1770年にオート・プロヴァンス高等法院が養蜂業者保護のために作った
   「野生のラヴァンド刈り取り禁止法」という文書です。

    ラヴァンドはオート・プロヴァンスの特産物のひとつである。この植物は蜜蜂の巣
   となり、株にハチミツの入った大量の巣ができるので、オート・プロヴァンス地域の
   住民に利益をもたらすものとなっている。ラベンダーの花は10月までは蜜蜂を養う
   ほとんど唯一の食料であり、これがもしラヴァンドの刈り集めによって失われること
   になれば、蜜蜂は群れをつくることも、またハチミツを蓄えることも不可能となる。
   しかるに、オート・プロヴァンスでとれるハチミツはきわめて良質であるため、その
   取り引きは1キンタル(注1)が6リーブル(注2)で売れるほど有利な商売となって
   いる。ところが、ラヴァンド刈り集めはこの植物を枯れさせ、死滅させてしまうので
   あって、この植物がなくなれば蜜蝋はとれなくなるであろうし、精油を抽出するため
   の蒸留もまた停止のやむなきにいたるであろう。従って、まずラヴァンドの刈り集め
   と蒸留行為を制限する必要があり、高等法院はさしあたり、すべての人々に対して、
   その生活状況のいかんに関わらず、オート・プロヴァンスの丘陵地帯、とくにルール
   山その他の地域において、ラヴァンドの刈り集めを禁止する仮判決を下すものとする。
   ・・・違反者には500リーブルの罰金刑を科す。

   ●ダニエル・ミュッセ 『ラヴァンドと芳香植物/オート・プロヴァンス発見の旅』
     1989、レ・ザルプ・リュミエール社刋所収

   (注1)1キンタル・・・フランスの昔の重量制度。約50キログラム。
   (注2)リーブル・・・・フランスの1793年以前の貨幣制度。

   ●訳者注解
    上掲判決文は、ラヴァンドは刈り集めを行うと株が枯れて死滅するとしているが、
    実際はラヴァンドは花穂の刈り取りや刈り集めによって枯れることはない。この判決
    はおそらく、オート・プロヴァンス以外の地域からの「外来者」の刈り集めを禁止する
    ことを本来の目的として下されたものだったのであろう。
    『ラヴァンドと芳香植物』の中でこの判決文を紹介しているダニエル・ミュッセは、
    オート・プロヴァンス地方では19世紀末になっても、スイスなどから来た行商の芳香
    治療師が道端に店を広げてエッセンシャルオイルを蒸留抽出し、地元民の傷の治療
    をしたり、同じく行商のスイス人薬種業者が山岳地帯で芳香植物や薬草を刈り集め、
    村々をまわって売り歩いていた、と述べている。
                                                            

  

  
   ラベンダーの原産地は正確にはどこなのかわかっていません。
   ペルシャ、エジプト、ギリシャ、イタリアなどを原産地とする様々な説があります。
   ラベンダーがヨーロッパ等に広まったのは、紀元前5世紀頃、ギリシャ人植民が
   はじめてマルセイユ地方に移住した頃に持ち込んだからではないかといわれています。
    
   南仏のサントロぺ近くのイエール諸島に、”ル・ラヴァンドゥ” というリゾートタウンがあり
   古代この島々は、一面がラベンダーで覆われていたそうです。
    
   日本では江戸時代末期の文化年間から多少栽培されていましたが、本格的には
   1937年、曽田香料の曽田政治氏が、マルセイユの香料会社から取り寄せた、5kgの
   コモンラベンダー種子がもととなり、全国で栽培がはじまりました。
   はじめ、北海道、長野、千葉、岡山の4ヶ所で栽培されましたが乾燥している北海道が
   最も適しているとわかりました。

   日本で一番古いラベンダーは札幌市中央区の高橋萬右衛門北海道大学名誉教授宅の
   庭にあります。 当時、ラベンダーの品種改良の研究対象となった株はなんと、
   昭和20年代後半から現在までずっと咲き続けているそうです。
         
   ラベンダーといえばプロヴァンスやタスマニアが有名ですが、不思議なことに
   主要産地をたどるとおおよそ北緯43度の線で結ばれています。
   タスマニアは南半球ですが、南緯43度。その43度の線を日本まで引っ張ると
   位置するのがなんと北海道の富良野なのです。
   北海道の富良野はラベンダー畑としては特に知られ、7、8月には多くの
   ラベンダーファンがラベンダーに会いに行きます。 
  

 
   プロヴァンスの羊飼いは羊が蛇にかまれたとき、新鮮なラベンダーを
   クシャクシャにして傷口の手当てをしていたそうです。

   フランスの化学者ルネ・モーリス・ガットフォセは精油から香水を作り出す
   会社を経営していました。 ある日、研究室で実験をしている最中に小さな
   爆発が起こり、彼は手にやけどを負ってしまいました。
   ラベンダーがやけどに効くという民間療法を思い出した彼は手元にあった
   ラベンダーの精油に手をひたしました。
   すると痛みがとれ、やがてやけどは跡形もなく治ったのです。
    
   それ以降、彼は精油の有効成分に関する本格的な研究に取り組み始めました。
   1928年、ガットフォセは「アロマテラピー(芳香療法)」という論文にこの経験を
   まとめアロマテラピーという言葉はここから広がったとされています。

   ラベンダー精油は直接、肌につけることができる唯一のオイルです。
   蚊にさされた時など一滴つけるだけで、かゆみがおさまり、跡も残りません。  
   頭痛にも効くといわれていますが、わたしはまだ試したことはありません。
   イギリスのおみやげに頂いたカルペパーハウスのロールオンタイプは
   お気に入りでいつも持ち歩いています。

   精油は100%天然のものを選んでください。ローズの精油15mlを抽出するのに
   100kgものバラが必要であることからもわかるように精油は高価なものです。
   安すぎるものは合成の可能性がありますし、プラスチックや透明のガラス容器に
   入った商品も避けてください。