令和元年5月30日(木)自分での研究の大切さ


←府中市に、下宿していた、高校2年生の頃。両側にある、マイクや、ステレオデッキなど、録音機材は、いつも私の必需品です。

三重の自宅から、下宿していた、府中まで、父が、車で、ステレオ、マイクなど、機材を運んでくれました。

録音機は、その当時で、「?10万円」という価格だったので、今なら、相当な機材だったと思います。






ピアノを学ぶ方達は、1週間に1度、ピアノの先生から、レッスンを受けているだけでは、不十分です。
後の6日間は、自分で、研究をしていかなければ上手くなっていきません。

私が、学生時代やっていた、研究の方法の一つに、自分の演奏を録音したものを聴いて、そのあと、すぐ、いい演奏家のCDを聴いて比べてみることを、よくやっていました。

ヴァイオリニストの五嶋みどりさんは、初めに、5人の演奏家のCDを聴くとおっしゃっていましたし、ピアニストのイリーナ・メジューエワさんも、昔の演奏家たちの、録音を聴いては、その音に近づけていく、何度も繰り返し、聴いたとおっしゃっています。


言葉を覚える時、生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんから、話しかけてもらう言葉によって、まだ、何もしゃべれませんが、とにかく、聴いています。


母が、後悔することの一つに、私が、まだ、赤ちゃんの時に、何もわからないだろうと思って、話しかけが足りなかったから、言葉が出るのが遅かったんだと思う、とよく話してくれます。その代わり、私が眠る時は、いつもレコードをかけてくれたり、
歌謡番組をしょっちゅうつけて何気なく聴いていたこともあり、音楽が、言葉より先に、私の耳に残ったのだと思います。


自分の録音だけ聴いていても上手くはなれません。そこに、又、比べるものがないと、理想も生まれませんし、こんな風に弾きたい、という思いもわいてきませんから、沢山、とにかく、聴きました。家中にある、レコード、CD、1万枚くらいは、あります。

録音機も、私は、引っ越しが多いので、そのたびに、三重や、東京、ウィーン、名古屋、・・・そのたびに、ピアノと大きなステレオデッキ、マイクなどの録音機材が、あっちへこっちへ、運ばれていきました。

ピアノも大きなお荷物だし、録音機も大きなお荷物で、レコード、CD、楽譜や、音楽に関する書物、ありとあらゆる、ピアノに関係するお荷物が多くて、もう2度と、お引越しは嫌です!

本番を控えている生徒さん達と一緒に、私がやっている研究の仕方をお話しして一緒にやっています。
初めての子達は、自分の演奏を、初めて聴いたみたいにびっくりして聴いています。

自分の演奏が、何となく、平板に聴こえるのはどうしてなのか?自分の音楽の中に、心拍が聴こえていますか?この音から、音の間に
ハーモニーの色合いが聴こえてきましたか?など、次々と質問を投げかけることによって、自分が、どれほども、注意深く聴いてはいなかったことを感じ取っているようです。


令和元年5月28日(火)ウィーン留学日記から・・・(1994年~1998年時代) ホームコンサート


←ベルギーのアントワープにある、ノートルダム大聖堂。
フランダースの犬の少年ネロが見たかったという、ルーベンスの「キリスト降架」の絵があります。

(2015年12月21日撮影)



















1996年5月25日 24歳当時のウィーン日記から・・・

「アンナ(友人の名前)が、イスラエルのスティペンディウム(奨学金)のプローベ(リハーサル)をさせてと綺麗な服を着て、DATを持って、私の所に来た。
私は、アンナに、かに玉、いなりずし、焼きそば、カレーうどん、マーボー春雨、などを作ってあげて、2人で食べてから、
その後、アンナは、バッハの平均律一巻の14番、モーツァルトKV.311、ブラームスOp.118、ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」「ミンストレル」そして、イスラエルの作曲家「エルサレム」という面白い曲を弾いてくれた。

彼女は、15歳と思えない音楽性、技術、モーツアルトは特に、軽やかで、若々しく、悩みなど何もないといったような溌溂とした音楽を聴かせてくれて、私は、楽しかった。

そのあと、2人で、「どこかで春が」とか、「春よ来い」とか、日本のテレビの主題歌とか、連弾したりして、夜10時頃まで過ごした。

アンナは、きっと奨学金のコンクールに受かると思う」。



※ウィーンでは、身近な友人を招いて、本番前にホームコンサートをしたりすることが、たびたびありました。

その時は、私が、日本の食べ物を料理して、食べてもらうと、全部美味しい、と感激していました。
しかし、私の大好きな梅干しだけは、皆、「何これ?」といって、気味悪がられました。

韓国人の友人も、他のは全て、美味しいけど、梅干しだけは、嫌いと言っていました。

DATというのは、私が20代の頃、流行っていた、録音機のことです。


令和元年5月24日(金)心は、どこにある?


←ポーランド、ワルシャワ旧市街の街並み。戦火で、全部破壊されたのに、全て市民の手で、1つ1つ昔と同じように復興された街並みは、とても美しいです。
(2010年8月24日撮影)











←クラクフにある、ヴァヴェル大聖堂。神々しい光が、ステンドグラスから、差し込んでいます。

(2010年8月23日撮影)




















生徒の皆さんは、6月9日に瀬戸蔵のつばきホールで行う、弾き合い会に向けて、一生懸命取り組んでいます。同世代のお友達の演奏も聴けるので、皆さん、とても楽しみにしている様子です。

小学5年生の生徒さんからの質問です。「指先に神経を入れようとすると、手首も腕も固くなってしまいます。手首や、腕を柔らかくすると、指や手のひらもフニャフニャになってしまいます。どうすればよいでしょうか?」

いい質問ですね。そんな時、私は、「心は、○○ちゃんの中にあるけど、どこにあるかな?」と聞くと、子供から、大人の方まで、ほとんどの方が、心臓のあたりを指して、「ここにある」と言ってくれます。

頭を指してくれる子もいます。心は、心臓と脳のなかにあると私も思います。更に、最近では、心は、「手の中」にあるのでは、と思うようになりました。

心を伝える行為では、手を使うことが多いからです。お母さんが、子供をほめる時に、「よしよし」と頭をなでるのは、手でなでます。
言葉で、「すごいね」というよりも、ずっとお母さんの手を通して、子供は、愛情を一杯もらえている、と心から、感じ取ることが出来ます。

美しい字を書こう、美しい絵を描こうとするならば、手に力がこもります。しかし、力んでいるという感じではないのです。私は、実際に、その子の手を取って、しっかり、握手をします。その時に、力んで心がこもっていない握手と、
力はこもっていても、柔らかく、相手を包み込むような深い感触で、相手の手を握ってみせます。その時、指先や、手のひらは、決して、固い、という感触を相手には与えません。

今年のPTNAのC級B級の課題曲に、私が、7年間の桐朋時代、お世話になった、三善晃先生の「そよかぜのおどり」や、平吉毅州先生の「五月の風」が出ています。
お二方とも、もう、天に召されましたが、三善先生の曲を弾くと、ああ、三善先生そのものだと思えますし、平吉先生の曲を弾くと、又、平吉先生が、隣で話していらっしゃるそのものだなと、感じ取ることが出来ます。他の作曲家も、実際、お話ししたり、その人柄に触れてみることが出来れば、より一層、曲の理解も深まると思います。しかし、クラシックは、大昔に作曲されたものばかりです。その人の歴史を見て、多分、こんな人だったんではないかな、という想像は出来ます。それが、楽譜の裏を読むという事につながります。

人それぞれ、その人の周りから、出てくる雰囲気というものがありますが、目に見えていないところを敏感に察知することで、目に見えるような演奏が可能です。

三善先生なら、きっと、こうおっしゃるな、とか、平吉先生なら、きっとここをこうやって、弾かれるだろうなと、予想がつきます。

亡くなられても、魂は、ずっと私の胸に残っています。その心を伝えるのが、「心を込めて」弾くということなんじゃないかなあ・・・って。
私は、目に見えていない相手の心を、いつも感じるように心がけています。


令和元年5月23日(木)教員採用試験


←ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家にある、19歳のショパンの肖像画。


(2010年8月24日撮影)









先日、教員採用試験を控えている、大学4年生の生徒さんがレッスンに見えました。

愛知県の中学校の教員採用試験は、とても人気が高く、狭き門だとの事ですが、私の生徒達も、既に何人かは、その「狭き門」をくぐりぬけ立派に中学校の音楽の先生として、活躍している子が、増えてきて、生徒の皆さんのご活躍が楽しみです。

彼女も小学2年生の頃から、成長を見守り、今、大学4年生で、もう、近いうちに、社会に出て、教え始めるのだと思うと、感慨深いです。

私が見てみたいのは、育ててきた子達が、実際に、中学生を相手にして、どんな授業を行っているのか、そういうところにすごく、興味があります。

彼女は、すごく真面目で、勤勉な子なので、生徒さん達のお手本になれると思います。

1人1人が歩む道は、全て違いますが、自分が、歩んでいる道を、生徒さん達に示すことは出来ると思いますし、まだ、未開発で、眠っている部分にその子自身が
気づくこと、自分が、考えているよりも、ずっと価値のある存在だということを自分で、発見してもらうことを私は大切にしています。

最終的には、私自身が、自分に与えられた道をしっかりと生ききることが、生徒達を自然に導く、ということにつながっていくのだと思っています。


令和元年5月21日(火)当時24歳のウィーン日記から・・・


←典型的な、ドイツ、オーストリア地方で見られる、窓辺に飾られる美しいゼラニウム。
夏でも、乾燥して、涼しいから、お花が綺麗です。

日本だと暑いから、すぐ枯れてしまいます。

(2008年8月21日撮影)








←オランダでは、カーテンがないところが多いです。


ガラス窓がピカピカでないと、隣近所の人達から、何か、あったのかと心配されるので、いつもピカピカに磨かれています。

(2015年12月撮影)







1996年6月15日 当時24歳の私のウィーン日記から・・

オケが、カメラータ・アカデミカ、ピアニストにアンドラーシュ・シフを迎えてのコンサートがあり、コンツェルトハウスへ行った。
ベートーヴェンのシンフォニー1番、ピアノコンツェルト1番、モーツァルトのピアノコンツェルト27番だった。

ベートーヴェンもモーツァルトも弾き振りだった。バレンボイムは、ベートーヴェンがすごかった。シフのモーツァルトはとても良かった。
この曲の清澄で、かつ、優しい静かな安らいだ音にとてもマッチしていて、気に入った。


※今、アンドラーシュ・シフの昔、見ていた、スーパーピアノレッスンを見ていますが、若い時とは違う発見があって面白いです。
シフが、難しいパッセージを両手で、分けて弾いている生徒に、片手で、弾くよう勧めていました。ベートーヴェンを弾きやすくしてはいけない、難しいんだ、闘わなければ、とおっしゃっています。

ウィーンでの恩師、ケラー先生は、弾きやすくするためなら、どんな事でもするべきだ、とのお考えで、私が弾きにくそうにしていると、左と右と分けて、指使いを考えて下さいました。

作曲家が、右手で書いたのだから、右手で、弾かなければならない、と主張される先生と、それが、音楽として聴こえるのならば、両手で、分けて弾きやすいように工夫しなさい、と言われる・・・・こういった点に限らず、色々な先生方のご意見を頂くたびに、学生時代は、常にこの問題がつきまとい、迷いました。

今となってみれば、どちらが、正しいとも間違っているとも言えませんし、どちらも、それなりの根拠があり、どちらもOKだと思います。
色んな意見に振り回されず最後は、自分が、真実と思うことを信じ、自分の美的感覚を最優先して、曲の解釈に努めることが大切です。

シフのベートーヴェンのコンツェルト1番の解釈は、特に面白いと思いました。私も高校1年生で、この曲を弾き、ベートーヴェンが、こんなにユーモアがあり、ふざけた部分が沢山あることをその時は考えていなかったように思います。

ベートーヴェンは、1番から5番の中では、個人的に、4番のコンツェルトが、大好きです。


令和元年5月17日(金)ピアノと共に歩んだ道・・・中京テレビのニュース(当時小学1年生の私)


←1978年12月3日(日)晴れ

中京テレビのニュースで、当時小学1年生の私が、母とピアノレッスンに通う様子が報映されたときのテレビ画面です。今から、40年も前です。










←赤いレッスンバッグを持って、母に手をつながれて、教室に入るところを、何回も何回も戻っては、来る、戻っては来る、の繰り返しで、テレビ撮影は、大変なお仕事だなあと、小さいながら、感じました。











←レッスンを受けている私。













←真剣な表情で、ピアノを弾く小学1年生の私。
ヤマハ音楽教室をやめて、母は、PTNAの創立者(故)福田靖子先生に手紙を書き、
福田先生が、播本枝未子先生をご紹介して下さいました。

播本先生に出会う前、ほんの少しの間、近所のピアノ教室で、
レッスンを受けていました。このテレビのニュースは、近所のピアノ教室において撮影されました。

その後、ドイツから帰られたばかりのお若い播本先生との運命的な出会いがあり、レッスンを始めて受けたときに、母が、こんな素晴らしいレッスンはない、と感動したと言います。

小学1年生の私には、難しすぎる内容でしたが、母には、全て、それが理解でき、
播本先生との出会いで、ピアノの世界にのめり込んでいったというわけです。



ここ最近、私の教室に、ピアノの先生方が、私のレッスンを受けたいと来て下さる方が増えています。

皆さん、とても熱心な先生方ばかりです。私の母が、播本先生と私のレッスンを食い入るようにして、聴いていたのと同じです。

今現在の生徒さん達は、通って下さるほとんどの方々が、大学生以上になってしまいました。大学生とは、将来のことについてよく話し合います。今の子は、現実をちゃんと知っていて、将来の事、きちんと考えているしっかりした子が多いですね。

自分は、いつまでも、大学生の気分でいたんだけどなあ・・いや、でも、最近、小さい字が、よく見えないので、これは、きっと老眼です!
ピアノと共に歩んでいたら、あっという間にこの年齢になってしまい、知らない間に、随分と歳をとったようです(笑)

歳をとって、失うものが増えてきても、ピアノの道を通して出会った、素晴らしい先生方、体験、生徒達とのレッスン・・・・
これまでの数限りない体験とその想い出が私の心を豊かにしてくれています。

ピアノの先生方が、私とのレッスンを通して、沢山の発見がありますことを、お祈りしています。いつでも、皆さんの為に、お役に立てれば、幸いです。


令和元年5月14日(火)リサイタルのピアノを選びに


←ウィーン国立歌劇場前で。(23歳当時撮影)すごい雨が降っています。
今日の名古屋みたいです。


今日は、伏見の電気文化会館へ、10月5日の私のリサイタルで、使用するピアノを選びに行きました。

毎回、リサイタルの際は、事前に必ず、ピアノを選び、全体の曲調にふさわしい、
楽器を使用するのですが、鍵盤に手を載せると、触感で、大体どんな音が出るかが、
想像がつきます。

倉庫にある時と、ステージに出すと又、変わってしまうので、ピアノという生き物が
ステージで、どんな音に変化してしまうか、後先の事も十分考えて選びます。


←バーデン・バイ・ウィーンのペスト塔の前で。23歳当時の私。
ウィーン国立オペラ座から、市電で1時間ほど乗ると、バーデンヨーゼフスプラッツに着きます。

温泉町として知られ、ベートーヴェンが第9を作曲した家もあります。




















ドイツや、オーストリアでは、廊下などの電気が、3分くらいつくと、サッと消えるところが多いです。
初めて、ドイツのアイヒェナウに滞在した時に、ピアノの練習室にたどり着くまでに、まごまごしていると、電気が消えて、真っ暗闇になってしまうので、長い廊下や、階段を歩くときは、ちょっと怖かったです。ところどころに、又、電気のスイッチはあるのですが、それを見つけるのも勝手がわからず・・・。

水と同様、電気もすごく節約する国です。環境の事をすごくよく考えている国だと思います。日本のように、公共の場でお手洗いの電気がつけっぱなしになっているとついつい、電気を切ってしまうのは、留学時代の習慣かも!?


令和元年5月12日(日)教え子たちの成長に感無量


今日は、東京藝術大学アカンサス東海の新人演奏会がありました。

門下生から2人、川地咲由里さんが、ラヴェル「鏡」より
洋上の小舟、道化師の朝の歌、
鈴木真琴さんは、バッハ=ブゾーニ無伴奏ヴァイオリン・パルテイータ第2番より
「シャコンヌ」ニ短調BWV1004を演奏されました。


2人共、小学1年生、2年生の頃から、成長を見させて頂き、素晴らしい演奏に、感無量でした。

←真琴さんが、ロビーに出てきてくださったので、門下の子達と一緒に。
咲由里さんとは、お会いできず、写真がなくてごめんなさい・・・・・


真琴さんは、6月にウィーンに旅立ちます。
近くはなったといっても、やはり、海の上を12時間ほどわたって、行かれるもので、今、私を送り出してくれた、両親の気持ちがすごくよくわかります。

旅立つ方は、これからのことで、頭が一杯になっているけれど、見送る方は、こんな気持ちだったんだな・・・生徒達を見送るたびに、そんな気持ちになる私です・・・。

咲由里さんも、真琴さんも藝大ご卒業おめでとうございます。これからも頑張って下さい!ご活躍を楽しみにしています!


令和元年5月10日(金)ピアノの道に私は救われた(1980年小学3年生当時)


←1980年4月1日香川県文化会館芸能ホールで、PTNAヤングピアニストコンサートに招かれた小学3年生になったばかりの私。(前列左から2番目の白いロングドレス姿)

PTNA創立者の(故)福田靖子先生(前列左から5番目)

武田真理先生のお母様、武田宏子先生(前列左から4番目の赤い服)

福田先生にも武田先生にも、とても可愛がって頂き、色々なところへ私を連れて行って下さり、孤独な少女時代を送っていた私に、
救いの光と希望を与えて下さいました。




←その時の本番で演奏する小学3年生になったばかりの私。
モーツァルトのソナタKV.545、C-dur全楽章を演奏しました。


弾き終わった後、客席に戻ると、福田先生が、「まあ、何て素晴らしいの!」と私の手をぎゅうっと握りしめて下さった、暖かい手のぬくもりが強く記憶に残っています。

この曲は、もう1つ印象に残っていることがあります。
私が、小学2年生の冬、播本枝未子先生が、岐阜で、ピアノの先生対象に公開講座を開かれた際に、講座の後に、私が、モデル演奏することになりました。


幼い頃から、自然と、私の周りは、いつもピアノの先生方や、音楽関係者の大人の方ばかりになっていきました。

大人の世界は、落ち着いていて静かなので、私には、安心出来ました。物心ついたころから、身体だけは、子供でしたが、精神面では、かなり、早熟な子供だったと思います。両親も、私の幼い頃を振り返り、「3歳の時から考え方が、子供じゃなかったね、まるで、大人と同じだった」とよく言われます。

ここからは、現在の事です。6月9日のPTNA弾き合い会も近づいてきて、生徒の皆さんも、とてもよく頑張っています。
今年のC級の課題に、モーツァルトのソナタKV.545が出ていますが、生徒達とこの曲をレッスンするたびに、福田先生と武田先生と過ごした香川県の想い出や、播本先生との岐阜の公開講座など、パア~ッとよみがえってきて懐かしいです。


令和元年5月8日(水)私、ずっと待っていたのに・・・(3,4歳の頃、好きでたまらなかったヤマハ音楽教室)


←4歳の頃、ヤマハ音楽教室の発表会で。ピアノを弾いているのが私。

ロシアの民謡「きたかぜ」などを弾きました。冬の雰囲気を出すために帽子を
皆かぶっています。

皆と、アンサンブルした時の、心の底から湧き上がるような、ゾクゾクした高揚感は、今も忘れられません。







←見えにくいですが、真ん中、一番真ん前ピンクの吊りスカートを着ているのが4歳当時の私です。












私の母は、ピアノを一番楽しいおもちゃにしている3歳の私を見て、ヤマハ音楽教室に入れてくれました。今でいえば、幼児科で、グループレッスンです。
そこでは、ピアノも弾きますが、エレクトーンを弾いたり、歌ったり、リズムを叩いたり、皆で、アンサンブルをしたり、私は、すぐ、夢中になりました。「プライマリー」という楽譜とレコードがあって、その中に、綺麗な曲が沢山あって、毎日、レコードをつけては、わくわくした気分になっていました。

その反面、保育園が、大嫌いでした。私にとっての保育園の第一印象は、「なぜ、みんな、こんなに騒々しく騒ぐのだろう?」でした。
幼稚園の時もそうです。お弁当の時間に、きれいなクラシックの音楽を流してくれたりします。私以外の子供(私も同じ子供なのですが(笑)は、とにかく、キャーキャー暴れて大騒ぎして、すごくうるさいのです。私は、落ち着いて静かに聴いていたいのに、皆が騒がしくて、じっくり聴けません。

こんなきれいな音楽なのに・・・静かに聴いていたい・・・そんな風に感じている大人のような子供は、私だけのようでした。

今、鮮明に憶えていることは、保育園の時の事です。一週間に一度、金曜日、ヤマハ音楽教室に行く日は、母が、少し早めに迎えに来てくれる事になっていました。しかし、その日は、5週目で、お休みだったのです。
3歳の私に、曜日の感覚や、時間を読むことも、出来なかったはずなのに、
私は、その日、一日中、窓の外を眺めて、母のお迎えを待っていました。目に涙を一杯ためて・・・。

私の様子に気づいた先生が、「めぐみちゃん、どうしたの?何かあったの?」と気遣ってくださいますが、言葉が出ません。内向的な子供は、心で思っていることが沢山あっても、言葉が出てこないのです。出てくるのは、涙だけです。

とうとう、その日は、窓の外を一日見続けて、終わってしまいました。家に帰ったら、何のことはなく、「今日は、音楽教室おやすみだったのよ」。の母のあっけらかんとした、言葉に又、傷つき・・・。それなら、朝、保育園に行くとき、「今日は、お休みだから、お迎えに行かないよ」とひとこと言ってほしかった、私、一日待ってたのに・・・音楽教室・・・。その話も母に何も言えないまま、又、悲しくて涙を流すだけでした。


私にとってのヤマハ音楽教室は、恋人に会いに行くみたいな待ち焦がれた時間でした。それほど、音楽に恋していました・・・。

そんな様子を見かねて、すぐ、個人の先生を探さなければ、と母は、考えてくれていました。


令和元年5月7日(火)私がもし、ピアノを弾いていなかったら?


←2歳になる前の私。女の子なのに、なぜ、ウルトラマン、仮面ライダー?

私には、おもちゃがありませんでした。(泣)でも・・後ろに私の生まれる前からあった、アップライトピアノが・・・。これが、私にとって、最大のおもちゃになりました。

私が生まれる前は、母の憧れが一杯詰まった、しかし、弾けないので、憧れだけで終わってしまうはずのピアノでした。
誰も弾けないピアノを買ってきて・・・夫婦喧嘩のタネになっていたピアノ。

私のおもちゃであった、ピアノの導入は、音符を教わったことも、譜面を読むことを教わったこともなく、突然両手で弾き始めたのが、きっかけです。

私は、泣きもせず、動きもせず、どこにいるかわからないような大人しい子供で、親からも、完全に
無視されていました(笑)

もし、私が、ピアノを弾いていなかったら、親ですら、私の事を構わなかったかもね、なんて、話しています。

ほったらかしにされていた私は、1人遊びばかりしていました。テレビから、流れてくる、ありとあらゆる、音楽を耳で聴いて、ピアノで、弾いていったのです。その中で、一番気に入ったのが、「アルプスの少女ハイジ」の主題歌、その中で流れている音楽。そういったものを右手で、弾き、左手の伴奏もつけていくと、きれいなハーモニーになるな、と感じいきなり、両手で弾き始めたのを見て、母が、驚いたとの事です。

赤バイエル、黄バイエルの最後までを4歳で、終えたので、これは、本気で、真剣にやらなければ、と母が一番に私の能力を見出してくれました。

←ウィーン国立音大の修士を出て、帰国記念リサイタルのリハーサルを三重のレッスン室でやっている様子。26歳当時の私。

三重のレッスン室に置いてあった、グランドピアノは、ヤマハのC7。播本枝未子先生と一緒に、
小学2年生の時、選びに行きました。

播本先生は、そのころ、「スタインウェイの中古にしたら?」とおっしゃられました。

アップライトでも揉めたくらいなのに、スタインウェイ・・・しかも、小学2年生で。

両親は、さぞ、戸惑ったことでしょう。



令和元年5月5日(日・祝)第9回奏心会フレッシュコンサート


今日は、伏見・電気文化会館ザ・コンサートホールで、オーディション合格者による第9回奏心会フレッシュコンサートがありました。

門下生の中から、愛知県立明和高等学校音楽科1年在学中の清水陽菜さんが、ショパンのバラード1番を、そして、愛知県立芸術大学音楽学部器楽科1年在学中の吉岡瑞貴さんが、ラフマニノフのピアノソナタ第2番第1楽章を演奏させて頂きましたので、聴きに行きました。

←開演前、清水陽菜さんと。

瑞貴さんも探したのですが、いなかったもので、一緒に写せなくて、御免なさいね・・











←終演後は、吉岡瑞貴さんにもお会い出来ました!

2人とも、素晴らしかったです!素敵なピアニストになって下さい!


門下の子達や、お母様方にも沢山お会いできて、嬉しかったです。

皆さん、応援にいらして下さり、有難うございました。







令和元年5月4日(土・祝)教育テレビでやっていた、ピアノのおけいこ(1978年当時小学1年生)


























←小学1年生の変てこな字で、
おとがひびくように、
もみこむようにひきます、
いきてくようにひくとすばらしくじょうずにできます、など、私は書き、母も一緒に書き取るのに必死。













上のテキストは、1978年~NHK教育テレビで、放映されていた、「ピアノのおけいこ」という番組のテキストです。

丁度私が、小学1年生の頃ですが、毎週、この番組を母と一緒に見るのが、習慣になっていました。

まだ、ビデオや、ブルーレイなど、何もない時代です。母が、テレビの真ん前に陣取って、カセットテープレコーダーの録音を始めます。

私が、何か他の事を話しかけると「シーッ!!静かに!!よく聴きなさい!自分でもメモしなさい!」(小学1年生の子供にベートーヴェンのソナタのOp.27-1の楽譜に注意を書きなさい、というのだから、びっくり!)

母が、この番組で、教えて下さっていることを一言も聞き漏らすまいと全身「耳」にして、聴いているのを見て、小学1年生の子供の目から見ても、ただならぬ気配を感じ、又、その情熱に、圧倒されました。

「ピアノのおけいこ」で、ピアニストの宮沢明子先生が、「ピアニストになるために、手が開かないと致命傷になる」という言葉を聞いた母は、
毎日、私が、5歳の頃から、中学3年生までの間、私の手の指の間と間の水かきの部分を「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」と数えながら、朝、昼、夜、お風呂に入ったとき、私の手をいつも、広がらせる、マッサージをしてくれました。手が広がらないと、手首に力が入り、きれいな音が、出せないのだからと言って、毎日、毎日です。レモンの皮と一緒に、マッサージしてくれたり、元々柔らかい私の手が、更に、大きく広がるのは、母の努力の賜物だと思っています。

母は、ただ、ただ、音楽が好きでたまらなかっただけで、幼い頃の私をピアニストにさせようなんて、これっぽっちも思わなかったと言います。
大きくなってからも、音楽家になってもらいたい、留学してほしい、など、そんな母の希望は、今までに、一言も聞いたことはありませんでした。
しかし、ピアニストになるための努力は、全てしてくれましたし、とにかく、母自身がすごく熱心なので、私もそんな音楽の世界に自然と惹きこまれていきました。

これまでの「ピアノの道」において、一生懸命やらなかったから、あの時、ああしておけば・・・・という後悔だけは、
1つもありません。全て、母も私もやれることは、全部試してきたからです。

「音楽家」という職業は、他の職業同様、その道を究めようとする人ならば、大変困難な職業ではありますが、それを上回る音楽に対しての
「愛」と「情熱」があれば、大変にやりがいのある、一生を音楽に捧げるだけの価値が十分にある、素晴らしい職業だと思います。


令和元年5月3日(金・祝)大学2年生当時の私(1991年4月17日~5月2日)アイルランド、ダブリン国際コンクール


←アイルランド、ダブリン国際コンクールを受けに行ったときの
ホームステイ先。約2週間の間、このお宅にお世話になりました。


美味しい食事、親切な人々、この国の何もかもが素晴らしく、又、私自身の精神が
若かったということもあって、見る者全てが、夢のように美しく、この国を去る時は、
後ろ髪を引かれる思いでした。


(1991年5月1日撮影。19歳当時、大学2年生の私)。















←コンクールの間、ピアノを練習するために、色々なお宅に連れて行って下さり、そこで練習する私。

(1991年4月19日撮影)










大学2年生になったばかりの私は、アイルランドの首都、ダブリンで開かれた、第2回GPAダブリンピアノ国際コンクールを、受けに行けることになりました。
桐朋の高校・大学時代の恩師、渡邉康雄先生が、このコンクールの審査員をされていて、私に「是非、受けに行きましょう」と推薦して下さったのです。

丁度、湾岸戦争の時期と重なり、ヨーロッパ便のフライトのキャンセルは、相次ぎ、実際乗った、成田から、フランクフルト行きのルフトハンザ航空は、ガラ空きでした。

そんな危ない時期に行って、大丈夫なのか?家族は、とても心配してくれました。母も、この時は、一緒に同行してくれて、先生と、母と3人で、ダブリンへ向かいました。

私の頭の中は、小さい頃から、今でも、いつでもそうですが、コンクールの結果なんてどうでもよく、大好きな先生と2週間も一緒に過ごせることが、そして、先生から、ヨーロッパへ国際コンクールを受けに連れて行って下さるというお話を頂いただけで、嬉しさいっぱいでした。

私の学生時代、「ピアノの道」で、何が一番嬉しかったかと聞かれれば、色々な国に行って、コンクールで、良い結果を出せたことや、数多くのコンサートのステージに立てたことでは、ありません。

先生が、私の為に、手を尽くして下さり、時間を割いて下さっていることに「愛情」を感じ、私の数限りない幸せとなって今も、忘れられない
学生時代の想い出として、心に残っています。

現在、逆の立場になり、指導する上で、生徒達を技術面や、あらゆる演奏表現を教えること以上に、心を込めて、生徒達を想うことが、
一番、生徒達のやる気を自然に引き出すことになると、自分自身の体験から実感しています。


令和元年5月2日(木・祝)私の意志とは関係なく、不思議な「縁」や、「出会い」が次から次へと現れた(1979年小学2年生当時)


←1979年4月28日、「ブリガムヤング国際コンクール出場者を迎えて」小学2年生当時のピティナヤングピアニストコンサートのチラシ。

東京・文化会館の小ホールで、ハイドンの主題と変奏、クーラウのソナチネOp.55-3全楽章、湯山昭さんのフランス人形、ゴーカート、など、演奏しました。

6月にアメリカで、演奏するために、沢山のレパートリーを増やし、
学校をしょっちゅう休み、ピアノに邁進し始めたのも、この頃からです。

これから、私が演奏する、ブリガムヤング国際コンクールが行われる大学は、どんな
ところかな?興味津々でした。

1人で、部屋にこもってする、孤独なピアノの練習は、何よりも大好きでしたが、
人前で演奏するのは、好きでもないし、ただ、自分が出来ることを、一生懸命やっていただけでした。

それなのに、私の意志とは、関係なしに、私の周りで、どんどん、話が進んでいくので、今から思うと、あれが、不思議な、「縁」と「出会い」というものだったんだなと、振り返ると全てそう思います。

一番、とまどったのは、両親です。音楽関係者でもない、両親は、ちんぷんかんぷんで、ピアノの先生方が、私をあちこちの場所で、演奏するように、連れて行って下さるので、「何が何だかわからないうちに、ここまで連れられてきたね」と笑っています。


令和元年5月1日(水・祝)令和になって・・・40年前の私、小学1年生の頃(姫路で、ピティナの演奏会に招かれて)


←姫路市制90周年記念協賛行事「ピティナヤングピアニストコンサート」で、演奏する小学2年生になったばかりの私。湯山昭さんの「フランス人形」
デュセックのソナチネOp.20-1全楽章を演奏。


人並みない程、内向的な私、一緒に出演した、先輩のお姉様から、
「めぐみちゃん、上手だったね!」と褒めて下さっても、何と答えてよいかわからず・・・。そういう時は、「どうも有難うございます!」と御礼をいうものよ、と母から、注意された想い出があります。
声がとにかく全然、出ない子供時代を送りました。

私の声は、ピアノだったんだと思います。

場所は、姫路市文化センター大ホール。
(1979年4月1日撮影)
←演奏する私。














←当日の看板。1979年といえば・・・なんと、40年前です!












←現在のピティナを創立された、(故)福田靖子先生。
福田先生は、幼い私をとても可愛がって下さり、あちこちへ、演奏旅行に連れて行ってくださいました。

姫路での演奏会でのご挨拶をされていらっしゃる、福田先生。









この時から、40年もたったんだなあと思います。昭和、平成、そして、今日から、令和となりましたが、随分と長い間、ピアノを弾いてきたなあと思います。

今後、私が、音楽を通して、精一杯、働いたとしても、今まで生きてきた年数よりは、少ない事を思うと、音楽のそばにいられるだけで幸せを感じます。

日記は、毎日書くものだと親から、教わり、幼稚園生からの習慣で、毎日、書いていたのですが、思いもよらず、こうして、皆さんが、私の日記を楽しんで下さっていると聞くと、書いてきて良かったなと思います。日記を書くと、皆さんが喜んで下さるだけでなく、自分の頭もスッキリ整理されます。
現在と未来のことは、誰も、何も予測できないけれど、過去は、確実に存在し、事実となって残っていきます。


小さい頃のこと、学生時代、留学日記など、今まで私が通ってきたピアノの道、現在の事も、色々と書いていきます。
皆さんに楽しんでいただければ、幸いです。