平成30年2月28日(水)ウィーン留学日記から・・・(1994年~1998年時代)ウィーン国立音大の第1回目卒業試験の様子から・・25歳当時

←ウィーンから、列車で約1時間のデュルンシュタインの街並みで。私は、こういった、静かで、ヨーロッパらしい中世の古い建物が、味わい深くて大好きなんです。とてもロマンティック。ドイツのローテンブルクに似ています。
静かな雰囲気が、美しいピアノの音色を想い起させます。

←私の大好きな、ドイツ、ベルヒテスガーデンのケーニッヒスゼー(ケーニッヒス湖)で。
1996年1月19日、ウィーン日記から・・・・
「エルステディプロム(ウィーン国立音大でまず最初に卒業しなければいけない試験。これを合格した後、修士の試験が受けられます)。がやっと終わってくれた。弾く前、私のコンチェルトのセカンドを弾いて下さる先輩が、「フォア アレム ムジカ―リッシュ(とりわけ、音楽的に)でいこうね」と言って、
「大丈夫!レッスンの時のように弾けばいいんだから、とってもよく弾いているんだから、その通りに弾けばいいの!」。と言ってくれるのを聞いたら、急に胸が一杯になってしまって、わーわー泣いてしまった。そしたら、「よしよしよし、大丈夫、大丈夫、きっと良く弾ける弾ける!」と言って抱きしめてくれて、2人でしばらく、私が落ち着くまでじっとしていた。とうとう呼びに来る係りの人が、来る前に私は待ちきれなくてステージの袖で待っていたら、今度は、
チーユン(友人の名前)とチーユンのお母様が現れて、お母様が私を頑張って、という感じで、抱きしめてくれたので、又、日本にいる、母や父を想い出してしまって、又、泣いてしまった。
コレア(韓国)のシュテファノフ(学内のコンクール)で、1位になったすごく上手い男の子が、「ヴァス イスト デン ロース?(一体何があったんだい?)」と聞いて、どうしたのかと心配そうにしていたが、私はとうとう本番になってしまい、その前にメディモレッツ主任教授から、「あ!鼻かぜですか?緊張する必要は全くありませんよ!小さなコンツェルト(コンサート)のつもりでね!」と言われて、又、涙が出て、とうとうステージに出て行った・・・・・」
平成30年2月27日(火)ピアノと共に歩んだ道・・・1998年名古屋、電気文化会館で、帰国記念リサイタル(27歳当時)


←1998年12月4日(金)PM:6:45 ザ・コンサートホール
テレビ愛知主催
私のために書いて
下さったプログラムのお言葉から・・・。
「岩野めぐみさんは、非常に繊細な感受性をもった芸術家です。彼女のピアノ演奏における完成した意志の表現は、並外れた感嘆すべき演奏技術に伴われておりますが、それは
岩野めぐみさんが諸民族を結びつけ諸文化を包摂する音楽の力を感じさせることに見事に成功していることを明白に示しております。
岩野めぐみさんのこれから進む人生の道に心からご多幸とご成功をお祈りいたします。
ミヒャエル・シュテファニーデス
ウィーン国立音楽大学、オルガン、ピアノ、音楽理論教授」
この時演奏したのは、バッハ、幻想曲とフーガBWV904、
ベートーヴェンソナタ30番全楽章、武満徹「雨の樹素描Ⅱ」
シューマンソナタ3番全楽章です。
平成30年2月26日(月)ウィーン留学時代の生活から・・・・・(1994年~1998年時代)楽都から里帰り

←1996年4月5日(金)毎日新聞朝刊記事掲載「楽都から里帰り」若手ピアニスト 岩野めぐみさん
「四日市市出身のピアニスト、岩野めぐみさん(24歳)が、18日午後6時45分から、四日市市文化会館で、初めてのリサイタルを開く。岩野さんは、リサイタルのため、留学中のウィーンから、一時帰国中。
コンサートを前に、「留学したことで、ピアノの技術だけでなく、自分自身が成長したと思う。多くの人にクラシック音楽の良さを聞いてもらいたい」と話している。
岩野さんは、3歳からピアノを始め、「全日本学生音楽コンクール小学校の部西日本大会1位」
「全日本学生音楽コンクール中学校の部東海大会1位」など数々の賞を受賞。桐朋女子高音楽科ピアノ科、同大ピアノ科で、腕を磨き、卒業後はオーストリアのウィーン国立音大に入学。現在は、同大大学院に在学中で、今回が初めてのリサイタルになる。
岩野さんは、「向こうで得た体験や、学んだ文化、レッスンの成果を表現したい。今回の演奏会は、これからの演奏活動の第一歩。聞いてくれる人の心に響くような演奏が出来たら」と意欲的。
「ウィーンでは、個人の家に集まって開くホームコンサートなど、音楽に触れる機会が多い。そんな気軽な気分で聴きに来てください」と話している。」
平成30年2月25日(日)ウィーン留学時代の生活から・・・(1994年~1998年時代)ドナウ川沿いのヴァッハウ渓谷

←母へ送った絵葉書から・・・
1996年10月16日ウィーン
「ウィーンから2時間ぐらいの所にある、メルク、デュルンシュタインへ行って来ました。
メルクからデュルンシュタインまで、1時間半ぐらい船に乗り、ドナウ川下りをしました。
ベルヒテスガーデン程の所ではないけれど、今、秋の紅葉が素晴らしく、木が黄や赤に染まってとてもきれいな所でしたよ。
船からの眺めは、(この葉書きみたい)右や、左に可愛い、私の好きなお城やおうちが、見えて素敵でした・・・めぐみより」。

←ウィーンヴェストバーンホーフ(西駅)でザルツブルグへ向かう私。長距離列車も自分で、ボタンを押してドアを開けます。
日本みたいに「駆け込み乗車は、おやめくださ~い!」「発車いたします。お見送りの方は・・・・」など、ベルもアナウンスも何もなく、シ~ンとしています。
人も少ないので、ウィーンでは、ゆったり、静かな時間が流れていきます・・・・・。
平成30年2月24日(土)門下生コンサートが近づいて
来月、3月25日(日)天白文化小劇場で、開催される、第16回門下生コンサートが、近づいて来ました。
生徒の皆さんは、あと1か月後の本番を前に、熱のこもった、素晴らしい演奏をしています。
受験生達も、いざ、出陣!です。どの受験生の皆さんも悔いのないところまで、頑張ったので、思い残すことは、何もありません。今は、「人事を尽くして天命を待つ」のみです。私の教室に長い事通われていた、一般大学の受験生達もきっと門下生コンサートの時には、嬉しい報告があると思います。
「ピアノの道」は、いつもワクワク、ドキドキ、ハラハラの連続で、ピアノを始めた3歳の頃から、「退屈」な日々が、1日もありません!
自分の練習も、楽しいし、ピアノをやってきたおかげで出会える素敵な方達との出会い、そして、何よりも大好きな可愛い1人1人の生徒さん達の成長が、
楽しみで、なかなか終わりの来ない連続ドラマを見ているような毎日です。
門下生コンサートでは、初デビューの生徒さん、現在の生徒さん、元OBの生徒さん、私の愛情全てを注ぎ込んで、時間をかけて蒔いてきた大切なタネが、
大きく育って来て、とってもいとおしいです。今、蒔き始めた、小さな種も、大きく花を咲かせようとしている立派な生徒さん達も、今後どう育っていくのか?
ずっとずっと活躍ぶりを見ていたいです!
幹事さん達も着々と準備を進めて下さっています。会場は、天白文化小劇場です!いつもと会場が違うので、お間違えなく!13時半開場、14時開演です。
毎年の事ながら、受験生の合格インタビューや、新入生インタビュー、色々ありますので楽しみにしていてください。
私の教室にご興味がおありの方は、是非、聴きにいらして下さい!生徒の皆さんが、生き生きして楽しそうにしている様子が、伝わると思います。
平成30年2月23日(金)ピアノと共に歩んだ道・・・(1996年24歳当時)ウィーン留学中、一時帰国した際のソロリサイタル

←1996年4月18日(木)24歳当時、ウィーン国立音大留学中、
一時帰国した際のソロリサイタルのチラシとプログラムです。
地元の応援して下さる皆さんに、感謝の気持ちを込めて、私の生まれ故郷、三重県四日市市
文化会館の第2ホールで、演奏させて頂きました。

ローラント・ケラー先生が、プログラムに寄せて、私のために書いて下さった、お言葉から・・・・。
「岩野めぐみさんは、さまざまなニュアンスをもったタッチと高度な技巧とを兼ね備えている繊細な若いピアニストです。彼女の素早い理解力や感情移入の能力及び聡明さは、多種多様の音楽作品の表現内容や様式、構成に深く入り込み説得力のある演奏をします。
日本での彼女の演奏会が、心の開けた暖かい聴衆を得て成功することを私は心から望んでいます。
ローラント・ケラーウィーン国立音楽大学ピアノ科演奏家コース教授」

←この時、演奏したのは、ドビュッシー映像
第2集、ベートーヴェンソナタワルトシュタイン
ショパンのバラード第4番、そして、ラヴェルの「クープランの墓」でした。
ツーガーベ(アンコール)は、グリーグの「君を愛す」、そして、エルガーの「愛の挨拶」を弾きました。
平成30年2月21日(水)ピアノと共に歩んだ道・・・1991年4月20日~5月1日 (大学2年生19歳) アイルランドで開かれたGPAダブリン国際ピアノコンクール

←アイルランドのダブリン国際コンクールで。大学2年生19歳の私。本番直前のリハーサル室で。

←毎日、食事を作って下さり、コンクールの会場まで、いつも送り迎えして下さった、ホームステイ先のライアンご夫妻と一緒に、お食事。

←ファイナルの様子。ナショナルコンサートホール。この時の第1位が、ロシアのパーヴェル・ネルセシアン。
国際コンクールは、日本のコンクールとは、レヴェルの高さが、まるで、違うと思いました。
ネルセシアンのブラームスのソナタ3番は、27年以上たった今でも、心に残っています。
←当日のプログラム。左が19歳の私。第1次は、バッハ平均律2巻の20番、ショパンノクターン9番、エチュード10-4、
25-10、ウェーベルン変奏曲Op.27、武満徹 閉じた眼、2次は、モーツァルトソナタKV457全楽章、ベートーヴェンワルトシュタインソナタ全楽章、3次は、スウェニーのブラックベリーブロッサム(直前に楽譜が送られてくるアイルランドの作曲家の新曲)ショパンの24のプレリュード全曲、ファイナルにシューマンのコンチェルトイ短調Op.54を準備しました。
ベルギー、ブラジル、ブルガリア、カナダ、中国、チェコスロバキア、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ、ハンガリー、アイルランド、イスラエル、イタリア、日本、韓国、アメリカ、ロシア、ユーゴスラビアの19か国から、参加していました。あらゆる書類や、経歴、ピアノの先生からの推薦状などを頂いて、全て通過出来た人達だけが、参加出来ます。約12日間もの間、食事から、ホームスティの宿泊まで、何から何まで、至れり尽くせりでした。
平成30年2月20日(火)ピアノと共に歩んだ道・・・(1992年 大学3年生21歳当時)北九州国際音楽祭 オーケストラのソリストに選ばれて、韓国へ

←韓国(ソウル)KBSの放送局で。KBSシンフォニーオーケストラのソリストに選ばれてシューマン
「序奏とアレグロ・アパッショナート」を演奏。ゲネプロの様子です。協奏曲を弾く時は、オーケストラのスコアを全部勉強しておかなきゃだめだよ、といつも先生から、言われていました。音高・音大でもスコアリーディングの授業がありますけど、実際に協演することで、わかることが、一杯。韓国KBSシンフォニーオーケストラは、日本のN響のような存在です。

←一緒に協演したマエストロ、指揮者のオッコ・カムと。大学3年生の21歳の私。

←韓国のテレビ局。日本で言えば、NHKの放送局みたいなところで、ゲネプロがありました。
韓国は、物価がすごく安くて、食べ物も何もかも安いです。シューマンの序奏とアレグロ・アパッショナートのカセットが、リヒテルの演奏で見つけることが出来て、すぐ、買いました。

←「北九州国際音楽祭」の本番で演奏している21歳の私。小倉市民会館で。
11月1日から7日まで、フィンランド人の演奏家が主に集い、世界各国から、選ばれた演奏家達が、演奏する国際音楽祭です。

←当日の看板前で。
シューマンのコンチェルトは、イ短調が有名で、私も高校1年生の時、みっちり勉強しましたが、この「序奏とアレグロアパッショナート」は、あまり、弾かない曲ですね。シューマンらしくて、とっても綺麗な曲で大好きでした。
平成30年2月18日(月)ピアノとの出会い(1974年時代 3歳の頃) 誰も弾かないピアノを買って来てどうするつもりか?

←ピアノの前で、ゴキゲンな4歳の私。
私の母は、戦中、戦後間もない、貧しい時代に、ピアノが、憧れであり、弾きたくてたまらず、アップライトピアノを買いました。その時、自分が習おうと思って、音楽教室に行ったら、「今からやってどうするんですか?」
と入門を断られて、がっかりしたとのことです。誰も弾けないピアノを買ってどうするのか、と私が生まれる前まで、当分、ピアノを買ったことで、事あるごとに、父とケンカしていたそう・・・。
私が、母のお腹の中にいた時に、母が、弾けないながらも、童謡などをポロン、ポロン、弾いていたこともあり、胎教効果があったのか?私が、3歳になって、誰もドレミも教えないのに、いきなり両手でパッと弾いたから、これまたびっくりしたとの事です。
3歳頃、童謡をよくレコードで、聴かせてくれたのですが、「初めて聴いたのに、この曲知ってる!」そんな感覚で、シャープや、フラットなども全く、難しいと思う事がなく、呼吸をするのと同じ感じですぐ両手で弾き始めたとの事です。
私が好きでやり始めたのではなく、「ピアノの道」の方から、自然に導かれました。
人との出会いも、初めて会った感じがしない人との出会いがあるように、私にとって、ピアノは、昔から、ハーモニーも懐かしい母のお腹の中で聴いていた・・・そんな感じだったのです。
←保育園が大嫌いで、一番大好きな時間だったピアノの練習。苦しい時、辛い時は、なおさら、ピアノに夢中になりました。
誰も弾かないピアノを買ってどうするのか?という夫婦喧嘩の種だった、ピアノ。
貧しい時代に、大きなお買い物だった、ピアノを私が利用出来て、つくづく人生どうなるかわからないな、と父は、思っているようです。
物が溢れて、何でも習い事も出来て、豊かな生活の現代の子供達と違い、私が過ごした時代は、とても貧しい時代で、経済的にも苦しい中、よくやらせてくれたと思います。母は、ピアノの事になると、特に、ピアノのレッスン、播本先生のお宅へ一緒にレッスンに伺うときは、ウキウキ輝いていて、もう恋人に会いに行くような感じで、子供の目から見ても、他の事は全部ほったらかし、家事もそっちのけで、何か、すごいなあ!と感心するくらいの情熱の塊でした。
今、母の気持ちがよ~くわかります。私が、1人1人の生徒を思う熱い気持ちの中に、母のDNAが流れているんだなあと・・・。
平成30年2月17日(土)ウィーン留学時代の生活から・・・(1994年~1998年時代)笑われても平気

←スイス、ルツェルンの駅構内で。
スイスは、ドイツ語が通じるので、好きな国です。私が住んでいた、オーストリアを始め、ドイツ、リヒテンシュタインなどが、ドイツ語圏です。
ポーランド、イタリアもまあまあ通じます。チェコや、ハンガリーは、こちらが話すと、向こうは、チェコ語、ハンガリー語でかえってくる感じ。オランダも比較的通じます。
まるきりだめだと感じたのが、フランス。こちらが、ドイツ語で話しかけても、絶対に、フランス語でしか、
話してもらえないというのが、印象に残っています。
フィンランドの空港では、ドイツ語で話しかけるとフィンランド語でかえってきますが、おかまいなしに、何でも、身振り、手振り身体全体で、伝えよう!とすれば、わかってくれました。どうしても無理な場合は、日本語で(笑)話せばいい。何も言わずに、じっと黙っていると、何も相手に伝わりませんから、笑われても平気!と相手にぶつかっていきました。
←グロリエッテの丘から、シェーンブルン宮殿を見下ろす芝生の上で。
ヨーロッパは、とにかく、歩きますので、どこでも座れるように、汚れてもいいジーンズがほとんど。
芝生の上で、一生懸命何か見ていますが、「地球の歩き方」(ガイドブック)です。
←ウィーンのパルラメント(国会議事堂)前で。
。まだ、ウィーンの街に慣れていない頃、いつも持ち歩いていた「地球の歩き方」ばかり、熱心に座り込んで読んでいる23歳当時の私・・・・・。
1995年12月6日 ウィーン日記から・・・
「今日も1日雪が降った。細かいさらさらの雪で、日本のと違いなかなか溶けず、人が一生懸命シャベルで雪かきをしてもずんずんずんずん積もっていく。
プラクティクム(ピアノ実習の授業)の日、シェーンベルクシュトラーセに行くとき、なぜかいつも雪が降るような感じがする。一日くらいの雪ならいいけど、毎日雪が積もり寒いと、沢山ダルマのように着こまなくてはならないし、つい、日本に帰りたいなどと思ってしまう。
プラクティクムに行くとき、ヴォーヌング(マンション)のひと部屋にポッとオレンジ色の灯がともり、クリスマスの飾りつけがされている。中には、きっと子供がいてお父さん、お母さん、そして、可愛い犬も寝そべっているのだろう。そういう光景を想像すると、自分が決めた道とはいえ、辛くなる。ピアノを弾いていなかったら、今頃、
日本で暖かい家の中で、こたつの中で父や母・・・と共に、みかんなどを食べて過ごしているかもしれない。今年のお正月は、1人ぽっちだ・・・・。
しかし、逆に考えれば、ピアノを弾いているからこそ、色んな世界を見れるのだもの。そういうことを言っては、父や母に申し訳ない」。
平成30年2月13日(火)ウィーンから帰り、仕事始め(1998年当時の様子)

←ピアノ音楽雑誌「ショパン」掲載(1998年10月号20ページに掲載)
「いま、新鋭ピアニスト」109回目の連載に掲載された時の記事です。帰国記念のリサイタルに寄せてウィーン留学中の恩師、ローラント・ケラー先生が私のために書いて下さったお言葉が掲載されました。。
「岩野めぐみさんは、今までの私のすべての学生のうちで、もっとも短期間に勉強を終了した人です。
彼女は、わずか4年間で、ウィーン国立音楽大学とウィーン国立音楽大学大学院修士課程の2つの卒業試験の両方に合格しましたが、これは勤勉さと粘り強さとひたむきさを充分にはっきりと示すものです。
でも、それだけではなく、彼女が常に真面目で磨かれた詩的なピアノ演奏を、この短い間にさらに著しく洗練させて深められたことを嬉しく思っています。
彼女のこれから進む道に心からの成功を望んでおります」。
ローラント・ケラー (ウィーン国立音楽大学ピアノ科演奏コース教授)
家

←その時の、表紙は、田部京子さんでした。
平成30年2月12日(月・祝)中学生・高校生によるピアノサロンコンサート

今日は、ヤマハ名古屋ホールで、生徒さん達のコンサートがあったので、聴きに行きました。
皆さん、日々努力されている様子が、しっかりとこちらの胸に伝わってきました。
お母様方にもお会いできて嬉しかったです !
←出演された、4名の方々です。
平成30年2月11日(日)ウィーン留学時代の日記から・・・・(1994年~1998年時代)

←私の後ろにある建物が、ウノシティー(国連都市)。ドナウ河畔沿いにモダンなビルが立ち並んでいます。
ウィーンは、ニューヨーク、ジュネーブ、に次ぐ第3の国連都市です。
5月末頃のウイーンです。肌寒く、カシミヤのセーター着ています。
←23歳の真冬に初めて訪れたザルツブルグ、私の後ろにある黄色い建物がモーツァルトが生まれた家。ザルツブルグは、大好きで、度々訪れましたけど、いつも大体、天気が悪く、雨。天気がいい時は、滅多にない感じですが、たまに晴れると素晴らしく美しい街です。
←真冬のザルツカンマーグート。ザルツブルグが誇る景勝地で、冬も夏も風情があり、美しい山と湖があちこちに点在しています。
フッシュル湖の前で。
ウィーン留学日記から・・・・・1995年5月30日
今日は、ドイツ語の卒業修了試験があった。かなり難しかった。聞き取り、読解、組み立て、手紙と3時間かかった。ゲンティアナ(アルバニアの友人)が、左手を割れたグラスでケガしたとかで、包帯グルグル巻きにしてやってきた。彼女は、ミス・アルバニアで、イタリア語、アルバニア語、英語、ドイツ語ペラペラだ。
1995年5月31日
今日で、やっとドイツ語を卒業した。大学に出す、修了証もハルトマン先生に成績を書いて頂き、ビューロー(事務)で、シュテンペル(スタンプ)をもらった。
自分ながら、本当によく頑張ったと思う。1日10時間、ドイツ語を2か月みっちり勉強した。
ゲーテの修了証を大学に持って行ったら、これでいいといってくれたので、テストを受けなくてもいいとのこと。良かった!!
*ウィーン国立音大は、2ゼメスター(冬学期、夏学期)1年間を終えるまでに、ドイツ語をちゃんと話せるようになったかどうかの試験が、外国人にはあります。
ウィーンの語学学校は、主に、「イキ」が、一番人気のようでした。ウィーン大学の中にも、あります。「ゲーテ」が一番大変で、難しいとの事で、受講するときに、迷いましたが、
私は、「ゲーテ」に通いました。ウィーン国立音大の中にも「外国人のためのドイツ語クラス」があります。
.
←生徒さん達からバレンタインのチョコレートを頂きました。とても美味しかったです。ウィーンに住んでいた時に、オースターフェ―リエン(オースター祭休暇)の時期になると、こういう卵型のチョコレートが良く売り出されていたのを懐かしく想い出しながら、頂きました。
どうも有り難う!
平成30年2月10日(土)第9回コンコルソムジカアルテ結果発表!

←1月14日に開催された、グラン・フィナーレの会場。(名古屋芸術大学2号館大アンサンブル室)
(社)日本イタリア協会主催、第9回コンコルソムジカアルテのグラン・フィナーレの結果が発表になりました!(詳細は、門下生の活動をご覧下さい)。
皆さん、よく頑張られました。おめでとうございます!
平成30年2月9日(金)ウィーン留学時代の生活から・・・。(1994年~1998年時代)

←シュタットパーク(市立公園)の中にある、シューベルトの像の前で。
ウィーン市民の憩いの場ともなっていて、シュパツィーレン(散歩)する場所が沢山あります。
←ノイエブルグ(新王宮)の前で。ウィーンの建築物は、壮大で、又、敷地も広いので、「あっ、あれいいなあ!」と思って、歩いても歩いても、なかなか建物の近くに行けません・・・・。
1995年12月11日 母からの手紙より・・・
「貴女の先生に対して報いたい(上手に弾いてあげたい)という気持ちは、充分わかります。
私も習字を書いていて、お手本になるべく近づけたいと思い、何枚も何枚も書いても、矢張りどこか、上手くいかない部分が出てきますよね。
その時、確かに嫌になります。でも、少しは、進歩していると思うのです。それとは、少し違うかも分かりませんが、完璧な演奏を望む気持ち、ここをこのように直せば、(弾けたら)良い演奏になるという事が、わかりすぎるくらい分かっている貴女、悔しい気持ち、どうにもならない、いら立ち、どう言ってあげたらよいか分かりませんが、自分の極限まで、練習出来たらそれでもう良いと思っていく以外、段々滅入っていくだけですから、なるようになると思った気持ちで、もっと図々しくなる(鈍感になる)ように努めて下さい。ウィーンにいる間に、エルステ試験を受けて卒業出来たらそれで、良いではありませんか。
それから先の事は、又、何とかなりますよ。そのまま月日が過ぎ去るだけではありませんからね。
あまり、気を落とさず、(又落ち込まずに)たまには、ケルントナーをぶらぶらして、髪留めを買ったり、ピザを食べたり、気分転換なさいね。」母より・・・。
平成30年2月7日(水)明和高校3年生の生徒さん達と・・・・



←明和高校3年生の生徒さん達。卒業を目前に記念撮影!
皆さん、立派に成長されました!
人生の中で2度と通る事はない、この道をいつも一緒に大事に歩んできました。
髙浪杜和君 宮脇彩永さん 小川沙羅さん



←上記の生徒さん達の小学生時代。
みんな、可愛い!!
平成30年2月5日(月)ウィーン留学時代の日記から・・・(1994年~1998年)何1つ無駄な事はない

←カーレンベルクの丘近くのレオポルツベルク教会の前で。
↓カーレンベルクの丘から眺めた、ウィーンの景色。
ドナウ川も見えます。
1995年1月29日 ウィーン日記から・・・
「午前中、ピアノを2時間大学で練習し終わってから、U4(地下鉄4番線のこと)で、ハイリゲンシュタットまで行き、38Aのバスで3つめか4つめのアルムブルシュタールガッセで降り、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュテッターテスタメントハウス(ハイリゲンシュタットの遺書の家)」に行ってきた。
プファ―広場の家なども見た。天井の低い部屋にベートーヴェンの胸像があった。ピアノも置いてあると本に書いてあったのに、なくてがっかりした。家の周りは、草や木があってとても静かな住宅街だった。それを見てから、38Aの終点カーレンベルクで降りて、ウィーンの森を見て、下を眺めると、とても眺めが良かった。現在のウィーンを代表する、芸術家、フンデルトヴァッサーのゴミ焼却場も見えた」。
私が、ベートーヴェンの遺書の家に行った当時は、学生証を見せて、5シリング(日本円で50円)でした。ベートーヴェンは、引っ越し魔だったと言われていますが、ウィーンに住んだ34年半弱の間に、29回の引っ越しをして、26か所に住んだことがわかっています。
ヨーロッパのあちこちへ行くと、大作曲家達が生まれた家、住んだ家、お墓など、見て回れるので、とても面白いです。同じ曲を弾いていても、頭の中に、そういった光景が頭の中でイメージ出来ると随分違って聴こえてきます。
丁度、この時期、私のピアノがうるさい、と苦情が来て、ピアノがあまり、練習出来ないお陰で、学校で、少し練習して、あとは、色んな所を見て回る生活を送っていました。ウィーン国立音大で、練習すると、学生証を見せて、1時間100シリング(1000円)でその当時は借りられました。ピアノの状態は、ひどいです。
日本のようにちゃんと調律されたピアノで、清潔なお部屋で、恵まれすぎた練習室は、恐らく、どこへ行ってもないと思います。ただ、ヨーロッパの場合、天井が高く、石造りなので、ひどいピアノでも柔らかく綺麗に響くのです。
ベートーヴェンの家を見たから、演奏が、目に見えて、上手くなるというものでもないですが、やはり、人間は、そうした、小さな取るに足りない、目に見えない小さなことを大切に大切に積み重ねていく事で、全て、点と点がつながっていくのだと思います。
昔から、現在行っている全ての事は、未来の結果を生んでいくと考えており、無駄な事は、何1つないと確信して、いつも最善を尽くしてきた結果、今の私があります。今現在も、生徒さん達に自分が行える一番最善の種まきを心がけながら、未来へつなげていきたいといつも考えて行動しています。
平成30年2月4日(日)生徒さん達のコンサートのお知らせ

←来る、2018年2月12日(月・祝)開場13:45開演14:00ヤマハ名古屋ホールで、「中学生・高校生によるピアノサロンコンサート」が開催されます。
私の生徒さん達からは、
間下梨香さんが、ベートーヴェン「創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80ハ短調」
宮脇彩永さんが、ベートーヴェン「ピアノソナタ第18番変ホ長調Op.31-3第1~3楽章」
谷田怜子さんが、ベートーヴェン「ピアノソナタ第13番Op.27-1第1楽章、第2楽章」ショパンエチュードOp.25-1
「エオリアンハープ」、Op.10-12「革命」、
髙浪杜和君が、バッハ「平均律クラヴィーア曲集第2巻第6番ニ短調BWV.875」ショパンエチュード「Op.10-10」
ベートーヴェン「ピアノソナタ第11番変ロ長調Op.22第1楽章」を演奏致します。

←演奏時間は、間下梨香さん(14:02~14:13)
宮脇彩永さん(15:01~15:13)
谷田怜子さん(15:14~15:26)
髙浪杜和君 (15:41~15:53)です。
音楽高校、音楽大学を目指されている方達ばかりが、演奏して下さる、サロンコンサートです。演奏者の皆さんの若さ溢れる真剣で、熱い演奏の数々、
頑張っている姿を是非、沢山のお客様に聴いて頂きたいです!
皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。
平成30年2月3日(土)ピアノと共に歩んだ道・・・中学2年生13歳当時 オーケストラと協演

←1985年7月26日(金)当日のプログラム。

←愛知文化講堂(現在の愛知県芸術劇場)で、モーツァルトのコンチェルト26番
「戴冠式」全楽章をオーケストラと協演している、中学2年生の私。

←当日のお客様。私が、ピアノを学んでいたころは、子供の数も大変多く、どこの演奏会も、子供だらけ、熱気ムンムンでした。子供が沢山いると、活気があっていいですね。
←プログラムに寄せて書いて下さった、恩師の播本枝未子先生のお言葉から・・・。
「岩野めぐみさんとの出会いは7年前に遡ります。世界的に高名なベラ・シキ先生が私の家を訪れ、めぐみさんのレッスンをなさったのが、そもそものきっかけでした。当時の彼女はまだミルクの匂いのしそうなお下げ髪。可愛い子でした。私は、ドイツから帰国したばかり、小さい子供の教育体験がなかったこともあって、彼女が幼いということを全く念頭におかず、本人が理解するまでとことん教え込むことに熱中しました。この後、彼女は、幾多の難関をのりこえながら、忍耐力と粘り強さのある人に成長してきました。
例え、どんな天才であろうとも、努力なしにあり得なかったことを彼女は苦しみに直面しながら学んで来たのです。それは、彼女の才能の中で最も貴重な財産となりました。音楽の素晴らしさと感動を聴衆と共に分かち合えるピアニストになる為の道程は、苦しく果てしのないものです。
めぐみさんは、この道をこれからも迷わず進んで行くでしょう。今宵演奏する豆ピアニスト達に、聴衆の皆様の心からの暖かいご支援をお願い申し上げます。又、オーケストラと協演出来る素晴らしい体験を与えて下さった川島先生に深く感謝申し上げます。」
これまで、ピアノと共に過ごした、私の46年間を振り返ってみて、ピアノを学んでいる皆さん達に私の体験談を伝えていく事で、何らかのヒントとなれば幸いです。
幼年時代、学生時代、留学時代、現在の事、色々と入り乱れておりますが、出来るだけ、幅広い年代の方々に楽しんで頂けるように、
特に、留学日記は、皆さんとても楽しく読んで下さっているとの事で、まだまだ、沢山、書いていきます。ピアノを学んでいる方達のお役にたてましたら、とても嬉しいです!
平成30年2月1日(木)ピアノと共に歩んだ道・・・(1979年6月21日~7月6日)ラスベガス・グランドキャニオン(アメリカ演奏旅行の合間に)
←ラスベガス・グランドキャニオン。演奏旅行の合間に、PTNAの創立者(故)福田靖子先生が連れていって下さいました。
グランドキャニオンは大自然が生み出した、大渓谷なので、景色を見せるために、下に下がったり、上に上がったり、遊覧飛行をするのですが、そのセスナ機が揺れに揺れて、恐かった~!今でも、忘れられません!
「あの景色、綺麗ねえ!」と指さす福田先生の右、白い服の7歳の私。
←セスナ機が大揺れに揺れて、フラフラになっている母と私。グランドキャニオンは、気温が40度~50度を超えるような焼けつくような暑さで、7歳の私が、病気になるのでは、と皆さん、心配して下さいました、が、小学校に通うよりは、ずっと元気で、風邪一つひきませんでした。ピアノの演奏旅行が私にとっては遊びだったので、余程、楽しかったんでしょうね。