平成30年4月28日(土)ウィーン留学時代の日記から・・・(1994年~1998年時代)


←オーストリアの列車から見える教会。有名な教会も一杯あるけれど、名もない、小さな草原の中にポツンと立っている教会が私は、すごく好きです。(写真は、2枚とも、10年前の夏)











←ドイツ、ベルヒテスガーデン。ヨーロッパは、大体が暗くて、どんよりした日が多いですが、たまに晴れると日差しがきついので、サングラスは、必需品です。












1995年5月4日、23歳当時のウィーン日記から・・・

本当にウィーンの春は、きれいだ。カールスプラッツの所、カールスキルヒェ(教会)の前は、緑々していて、素晴らしい。
今日は、ゲーテで、(ドイツ語学校)で、ツィーユン(友人の名前)と、何かにつけて、可笑しくて笑ってばっかりで、面白かった。

ハルトマン先生いわく、「笑うことは、健康に良い」とおっしゃっていた。

Bart(バルト)(ひげ)の名詞をとる動詞が、stehen(シュテーエン)(立つ)とは驚いた。

ツィーユンと私で、「ひげは、立つの?」なんて笑ってばかりだった。


平成30年4月27日(金)今、準備していることは、必ず、後になって生きてくる


←ポーランドのワルシャワ郊外ジェラゾヴァ・ヴォラ村にある、ショパンの生まれた家。
ショパンが生まれた部屋、出生証明書、使っていたピアノなどを見ることが出来ます。
(写真は、2010年の8月。)










←フランス、パリにある、ペールラシューズ墓地。ショパンは、ここで眠っています。心臓だけは、祖国ポーランドワルシャワの聖十字架教会の柱の中に、埋め込まれています。(写真は、2009年の9月)












父は、「なぜ、めぐみは、そんな大変な苦労をしてまで、留学したいと思ったのか?」と今でも、不思議そうに私に尋ねます。

母は、大学を卒業出来たら、留学などせずに、すぐ仕事に就いた方がいいという考えでした。
両親は、学生時代の私に、どこの音大へ行ってほしいとか、留学してほしいとか、そのうえ、将来音楽家になってほしいなどと、自分達の希望を口にすることは、1度もありませんでした。
しかし、これだけは、口癖のように私にいつも言っていました。

「いつも将来のことをよく考えて、一生を貫いて打ち込める職業を持てるよう学生時代の間に準備して、若い時代を無駄に過ごさないように」。

打ち込める職業があれば、人生で、起こりうるさまざまな苦しみに出会うときも、耐えられるし、哀しい時は、自分の職業に没頭することで、その辛さを忘れることが出来る、といつも言っていました。
私もそう思います。

大学で、教職課程を取るためのガイダンスが、あったときに言われた先生のお言葉は、今も、私の心に残っています。
「あなた方が、将来結婚したとしても、ある日突然、旦那さんが、交通事故で、亡くなってしまうこともあり得ます。そんな時、教員免許を持っていると、いざというときに役立つこともあるでしょう。人生何が起こるかわかりませんから、取っておいて、損は、ないですよ」。とこの先生も私の両親と同じようなことをおっしゃられました。

実際、教職課程を沢山取っておいたお陰で、ウィーンでも日本で取った単位をフルに活用でき、あらゆる授業をベフライ(免除)にすることが出来て、その分、ピアノに打ち込むことが出来て、本当に良かったと思っています。その時は、わからないかもしれないけれど、必ず、後になって、生かされてくることを体験を通して、学んできました。


自分がこれをやると、まず一番に自分が幸せになり、他の人も幸せになれる、そういう職業に喜びを見いだせること自体が、その人にとっての「幸せな道のり」なのではないかなと、私は考えています。


平成30年4月26日(木)留学時代の想い出・・・大変だったウィーンでの家探し(1994年~1998年)


←ウィーン時代の、私の住居。10年前の写真ですが、以前と変わらず同じ場所に、同じように、ありました。中からは、私の住んでいたころと同じように、今も、音楽学生達の練習している楽器の音色が聴こえてきて、懐かしかったです。














←列車の窓から見える、典型的な、オーストリアの景色。(写真は、10年前)静かで、牧歌的で、耳を澄ますと、ピアノの音がとても美しく聴こえてくるようです。オーストリアは、沢山の芸術家達を生み出した、ロマン溢れる国。私が、留学先をオーストリアに選んだ一番の理由は、「音楽の都」であることは、勿論の事、アルプスの山並みや、大河、湖、などのダイナミックな景観の美しさが、大好きだったからです。










留学中の家探しは、特に大変でした。ドイツや、オーストリアは、新聞広告で探すのが、一般的です。もしくは、大学の掲示に貼ってある広告を見て探します。
これいいな、と思う物件があっても、「ピアノを練習する」と言うと、ダメ、と断られることが多く、本当に困りました。

それでも、電話の前に座り、断られてもあきらめずに、かけ続けていきました。

そんな「生活するために来た」ような私にとって、唯一の安らぎの場所は、日本でもそうでしたが、ウィーンに来てもやはり、ピアノレッスンでした。

ピアノに関して、困るようなことは、何一つありませんでした。私が、ドイツ語で、理解しにくいようなことは、万国共通の「音楽」という言葉がありますから、ピアノレッスンは、よく理解できるのです。

私の場合、ピアノがあったからこそ、留学したわけで、その他の目的で、留学したいなどとは、まるきり思いませんでした。生活習慣も、文化も、考え方もまるきり違う、国で、ピアノで、困るようなことがあれば、こんな大変なことをわざわざ、したいとは、思いません。だから、20歳で、その後亡くなるまで、自分の国に帰れなかった
ポーランド人のショパンとか、つくづく辛かっただろうなと察します。



平成30年4月22日(日)留学時代の想い出(1994年~1998年)


←ドイツのドレスデンにあるゼンパーオーパーの前で。1878年ゴットフリート・ゼンパーによる建築のきらびやかな劇場です。(写真は、上下ともに、2011年12月17日~24日の間)











←ドイツのラィプツィッヒにある、バッハムゼウム(バッハ博物館)で。バッハの生涯と、作品について展示されています。視聴室もあり、バッハの作品全部が聴くことが出来ます。












1994年9月26日のウィーン国立音大の入試が終わると、翌日27日が、合格発表でした。

しかし、合格出来たことを、喜んでいる場合では、ありませんでした。4日後の10月1日から、授業や、レッスンも始まるというのに、その時点では、私には、住むところも、ピアノも何も決まっていなかったからです。とりあえず、寒い冬が来るというのに、着るものも何もないので、日本に帰ろうと思い、ケラー先生にご相談すると、「お母様から、船便や、SAL便などで、送ってもらうようにして、ウィーンにそのままいなさい」と言われて、帰りの航空券は、パアになってしまいましたが、日本から、色々送ってもらうようにしました。

従って、しばらくの間は、ピアノどころではない、「お役所通い」の毎日に追われました。
まず、インスクリプチオン(入学手続き)などに必要な書類、家庭調査書、メルデツェッテル(住民登録)をする、日本大使館に行き、在留届を出す、ヴィザの手続き、健康保険に加入するため、保険会社へ行く、銀行や、郵便局へ行き、口座を開く・・・・などしなくてはいけません。

それよりも、家探しです!何よりも大変なことが!ピアノはどうするのか、買うのか、借りるのか・・・などなど、初めの半年間くらいは、ウィーンに音楽を学ぶためにきたはずなのに、ウィーンで「生活するため」に来たみたい、と思いました。

こういった「お役所通い」は、日本なら、日本語で出来ますが、ここは、ウィーン。全て、ドイツ語で、書類を書くことから、何もかも始めなくてはいけません。

当たり前の事なんですが、私には、この「当たり前のこと」が非常に大変でした。健康診断なども、「今までした大きな病気はありますか?」とか、日本でもお医者さんで問診票を書くようなことを色々聞かれたりします。レントゲン撮影も(レントゲンは、ドイツの物理学者の名前)勿論するために、保健所を探したり、何もかも、生活の全てが、ドイツ語です。

日本でも7年間の間、一生懸命勉強はしていましたが、生活していくうえで、必然的に、「話しかける」ことが、私の習慣になっていきました。必ず、「これは、どうすればよいですか?」「すみません、私を助けて頂けますか?」「あなたのおっしゃることがわかりません」「もう1度、説明していただけますか?」など、人を見たら、声をかけて質問する、そうやって、どんどん、話すように努めていきました。

ラボア(保健所のようなところ)に行ったとき、すごくおかしかったのが、検尿です。日本のカップは、すごく小さいですが、あちらのは、ものすごく大きいのです。マクドナルドのシェイクのLサイズのようなのが出てきて、もうびっくりしました!今、思い出しても笑えます!

採血するのも、ビックリします!お医者さんは、白衣を着ていませんし、普通のシャツにGパンで、私の腕をGパンにポンとおいて、サササっと済ませて、日本人の私から見るとかなり、乱暴な印象です。注射針も太くて、日本のようにゴムで、巻いてくれたり、そんな丁寧なことはなく、随分沢山、血をとられたり、日本のお医者さんとかなり、違っていて、本当にびっくりしました。
演奏旅行や、国際コンクールなどで、海外に行くのとは、違い、文化も生活習慣もまるきり違う外国で、生活するということ自体、大変なことなんだなあ、とつくづく感じました・・・・・。


平成30年4月21日(土)ウィーン国立音大の入試の様子(1994年当時)


←列車から見た、ザルツブルグの街。音楽と芸術の都であり、一番初めに訪れたときは、モーツァルトそのものの風景だなと心を奪われました。(写真は2枚とも、10年前のザルツブルグ)












←ザンクト・ギルゲンにある、モーツァルトのお母さんが生まれた家。姉のナンネルも結婚後、この地に住みました。












ウィーン国立音大の入試は、初めに、楽典とソルフェージュがあり、そのあと、実技のピアノ試験があります。全てドイツ語で行われるので、楽典、ソルフェージュ、共に、ドイツ語で、書いたり、試験官の先生の指示が聴きとれるよう、勉強しておかなくてはいけません。
実技は、私は、バッハ平均律2巻の9番、ショパンエチュード「革命」ベートーヴェンソナタ「田園」全楽章、ショパン「幻想ポロネーズ」、スクリャービンのエチュードOp.42-8を準備して持っていきました。

日本と違い、入試も公開試験なので、誰でも入って聴けるので、ホールは、色んな人種が集まり、熱気ムンムンです。バッハとショパンのエチュードとベートーヴェンのソナタが一番重要なのは、万国共通です。

ロマン派や、近現代は、綺麗でよく弾けていても、ショパンのエチュードになると、ミスタッチだらけになったり、ベートーヴェンのソナタになるとアラが一杯出てきますので、初めは、「手ならししてもいいですよ。貴女の好きなものから弾いてください」と言われても、バッハと、ショパンエチュードと、ベートーヴェンのソナタは、その人の本当の実力を見るために、必ず、弾かされます。

バッハなどで、とても美しく弾いた人がいて、心に残る演奏だったのに、ショパンのエチュードや、ベートーヴェンのソナタが、上手く弾けなくて、落とされている人は、非常に多いと思います。


平成30年4月20日(金)困難を極めた留学への道のり  「私を受け入れて頂けますか?」


←今の私のレッスン室で、ケラー先生と。(写真は2004年9月、丁度リサイタルを控えており、本番も聴きにいらして下さいました。)











←ウィーンのマウアーバッハのケラー先生のご自宅で。いつも暖かく迎えて下さいます。(写真は、10年前)。













・・・・・ケラー先生は、私が、1998年にウィーンから、帰国して、3年後の2001年4月に、「今度、愛知県立芸術大学というところで、客員教授として、教えることになりました。住まいは、池下の近くにある、県芸の教員住宅で、メグミの家の近くみたい・・・」。と国際電話を頂いたときは、又、驚きました。

そのころ、私達は、池下に住んでいたからです。

日本の中で、これだけ数多くの音楽大学がある中で、なぜ、ケラー先生は、愛知県芸にいらっしゃるようになったのか?私が、帰ってすぐに、しかも、私の家の近くに住まわれる・・・?私の勤務先の明和高校にも公開レッスンにいらして下さり、又、私は私で、ケラー先生のお住いの県芸の教員住宅にお伺いしたり、ウィーンに留学中、そんなことに発展していくとは、思ってもみませんでしたので、人生どこで、どうなるか先のことは、全く予測出来ないなと、つくづく感じました。


現在、ケラー教授は、長年、勤められたウィーン国立音楽大学の教授職を退官されました。私がケラー先生と初めて、出会ったのは、私22歳、そして、ケラー先生が今の私の年齢と同じ、46歳でした。22歳で、誰の紹介者もなく、いきなり、「私を受け入れて頂けますか?」と尋ねた、純朴そのものの私の質問にさぞ、ケラー先生も驚かれたことでしょう。


平成30年4月19日(木) 困難を極めた留学準備  ケラー先生との不思議なご縁


←当時住んでいた、池下の私のマンションで、ケラー先生と。ウィーンから帰国後、三重の家を売り払い、名古屋の池下に引っ越して間もない頃です。ケラー先生は、愛知県立芸術大学の
客員教授として、その当時の私のマンションから、歩いてすぐの県芸の教員住宅に、住まわれました。











←ケラー先生が県芸で教えていらっしゃる間、何度か、今の私の家にもいらして下さり、留学中、まさか、こんな風に、日本で、しかも、愛知県で、又、再会出来るとは、想像もしませんでした。












・・・・・ウィーン国立音大で、後の私のウィーン時代の恩師となるローラント・ケラー先生には、直接私が、ドイツ語で、手紙を書き、私の演奏したカセットテープを送りました。お返事がなかなか来ないので、又、今度は、私の方から、直接国際電話をかけました。演奏を聴いていただけたかどうかお尋ねすると、「聴いていません」とのお返事にガクッ!

しかし、その時のお電話で、偶然にも、日本に夏休みの間、いらっしゃるので、日本で貴女の演奏を聴いてあげますとおっしゃってくださり、入試前、夏休みの間、2回だけ、レッスンに伺いました。お優しい先生で、私の演奏をとてもほめて下さいました、が、レッスンの後、私を受け入れて下さるかどうかお尋ねすると、
「それは、お約束出来ません」とはっきり、おっしゃられて、又、ガクッ!

理由は、「今、すでに、私のクラスは、空きがありません。1年前から、ウィーンに住み込んで、準備して私のところに通ってきている生徒がおり、その子が合格すれば、彼女を取るつもりです。しかし、どの先生でも、コンタクトがあるから、合格するのではなく、ウィーン国立音大も、コンクールと同じく、点数の高い人から、機械的に順番に取りますから、とにかく、入試を受けて、合格してください」。とも言われました。

この分だと、あまり、期待できないなと思い、入試を受けるためだけに、ウィーンへ、旅立ったのが、今から24年も前の、1994年9月21日の事です。もし合格すれば、10月1日から授業やレッスンが始まるというのに!楽譜と、往復航空券だけをリュックに詰めて・・・。不合格になれば、日本に帰るつもりでした。

9月26日の入試が終わり、結果は、ケラー先生とあらかじめお約束されていたはずの方は、不合格となり、住むところも、師事する先生も何も決まっていなかった、私が合格して、希望通り、ケラー先生のクラスに入れていただくことが出来たのです。

いつの頃からか、私は、人と人との縁を、とても不思議だと感じるようになりました。私が、大きな進路に悩むときは、なぜかいつも、スッと、私の力の及ばないところで、必ずと言っていいほど、自然に扉が開かれました。ケラー先生とのご縁は、日本へ私が帰ってからもなお、不思議なことが起こります・・・。次回へ続く・・・。


平成30年4月18日(水)ピアノと共に歩んだ道・・・困難を極めた留学準備(1994年当時22歳)


←ウィーンの国立図書館プルンクザール。世界一美しい図書館と言われています。(この写真は、10年前。)












←ウィーン西駅の切符売り場で。「この切符で大丈夫かなあ?」と確認している私。23歳当時、ウィーンから、ザルツブルグへ行ったとき。












私が、ウィーン国立音楽大学を受験するまでに辿った道のりは、恐らく、一般的に留学されている方々が、とられた道筋とかなり違うと思います。
そのために、全て、ゼロから何もかも、始めなくてはならず、その道のりは、非常に困難を極めました。が、結果的に、自分のためには、それが、後々のために、役立っていることが多く、色んな面で、良かったなと思っています。

音高、音大時代、の7年間、一生懸命ドイツ語だけは、勉強していたものの、いざ留学するといっても、どうやって先生を探すのか?から始まって、一体、何をどこから始めたら良いのか、さっぱりわかりませんでした。私の場合は、誰からの紹介もなく、講習会なども行ったことはなく、いきなり、ウィーン国立音大の入試5日前に
ウィーンに入り、入試を受けました。

私よりもっと一昔前の時代の方々の話によると、ドイツなどは、先生が、取って下さると事前に約束して下されば、合格出来ると、言う話を聞いていましたが、
現実は、全く違いました。

忘れもしません。まず、大学を探すために、私がゼロから始めたことは、ドイツの音大27校、そして、オーストリアの音大2校の合わせて29校の音大の全てに、ドイツ語で、問い合わせの手紙を書くことから始めました。相手から、返事をもらうために国際返信用切手を3枚ずつ、全ての大学あてに同封して・・・。

ほとんどの大学からは、返事をもらえ、初めは、ドイツ語の辞書を引き引き、半泣き状態で、入試要項を読んでいましたが、これ自体が、日本語を読むのとは違い、
私にとっては、相当、骨が折れる作業でした。
しかし、何通か読んでいるうちに、大体、どこの音大も、似たような事が書かれてあることに気づきました・・・・。次回へ続く・・・・。


平成30年4月14日(土)フランス、リヨン国立高等音楽院

今朝、フランスに留学中の元門下生、佐藤愛さんから、フランスのリヨン国立高等音楽院の修士課程を受験して、合格したと、喜びの報告がありました。

愛さんは、明和高校音楽科を卒業後、愛知県立芸術大学のピアノ科を卒業して、フランスのパリに留学、今年の夏帰国される予定でしたが、修士課程に合格したので、あと2年フランスで勉強出来ると、とても嬉しそうです。

リヨン国立高等音楽院は、昔から、パリ国立高等音楽院と並んで、非常に、音楽的な水準が高く、設備も大変すばらしい場所としてもよく知られていました。
難関だったと思いますが、よく頑張られました。おめでとうございます!


平成30年4月13日(金)ピアノと共に歩んだ道・・・・1999年 27歳当時  ラフマニノフピアノ協奏曲第2番


1999年4月22日(木)朝日新聞に掲載された「ひと」欄の文面より・・・(27歳当時)


四日市交響楽団の定期演奏会でピアノを弾く岩野めぐみさん(27)

「ふるさとへ戻って、さっそくこんな機会が得られて幸せです。披露できる日が待ち遠しい」。昨年夏、ウィーンから帰国したばかりの新人ピアニスト。25日に四日市市文化会館で開かれる定期演奏会への出演を依頼され、すぐに引き受けた。大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾けるからだ。
3歳でピアノを始め、小学生でいくつものコンクールに入賞。東京の高校、大学音楽学部を経て、さらに腕を磨くため、ウィーンへ渡った。1日8時間を超える練習、世界中から集まったライバル。つらくても続けられたのは、
「好きだったから。何よりもクラシックの奥の深さを知ったから」と説明する。
ラフマニノフについて、
「難曲だけど、大学生の時には、弾けるようになった。でも今は、作曲者の気持ちを理解して、自分なりの表現ができる」。
帰国後初めて地元で開いたコンサートで、熱心に聴いてくれた人が予想以上に多かったことを喜ぶ。
「クラシックが特定の人の音楽でなくなりつつある。演奏を通じて、もっと普通に受け入れられるようにしたい」と意欲を燃やす。








←これが、その時の、ラフマニノフ協奏曲第2番のゲネプロの様子。
この曲は、オーケストラと一緒に弾くと、最初、ピアノの音がかき消されて、身体ごと持っていかれそうな感覚に襲われます。私は、プールに入って、飛込みをするような勢いで、全身を使い、魂の底からエネルギーを出します。
音高、音大時代、「ピアノは、強い音を出そうとしても、それ以上の音量は出せないんだよ。だとしたら、
音の大きさ、強さではなく、それとは、違った意味での「強さ」を演奏に表現できなくてはいけない。
「音楽が強い」というのは、貴女が、いかに音楽を通して言いたいことを聴き手に強く訴えかけられるかどうかなんだよ」。

と、よく言われました。高校・大学時代、又、ウィーン時代も私の頭の中は、弾き手によって、同じ音量を出していても、「音楽が強く」聴こえる人と、「音楽が弱く」聴こえる人との違いは、どこからくるのか?いつも考えて工夫し、研究ばかりしていました。
元々、ラフマニノフは、大好きなので、高校生時代から、よく弾いており、実際、オケと弾いたら、
すごく楽しかったです。この時の、アンコールは、「エリーゼのために」を弾きました。



←本番後、指揮者の竹本泰蔵先生と。







































平成30年4月12日(木)留学時代の航空書簡から・・・・(1994年~1998年時代)必ず、袋を破られていた梅干し


←ウィーン国立音楽大学の前で。私がいた頃は、「ホッホシューレ(単科大学)」の頭文字でしたが、今は、
「ウニヴェルジテート(総合大学)」に名称が変わっています。(写真は、上下共に、10年前)。












←ザルツカンマーグート地方の白亜の教会、ザンクト・ヴォルフガングです。巡礼教会ですが、この中の見どころは、15世紀に書かれたミヒャエル パッハーの祭壇画です。

のどかな湖岸風景が続き、とても静かな美しい湖です。










1995年3月22日くもり、ウィーンから母に送った航空書簡より・・・・

「今日、美味しいものが沢山入った、小包が届きました。どうも有難うございました。
昨日、モーツアルトのコシ・ファン・トウッテのオペラをフォルクスオーパーへ見に行きました。モーツァルトは、やっぱりとってもきれいな音楽ですね。モーツァルトのピアノ曲を弾くときに、オペラを知らないとだめだとよく言われますが、わかります。舞台でも、笑ったり、大変な事件が起きたり、コロコロ場面が変わるのです。
それと、重唱が多いところも、きれいだなと思います。私の席の前の2人の親切な、オーストリアのおばあさまが、私に、「見えないでしょう?こっちにいらっしゃい」と真ん中に割り込ませて下さいました。「あなたは、歌うの?私には、日本の福井県に素晴らしい友人がいます。福井県は、大きな都市ですか?」とおっしゃって、
「チョコレートでも食べなさい」とチョコレートを下さいました。私は、50シリング(500円)で、席を買ったけど、この優しいおばあさまたちのお陰で、とてもよく舞台が見えて、とても幸せな気分でした・・・・・」。


*日本食が恋しいだろうからと、梅干しや、お漬物など、母が、しょっちゅう、送ってくれるのですが、なぜか、梅干し、沢庵などの、ビニールが、必ず、破られていました。
荷物も、届かないこともあり、ハマグリの佃煮(しぐれ)みたいなものが、1年後に、ウィーンの私の家に届いた時は、ビックリしました。

変な薬物ではないかと、多分、税関で、袋を開けられたんだと思います。それにしても、ハマグリは、1年間もどこの国をうろついていたのかしら?
今も謎ですが、中身は、全然、腐れていませんでしたので、美味しく頂きました!



平成30年4月11日(水)連日、オリエンテーション


今日から、椙山女学園大学も、始まりました。私が、担当させていただく17名の学生さん達です。

皆さん、にぎやかで、明るいこと!学生さんたちの趣味を尋ねると、、新体操とか、サッカー観戦とか、身体を
動かすことが大好きな子たちが、多かったです。健康的でいいですね!

私は・・・・運動能力ゼロ(笑)なので、体育が出来る人を見ると、すごく憧れます!

皆さんとのピアノのレッスン、楽しみにしています。

その後は、明和での講師会議がありました。中学校へ配信される音楽科の様子の動画を最初に見せて下さいました。
昨年の3年生の生徒さんたちの生き生きとした表情が伝わる、授業の様子や、演奏会の様子などを素敵な映像で、大きなスライドで見せて下さり、とっても感激しました!
















平成30年4月10日(火)あっという間に時は過ぎていく


今日から、明和高校でのレッスンも始まりました。ついこの間、1年生だった2人。もう最高学年です。

「光陰矢の如し」で、又、この1年も飛ぶように時間が過ぎていくと思いますが、一回一回のレッスンを大切に、過ごしていきたいです。

















平成30年4月9日(月)新学期


門下生コンサートが、終わり、生徒の皆さんから、お心のこもった、お手紙や、カードを沢山いただいて、感想をお寄せくださり、有難うございました。

さて、今日から、名音大での新学期の実技レッスンが始まりました。

大学は、単位の取り方がわかりにくくて、難しい、と言っている学生さん達の話を聞いて、自分の大学生の頃も、そうだったな、と思い出します。

夜中じゅうかかって、何単位取れば、卒業出来るか・・・ばかり悩んで、単位履修表のパンフレットがボロボロになった想い出があります。

単位を取り間違えたり、単位数が少なくて留年・・・・なんてなったら、大変だと思い、必要以上に単位を取れるだけ取って、私が卒業した時、少なく取った人の倍くらいの単位数を取り、卒業しました。しかし、これが、のちのウィーンで生かされたので、今やっていることで、無駄になることは、何1つない、そう思っています。


「ピアノの音を聴いていると幸せなんです」。と話してくれた学生さんがいました。音楽やりたい人は、音楽をやっている時が、一番幸せ、楽しい、ここが、原点ですから、こういう言葉は、嬉しいですね!

音楽を通して、皆さんが幸せになれますよう、精一杯努めてまいります。


平成30年4月8日(日)留学時代の日記から・・・(1994年~1998年時代)シュテファノフコンクール


←オーストリアのインスブルック、チロルの山。日本に帰る時、樅ノ木を持って帰ろうかと思うくらい、樅ノ木が好きでした。












←プラハ、聖ビート教会。足元からそびえたつこの教会は、大迫力でした。













1994年12月15日ウィーン日記から・・・


シュテファノフコンクールをブラームスザールへ聴きに行く。
1番に弾いた人は、アドリアナ・シルヴァ(第2位)イタリア人のこの人は、私がダブリンを受けたとき、一緒に受けていた人だ。2番目が、天才少女のルーマニア出身、16歳、ミヒャエラ・ウルスレアサ、(第1位)そして、同じ門下のブルガリア出身、スレヴラ・グエレバ(第3位)。
それにしても、1位を取った、ウルスレアサ、もうすごい!の一言。ベートーヴェンソナタOp.27-1とムソルグスキーの展覧会の絵を堂々と弾いてのけ、もう完全に、16歳でプロ。男性と同じ音がする。何と気持ちよく、音が鳴っていることだろう、そして、素晴らしい音楽性。聴いていてものすごく楽しい。ベートーヴェンの最初の出だしから、もう全然違う。言いたいことがはっきり、こちらにバンバン伝わってくる。1音1音がすべて、生きている音として心に響いた。こういう演奏に出会うと、本当に嬉しい。

*ウィーン国立音大では、いくつか学内のコンクールがあります。自分が、出ていないときに、参加者全員の演奏を聴くと、すごく勉強になります。
入試や、卒業試験、修士の試験、クラッセンアーベント(門下生コンサート)が、たびたびあり、誰でも聴くことができます。大家のピアニストもいいけれど、音楽家の卵たちの自分よりも若い人達の演奏、同じくらいの年齢の子達の演奏は、刺激になります。
ウィーン国立音大は、16歳から入学可能ですが、私は、年齢制限ギリギリの22歳で、受けることが出来て、本当にラッキーでした。何よりも、私を受け入れてくれた、オーストリアの国に対しては、特別な想いがあり、ウィーンに対しては、特に感謝しています。
あれから、24年もたった今は、私が受けたときのような、そういった年齢制限があるかどうかはわかりませんが、随分と、変わってきていると思います。


平成30年4月6日(金)留学時代の生活から・・・・気まぐれなヨーロッパのお天気


←留学中、初めて訪れた、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城。雨が降ると、全く、後ろのノイシュヴァンシュタイン城が見えません!夏場ですけど、雨が降って、ブルブル・・・・寒そうにしています。

ルードヴィッヒ2世が国の財政が悪いのに、17年もかけて無理やり建てたお城と聞いていますが、建てたときは、住民から非難を相当浴びたでしょうけど、今は、観光客が押し寄せる場所です。ルードヴィッヒ2世は、ワーグナーが大好きだった、メルヘン王と呼ばれ、せっかく建てたお城の中で、住んだのは、172日間だけだったそう。
最後は、シュタンベルク湖畔で水死体で、見つかった王ですが、それが、溺死なのか、自殺か、殺されたのか?
今だにわかっていないということで、留学中、私は、ルードヴィッヒ2世のことについて、非常に興味を持ちました。





←6年前に訪れたときは、運よく、ちゃんと全景が見えました!
お城の中は、蛇口も、どこもかしこも、調度品が、白鳥だらけ。ノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)と言われディズニーランドのモデルにもなったお城です。











オーストリアもドイツも、ヨーロッパの天気は、とても気まぐれ。1日のうちに四季があると言われ、特に、夏場は、1日のうちに春、夏、秋、冬を全て、体感するような感覚で、着るものに悩みます。
今日は、晴れているからいいなと思って、Tシャツとジーパンで、出ていくと、急に雨が降り出す。そうすると、22度くらいあった気温が7度くらいに下がり、
薄いカシミヤのセーターが夏場でも、必要です。そうかと思うと、雨は、すぐ止むので、又、暑くなり、セーターを脱いで、又、Tシャツに戻る・・・など、1日のうちに3回くらい着替える感覚です。基本は、重ね着。お城の中とか宮殿、美術館などのお部屋の中は、暑いので、外に出たときに、寒くないように、軽い、保湿性の高い、
雨が降っても、はじくような、フード付きの上着が、重宝します。
傘は、基本的に、あまり、ヨーロッパの人は、さしません。日本と違って、すぐ止んだり、降ったりするからです。
夏でも、夜は7度になったりすることもあるので、全然、先が読めません。朝と晩の冷え込みが、日中と比べて、7度から、30度くらいに幅広いので、どんな気温にも対応できるような、服装をしていないと、すぐ風邪を引いてしまいます。ダウンジャケットが必要になったり、昼間は、半そでTシャツ、あるいは、タンクトップなど、みんな、メチャクチャな服装をしているのは、そういう理由からなのです。


平成30年4月5日(木)名音大打ち合わせ


今日は、名古屋音楽大学の初回実技レッスン打ち合わせ日でした。

初めての学生さん達もいるので、自己紹介してもらいました。

どこから通ってくるのか、好きな食べ物は、趣味は・・・などなど。

私が、担当させていただく、13名の学生さん達。レッスンの時間配分が、難しく、そこは、さすが、大学生!
「先生、ここに入れられますよ」と学生さん達に時間配分を手伝ってもらいながら、バッチリ、13名、上手に配分出来ました!

学生さんたちの趣味は、野球観戦、お菓子作り、ユーチューブを見る、食べること、舞台の裏方をやる、・・・色々出てきました。
私の趣味は・・・勿論、生徒さん達とのレッスンです!生徒さん達の成長を見るのが一番楽しいです。

皆さんが、充実した、音大生活が送れますように、お手伝いさせていただきます。今年度も、どうぞよろしくお願い致します。楽しい音大生活を送っていきましょう!


平成30年4月4日(水)ウィーン留学時代の日記から・・・ミサ (1994年~1998年時代)


←ヴィーナーゼンガークナーベン(ウィーン少年合唱団)が、ホーフブルク(王宮)のミサで、毎週日曜日、天使の歌声を聴かせてくれます。

ヨーロッパの音楽に教会が及ぼした影響は大きいと思います。ピアノ曲の中にも、教会の鐘の音や、パイプオルガンの響きなど、あらゆるところで、出てきます。聖歌隊で歌ったり、オルガンを演奏したり、教会で歌う讃美歌を歌ったり・・・。

私は、元々、讃美歌が大好きで、日本に帰ってきてから、どんなに忙しくても、夜寝る前に、毎晩、母に歌ってあげる習慣がついています。きっかけは、腰の大手術をして、しばらくの間、動けず、大変だった母に早く良くなってもらいたい一心で、祈るために歌っていましたが、今も、続けて必ず、夜、歌ってあげます。声楽家ではないので、あんまり上手くないけれど(笑)





←ミサが始まる時。日本で言うと、神社で、線香を焚いたような匂いがするような、煙がたちこめます。












1995年2月19日、ウィーン(23歳当時)日記から・・・

朝、ヴィーナーゼンガークナーベン(ウィーン少年合唱団)のミサを9時15分から聴いて、夜は、オレグ・マイセンベルクのピアノリサイタルを聴いた。
ゼンガークナーベンは、3階の上で、ウィーンフィルとオーパー(オペラ座)の合唱団の男声と共に歌っていて、とても可愛いらしかった。
終わった後、中庭に出てきてくれるのだが、とても疲れているみたいで、「アイムソーリー、アイハフトゥゴー(ごめんなさい、行かなければなりません)」と言っている子もいた。オレグ・マイセンベルクは、ブラームスのインテルメッツオOp.117やOp.118の2、ソナタ3番の2楽章などが、とても渋く、味わい深い演奏であった。



平成30年4月2日(月)ピアノと共に歩んだ道・・・小学2年生当時、PTNA受賞者たちのアメリカ演奏旅行で・・・1979年


←アメリカ演奏旅行の際、サンディエゴで。(故)中田喜直先生とご一緒に、小学2年生の私。
今日から、お客さんの前で、ピアノを弾かなくていいよ、となったとたん、めぐみちゃんの顔が変わった(明るくなった)と中田先生から言われました。日本からの代表ということで、相当なプレッシャーを感じ、余程、ひきつっていたんだと思います。

中田先生は、「めだかの学校」や「お母さん」などの童謡を沢山作曲されて、子供が大好きで、優しい方でした。
ロスアンジェルスのデイズニーランドへ行った際、「めぐみちゃんが怖がるといけない」と言って、いつも私をかばって下さった、暖かい想い出が、心に残ります。







←アメリカに到着したばかり、サンフランシスコで。PTNA創立者の(故)福田靖子先生にも随分と可愛がっていただきました。福田先生からは、大人になってからも「めぐみちゃん、いい生徒を沢山育てなさいよ!」と言われ続けてきました。(福田先生の右隣。赤いカーデイガンを着た小学2年生の私)。
サンフランシスコは、治安が悪く、ピストルを持った人がいるとか、怖い話ばかり聞かされて、これから始まる、ピアノ演奏の本番とともに不安が募りました。








←アメリカ、ソルトレイクシティでは、一番初めに、大型デパートで、演奏している普段着の私。
まだ、日本に、大型デパートなど、全く見たこともないような時代です。
アメリカに行って、初めて、食べたものは、「ホットドッグ」「ハンバーガー」「スパゲティ」でした。それまで、ごはん、お味噌汁、お魚など、和食しか知らなかった私にとって、驚きでした。スパゲティが出てきたときに、今現在ピアニストでご活躍の一緒に演奏旅行に行った、若林顕君から、「めぐみちゃん、全部食べられるの?」と聞かれて、「全部食べられる!」と言って、皆さんから、笑われました。ものすごい量のスパゲティを完食して、周りの大人の方達から、びっくり!?よほど、珍しく、初めて食べたので、美味しかったんでしょうね。


アメリカの人達の反応は、熱狂的で、ノリがよく、大好きです。どんな演奏をしてもすごく喜ばれます。