平成30年5月31日(木)ピアノと共に歩んだ道のり・・・小学5年生当時の日記から(嬉しかった播本先生からのお手紙)


←小学5年生当時の日記帳。













←日記を書くと、必ず、学級担任の先生が、赤いペンで、毎日コメントを書いて下さいました。
















1982年11月11日小学5年生当時の日記から・・・

毎コンが終わって、私は、1位を取り、うれしかった気持ちをお伝えしたいため、私の1番好きな手紙で、播本先生にお知らせしました。
おととい東京にレッスンに行ったとき、先生から、お返事をいただきました。とびあがるほど、うれしくなりました。
もう、うれしくてうれしくて、レッスンをしている時も、手紙のことばかり考えていました。
先生のおうちをでると、すぐに、先生から、いただいた手紙をよみました。
だいぶたつと私はお母さんに言いました。
「あんなこわい先生が、ものすごくやさしいことをかくね」。
といって、お母さんもよむと
「ほんとだ」と言いました。

私は、いつも先生から、おこられるから、とてもこわい先生だといつも思っていました。でも、お手紙をみると、とてもやさしい先生なんだなということがわかりました。
「めぐみちゃんの手紙をみて、思わず、何度かほほえみ、なみだぐみました」。というようなことをかいてあったので、びっくりしました。
新幹線で、何回もみました。
家に帰ってしゅくだいをすると、夜の12時になりました。
でも、1時まで、お返事をかきました。


担任の先生からのコメントから・・・

めぐみちゃんは、きびしい指導をすなおに聞き入れるので、もう少しもう少しと思って、高度なことを教えて下さるものだから、レッスンは、きびしくなるんじゃないの。
伸びることが期待できるからだと思うよ。
ほんとうはやさしくてもレッスンの時、生ぬるいことをいっていては、のびないからじゃないかな。


平成30年5月30日(水)ピアノと共に歩んだ道のり・・・小学5年生当時の日記から 毎日新聞掲載「やったあ」岩野さん 学生音コンピアノ1位 大喜びガッツポーズ


←1982年(昭和57年11月1日(月))毎日新聞掲載

おめでとうー。31日午後大阪・堂島の毎日国際サロンで開かれた第36回全日本学生音楽コンクール大阪(西日本)大会ピアノ部門本選会で、四日市市立三重西小5年、岩野めぐみさん(11歳)が小学校の部第1位に選ばれ、会場から祝福の拍手を受けた。
決定の知らせを聞いた岩野さんは、付き添ってきた母の恵子さん(42歳)に肩を抱かれ、思わず「やったあ」。とガッツポーズ。「課題曲の最後の方でミスタッチをして、とても入賞は無理だと思っていました。
コンクールには何度か出たことがあるけど、あがってたのかな」。と声を弾ませた。
4歳でレッスンを始め、練習がつらくて何度もやめようと思った岩野さんだが、そのつど音楽好きの恵子さんにはげまされ、将来ピアノの先生になるのを目標に頑張り抜いた。得意曲は、シューベルト。
「ゆっくりしたテンポの悲しい曲が好きなんです。性格と正反対かな」といつも明るく笑う快活少女だ。



※私が小学5年生で、初めて毎コン(全日本学生音楽コンクール)を受けたときは、まだ、本選の東海大会がなく、三重県の人も愛知県の人も、全て、本選は、大阪大会(西日本大会)に受けに行くことになっていました。








平成30年5月29日(火)ピアノと共に歩んだ道のり・・・小学5年生当時の日記から(叱られてばかりいた子供の頃のピアノレッスン)


←イギリス、ストラートフォード・アポン・エイボンにある、シェイクスピアの生まれた家。

(写真は、2枚とも2013年の9月)










←イギリス、コッツウォルズ地方。英国で最も美しい村と呼ばれている、バイブリーで。はちみつ色の家々が、印象的な村です。













私が小学5年生11歳当時のピアノ日記より・・・・1982年9月6日

今日は、ピアノレッスンで、バッハのシンフォニア4番を弾くと、注意をして下さらなくて、1時間お説教ばかり聞かされました。
「そんなんじゃ、ダメだよ!」。「心から、ひいてないよ!これは、コンクールのことなんかどうでもいい!まず、自分を変えていかなきゃ!」とおっしゃられて、怒って、
1時間ぐらい、お説教ばかりでした。
わたしは、くやしくて、なきたくなりました。
そして、たっぷりしかられてから、先生が、「これ、食べなさい。いっぷくしましょ」。
わたしが、のそのそ、そばにいくと、「さっさとくんの!!」と言われてしまいました。
先生が、「あんだけ、いったから、ひけなくなったでしょ。ちがうところいってくるから、ひくかひかないか決めといて」と言われて出ていきました。
お母さんが、「学校まで休んだんだから、見て頂きなさい!!こんなところまで、来たのに!」と言いました。

わたしは、「先生にあれだけ、説教されたら、ひく気力もないよ・・・・・」と思いました。そのとき、先生は、「じゃ、12日に東京おいで、そのとき、又、1日みっちりやってあげるから」と言われました。
かなしくてしかたがなかったです。

その時の小学5年生の学級担任の先生からのコメントから・・・・

「人より、秀でようと思ったら、人の知らないところで、色んな苦労をしなければならないのね。レッスンを受けたり、お説教されたりしながら、心も腕も成長し、上達していくのでしょうね。楽だけでは、成長しないものね」。

※毎日、日記を書いて、学校の先生に見て頂いていました。必ず、コメントを書いて下さり、すごく嬉しかったことを覚えています。


平成30年5月26日(土)ピアノと共に歩んだ道のり(高校3年生当時の日記から)指揮者小澤征爾さんの特別授業


←オランダのハーグにある、マウリッツハイス美術館です。中は、木の温かみが感じられ、貴族の邸宅だったということもあり、心身ともに心が休まる美術館です。(写真は、上下共に2015年の12月)











←マウリッツハイス美術館の中には、フェルメールが描いた、「真珠の首飾りの少女」などの作品があります。













1988年6月6日(火)高校3年生当時の日記から・・・

指揮者の小澤征爾さんが、特別授業にいらして下さった。

ベートーヴェンのシンフォニー4番。

初めの出だしから、「そこそこ、オーボエの音程が悪い!」とか、「セカンドヴァイオリン合ってない!」とか、スピーディに注意していた。

どんなに込み入ったところでも、スコアなんかほとんど見ていなくて、みんな、頭の中に入っている。すごいエネルギーで、躍動感にあふれた、オーケストラのレッスンだった。

そして、「ベートーヴェンは、テンポが速くなっていってはいけない」とおっしゃっていた。タラララン、タラララン!とずっと3連音符が続くところがあるけれど、そういうところも、しっかりしっかり踏みしめて、先に行くところが、ドイツの響きだそう。

1時間みっちりレッスンされたあと、1楽章を通したけど、1回目弾いていたときとでは、もう大違いだった。暑い日だったけど、私は、暑ささえ感じなかった。

小澤さんは、シャツが、汗だくだくで、絞れそうなくらいだった。

音楽をつくっていく姿も感動的だけど、とても低姿勢な方で、感激した。

目の前で、ずっとずっと小澤さんの行動を見ていた。
全精神を振り絞って、音楽に浸りこみ、汗びっしょりになって、必死に教えて下さって、本当に感動した。

本当の音楽というものは、ああいうものだというのが、よくわかった。
真の音楽に触れたような気がして、素晴らしい1日だった。


平成30年5月25日(金)ピアノと共に歩んだ道のり(20歳当時の日記から)演奏を聴いてくれた人の生きる道を変えるのが、音楽家の役目だよって・・・


←アイルランドのダブリンにある、英国大使館で練習する19歳の私。(写真は1991年4月)












←アイルランドは、飛行機から見える景色が、ヨーロッパには、珍しく、海が見えます。(写真は、ダブリン国際コンクールを受けに行ったとき、頂いた絵葉書。人々は親切で、食べ物は美味しく、自然は美しく、大好きな国の1つです)。












1992年3月19日、当時20歳の日記から・・・

レッスンで、シューマンソナタ3番1楽章と、3楽章、そして、シューマンの「序奏とアレグロ・アパッショナート」のピアノコンチェルトを見て頂いた。

先生は、最後に、「貴女は、貴女の持っている音楽に対して、疑問を持たないこと。自信を持って。僕も色々と悩んだ時期があったよ。僕の親父さん(指揮者の渡邉暁雄先生)は、そのときね、ある人が、大泥棒を働いて、自分の指揮を見て、その音楽を聴いて涙の1粒でも流して、その人の生きる道が変わればいい、その役目をするのが音楽家だよ、と言ってくれたんだけど、今思うと、本当にそうなんだよね。

だから、貴女のシューマンのコンチェルトの出だしは、貴女を聴きに来る人にどんなメッセージを送る?

聴きに来る人は、ものすごくすさんだ、上司にコテンパンにやられて、悲しいすさんだ気持ちを持っているかもしれないし、又、ある人は、幸せな気持ちを持って聴きに来る人もいるかもしれない。いずれにしろ、一生忘れられないという永遠の夢を持って、幸せな気持ちになってもらうように弾いて」。とおっしゃられた。


平成30年5月24日(木)私のピアノ講座のご案内


←2018年7月13日(金)午前10:30~12:30、(株)ヤマハミュージックリテイリング小牧店2階F部屋で、
私のピアノ講座があります。

対象は、ピアノの先生方ですが、お母様方でもご希望の方は、どなたでもお入り頂けるそうです。「お悩みコーナー」準備の関係上6月30日までにお申し込みください、との事です。

「コンクールに挑戦する意義と成果」「受賞を目指すためのレッスン方法」
「生徒の自宅での練習方法」など、コンクールに関するさまざまな疑問を解決しましょう、という内容で、お話ししてください、との事です。


私が、指導を始めたのは、ウィーンから帰国してすぐ、今から、20年前です。その間、沢山の生徒さん達と、触れ合い、時間を共にすることによって、感じたことを私の体験としてお聴きいただければ、と思います。

ご参加頂いた方からの「お悩み解決コーナー」として、私が、皆様からのご質問にお答えする時間もあるそうです。

私は、幼稚園の5歳の頃から、日記をつけることを習慣にしています。今、皆様にお読みいただいているのは、留学日記が中心となっていますが、小学校、中学校、音楽高校、音大生の時もずっと日記を書き続けているので、又、ホームページにもアップしていこうと思います。

「生徒日記」も、勿論書き綴っています。1人1人が、どのようにして、成長してきたか、1人1人の生徒さんとの
コミュニケーションをどのように行ってきたか、これを見ると、この時、私はこう思った、生徒は、このように考えているようだ、など色々と楽しく読み返しています。

未来のことで、確かなことは、何1つないと思うけれど、過去の体験は、その人が唯一、歩いてきた、道のりとして、確実性がある何よりの証拠になると私は、考えています。

皆様が、私の日記を楽しんで下さっているのがとてもうれしいです。これからも、時間が許す限り、皆様のお役に立つ情報、私の体験をどんどんアップしていきます。

講座も、生徒たちと私のレッスン体験を呼び覚まし、過去の日記や、現在の日記、生徒日記など紐解きながら、今、一生懸命準備しています。私自身の46年間のピアノ生活の体験が、皆様のお役に立てれば、幸いです。


平成30年5月23日(水)留学日記から(1994年~1998年時代) プロコフィエフ ピアノコンチェルト第1番


←ドイツ、ミッテンヴァルトのカトリック教会。(写真は3枚とも2008年8月)






















←ゲーテが、「生きた絵本」と言うように、壁のフレスコ画が美しい、小さな街です。一度降りたら、忘れられない印象を残してくれる場所です。












←ヴァイオリン博物館で。ヴァイオリンの歴史、工房なども、見れます。ひっそりと静かに佇むミッテンヴァルトは、ヴァイオリンづくりで知られた街でもあります。












1997年1月8日 25歳当時のウィーン日記から・・・

タチアナ(ユーゴスラヴィアの友人)とプロコフィエフの1番(ピアノコンチェルト)を合わせなくてはならないので、タチアナのマンションに行った。

ケッテンブリュッケンガッセからすぐ近くのライムグルーベンガッセというところで、ウィーンには、珍しい、現代的で、素敵なお部屋だった。

タチアナは、ヴァイオリンの19歳の妹さんと住んでいて、可愛い寝室、お風呂付シャワー、洗面所、居間、レコード、CD、ビデオや、ありとあらゆる素敵なものがそろっていた。ヤスミンカ・スタンクル(ピアニストさんの名前)のお部屋にアップライトとグランドピアノが置いてあった。

私の伴奏もとてもよく練習してあると本当に喜んでくれた。

マックスという茶色い猫がいて、とてもかわいかった。私達が2階に上がると、すぐついてくる。ヤスミンカは、ものすごく大きな声で、歌ったりしてとても
迫力があった。でもとても素敵な女性だと思った。


※日本では、プロコフィエフのピアノコンチェルトと言えば、3番が、多分一番よく知られていると思うけれど、2番も一度弾いてみたいと大学時代は、思っていました。
1番のコンチェルトは、日本で滅多に弾かれない曲だと思いますが、すごくかっこいい曲です。


平成30年5月20日(日)留学日記(1994年~1998年時代)デビューソロリサイタル(24歳当時)


←スコットランド、エジンバラ。ここから、エジンバラの街並みが一望出来ます。(写真は、上下共に2013年の9月)












←イギリス、ロンドンのウィンザー城。













1996年5月4日、24歳当時のウィーン日記から・・・

久しぶりのレッスンで、ロートリンガー(ウィーン国立音大のピアノ科のレッスン室がある通りの名前)へ行った。ラヴェルの「クープランの墓」が一番リサイタルで良かったと申したら、「それはよかったね、お客さんも沢山入った?」と聞かれて、「はい、沢山。609席満席でした。」と言って、プログラムと日本からのお土産と、奥様にハンカチをお渡しした。

ドビュッシーのプレリュード、沈める寺、ミンストレル、金色の魚、そして雨の庭という順に弾きましょう、と言われ、見て頂いた。「よく、1人で勉強したね、とてもよいよ」と褒められてうれしかった。沈める寺のテンポの取り方、ミンストレルの陽気で、笑いを呼ぶような軽やかさが難しい。

雨の庭も、ペダルとか直された。11月の淋しい雨ではなく夏の日の雨で子供たちが朗らかに歌う、そして、最後のリズムが悪くて、なかなか直らなかった。でも、何とか、上手くいきそうで嬉しい。1回1回のレッスン、コンサートを大切にしたい。


※ウィーン留学中、一時帰国した時に、四日市市文化会館の第2ホールで、デビューリサイタルをしました。24歳の時です。
私が、ウィーンにいるもので、日本にいる、両親が、チラシやポスターをあちこち配りに行ったり、チケットを売ったり、と大変だったと思います。
ポスターは、かなり立派なものを作っても、貼らせてもらえるところが、なかなかないから、作っても必要ないなあ・・・と言っていました。
確かに、日本の演奏会のチラシや、ポスターのように華やかなものは、ヨーロッパでは見かけません。リサイタルも、ただの紙に、名前が書いてあるだけという感じで、とてもシンプルです。
デビューリサイタルですし、客席数も多いので、チケットを売りに私自身が、皆さんへの挨拶周りに帰らなくては、と先生に話すと、「あなたは、そんなことをしなくていい、ご両親にお任せして、ピアノの演奏だけに集中しなさい」と言われてしまいました・・・。


平成30年5月18日(金)留学時代の日記から・・・(1994年~1998年時代)



←ドイツ、ドレスデンのツヴィンガー宮殿の向かい側にある、アルテマイスター絵画館の入り口前で。(左側の写真は、2011年12月)

絵画館の中に、私の好きな絵、「システィーナのマドンナ(聖母)」があります。(右側の絵葉書)

ラファエロ自身だけで、描いた最後の聖母ですが、
絵葉書で見るのと、実際に見るのとは、全然違います。

ビロードのフワフワの大きな緑のカーテンの中に、この美しい絵が、想像以上に大きく浮かび上がっていて感動しました。











1995年3月23日ウィーン日記から・・・

今日は、ケラー先生の息子さん(ヴァイオリニスト)の演奏会に行った。とても良かったけど、伴奏していたピアニストの人の演奏が、何とも上手だった。
良く歌われていて、バランスが良く、この人のソロを聴いてみたいと思った。


※ウィーンにいる時に、たびたび感じたことですが、ヨーロッパの音大は、伴奏科が、充実しているようです。日本と比べると、伴奏者の質が、すごく高いと感じます。
実技の試験の時なども、いわゆる、学生を伴奏者として使うのではなく、かなり、年配のプロとして活躍しているピアニストが、伴奏者として学生の伴奏をしており、
女性のピアニストも、男性のピアニストも、かなり年齢の高い人たちが、伴奏をしています。色々な伴奏を聴いたけれど、どの方も素晴らしくて、この人のソロが聴いてみたいなと思わせるような、音楽的な、伴奏が非常に多く聴けました。


平成30年5月17日(木)留学中の母のハガキから・・・(1994年~1998年時代)


←ウィーン、カールスプラッツ地下構内にある、公衆電話の前で。(写真は、1995年9月、23歳当時の私)。
ウィーンに行ったばかりの頃、家に電話がないので、郵便局から国際電話をかけていました。
公衆電話は、壊れていることが多く、困りました。










←山や、湖が点在する、美しい大自然の景勝地、ザルツカンマーグート地方は、素晴らしいところです。
(写真は、2008年8月)。












母がくれた、日本からのハガキより・・・(1997年9月27日)

「あれから、貴女と別れてすぐ東京へ向かおうと思ったのですが、やはり、電光掲示板に(出発済み)のサインが出るのを見届けてからにしました。無事にウイーンへ着くことを祈って、第2ターミナルを後にしました。毎日の夕食のお手伝い本当に有難うね。
いつもとっても助かります。休みの間、日本で一緒に過ごせて、とってもとっても私にとって幸せでした。
牛乳や、チーズを納豆代わりに食べて、量は少なくても栄養のあるものを食べいつも1人だから、自分の体に気を付けてくださいね。又、再会出来る日まで、お互い、に健康でいましょうね。
あまり、気張らなくてもよいけど、あと少しの努力なので、最善を尽くしてください。バイバイ~」

※私が、日本から、ウィーンに旅立つときは、いつもお見送りに来てくれて、搭乗口の扉が閉まる前に、母がいつも涙ぐんで、お別れしていたことが、今でも私の脳裏に焼き付いています。

お見送りは、見送る方も、見送られる方も、すごく胸が痛む瞬間なので、苦手です・・・・。


平成30年5月15日(火)留学時代の日記から・・・・・(1994年~1998年時代)


←私が留学中の頃、今から23年前のウィーン、シュベッヒャート空港。古くて、わかりやすく、小さな飛行場でした。
22歳で、初めてウィーンに行ったときは、オーストリア航空でしたが、直行便がなく、成田から、モスクワでいったん、降りて、それから、又、ウィーンへ飛ぶという感じでした。その後、すぐに、成田からウィーン直行便が出来ましたが、いったん、なくなっていました。が、今月又、復活することを聞いて、嬉しく思っています。









←2012年のウィーンシュベッヒャート空港は、まるで、変わっていました。留学中は、足が、自然に入国審査、出国審査、搭乗口に向かっていましたが、再度訪れたときは、近代的な空港に変わっていてびっくりしました。
今も、どんどん変わっていると思います。











1995年9月26日、23歳当時のウィーン日記から・・・・・

9月18日に父がウィーンに来て、10日間がたち、今日、日本へ父は帰っていった。

空港で、人を見送るのは何ともさびしいものだ。ウィーンから日本は、11時間の飛行時間ですぐ近いのだといくら思っても、胸が一杯になって涙が出てしまう。
父とウィーンの見どころ、全て見た。

ドナウ川、プラーター、シュテファン寺院、パルラメント(国会議事堂)、ラートハウス(市庁舎)、シュターツオーパー(オペラ座)、カールスキルヒェ(カールス教会)、
シュトラウス像、ツェントラルフリードホーフ(中央墓地)、そして、ザルツブルグのモーツァルトの生家や、ミラベル庭園など、たったこれだけの期間でよくも全て見に行けたものだ。
私もとても疲れたけど、父と、あちこち回れて、又、父に楽しんでもらえて本当に良かった。無事にどうか日本へ帰ってほしいなあと祈っている。


※ウィーンの街歩きに、ようやく慣れた2年目を迎えるころに、父は、10日間会社を休み、ウィーンに来てくれました。
父58歳、私23歳でした。

父は、ウィーンに来れたことをすごく喜んで、「今まで生きてきた中で、こんなに楽しい日々を過ごしたのは、初めてだ。あ~あ、明日から、又、会社か・・・・。絞られる毎日だ・・・」。としょんぼりして、日本へ帰っていく父の言葉に、胸が痛みました。

父の言葉を聞いて、その当時の私の夢は、出来るだけ早く、修士を取り、完全帰国する際に、ヨーロッパのあちこちに両親を連れて行ってあげたい、という気持ちが強まるばかりでした。

それが、せめてもの私から、両親に対する今までの恩返しだと思ったのでした・・・。


平成30年5月11日(金)留学するまでの道のり・・・夢の世界ではない、現実を知りたかった私(高校1年生~大学4年生)


←ウィーンのUバーン(地下鉄)乗り場。(写真は、3枚とも2008年8月)












←地下鉄の中。こんな感じで、対面式の椅子のつくりになっています。













←ウィーンに来た人が、必ず通る街歩きの拠点、カールスプラッツ駅の地下構内。名古屋なら、栄みたいな感じ。














私が、ウィーンに住んでいたころ、思ったのは、電車のなかで、眠っている人が、全然いないということです。その土地の人が言うには、「眠る」ということ自体、大変プライベートな事であるから、そういう部分を人に見られるのは、恥ずかしいと思っていたり、もう1つは、防犯上、眠っているうちに、何か、盗まれたり、変なことをされるのではないか、という心配が常にあるのだという理由があるからだそうです。

そういった意味では、ウィーンは、確かに、他のヨーロッパの国々の中では、治安が良いと言われてはいるものの、ここは、日本のように、安全な国ではないということをいつも警戒して生活していました。日本に時々リサイタルをするために、帰ってきたときなど、身も心もとても落ち着いて、生活のスピードは、日本は、せわしない感じだけれど、全員、同じ民族で、他人に騙されたり、盗まれたり、などなく、安心感があるなあとつくづく思いました。

私が、大学4年生で、教えて頂いた、木村直司先生も辞書を作られた、とても尊敬できる素晴らしい先生でしたが、この先生も20年以上ドイツに住まわれて、ご自身から、見られた、ドイツでの生活をよくお話ししてくださいました。が、この木村先生からも、ドイツは素晴らしい、とか、すごくいいところだから、是非、行くといい、といったような、夢のような話とは違い、現実の世界をきちんと教えて下さいました。

海外旅行とかで、外国人のお客さんとしていくのとは違い、その国に、外国人として、住む、生活するということが、どれだけ、大変なことかも、お2人の先生のお話しを聞いて納得しました。

色んな意味で、それが本当かどうか、私は、実際に、自分のこの目で確かめたいと思いました。日本の習慣、文化、歴史とは、まるで違う国で、日本にはない、素晴らしい面も、マイナスの面も
しっかり見てくるために、まず、「言葉の壁」を乗り越えなければなりません。幼いころから、今まで、あちこち演奏旅行で、海外にお客さんとして招かれた身分と違い、甘えは一切、通用しない、厳しい世界が、留学生なのだということも、十分覚悟して入試を受けに行きました・・・・・。


平成30年5月10日(木)門下生の皆様へ

門下生コンサートのDVD,ブルーレイは、今年は、6月上旬から中旬頃になるそうです。ビデオ会社さんが、今年は、例年になく、ものすごく注文が多く、皆様への配布が、大変遅れていて申し訳ありません、との事です。

又、出来上がり次第、日記にアップしますので、しばらくお待ちください。


平成30年5月9日(水)留学するまでの道のり・・・ドイツ語の授業の想い出話(高校1年生時代)


門下生の皆様へ

今年の門下生コンサートのDVD、ブルーレイ、まだかなあと首を長くして待っている生徒さんも多いと思います。毎年、このくらいには出来上がってくるので、今日、催促しておきました。生徒の皆さん、しばらくお待ちください。出来上がってきたら、日記にアップします。


←ドイツ、ベルリンにある、「ベルリンの壁博物館」の入り口に、落書きだらけのベルリンの壁が、残っています。

東ドイツから西ドイツへ、逃げるための車なども展示されていて、真実の重みが伝わってくる博物館です。
(写真は、2011年12月)




高校1年生の時のドイツ語の高柳先生は、ドイツの文化や、習慣の違い、など、色んな話を授業でして下さいました。まず、欧米人の習慣による、「握手」と「抱擁」について、話されました。

「握手」も「抱擁」も「私は、武器を持っていませんよ、あなたに対して、敵対心を持っていませんから、大丈夫です」と安心感を相手に持ってもらうために、そういう習慣になっていったのであって、仲が良いからというわけではない、とおっしゃっていました。

ピアノのレッスンも、レッスン室に入っていくと、まず、どの先生方も、「グリュス ゴット!メグミ!ヴィーゲーツ?(こんにちは、めぐみさん、調子はいかがですか?)」とおっしゃいながら、しっかりと相手の目を見て、握手するのが、習慣です。レッスンが終わった後も、必ず、握手をして、さようならをします。挨拶の時、お辞儀は、
しません。仕事仲間、友人同士、親と子、抱擁して、ほっぺたとほっぺたをくっつけてご挨拶します。

又、高柳先生は、こうもおっしゃっていました。「自分が、ドイツに勤務していたころ、若い女性の秘書が、いて、その人は、1日に何回もコーヒーを飲むのに、僕には、ちっとも入れてくれない。日本人なら、こういう時、相手の、気持ちを汲む(以心伝心)ことを誰でもするが、ドイツ人は、きちんと言葉で、伝えなければ、理解してもらえない」のだとおっしゃっていました。それどころか、その秘書は、コーヒーが飲みたいどころか、高柳先生が、不機嫌そうにしているから、てっきり胃でも悪いんじゃないかと思い、コーヒー飲みませんか?なんて、とても言えなかった、欲しいんだったら、ちゃんとコーヒー飲みたいから、入れてください、と頼んだら、どうなの?と逆ギレされたそうで、(笑)この話は、すごく面白かったです。


平成30年5月8日(火)ドイツ語の授業の想い出話(高校1年生時代)


←ドイツ・ドレスデンの聖フラウエン教会。宗教改革で有名なマルティン・ルターの銅像の前で。(写真は、2011年12月)


続きから・・・

・・・私の不安をよそに授業は、どんどん先へ、進んでいきます。私は、何とかしなければと思い、
ドイツ語の先生に、お願いに行きました。

「私は、全くのドイツ語初心者です。初めから、授業のテンポが速すぎて、ついていけません。
どうか、もっと、ゆっくり授業をして頂けないでしょうか?」。

ドイツ語の先生は、私の話を目をつむって何もおっしゃらずに、聴いて下さいました。
「ようし、わかった。では、次回から、ゆっくりテンポを落として、かみ砕いて、授業することにしよう」そう言って下さり、私の一言で、テキストの一番初めから、今度は、ゆっくりゆっくり、かみ砕いて、授業を変えて下さったのです。

私も、先生に、そうお願いしたからには、頑張らなければ、と覚悟を決めて、大好きなピアノの練習をしばらくは、よそに置いておいて、当分の間、ドイツ語を真剣に頑張ることにしました。


その試験の成績の結果・・・高校2年生、3年生は、トップのクラスに入れました!高校1年生の時に、完全にビリで、落ちこぼれていた私が、です。

高校1年の時の、ドイツ語の先生は、高柳芳夫先生。まるきり、未知の世界だった、ドイツ語の世界を私に教えて下さった想い出に残る先生です。ご自身が、外交官として外務省や、ベルリン総領事館、西ドイツ大使館などで、勤務され、長年、ドイツに住まわれていた体験を沢山話してくださいました。

ヨーロッパでは、他人に背を向けるということが、とても恐ろしいことなんだと、聞かされたのも、初めてでした。
そう言ってみれば、ドイツや、オーストリアの地下鉄、バス、電車、公の場所では、ほとんど、椅子が対面式となっています。
学校もそうです。タクシーも後ろに乗らないで、運転手の隣に座るということ自体、背を向けるということがあまり、ありません。

日本は、それだけ、とても安全な国であるということが、住んでみると、本当によくわかりました・・・・。


平成30年5月5日(土)ドイツ語の想い出話(高校1年生時代)


←ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生まれた家のお庭にある、ショパンの銅像。
訪れる人々が、膝を触っていくために、膝だけ、金ぴか。(写真は、上下共に2010年の8月)










←ワルシャワ市民の自慢の公園、ワジェンキ公園。
                                        ヨーロッパで、最も美しい公園の1つと言われています。しだれ柳に腰掛ける、憂愁をたたえた表情のショパンの像は、近くで見ると、ものすごく大きいです。
夏は、ここに、ピアノが置かれてコンサートも開かれています。












私が、ドイツ語の勉強を始めたのは、桐朋の高校1年生の学校の授業でした。今でも忘れられません。初めての授業の時に、40名くらいの同級生たちの何人かは、
すでにドイツ語を知っている人がいたのです!

「お父さんが、医者だから、医者は、ドイツ語が必要でしょ?だから、この辞書は、お父さんの」とか、「うちは、父が、ドイツ文学の大学教授だから」とか、
辞書も、親の世代のものと言って、ボロボロになっている辞書を用意している子もいました。

ドイツ語の先生は、「ドイツ語は、バカ読みすれば簡単だ。とにかく、文法の表を丸暗記しなさい」と言われて、「イッヒ コンメ(私は来る)ドゥ コムスト(君は来る)
エル、ズィー、エス コムト(彼、彼女、それは来る)・・・はい、では、そこの貴女、言いなさい」
と当てられると、予備知識のある方達は、すらすらと言っています!

数の言い方も既に知っている感じでした。「アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ(1、2、3、4、5)・・・」など。

私は、「ひょえ~!知らないのは、私だけ?」とただただ、そんな同級生達の素晴らしさに驚いて、授業を受けていたら、「はい、そこの貴女、今の文章を言ってみなさい、
ボッヘア コンメン ズィー?(どこからあなたは来ましたか?)と尋ねられたら、どう答えますか?」の問いに、「え?」というしかない私を見て、「ダメでしょう?ちゃんと答えられない人は、この教室から、お尻をペンペンペン!とはたいて、教室の外へ、放り出しますよ!」と叱られ、クラスの皆が「わははは~!」と大笑い。

すっかり、笑いものにされて自信を失ってしまった私でした・・・(泣)初回の授業から高校1年生で、ドイツ語の予備知識をすでに持っているという同級生たちがいるという現実に、本当に驚きました。しかし、クラスの皆から、笑いものにされた悔しい思いがあってこそ、私は、一念発起しました!そこで、私がとった、行動とは?次回に続きます・・・・。


平成30年5月4日(金)留学時代の手紙から・・・(1994年~1998年時代のウィーンの様子)昨日の続き


←ウィーンと言えば、シュターツオーパー(国立オペラ座)とシュトラーセンバーン(市電)が名物。

ウィーンは、私があちこち見てきたヨーロッパの街の中で、一番わかりやすく、静かな街でゆったりと時間が流れているところが特に好きな理由の1つです。一応、オーストリアの首都なんですが・・・・。

ベルギーから来てくれた友人が「めぐみちゃん、何でウィーンってこんなにのんびりしてるの?歩き方まで、のっそりしてるね~」
と言われました。

そうです、ウィーンから日本に帰ってくると、日本の人達が皆、走ってる!そんなせわしない
日本とまるで、違います。ピアノ演奏も、日本で弾くと何となくアップテンポになり、ウィーンだと、落ち着いて、ピアノに向き合えるのが、特に私には、印象的でした。古い昔の雰囲気が、残っているところが、私の好きなところです。
(写真は、上下共に1995年の9月、23歳当時)。

←オペラ座のロビーで。9月~6月まで、ほぼ毎日、オペラ、バレエが上演されています。
シュテイプラッツ(立見席)なら、私達の時代は、15シリング~20シリング(日本円で150円~200円)で見れました。












昨日の続きから・・・

・・・私は、ポリーニのシューマンのファンタジーを聴いて、何て、この曲は綺麗なんだろう、と身動きせず、まばたきもしないで、聴き惚れました。
何と、繊細に、細やかな表情でもって、弾くのだろうと思いました。

ピアノリサイタルなのに、情景が浮かぶのです。シューマンが、クララを愛しているのに、なかなか2人が結ばれない、そういった、恋心のやるせなさ、切なさが、痛いほど、こちらに伝わってきて、ピアノリサイタルを聴いて、心をこんなに動かされたのは、初めてでした。

昨日のリサイタルの時、チケットを売るところで、カッサ(支払い場所)のおばさんとオーストリア人の男の人が、すごい勢いで、怒っていました。

チケットをもらいに来たんだそうですが、アウスヴァイズ(証明書)がないから、渡すことは出来ない、とおばさんが言って、それでも、男の人、「せっかく来たんだから
くれ」と大声で怒鳴っているのです。

しかし、おばさんは、「ナイン!ライダー!(ダメです!残念ながら)」とどんなに男の人が頼んでも、考えを変えません。

日本人なら、こういう時、「あっ、そうですか」とか言って、相手に譲るのに、このおばさんと男の人は、30分も40分も延々と自分の考えを主張して、まくしたてていました。

こちらの人って、融通が利かないというか、本当に頑固というか、まあ、疲れるでしょうに、粘り強いなあと感心してしまいました。

初め、私は、それで、すごく気が弱くなっていたけれど、最近慣れてしまって、何でも自分の言いたいことを言わなければ、こちらが負けるという国なので、お店の人でも、役所の人でも、積極的に話すように努めています。

まくしたてるには、語学力がまだまだですが、少々つっけんどんな態度には、平気になりました・・・・。


平成30年5月3日(木)留学時代の手紙から・・・(1994年~1998年時代のウィーン)感動したポリーニのコンツェルトハウスでの演奏会


←1996年5月12日マウリツィオ・ポリーニのリサイタルで。ウィーン、ムジークフェライン(楽友協会ホールの楽屋で
)日本だと、楽屋は、関係者以外立ち入り禁止とかで、ものものしいけど、あちらは、気軽に楽屋に行って、演奏者とお話ししたり、楽譜を持ってきて、ここは、どう弾くのか?と聞いたり出来て、なんか全然、敷居が高くない気軽な感じです。
ポリーニは、ウィーンでも大人気のピアニストで、留学時代、一番よく聴いたピアニストでした。
左から、韓国人の友人ツィーユン、私、後ろポリーニ、右端イスラエルの友人アナと一緒に。








←ザルツブルグのペンションで。あちらのエレベーターは、リフトと言って、自分で扉を開けます。(この写真は10年前)
そうすると、中扉がズルズルズル~とゆっくり開く仕組みになっています。目的の階に止まったら、又、自分で扉を押して開けます。電車、バス、エレベーター、タクシーも全部、自分で扉を開けます。ヨーロッパでは、
自動扉をあまり見かけませんね。

あちらは、建物が、とても古いので、エレベーターが、壊れていることも多く、怖い想い出も沢山。
2階と3階の中間で、止まったりするんです!降りられなくなって上に行ったり、下に下がったり、どこかで、止まった時に、急いで、降りて・・・・。
日本でいう1階は、エルドゲショス(地階)と言って、「E」と書かれています。日本の2階が、1階になり、
2階が、3階・・・のように慣れるまで、ややこしいです。




1995年6月16日ウィーンから母にあてた手紙・・・

昨日、コンツェルトハウスへ、ポリーニのリサイタルへ行ってきました。

前列5列目、手もまるまる見えるところで、たった、100シリング(1000円)ですよ。当日行って、売り切れになっていても、あきらめないで、待っていれば、開演ギリギリになって、学生だけ優先的に、どんな演奏会でも、100シリングで、聴けるシステムになっていて、音楽学生にとって、一番良いものを聴かせてくれる、素晴らしい国です。

ポリーニは、シューマンのアレグロ、ファンタジー、後半、ショパンのノクターンOp27-1と2、ソナタ2番、アンコールが、エチュード「エオリアンハープ」、
スケルツォ3番!
アンコールに弾いちゃうんですよ、もうすごい!

ポリーニの素晴らしいところは、全く技術的に困難な場所がないというところもあるけれど、何よりすごい集中力!音と音の間のピリピリとこちらまで伝わってくるような張り詰めた、緊張感!!曲をクライマックスまで持っていく、構成力のすばらしさ!どんな大きなホールでも決して、音がぼやけず、1音1音が気持ちよい泉のように湧き出てくるような、明瞭さ。ものすごい緊張感なんだけど、全く、聴き手には、力を入れさせないで、本当に安心して、落ち着いて聴ける演奏。
どんな言葉を連ねても、表現できないほど、本当に素晴らしかったです・・・・。次回へ続く・・