平成30年10月31日(水)ウィーン留学時代の私の手紙から・・・(1994年~1998年時代)若者たちの、教会離れ


←ドイツ、ライプツィッヒ。バッハや、シューマン、メンデルスゾーンなどが、活躍した街です。

(2011年12月21日撮影)











1994年11月15日、ウィーン留学中、23歳当時、母へ送った私の手紙から・・・

「日本は、航空書簡なんていいものがあっていいですね。ウィーンにもあるのかしら?ウィーンは、3日前ごろから、朝はマイナス何度、日中は、0度といったように急に寒くなりました。2日間、ペーターエフラー先生のマスタークラスへ行ってきました。場所は、シェーンベルクザールというところで、私の友人の家の近くにあって、マンションのような建物の中にちょっとしたホールがあります。そこに、椅子が、一杯並べてあって、ベーゼンドルファーのピアノが2台、置いてあります。壁に大きな大昔の絵画が飾ってあって、響きもなかなか良いところでした。
ウィーン国立音大の先生方は、全ていらして、ミヒャエル・クリスト先生、ヴァッツィンガー先生、ペーターマンドル先生、勿論、ケラー先生ご夫妻も朝から、聴いていらっしゃいました。
日曜日は、シュテファン寺院の中で、ミサをやっていたので、友人と、グレゴリア聖歌を聴きました。パイプオルガンが、響き渡り、朝10時に鐘がすごい音を立てると、人々が、ぞろぞろ入っていき、ミサが始まります。パイプオルガンを弾く人もいて、グレゴリア聖歌は、私にとって、桐朋のソルフェージュでしか、接したことがないけれど、こちらの人は、ごく、自然な音楽なのでしょうね。皆さん、歌っていました。赤ちゃんや、小さな子供もいて、日曜日は、こうやって、家族一緒にミサに出かけるみたいですね」。


※ここ最近は、若者たちの教会離れが目立ち、ミサに出かけるのは、比較的、年配の方々だということです。
いくら、古き良き時代のヨーロッパと言っても、時代と共に、常に変わり続けています。つい最近、行った、フィンランドも若者たちは、皆、スマホを見つめており、
教会に行って、厳かな気持ちになることより、スマホの方が楽しいのでしょうね。私は、教会で、静かな気持ちになるのが好きです。そういった、ウィーンの古き良き時代を感じさせる、静かなところが私は好きなので、時代が進んでも、ずっとそういった静かな街であり続けてほしいなと思います。


平成30年10月28日(日)ピアノと共に歩んだ道のり・・・小学4年生当時の私の日記から・・・(写真は、おままごとをして遊んでいる5歳の私)


←「はい、いまから、ごはんたべましょうね~」5歳の頃の私。自宅のお庭で、おままごとをしています。
現代の子供達は、こういう遊びをしているのかな?あまり、見かけないですね。











小学4年生当時の私の日記から・・・

1981年9月30日(水)晴れのち雨

今日は、ソルフェージュに行った。わおんは、まあまあとれた。リズムのあんきは、もうおぼえられないと思ったが、さいご、ギリギリおぼえた。
わたしは、ソルフェージュの先生がとてもすきだ。
だって、せいかくが、やさしくて、おとなしいし、まちがえても、「ここは、よくできましたね」といい所をほめてくださるからだ。
せんりつでも、リズムのあんきでも、わおんでもいっしょうけんめいやれば、できるんだなと思った。


担任の先生からのコメントより・・・

な~るほど。よく考えればそうだ。自分のよくないところばかり、注意されたのでは、だれでもいやになってしまう。うまくほめるということは、先生という
仕事では、大切なことなんだなあ。
ボクも先生をしていて、ほめることが大切だ!と思うんだけど、これは、なかなかむずかしい。いいかげんにほめたのでは、おせじと同じだし。
その子が、よくなってほしいのだから、ほめるのもしんけん勝負だと思うのです。
しかし、しかし、しかし・・・・・。
ボクも人間で、まだまだ、一人前になれないので、ついつい頭にきて、どなる。
「コラーッ!!」
そして、あとでこうかいする。
ボクも岩野のソルフェージュの先生のようなほめ方が、だんだんできるようになりたいな。
がんばろう。



平成30年10月27日(土)ピアノと共に歩んだ道のり・・・・「やり残したことが何1つない47年間」


←写真は、1998年3月1日、26歳当時の私。三重の自宅のレッスン室で。
1999年の4月、27歳から、明和高校で教え始めました。勤めさせて頂いて、約20年にもなります。











若い頃は、自分には、どのくらいの力があるのかどうか、力の限り、試してみることが大切だといつも思い、1つ1つハードルを乗り越えてきました。
誰しもそうだと思いますが、物事は、順調には、進みません。私も例外なく、全てが八方ふさがりで、行き詰ってしまい、どうやって、進んでいいかもわからない道も
数えきれないほど、ありました、これからもあるでしょう、が、そんなとき悩みつつも、決して、「歩みを止めない」ということが、きっと今の壁を打ち破れるポイントだということを体験上、身を持って知り、それがいつしか、私の習慣となっていきました。

47年間、ピアノの道を歩き続けて、1つだけ確信を持って言えるのは、私には、今までに、「後悔した」という思いが何1つない、ということ。
後悔しようにも、自分の可能性は、全て試し、やってきたことが多すぎるので、後悔したくても出来ないのです。

貧しい時代を必死で生き抜いてきた両親は、若い時代にやり残した後悔が一杯あって、私に、いつも「後悔しないよう、今を精一杯生きなさい」と教えられてきました。

毎日、言われ続けた、両親の教訓も生かし、自分の出来る限りの力を尽くして、それでも上手くいかなかったのなら、仕方がない、いつもそう思っています。

今あるものは、全て消えていくもの、ずっとないものとして、私は、何事もとらえています。だからこそ、今あるものを大切にして、慈しみ、愛情をかけて、生徒さん達を育てていき、私自身も命ある限り、ピアノに限らず、まだまだ、未知な部分を皆さんに、教えて頂き、手を引かれつつ、自分だけに与えられたかけがえのないこの道を、一歩一歩踏みしめながら、これからも淡々と歩いていきたいです。


平成30年10月25日(木)ピアノと共に歩んだ道のり・・・(1994年~1998年時代)22歳当時


←ドイツ、ミュンヘンのマリエンプラッツ(マリエン広場)にある、ラートハウス(新市庁舎)。ミュンヘンに来た人なら、必ず、通る場所です。(2008年8月撮影)





















1994年12月20日、ミュンヘン国立音大のミヒャエル・シェーファー教授が私に下さった、祝福のお手紙。

親愛なるメグミへ


「ウィーンからの、貴女からのお手紙、心から有難う。
私は、貴女が、ウィーン国立音大の入試に合格したこと、そして、ウィーンで勉強出来ることをとてもうれしく思っています。
ウィーンは、素晴らしく美しい街ですし、沢山の古い物、ヨーロッパの文化があり、貴女がそんな素晴らしい場所で、生活し、勉強できることは、とても楽しいことでしょう。
ウィーンでの喜ばしいクリスマスと、新年を迎えて下さい。  ミヒャエル・シェーファー」


*ミュンヘンで、お世話になったシェーファー先生に、バッハの平均律2巻の9番を見て頂いたとき、「どんな曲だと思って、貴女は弾いていますか?」と尋ねられ、「天使が歌っている感じ」と答えると、「貴女のは、御飯を食べさせてもらっていない天使みたいだよ」と笑われたのを今でもよく記憶しています。


平成30年10月24日(水)昨日の続き



←ウィーン、ベルヴェデーレ宮殿からの眺め。ベルヴェデーレには、ピアノもあり、美しい庭園を眺めながら、コンサートを聴くことが出来ます。シェーンブルン宮殿のグロリエッテから見下ろす眺めもとてもきれいですが、
ウィーンの街並みが一番きれいに見えるということで、ベルヴェデーレからの眺めを好きな人は多いですね。

(写真は、1995年9月、23歳当時の私です。)


ウィーン留学中、両親に宛てた23歳当時の私の手紙から・・・・昨日の続き

「・・・・スウェーデン人の子や、イタリア人の子や、ヨーロッパの子は、宿題もしないし、勉強もしないのに、
ペラペラしゃべれるんです。やっぱり、彼らは、ドイツ語の言語に近いからでしょうか?彼らに比べて、日本語は、どうしようもない程、言葉が、全く違うので、ハンディを初めから抱えています。

でも、一通りの文法、前置詞、形容詞の語尾変化、受動態、現在完了、過去、未来形、関係代名詞、ドイツ語で、最大の難関といわれる、接続法Ⅰ式、Ⅱ式、間接話法、要求話法、非現実話法と
いったさまざまな文法をマスターしました。
スウェーデンの子が10分で解けてしまうのでも、私には、1時間以上かかってしまいます。
でも、1時間かかったって、2時間かかったって、何時間かかろうと、行きつく先は同じなのですから、とにかく
私の出来る限り、頑張りました。
私は、ピアノにしても、ドイツ語にしても、自分自身に対して、負けたくないのです。それには、人の何10倍も頑張るしかありません。
毎日、勉強に打ち込めて、安心して暮らせるのも、お父さんとお母さんのおかげです。2、3日休養して、又、精一杯勉強して充実した素晴らしい留学生活を送りたいと思います。めぐみより」


平成30年10月23日(火)ウィーン留学中、両親へ宛てた手紙から・・・(1994年~1998年時代)23歳当時


←ウィーン中央墓地。モーツァルトの記念碑の前で。左奥が、ベートーヴェン、ここには写っていませんが、右にシューベルトのお墓があります。
モーツァルトはどこに、埋葬されたかもわからないなんて、ちょっと可哀そうな気もしますが、音楽が残っていますからね・・・

(写真は1994年11月。23歳当時)。

ウィーン留学中、両親へ宛てた23歳当時の私の手紙から・・・1995年6月2日

「お父さん、お母さんへ

今、クラスアーベントから、帰って、夜10:30です。
疲れた1日でしたが、素敵な1日でした。ドビュッシーの映像2集の本番、きれいに弾けて自分でも満足しています。
ケラー先生も、「ゼア シェーン!ブラーフ!(とても美しかった、素晴らしかったよ!)」と言ってくださって、奥様も、
「いつも主人が、本当にあなたは、勉強家だということを言っていて、喜んでいるのよ。本当に綺麗に弾けたわね」ととてもほめて下さいました。
同じ門下のクレメンスも「ゼア シェーン!イッヒ ヴァール フィーレ トゥロイメ!「とってもきれいだったね、ボクは夢を見せてもらったよ」と声をかけてくれました。

今、私は、ゲーテ(語学学校)が終わって本当にほっとしています。考えてみたら、4月と5月の間、1日10時間は、ドイツ語を勉強しました・・・」。


平成30年10月21日(日)皆さん、全国大会へ

昨日、今日と、コンクールがあれこれあり、先日は、日本クラシック音楽コンクール、昨日は、べーテン音楽コンクール、今日は、ヨーロッパ国際ピアノコンクールin
JAPANの本選がありました。

明和高校3年生、高校2年生、中学3年生、小学6年生の生徒さん達、全員、全国大会へ、進みます。おめでとうございます!(詳細は、門下生の活動をご覧ください)。


平成30年10月19日(金)47回目の誕生日



今日は、私の誕生日でした。47歳になりました。皆さんから、色々とカードや、プレゼントを頂いて、とても嬉しかったです!

父は、誰が読んでも、親バカ丸出し(笑)の内容の文章を書き綴って私にくれました。私が生まれた47年前の今日の日の、午後3時4分、私が両腕にはめていた腕輪を取っておいてくれて、朝起きると、「めぐみ、47歳おめでとう」とその腕輪を渡してくれました。

3歳から、ピアノに向かい、ず~っと44年間の間、山あり、谷あり、色んな体験をしてきましたが、ピアノを通して、出会えた、先生方や、可愛い生徒さん達と共に、歩んだこれまでの道のりは、実に彩り豊かな実り多い人生でした。実り多いということは、沢山の喜びがある反面、苦しみも挫折も人一倍体験してきたということです。人生体験は一応全て体験したというのが、還暦(60歳)という歳なのだそうですが、今まで生きてきた年数よりも、はるかに短い13年間で、60歳になるのだなあと思うと、まだまだ、どんな嬉しいことが、又、悲しいことが、待ち構えているのかと、ドキドキ、ワクワクしています。

辛い最中は、どこかで、それを楽しむ気持ちを持っていると、きっと又、楽しいいいことが沢山ある、と思えます。
まだまだ、これからも、ピアノと共に、私の道を歩いていきます。皆さん、いつもありがとうございます。


平成30年10月16日(火)一足先にお祝いしてもらって・・・


今日は、明和高校3年生の生徒さん達が、私の誕生日を一足先にお祝いして下さいました!すごく嬉しかったです!

アンドレ・ギャニオンの「めぐりあい」をお礼に弾きました。

人は、皆、生きている間に色んな人に出会います。私は、人との出会いは、必ず、何か成長するために必要な自分へのメッセージだといつしか人とのめぐり逢いをそう感じるようになりました。

毎年のことながら、それぞれの生徒さん達との想い出は、とても多く、全てが、私の心に大切に刻まれています。

生徒さん達全員、本当に可愛いです。いい生徒さん達に恵まれて、皆さんに出会えたことを幸せに思います。







平成30年10月14日(日)1981年当時小学4年生の私の日記から・・・もっと時間がほしい


←1981年12月2日(木)晴れ、小学4年生当時の私の日記から・・・

「もっと時間がほしい。学校から帰ると、しゅくだい、日記、ピアノ、夕はん、勉強、ピアノ、おふろにはいっていると、もう夜中の12時になってしまう。
なにか、時間がわたしのせなかをおしているみたいだ。
1回も休むひまなんてない。
毎日、夜中の1時ごろねる。
あそぶ、といったら、おふろの中ぐらいだ。
一番らくな時は、ねるときだけだ。
いつもふとんの中で、本を見る。
もっと休みがあったらなあといつも思う。
そして、1日が48時間あればいいなあといつもいつも思う」。


担任の先生からのコメントより・・・

「なんとも、いいようがないね。ボクと同じころにねてるんだね。
岩野の場合、大きなものは、ピアノですね。これは、どうしても、ある程度、毎日、時間をとらないと指がさびついてしまう。
日記としゅくだいですね。もんだいは、今のところ、日記に力を入れなくても、かけるとき、かきたいときに、かいていったら、どうです?
勉強って、かいてあるのは、テストのことかな。それなら、あんまりむりしないこと、学校でも時間とるから。
体をこわすことが一番いかんことです」。


※小学4年生の頃は、男の先生が、担任だったので、苗字呼び捨てです。(笑)


平成30年10月13日(土)ウィーン留学時代の日記から・・・(1994年~1998年時代)


←ドイツ、ローテンブルクの街並み。(2012年8月23日撮影)

ローテンブルクは、22歳で、大学卒業してすぐ、ミュンヘンを訪れた際に、行きました。ドイツが一番美しい季節の5月で、中世の街並みそのものといった印象でした。

2回目は、又、異なる印象を持ちました。同じ場所でも、若い頃、訪れたときと、歳を重ねて又、再び同じ場所へ行くと違って見えます。これは、街が変わったのではなく、私の「心」自体が日々変わり、成長し続けているからです。
物事を冷静にありのままに、とらえられるようになっていくことが、成長するということなのだと思います。






1997年11月6日、当時26歳当時のウィーン日記から・・・

レッスンが、朝10時からだったので、ロートリンガーに行ったら、ベートーヴェンソナタOp.109の1楽章、アナリーゼだけで、終わった。ショパンのエチュードOp.10-9も弾いた。このベートーヴェンは、大変難しいが、ケラー先生が、この前、この曲がどんな形になっているか、私に説明してくださいと言われたので、私は、「秋の落日で絶望的なところや、慰めや、希望が含まれている気持ち」と言ったら、先生は、「もちろんそういう気持ちだけど、気持ちだけでなく、細かいところまでアナリーゼするのです」とおっしゃられた。

ケラー先生は、「新しい曲を始める時、いつも次のようなことをよく考えます。
どこが、提示部、展開部、再現部か、何か、特別なところ、見慣れないところはないか、強弱(なぜ、フオルテ、ピアノ)となるのか、リズム(どうして、パウゼ(休み)が書かれているか、1フレーズは、どこからどこまでか(その中のヘーエプンクト(頂点)は、どこか)、全体のクライマックスはどこか、一番、重さがかかるクライマックスは?
アウフタクトで、始まっているか、普通に始まっているか、拍子は?テーマの変奏になっていないか?ハーモニーを考えて、トニカ、ドミナント、サブドミナント、協和音、不協和音、減7の和音、など。
ペダルの使い方、どこがメロデイか、左にメロデイが来ているか、右にメロデイが来ているか、前のフレーズと似ているか、全く違うものがきているか、などをよく考えるのです」。と言われた。練習方法は、初めは、1.全くリズム、テンポ通り、2.バランス、音色、3.そして自由に弾いていく、これを段々とテンポにしていく。
練習の間、絶対に!機械的にならないように気をつける。

平成30年10月12日(金)ピアノと共に歩んだ道のり・・・1982年当時小学5年生の私の日記から・・・アシュケナージの演奏


1982年5月12日(水)三重に住んでいた小学5年生当時の私の日記から・・・

「今の時こく。何と、夜の11時。
今日は、6時半から、名古屋の金山の市民かいかんで、ピアニストで有名なアシュケナージがリサイタルをやるので4時ごろ家をでていったのです。
アシュケナージって、とても音をていねいにひびかせて、音楽の世界の中にはいってひいているようでした。
あいにく、わたしとお母さんは、一番高い4かいから、見下ろして聞いていたのですが、ちっちゃーな音でも、
とても音がのびて、きれいな音で、ステキでした。ソルフェージュの先生が、いらっしゃっていて、四日市駅から、わたしの家まで、車で送ってもらいました」。



担任の先生からのコメントより・・・

めぐみさんは、ピアノの勉強をしているから、聞き方もちがうのですね。アシュケナージが音をていねいにひびかせるのと同じように、ていねいに聞けるのですね。

*私の日記は、幼稚園生、小学生、中学生、高校生、大学生、留学時代、そして、現在も、ずっと書き続けていますが、特に小学生時代、担任の先生が、書いて下さった、コメントが、すごく嬉しかったのをよく覚えています。又、現在、自分が、生徒達にコメントを書く立場になり、改めて、今、お世話になった先生方のコメントを読み返すと、あらゆる点で、勉強になります。それと同時に、「人を導き、大切に育てていく」ことの責任の重さをひしひしと感じています。幼い私が毎日毎日書く日記の一つ一つに目を通して、精一杯のコメントを書いて下さった、担任の先生方には、頭が下がるばかりです。
又、こういった、私の日記、手紙などの全てを、捨てずに大切に保存しておいてくれた母に対しても、感謝の気持ちで一杯です。

ちなみに、アシュケナージは、この時、ベートーヴェンのソナタ31番、32番、ショパン2つのノクターン7番、8番、ソナタ3番を演奏されました。


平成30年10月11日(木)ピアノと共に歩んだ道のり・・・・1983年当時小学5年生の私の日記から・・・


←4年間の留学を終えて、ピアノ運送屋さんが来ている時です。ウィーンの私のヴォーヌング(マンション)から、午前9時に、ピアノがさようなら、と出ていきます。(1998年6月22日(月)撮影)

日本だと、大切に大切に、分厚いマットにくるまれて、梱包されて、運送されますが、あちらは、とても簡単。ローラースケートの大きな板のようなものに丸裸のピアノを載せて、さささ~っと出ていきました。見ていると、
ちょっとこわい(冷汗)・・・・・。








1983年3月13日(日)雨、三重にいた当時の小学5年生の私の日記から・・・・

「ピアノのレッスンの帰り、近くの本屋さんによった。どれにしようか、と思っていたら、良さそうなのがあったので、これに決めた。
「十五さいの絶唱」という本だ。骨肉腫という、千人に1人くらいかかる難病で亡くなられた、川畑朋子さんという人が15年間生き続けたときの実際の日記だった。
いつも、ねて日記を書いている。だけど、1日も日記をかかしたことがない。
この川畑さんの日記の中で、わたしが、いちばんきにいっていることばは、

たとえ生活が
君をあざむいても
悲しんだり
おこったりしては
いけない
悲しみの日をたえしのべば
いつか喜びの日がおとずれる
心は未来に生きるもの
今はいつも悲しいもの
やがてすべてはつかの間に過ぎ、
去ったものはなつかしくなる


というのだ。この言葉を何回も読んでみた。わたしも日記を書いているけど、この川畑さんみたいに心を打たれる文ではないと思った。
とても短い文章だが、どこかが、心を打たれる、本当に素晴らしいと思う。
わたしもこの人のように、今は亡くなられたけど、心がやさしくすみきった、それでいて、強くなろうと決心した。
何よりも、力強く生きる、やさしく生きる、明るく生きる、この3つがこの本から、教えられました。
これからも、毎日、日記を書き続けようと思いました。


担任の先生からのコメントより・・・・

すばらしい本にめぐり会えてよかったね。


平成30年10月10日(水)ピアノフェスティバル2019アドバイスレッスンのご案内


←2019年1月12日(土)第一楽器植田店3Fホールで、ピアノフェスティバル2019アドバイスレッスンがあります。

私は、1月12日(土)を、担当させて頂きます。


申込受付開始は、12月5日(水)午前10:00~です。

このアドバイスレッスンは、「ピアノフェスティバル2019植田店大会」へお申仕込み済みの方のみの受付とさせていただきます。定員となり次第、受付終了とさせていただきます。(8名様まで)

お申込み・お問い合わせは・・・

第一楽器 植田店 TEL 052-803-2515
名古屋市天白区上田西3-1120 月曜定休(10:00~18:30)

受講者の皆さんにお目にかかれますことを、楽しみにしています!

←この中にろうそくを灯して、小さい窓から、オレンジ色の明かりが灯るのを見るのが私は、大好きです。

レッスンを待っている生徒さん達も、好きみたいで、
この窓の中に何があるのかな?と一生懸命覗き込んでいます。

レッスン室から聴こえてくるピアノの音と共に、
ゲミュートリッヒな(居心地の良い)空間を感じているのだと思います。




















平成30年10月8日(月・祝)ウィーン留学中の父からの手紙(1994年~1998年時代)   今日1日無事に暮らすことは、とてもむつかしい


←イギリス、ロンドンのバッキンガム宮殿。(2013年9月21日撮影)

一般的に、イギリスの食べ物は、美味しくないと言われますけど、とっても美味しいです。

色々めぐってみた中で、食事が一番美味しかった国は、1位ポーランド、2位イギリスです。
オーストリアやドイツの食事もすごく美味しいです。ヨーロッパの食事には、私が大好きな野菜や、果物が一杯あって
日本は、少ないから、その点が、いいなあと思います。ニンジン、ジャガイモ、キャベツ、キュウリ、レタス、トマトなどのそのまま素材を生かしただけのゆでた野菜、しかも味付けのない、そういうのが嫌いな人は、ヨーロッパの食事は、ちょっと苦手・・・と思う人は多いと思います。

家族で大笑いになるのですが、込み入った料理をしない家庭ですので、うちは、ヨーロッパの食事そのものだね、うちも美味しくないけど、イギリスは、うちよりもっとひどいかどうか、
よし!比べてみようではないの!と確かめてみたら、全く!やはり、うちよりずっとイギリスの食事の方が美味しかったです。普段貧しい生活をしていますので、どんな場所へ行っても、好き嫌いなく何でも食べられることだけが、私の取り柄です!(笑)
1995年3月23日、23歳当時、ウィーン留学中、父がくれた手紙から・・・

「めぐみは元気かい?こちらも皆元気だから、全く心配しないでいいよ。めぐみの航空書簡、お母さんが、読んだあとから、時々、見せてくれるのを見ると、最近寒いとか、異国で1人でいるとなおさら、寒く感じるだろうけど風邪などひかないように、病気だけは気を付けなさい。
神戸の地震の時も、今回のサリン(地下鉄サリン事件という)で、亡くなった方の中には、多くの若い人がいる。
これから、自分の夢や、可能性を試そうとしている人にとって本当に気の毒だと思う。
今日1日無事に暮らすことが本当に大事か、又、むつかしいことを感じる。めぐみも今は、1日ウィーンでできること、いや、ウィーンでしかできないことを悔いのないようやりなさい。
音楽もそうだけど、ドイツ語や、文化、歴史等見聞を広めなさい。健康に気を付けなさい。お母さんが、SAL便で色々送っているようだからそのうち届くと思うよ。
バイバ~イ  めぐみへ」



平成30年10月7日(日)日本クラシック音楽コンクール本選審査


今日は、日本クラシック音楽コンクール(通称クラコン)の本選審査がありました。

参加者の皆さんのレヴェルが高くてびっくりしました。

高校生、大学生の演奏が多いので、さまざまな曲目が並び、とても楽しかったです。聴きながら、私も又、これが弾きたい、あれが弾きたい、と思いを巡らせながら聴かせてもらいました。

最近、審査などで、あちこちへ行くと、昔、お世話になった先生方とバッタリお目にかかることが出来る機会が増えて、とても嬉しいです。

音楽の世界は、本当に狭く、どの先生とも皆さんがつながっています。いつの日か、私の生徒達とも、きっと
一緒に審査をしたりする日が来ることでしょう。楽しみです。



平成30年10月5日(金)ウイーン留学時代の日記から・・・(1994年~1998年時代)ミハエラ・ウルスレアサさんの演奏に「天才」を感じ取れた


←ザルツブルグ、モーツァルトの家。
モーツァルト一家が1773年から80年まで住んでいた家です。

(2008年8月18日~28日撮影)









1996年6月11日 24歳当時のウィーン日記から・・・

今日は、エルステ(日本の音大の学士課程にあたる卒業試験)を聴きに行った。今日は、みんな素晴らしくて、私は、1月よくまあ、こんなみんなの所で弾けたことだと改めて思った。
今日のお目当ては、やはり、ミハエラ・ウルスレアサだけど、その前の男の子もとても上手かった。
しかし、どうして、ウルスレアサという子は、音楽が、自然なんだろう。腕も太く、しっかりした全く安心できる指を持っていて、素晴らしい。
天才という感じの17歳だが、聴き手を楽しむところまで、持っていってしまう才能。そして、ミハエラ自身ピアノを弾いているとき、楽しそうだ。
お父様は、ジャズ・ピアニスト、お母様は、声楽家、ジプシー(キャバレーなどで歌ったりなど、家を持たずに、転々と旅をする人たち)だそうだが、さすが、ミハエラといえども、お母様が、ちゃんとフェストザール(ウィーン国立音大の入試、卒業試験があるホールの1つ)の後ろで聴いていた。
このお母様から、この天才が生まれたのか。キーシンとか、ポリーニ、アルゲリッチのような感じの人だ。


*ミハエラ・ウルスレアサさんは、ルーマニア出身のその当時24歳だった私より7歳年下の17歳の女の子でした。ウルスレアサの演奏を初めて聴いたときは、その非の打ちどころのない演奏に度肝を抜きました。
ベートーヴェンのソナタ18番の1楽章は休符が多く、フレーズが細切れに聴こえやすい曲ですが、ウルスレアサが弾くと大きな弧を描くように、お話が全部わかるのです。まるで、ピアノでお話ししているみたいでした。大きなフレーズ感、強いリズム感、生き生きとした、テンポ感、起伏に富んだメリハリのある音楽、そして、強靭なタッチの強さ・・・どれをとってもあんなすごい演奏は、今も昔も聴いたことがありません。ウルスレアサが、演奏するときは、いつもウィーン国立音大のホールの客席が、満席。
彼女の、ベートーヴェンソナタ13番、18番、ムソルグスキーの展覧会の絵など、入試や、コンクール、卒業試験・・・・などで、彼女の演奏を聴くたびに、「天才」というのは、こういう人の事をいうんだなあと思いました。身近に17歳の「天才」の演奏を聴けただけでも、ウィーンに来て良かったと思いました。

それが・・可愛いウルスレアサさんは、2012年に天国に召されていたのです。(涙・・・)モーツァルトよりも若い、33歳の若さで。

つい最近、その事実を知り、もう大ショックでした。私達1994年~1998年時代にウィーン国立音大に在籍していた学生の皆が、さぞ、驚いていることと思います。

ウルスレアサの演奏は、23年も前の事なのに、今でも、本番で、彼女が着ていた服、どんな演奏をしていたか、鮮明に思い出すことが出来ます。

演奏者がこの世にいなくても、今でもその演奏は、私の心に生き続けているのです。音楽は、ずっと人々の心に残っていくから素晴らしいです。


平成30年10月3日(水)ウィーン時代の留学日記から・・・(1994年~1998年時代)内田光子さんのリサイタル


←ドイツ、ベルリンのチェックポイント・チャーリー。
ここが、東ベルリン、西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所。

(2011年12月17日~24日撮影)











1996年2月24日、24歳当時のウィーン日記から・・・

昨日は、内田光子さんのピアノリサイタルにコンツェルトハウスへ行ってきた。
内田さんは、グレーのヒュルヒュルした長袖のパンツルック(シルクみたい)に黄色のひものような物を横にただ巻くというだけの本当にただ布を巻き付けているというだけの恰好で、さっそうと出てきた。
お辞儀が、ダイナミックだ。全ての髪の毛をバサッと下におろして、首筋をみんな見せるという実に面白いお辞儀。
シューベルトのソナタ、最後のc-moll、A-dur、B-durと3曲弾いて、1曲ごとにパウゼ(休憩)を入れていた。こういうリサイタルは、初めて。長くて10時20分までも弾いていた。c-mollのソナタは、激しく、そして難しい曲だと思った。A-durは4楽章がとてもきれい。B-durのソナタは、曲自体の持つ魅力があるので、本当に素晴らしかった。内田さんは、自分の身体全神経を全て集中させ、ものすごい集中力と緊張感にみなぎった演奏をする。1つ1つの音をとっても大切にしている。ハーモニーの移り変わり、音色がパッパッとコロコロよく変わってよく考えられた演奏だと思った。



※内田光子さんの演奏は、ウィーンでもとても人気があります。私が、小学生の頃、津でリサイタルを聴いたときは、本当に感動しました。
演奏後、内田さんを囲んで座談会があり、私の友人が、「ピアノのレッスンで、指使いを守りなさい、と先生から、ご注意をいつも頂くのですが、楽譜通り守らなければいけないんでしょうか?」と内田さんに質問していました。
2回目、又、内田さんが、津にいらして下さった時、小学6年生の私は、丁度、奈良、京都に修学旅行で、帰る時に、1人だけ、亀山の高速道路のインターチェンジで降ろしてもらって、内田さんのリサイタルに行こうと計画していました。結局、その日は、私は行けず、母だけが、津に聴きに行きましたが、がっかりしたのを憶えています。修学旅行より内田さんのリサイタルに行きたかったのです!
音楽家として、芸術家としての姿勢をとても尊敬しています。


平成30年10月2日(火)ピアノと共に歩んだ道のり(1983年小学6年生当時の日記から・・・)


←ドイツ、ブレーメンにある、聖ペトリ大聖堂。大聖堂が面するマルクト広場の市庁舎とローラント像は、2004年に世界遺産になったそうです。(写真は、2011年12月17日~24日撮影)











三重県に住んでいた小学6年生当時の私の日記から・・・5月19日(木)晴れ


播本(枝未子)先生がいらっしゃるための用意

この前、播本先生が、「ちょっと、めぐみちゃんのおうちで、泊まらせてね。21日は、めぐみちゃんの家で、レッスンするから」とお電話があったので、それから、お母さんは、大忙しです。
家のそうじ、播本先生が泊まるから、ふとんもほしたり、食事は、どんなのにするかを考えなければいけません。
お電話があってから、わたしは、先生が見えるので、うきうきしてこうふんしています。
先生は、わたしの家にいらっしゃったときは、みんなのレッスンが終わると、必ず一緒にテレビを見ます。わたしの家に、たくさんのピアノのお友達もくるので、とてもうれしいけど、お母さんは、とてもたいへんみたいです。
おふろそうじも、トイレそうじもしなければいけません。それに、まだいろいろと用意があるので、たいへんみたいです。
おふろそうじや、家のそうじは、できそうだから、手伝おうと思いました。



担任の先生からのコメントより・・・

「先生は、よくしていただけるので、たいへん喜んでいらっしゃることでしょう」。

※私が、小学生の頃、私の目から見た母は、ピアノの事で、頭が一杯で、普段、家事が大嫌いな人でしたが、ピアノの先生方が私の家で、泊まられる、となると、
打って変わって、お料理の本など片っ端から見てどれを作ろうか・・・と毎日研究していました。その努力は、子供の目から見ても、本当にすごかったです。
ウィーンで、お世話になった、ケラー先生ご夫妻も、PTNAの創立者の(故)福田靖子先生、又、海外からいらして下さった、ベラ・シキ先生や、バスティン先生、イムレ・ローマン先生なども、私の家にいらっしゃり、美味しくはなかったと思いますが、私の母の料理を一生懸命食べて下さいました。

今から、思えば、私をここに連れてきてくださったのは、全て、周りの方々との不思議なご縁があったためです。そして、私は、本当に人との出会いにとても恵まれました。
感謝の気持ちで一杯です。