平成30年11月30日(金)第17回門下生コンサートのチラシが出来ました!


←今朝、幹事さんが、来年3月26日(火)開演14:00、名古屋市東文化小劇場で、開催される、
第17回門下生コンサートのチラシを作成して持ってきてくださいました。幹事さん達には、毎年の事ながら、大変お世話になり、感謝しています。

今日の生徒さん達から、お配りしています。

小学生、中学生、高校生、大学生、大学院生、大人の方、それぞれが、自由に自分の能力を精一杯発揮できる場所として、1年に1度のステージをとても楽しみにしています。

今年は、ピアノだけでなく、オーボエの演奏もあります。

ご興味のある方は、私の教室の自由で、明るく、和やかな雰囲気を、是非、聴きにいらして下さい!

生徒の皆さん、それぞれに、自分の出来ることを毎日、熱心に取り組んでいます。

門下生一同、皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。入場無料です。どなたでもお気軽にお入り頂けます。










平成30年11月27日(火)ピアノと共に歩んだ道のり・・・学生時代とは違う充実感が私の心を満たした 


←ウィーンから帰った後は、実に色々なお仕事をさせて頂きました。
私は、27歳まで、コンサートピアニストになるためだけの教育しか受けてきませんでしたので、初め、音楽家といっても、一体何の仕事から始めたら良いかさえさっぱりわからない状態でした。しかし、現場に出てみると、音楽家として出来ることは、山のようにあるのだなあと思いました。
日本に帰ってからは、色んなお仕事がやってみたくて、何でもやっていました。そのどれもが楽しくて、学生時代が、私にとっては、
辛い事の連続だった代わりに、ずっとお仕事の現場の方が楽しいな、と感じる毎日でした。

左は、2004年12月23日にグリーンエコーの合唱団の方達から、花束と感謝状を読んでいただいているところ、感激して、涙、涙でした。

どこの仕事場でも、周りの方々が、優しくしてくださり、どのお仕事も、今、振り返れば、全て私の為に必要な事ばかりでした。

学生時代では、味わえなかった、「人の為に役立っている」という充実感が私の心を一杯に満たしてくれました。

私を導いて下さった、全ての方々に、感謝の気持ちで一杯です。

音楽家として、第一歩をどのように始めていったかも、きっとピアノを習っている皆さんが、知りたいことの一つだと思います。
皆さんのお役に立てるよう、私が辿ってきた道を振り返って、書いていきます。

























平成30年11月26日(月)ピアノと共に歩んだ道のり・・・大学4年生当時の日記から・・(故)田中希代子先生との想い出 トマトのアイス!?


←ドイツ、バロックの都ドレスデンで。私の大好きな、「システィーナのマドンナ」の絵画がアルテマイスター美術館で見れたときは、感動でした。ショパンは、この街を4回訪れています。
チェコのプラハに似た感じの街並みです。
(2011年12月22日撮影)










1993年8月31日大学4年生当時の私の日記から・・・

田中希代子先生のレッスン。
ショパン即興曲3番、リストのエチュード「狩り」、ドビュッシーのエチュード「8本の指のための」「映像第1集」ショパン「オクターブ」を聴いていただいた。
「全部いいから、自信を持って弾きなさい」と言われ、レッスンが終わってから、「暑かったね。アイスクリーム食べていきなさい」。と言われてごちそうになった。
希代子先生が、アイスと思って冷蔵庫から取り出して下さったのは、希代子先生が、今晩のおかずにお召し上がりになる、トマトスープの冷凍したものだった。
私は、「へえ!希代子先生って、やっぱり違うなあ。アイスクリームも普通の甘いアイスじゃなくて、体にいいトマトのアイスクリームなんて食べるのかな?
でもなんか変だな、アイスクリームにしては?もしかして、間違えたのでは?」と思ったけど、スプーンでガリガリガリガリ削って、一生懸命酸っぱいアイス食べてた。
希代子先生がふっと私の方を向いて、「あれっ?ちょっと待って!あら、いやだ、トマトじゃない、私はこういうポカをよくやる変なおばさんなのよね、いやだ、フフフフ・・・」とおっしゃって、それからは、2人でずっと笑っていた。
「いえ、別に私トマト好きですから」て言ったけど、本当におかしかった。希代子先生は、本番の前、どうやって過ごしていたのですか?とお聞きすると、
「いきなり拭き掃除をしたり、盗まれてもいいように、戸棚の中を整理したりとかしてたわよ」。とおっしゃっていた。
1ヶ月もかかって、船で、フランスに留学されたお話や、「そうよ、私、高跳びは、上手かったの、運動神経は良かったわ、もう年中真っ黒に日焼けして、ゴボウみたいだったんだから」。と言われた。


*この「アイスクリーム事件」は、本当に面白かったです。2回目出して下さったのは、ちゃんとした、チョコレートのアイスクリームでした。
数少ない、希代子先生の音源が残っていますが、希代子先生のショパンのエチュードは、鼻歌交じりに弾かれている感じで、本当にすごいです、何の苦労もなく、
お弾きになれたんだろうな・・・と思います。


平成30年11月25日(日)ピアノと共に歩んだ道のり・・・・大学4年生当時の日記から・・・(故)田中希代子先生との想い出


←高校3年生当時の私。高校の卒業演奏会に選ばれたので、ショパンのソナタ3番を一生懸命練習しています。三重の実家に帰省した時も、いつもピアノの前でした。この生活は、3歳から現在に至るまで、ずっと変わることがありません。

私にとって、昔も今も、ピアノの前が一番、心が穏やかになれる場所です。










1993年7月11日 大学4年生当時の私の日記から・・・・

田中希代子先生のレッスンで、ショパンのソナタ3番と、ベートーヴェンのソナタOp.101、とショパンのエチュード「オクターブ」を聴いていただいた。
「貴女は、とってもセンスのある子だからね。それをどう人に説得力のある演奏にしていくかが大切よ。とっても素晴らしいわ」。と何度もほめて下さった。
帰りに、チョコレートや、ゼリー、ジュースを頂きながら、お話をした。希代子先生は、フランスへ行って、ジュネーブ国際コンクールを受ける時に、要項に色々書くときに、フランス語がわからないから、フランス人の子に教えてもらいながら、書いていらしたそうだ。丁度その時、電話が鳴って、希代子先生が、電話に出た間に、
そのフランス人の子が、申込書に変な言葉ばっかり、書いたそうだ。
「途中で電話なんか取りに行くから悪い」とその子から言われて、フランス語が出来ないために、袋叩きにあったりして大変だったそうだ。

*希代子先生は、戦後初のフランス政府給費留学生の1人として、パリ国立高等音楽院に留学された方ですが、フランスでの生活も色々と話して下さいました。
この日記に書いてあるように、フランス語で、申込書を書くときに、友人に教えてもらいながら書いたら、全部違うことばかり、教えてくれて困ったとおっしゃっていました。

日本に帰られてからは、車椅子生活でお一人で、住まわれていたので、何かと不便を感じるのではないかどうか、お尋ねすると、
「一人が一番気楽。お手伝いさんがいると、かえって気を遣うし、1人で何でもやれるわよ」。とおっしゃっていました。


ヘルマン・ヘッセの言葉「人生とは孤独であることだ。誰も他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ」。

バルザックの言葉「孤独はいいものだということを我々は認めざるをえない。けれども、また、孤独はいいものだと話し合うことのできる相手をもつことは、ひとつの喜びである」

そういう言葉を思い出しました。希代子先生と私は、真剣な事もお話ししたけれど、笑えることも、いっぱいありました。その面白いことは、又、書きます。


平成30年11月24日(土)ピアノと共に歩んだ道のり・・・大学4年生当時の私の日記から・・・(故)田中希代子先生との想い出


←1997年12月7日、ウィーンから、両親へあてた、クリスマスカード。
フローエ ヴァイナッハテン ウント
アイングリュックリッヒェス ノイエス ヤール(喜ばしいクリスマスと、幸せな新年を!)

「ここウィーンでは、クリスマスに向けて、ろうそくや、樅ノ木にポッと小さな灯がともされ、煙突から、煙が出て、樅ノ木にちらちら、と小さなお砂糖みたいな、細かい雪が後から後から、降り積もるのを見ていると、アルムの山の中のハイジみたいな気分になります。
教会から聴こえてくる鐘の音、人々が歌う静かで美しいお祈りの歌、クリスマス時期のヨーロッパは、何ともいえない美しさに包まれています・・・・・私の、4年間の留学生活の最後となる1998年もお父さん、お母さんが、健康で幸せでのんびりと明るく和やかな日々を送れるように毎日祈っています」。





1993年6月25日 大学4年生当時の私の日記から・・・・

「田中希代子先生のレッスンへ伺った。
希代子先生は、車椅子で出ていらして、手の指はくっついて不自由でいらした。見るからに痛々しくて、お気の毒だったけれど、一生懸命レッスンをして下さった。
話も、とてもしにくそうで、いらっしゃったけれど、精一杯の力を振り絞って、声を出して下さった。
ショパンの即興曲3番は、歌唱力もあって歌心もあって、良かったわ、と言ってくださり、リストのエチュード「狩」は、和音が十分に鳴っていないとね、とおっしゃって、モーツアルトのソナタKV.330の2楽章は、フレーズの1かけら、1かけら、みんなを可愛がってあげて、と言われた。
あんなに素晴らしい、希代子先生に、どうして、神様は、あのような苦しみをお与えになったのだろう。希代子先生のためにも頑張ろうと、思った。


*(故)田中希代子先生は、ジュネーブ国際コンクール、ロン=ティボー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールの3つの国際コンクールに日本人初として、
入賞された、世界的なピアニストの方ですが、30歳代後半から、難病にかかり、演奏活動から、一切引退されて、私達を教えて下さいました。

レッスンが終わると、必ず、希代子先生のお台所に連れて行って下さり、悩み多き青春時代の私の良き相談相手になって下さいました。

大学4年生になると、自分は、ピアノだけ練習していて、これから、先行き一体どうなるんだろうという不安で一杯になっていきます。将来を見据えて、毎日、葛藤して、悩み多き、青春時代をどのようにして過ごされてきたのか、いつも色んなお話を聞かせて下さいました。

希代子先生は、私が、ウィーンに留学中、64歳で、天国へ旅立たれました。ウィーンにも何度か、お便りを下さり、いつも私の事を励まして下さる暖かい先生でした。
希代子先生との想い出は沢山あります。日記にも沢山書き残しているので、振り返って書いていきます・・・。


平成30年11月23日(金・祝)ピアノと共に歩んだ道のり・・・大学1年生当時の日記から・・・


←1990年5月1日、大学1年生18歳当時の私。高校、大学7年間、ピアノ、ピアノに燃えた7年間でした。

(故)田中希代子先生が「貴女達の時代は、可哀そうね・・・ピアノ、ピアノで追いまくられて・・・」とレッスンに伺うたびに、ねぎらってくださっていました。私から見ると、田中希代子先生のような昔の方であればあるほど、
大変なご苦労をされてきたと思うのですが・・・。

田中希代子先生が、フランスのパリに留学された時代は、フランスまで、1ヶ月もかかって、船で、行かれたのです。

「身体が悪くなっては元も子もない。ピアニストというものは、個人的なものよ。長い道のりなんだから、のんびりやりなさい」。が先生の口癖でした。




1991年1月7日、大学1年生当時の日記から・・・

明日から、大学だ。
今日から、「ピアノでモーツァルト」というワルタークリーン先生のレッスンが、NHKで、9時半から始まったので、見た。
昔やっていた、「ピアノのおけいこ」という番組と同じみたいだ。
ワルタークリーン先生は、
「ピアノは、弾くのではなく、歌うのです。フォルテでもいろいろな種類の音がある」そうおっしゃっていた。


*大学生の頃は、テレビで、よくピアノのレッスンの番組があり、必ず、録画をしておいて、ピアノの練習の合間に、見ていました。
ワルタークリーン先生が、モーツァルト、ゲルハルト・オピッツ先生が、ベートーヴェン、シプリアン・カツァリス先生が、ショパン、のレッスンをされていました。。
数年前も、マリア・ジョアオ・ピリスさんや、ミシェル・ベロフ、ジャン・マルク・ルイサダ、アンドラーシュ・シフさん等の、ピアノレッスンが、教育テレビでやっていましたが、最近、そういう番組が、なくなってしまいましたね。どうしてかしら?
私が、幼稚園生、小学生の時は、「ピアノのおけいこ」を教育テレビでやっていて、母も私も一緒に、カセット・テープに録音して、食い入るようにして見ていました。
もし、仮に、母が、ピアノの先生であったら、ここまで、情熱を持って、取り組めなかったかもしれないね・・・と今となっては、そう話しています。


平成30年11月22日(木) (社)イタリア協会主催の第10回コンコルソ・ムジカアルテ申込受付中



←今年も、(社)イタリア協会主催の第10回コンコルソ・ムジカアルテが、開催されます。

地区本選の審査が、12月9日(日)名古屋芸術大学
全国本選の審査が、来年1月20日(日)名古屋芸術大学で、あります。

第1回目~9回目までの受賞者の方達は、予選免除になりますので、本選12月9日に演奏できます。

過去の受賞者の皆さんは、イタリアの世界遺産の素敵な場所で演奏して、とても素敵な体験となったみたいです。

ご興味のある方は、是非、チャレンジしてみてください!締め切り迫っています!

私の所に沢山、パンフレットがあります。欲しい方は、お申し出くださいませ。












平成30年11月21日(水)ピアノと共に歩んだ道のり・・・・当時大学2年生の私の日記から・・・



←2歳の私。(左は、母)。
ファンタのジュースをコップに入れてもらって、やっと飲み物にありつけたみたい。

普通女の子の方が、早く喋るようになるというけれど、私は、その点、男の子みたいでした。
言葉が出るのが遅くて、まだ、言葉が出る前に、ピアノだけは、何の苦労もなく両手でさっさと弾き始めました。








1992年4月24日、当時20歳(大学2年生)の頃の私の日記から・・・

教職課程の紙を出した。Ⅰコマ目の岡部先生の教科教育法の授業は、大変面白い。
小さな子供に音楽を教える時は、こんなにも大変なことなんだなあと改めて感じた。
そして、一番大切な事は、音楽を趣味でやっている子も、プロを目指している子も同じように一流の最高の教育を行わなければいけないとおっしゃったとき私は、本当だなあと実感した。
何でも、最高のものを与えなくてはいけない。


平成30年11月18日(日)私にとって最愛の国となったオーストリア・・・(22歳の頃)



←ザルツブルグ、祝祭大劇場の前で。ザルツブルグ音楽祭が開かれている夏は、あちこちでいい音楽会を沢山聴けます。コレーギエンキルヒェでモーツァルトのレクイエムを聴いたときは、初めの音を聴いた瞬間に涙が後から後から、こみ上げてきて、どうしようもなかったです。

私の身体は、既に楽器だったんだ、自分の身体と一緒に音楽が鳴り響いている、そう感じました。(2008年8月23日撮影)








私の最終的な留学先は、オーストリアのウィーン国立音大ですが、実を言うと、行く前は、私にとって、ものすごく強い憧れがある国ではありませんでした。

この時点では、私のピアノを引き受けて下さる先生も決まっていませんでしたし、入試の5日前に、初めてウィーンに行き、ちょっと気軽に受けてこよう、くらいの軽い気持ちで、受けに行ったことが、力みすぎず、かえっていい結果につながったんだと思います。従って、オーストリアは、私にとって、結果的に、最愛の国となりました。

「食わず嫌い」という言葉がありますが、初めから、先入観を持って物事を見たり、とらえたりしないで、自分の目で見て、他人が言っていることが、本当にそうなのか、色々な意見に振り回されずに、自分の頭で考えて、自分で調べること、そして、自分の判断を信じること、どんな状況に置かれても、常に柔軟に縛られないよう自由で軽やかな心を持ち続けることが、大事なんだと少しずつ、私の殻が、脱げ始めたのもこの頃からでした。

ウィーンのドイツ語は、「ヴィーナリッシュ」と言って、独特のなまりがあって、とても柔らかいです。ウィーンフィルの響きのようにムジカーリッシュ(音楽的)で、とても柔らかく聴こえます。私は、ドイツに行く、と凝り固まっていた自分の最初の考えを、修正して、オーストリアに行って、本当に良かったと今でもずっと思っています。


平成30年11月17日(土)留学先の決め手は言語


←日本で、使っていた、ドイツ語のテキスト。















←ウィーンで使っていた、ドイツ語のテキスト。中級レベルに入ると、ものすごく難しいです。単語の数が、一挙に増えます。













留学先の決め手となるのは、やはり、言語だと思います。留学する、ということは、その国で、「生活する」ことであり、言葉が出来ないと、それだけで、大変な事故につながったり、人からだまされたり、色々なトラブルが起きると思ったので、日本にいる間に、ドイツ語だけは、しっかり勉強して準備していきました。


平成30年11月16日(金)留学先は、自分の頭で、色々と考え、熟慮して決めた


←ドイツ、ミッテンヴァルトの町は、カラフルなフレスコ画が沢山描かれた建物が多いです。

ヴァイオリン作りで、知られている町でもあります。ひっそりとした静かな街は、一度降りたら、忘れられない印象を残してくれる場所です。

沢山のヴァイオリンが幻想的に回る博物館もあります。(2008年8月20日撮影)。





















私が、ウィーンに初めて行った、1994年当初は、日本からの直行便はなく、成田から、いったん、モスクワで降ろされ、給油をして、そこから、ウィーンへ、再び、
飛びました。

モスクワの空港に降りたときに、空港内の「写真撮影禁止」の看板が出ていたり、私が今まで見てきたような他の国の空港では、感じられない、何となく、うら寂しい
独特の空気に包まれていました。
モスクワ音楽院は、世界最高峰だとは、思うけれど、私達の1994年頃は、まだ、外国人を受け入れてもらえるのは、奨学金を受けた交換留学生だけに限定されていて、難しい国なんだなと、思いました。

1994年当時は、ポーランドにしろ、ロシアにしろ、食料品や、日用品を手に入れることが難しいような国は、生活するのに困るだろうなと思い、そういった国を除いていくと、結果的に、ヨーロッパなら、日本人を沢山受け入れてくれている、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリアくらいを視野に入れて考えることにしました。

私が、「ドイツに行きたい」と話すと、周りの先生方からは、実にさまざまなご意見を頂きました。

ある先生は、「貴女は、フランスに向いている」と言われたり、「これからは、イギリスや、アメリカが発展していくから、英語圏に行きなさい」ともおっしゃられました。

イタリアは、私が大学4年生で、室内楽講座の授業を担当して下さった、岩崎淑先生が、キジアーナ音楽院のことについて、授業でお話しをして下さいました。

親指だけ、人差し指だけ、1本指だけを使って、なめらかな、レガートを作る音階の練習など。大学2年生の時、ダブリン国際コンクールを受けに行ったときに、イタリア人の子は、レガートが歌みたいに綺麗だったなあと思い出しながら、どこの国が一番自分にとって、住みやすいか、色々と自分の頭で、じっくり考えました・・・・。


平成30年11月11日(日)どこの国に行きたいのか?から探し始めた留学先


←ドイツのムルナウ周辺。父は、写真を見て、「めぐみは、何でこんな牛のいるような田舎に住みたかったんか?」と
不思議そうでした。
(2008年8月18日~28日)。


ムルナウや、プリーンは、ゲーテインスティテュート(ドイツ語学校)があり、私が、行きたかった場所の候補に
上がっていた場所でしたが、静かで、風景があまりにも美しいと、かえって、ホームシックになるというのを読んで、そうか、と思い、やめました。

留学の準備は、まず、自分がどこの国に行きたいのかから、探し始めました。

私が、学生時代、よく読んでいたのは、その当時、「ショパン」の雑誌に載っていた、あちこちからのヨーロッパ便りです。

オーストリアのウィーン国立音大については、今井顕先生(私が行っていた頃、客員教授をされていた)

同じく、オーストリアのグラーツ音大については、李清先生、フィンランドのシベリウスアカデミーは、館野泉先生、ポーランドのワルシャワ音楽院は、高橋多佳子先生などの手記を貪るようにして読みました。

私は、初め、ショパンがとても好きなので、ショパンの生まれた国ポーランドもいいなあと思っていました、が、その当時は、1つのお肉を買うのに、何時間も並んで、(コルシカという行列)のことだそうですが、配給制になっていると聞いて、住みにくい国なんだなと思い、やめました。

ロシアもすごく興味がありました。私の好きなラフマニノフや、チャイコフスキー、スクリャービン、メトネルを生んだ国ですし、私の好きなピアニスト、バレエダンサーのほとんどが、ロシア人だということもあり、どんな素晴らしい教育がなされているのか見てみたかったのです。


平成30年11月10日(土)私の留学準備を振りかえって・・・


←レッスンに来た生徒さん達に、電池を入れてパン職人が、
パン焼きかまどに入れる様子を見せてあげると、
子供達は勿論、大人の方も、とっても喜びます。

レッスンに来られる方達に、少しでも、ヨーロッパの雰囲気を味わって頂ければと、クリスマス時期のベルギーに行った際、見つけてきました。
←上の置物が、暗くするとこんな感じになります。






私が、留学したいと思い始めたのは、アンデルセンやグリムの童話、アルプスの少女ハイジが大好きだった、幼い頃でした。

音楽高校生になって、第2外国語をドイツ語にしたとき、私が将来行くところは、「ドイツ」と勝手に決めていました。そのころから、ありとあらゆる留学された方の本を
読み、どうやって、事を運ぶのか、いつもアンテナを張り巡らせていました。が、そう簡単に、物事は、順調には進みませんでした。

大学3年生頃になってくると、自分の将来が、現実的に見え始めてきます。私が、実際に、留学準備に取り掛かり始めたのは、大学4年生の頃でしたが、準備を進めていく段階で、こんなに留学するということが、大変で、難しいことだとは、思ってもみませんでした。それと同時に、今まで、留学されてきた方達の、本人も、その周囲を取り囲む御家族の苦労も、身に沁みてよくわかりました。

ありとあらゆる留学記を読んで、特に、印象に残っているのは、坂井千春先生がベルギーのブリュッセル音楽院に留学されたときの様子が書かれたお母様の手記でした。
「留学させる年齢はもう子供ではないのだし・・・と、思ってはみても、子供じゃないからこそ、親としては心配だ、大人になっているからこそ、留学させることは、尚更、心配でした・・・」。とあり、なるほどな、と共感したものでした・・・。

準備の進め方は人それぞれで、どれが良くてどれが悪いということは、ないと思います。私の体験を振り返って書いていきます。これから留学したい方達へ私の体験が、何かのきっかけとなっていただければ、幸いです。


平成30年11月9日(金)ウィーン国立音大のこと(1994年~1998年時代)


←ザルツブルグミラベル宮殿と庭園。ザルツブルグは、晴れの日が少ないから、たまに晴れるとその美しさは、格別です。(2008年8月18日~28日撮影)。











ウィーン国立音大は、日本の音大のように4年間在籍していれば、どんな人でも卒業出来るという仕組みではありません。ヨーロッパ各地から留学してくる子は、16歳くらいの比較的若い子が来ていましたね。韓国や、中国の15歳、16歳くらいの子などは、すごく熱心で、お母さんと一緒に留学している子達も結構いました。

ヨーロッパの先生もどこの国の先生もそうだと思いますが、若い年齢の子を欲しがりますね。ウィーン国立音楽大学も私達の時代は、入試の時に、22歳までがギリギリ最高年齢でした。

日本の人達は、日本の音大を卒業してから来ている人が多いと思います。

日本で、取得した授業の単位は、振り替えることが出来ます。が、これも人それぞれで、特別に優秀だと思われれば、早く、免除にしてもらえたりします。授業の単位が取得出来て、ピアノの試験の準備が整えば、いつでも卒業試験(冬なら1月、夏なら6月)が好きな時に受けられます。
(以上の話は、私達がいた1994年~1998年時代の話で、今は、随分制度が変わってきていると思います)。


平成30年11月6日(火)ピアノと共に歩んだ道のり・・・小学1年生当時の私の日記から  ベラ・シキ先生と播本先生との運命の出会い


←1978年10月19日(木)はれ 小学1年生当時の頃の私の日記。

「今日は、ベラ・シキ先生とふくだ先生がわたしのために、とおいとこから私のレッスンのためにわざわざきてくれました。そして、ベラ・シキ先生は、かぜをひいたのでピルのくすりをのんでいました」。



























←PTNAの機関誌掲載。左側、播本枝未子先生、真ん中小学1年生の私、右がベラ・シキ教授に見つめられて、完全に固まっている私・・・。

岩野めぐみさん宅で、レッスン、とありますが、正しくは、播本先生のお宅です。この時、通訳をして下さったのが、播本先生でした。









※私が小学1年生の7歳になったばかりの10月19日、PTNAの福田先生が、「ベラ・シキ先生がいらっしゃり、めぐみちゃんの家でレッスンをしますから、今から行きますよ!」。と突然お電話を頂きました。我が家は、大慌てになりました。その当時の我が家には、アップライトピアノしかなく、世界的にご高名なジュネーブ音楽院の教授でもある、ベラ・シキ先生が、遠いスイスから私の家にいらっしゃるというのだから、当然です。

福田先生は、「えっ!?グランドピアノがない?それは、失礼ね~!じゃ、播本先生のお宅で、レッスンしましょ」。となりました。
この時が、正に、一生の恩師となる播本先生との運命の出会いです。

失礼なことに、まるきり、音楽の世界に無知な、母も私も、播本先生の事を、レッスンが終わるまで、通訳者の方と思っていました。

ベラ・シキ先生に見ていただいた曲は、ディアベリのソナチネOp.151-1全楽章、バッハのメヌエット、ポロネーズなどでしたが、メヌエットについて、大きなドレスを着て踊るのだから、そんなに早く踊れませんよ、とご注意を頂いたことは、今でも憶えています。

ベラ・シキ先生や、福田先生をお迎えするのに、父は、湯の山にある、会社の寮の一室を予約して、先生方をお迎えし、皆さんで「すきやき」をお召し上がりいただいたのですが、
お化けがでそうな、薄暗いお部屋で、美味しくもなく、今、考えると、穴があったら、入りたいほど、先生方に恥ずかしいことばかりしてきたね、と両親は、話しています。

ベラ・シキ先生は、私が中学3年生の時もPTNAの本部のある巣鴨の東音ホールにいらして下さり、その時は、ラヴェルの「オンディーヌ」を見て頂きました。
PTNAのG級の全国大会を控えていたころで、その時も、播本先生が通訳をして下さいました。

福田先生とベラ・シキ先生と播本先生との運命的な出会い・・・そこから、私の「ピアノの道」は、始まりました。私の意志とは、関係なしに、すでに、小学1年生の頃は、「ピアノの道」へのレールが敷かれていました。

正直に言うと、私が、やりたい、というよりも、「ピアノの道」から、引っ張られました。
私のミッション(使命)なんだな・・・昔も今もずっとそう思っています。


平成30年11月5日(月)ピアノと共に歩んだ道のり・・・・当時小学1年生の頃、PTNAを創立された(故)福田靖子先生が私に下さったメッセージ


←ピティナ・ピアノコンペティションを創立された、(故)福田靖子先生が、三重の私の家にいらして下さり、当時小学1年生の私に下さったメッセージです。

1978年12月17日(日)

今日は、とつぜん四日市に来て、めぐみさんにおあいでき、とってもうれしかったです。
せんせいが、小学校1年生の時は、どんなだったかなあと思いながら、この日記を見せていただきました。
めぐみさんは、ピアノもお上手ですが、文章もたいへんにお上手なので 本当に感心して読みました。

コンクールで一番をとっておめでとう。これは、あなたがえらいから一番をとったのではなくて、お父さまやお母さま、そして播本先生のおかげで、一番になれたのですからお父さま、お母さまそして先生がたに、心から感謝しましょう。
そして、ピアノをお上手に弾きたくたって、弾くことのできない人だっている中に、めぐみさんは、お上手にひける才能を神様からいただいたのですから、神様に感謝しましょう。

そして その感謝の気持ちをあらわすために、一生けんめい努力をして下さい。

また、ピアノをきかせて下さいね。急いで書いたので、よく書けませんでした。

                                福田靖子


※ピティナ創立当初、福田先生は、「どこの地域へ行っても、レヴェルの差がないように、素晴らしいピアノ指導者、生徒を育てていきたい」という強い情熱を持っておられ、全国各地を訪問されていらっしゃいました。

私は、人見知りが大変に強く、心配した母が、福田先生に、私の心の中を知っていただくために、私の家にいらしていただいたときに、日記を見て頂いたのでした。

福田先生は、一言も物を話さない私の事をとても理解して下さり、ほめて下さいました。物を話さない子供は、
心の中で思っていることが沢山あっても、周りの人達に理解されにくいので、淋しい思いを常に抱えていた私は、福田先生にとても慰められました。
                                 現在、PTNAの審査をさせて頂いて、全国各地を回ると、ピアノ学習者のレヴェルの差が昔に比べてなくなり
素晴らしい演奏に触れるたびに、福田先生の強い情熱が、形になったんだなあと感慨深いです。

現在の素晴らしいPTNAを見て、天国から、さぞお喜びになっていらっしゃることと思います。





















平成30年11月4日(日)はじめのいっぽ


←今月の11月25日(日)14:00開演岡崎市シビックセンターコンサートホール「コロネット」で、ピティナ・ピアノコンペティション入賞者コンサート
第14回「はじめのいっぽ」のコンサートが開催されます。


門下生の中から、小学2年生の島珠結さんが、湯山昭作曲 お菓子の世界より「ポップコーン」を演奏致します。

ご興味のある方は、是非応援に行ってあげてください!

(写真上から2段目、右から3番目が、珠結さんです。第2部6番目に演奏致します。)















平成30年11月3日(土・祝)門下生の活躍


←来年2019年1月20日(日)14:00開演 ANNEX HITOMI ホールで、ジョイントリサイタルがあり、

門下生の川地咲由里さんが、演奏されます。


咲由里さんは、ソロで、シューマンのクライスレリアーナ、ヴィオラの伴奏で、ブラームスのソナタ1番など、演奏されます。ご興味のある方は、応援に行ってあげてください!


咲由里さんは、現在、東京藝大の4年在学中で、つい先日、大学院に合格されました。おめでとうございます!













←小学2年生の頃の咲由里さん。初めて、出演した第3回門下生コンサートで、「青い目をしたウサギのかなしみ」を演奏していたことが、つい、昨日のことのように感じます。

(2005年1月9日撮影。千種文化小劇場で。)

他の生徒さん達も、皆さん、補助ペダルを使っていたころの写真も全部とってあります。

生徒の皆さんの幼い頃から、成人しても今もなお、交流が続いていることをとてもうれしく思います。
たまに、取り出して見ると、全員、私の子供みたいで、本当に可愛いです。

生徒の皆さんのお幸せをいつもお祈りしています。




平成30年11月1日(木)袖振り合うも多生の縁

今日、大人の生徒さんが、レッスンに見えたときに、私が小学5年生の時に、アシュケナージのリサイタルに金山の市民会館に行った時の日記を読んで、
「実は、私も、その時、聴きに行っていたんです!大学4年生だったから、その時、近くに小学5年生だった先生もいらっしゃったんですね!」と教えて下さいました。
その方は、私の日記にちゃんと何月何日まで、書いてあるから、びっくりです、とおっしゃられ、私は、「これが、その当時の日記ですよ」。と見せてさしあげると、「うわ~、よくとってありますね!だから、年月日まで、わかるんですね!」。と驚かれていました。
その生徒さんは、アシュケナージが、最後のアンコールにラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌが、本当に美しくて、心に残った、と話されていました。さすが、大学4年生ですね!その当時、小学5年生の私は、多分、アンコールの時は、「帰りに何か、美味しい物食べて帰れるかな?」とか、間抜けな事を考えていたと思うのですが(笑)。

又、「今、新鋭ピアニスト」の欄に掲載されているショパンの雑誌の記事の日記を見て、「私が、小学生の頃、ショパンの雑誌を見ていて、そこに、先生が掲載されていました」と言ってくださる大人の生徒さんや、他にも、私の日記をコピーして下さっている、という方々など、皆さんが、私の日記をすごく楽しみに読んで下さっているのを聞くと、とても嬉しいです!写真や、日記、手紙など、おびただしい数の文章が残されているので、机の中にしまっておかないで、断捨離する前に!(笑)
皆さんと分かち合う方が楽しい!と単純に思いました。

「袖振り合うも多生の縁」ということわざがあります。気が付かないだけで、私達は、見知らぬ人同士でも、見えない絆で、つながりがあり、その中でも、家族や、
ピアノの先生、友人となった人とは、よほど深い縁があった人に間違いありません。
私が、生徒さん達を教える立場になって、改めて、自分の若い頃は、どんな気持ちで、どんな考えを持って、ピアノに取り組んでいたか、忘れていたことも、記憶がよみがえります。特にこれといって、珍しい日記でもありませんが、私が辿ってきた「ピアノの道」を皆さんに楽しんでいただければ、幸いです。

←幼稚園、小学生、高校、大学時代の7年間の私の日記帳です。













←ウィーン留学時代の日記。













←ウィーン留学時代に、交わした、私と母、父の手紙や、航空書簡、FAXです。

一生かかっても書きつくせないほどの量の手紙です。










今は、生徒さん達からのお手紙など全部保管してあります。10年後、20年後、の生徒さん達の将来がとても楽しみです。