平成30年1月30日(火)ピアノと共に歩んだ道・・・(1979年時代)PTNAのコンクール受賞者達のアメリカ演奏旅行


←1979年6月26日(火)アメリカ、ソルトレイクシティのブリガムヤング大学のMADSENリサイタルホールで演奏している7歳の私。
現代の子と違い、補助ペダルもフィットペダルも何もなく、足が宙ぶらりん。


演奏した曲目は、ソロでは、湯山昭さんの「フランス人形」「ゴーカート」中田喜直先生の「ひとりぽっち」「土人のおどり」「おまつり」、デュセックのソナチネOp.20-1全楽章、
クーラウのソナチネOP.55-3全楽章、連弾では、中田喜直先生の「めだかの学校」です。


その中でも、アメリカのお客様には、湯山昭さんの「ゴーカート」が大人気のようでした。アメリカでは、何か弾くたびに、
「ワ~オ!ビューティフル!ワンダフル!」弾き終わるとギュウッと抱きしめられて、キスされる。私は、小学2年生だけど、
アメリカの人には、3歳か4歳児に見えたとか・・・・・・・・
←お辞儀した後、いつ、顔を上げたらいいのかしら?アメリカ演奏旅行で、共に演奏した、メンバーの
お姉さん、お兄さん達の様子をチラチラ伺っている私。(右端)













平成30年1月29日(月)ピアノと共に歩んだ道・・・・(1979年7歳当時の私)


←PTNAのコンクールの創立者の(故)福田靖子先生(右)とバスティンメソードの創立者バスティン先生(左)を三重県の私の家にお招きした際、演奏する真剣な表情の小学2年生の私。

1979年9月12日の写真から・・・。



←湯山昭さんの「いいことがありそう」とか、ベートーヴェンの「パイジェッロの水車小屋の娘から二重唱心の喜びは失せによる6つの変奏曲ト長調」、ハイドンのソナタなど、弾いている私。










←小学2年生の当時、住んでいた、三重の家。
福田靖子先生とバスティン先生に挟まれて、真ん中が7歳の私。












平成30年1月28日(日)第8回ヨーロッパ国際ピアノコンクールin Japan


第8回ヨーロッパ国際ピアノコンクールin Japanから、「特別優秀指導者賞」を頂きました。

生徒さん達が、とても熱心で、よく努力してくれるお陰です。有難うございました。





















平成30年1月25日(木)ウィーン留学時代のあれこれ・・・(1994年~1998年時代)



←チロル地方のレンゲンフェルトで。


↓インスブルック。「イン川にかかる橋」という名前を持つこの町。
私の下を流れているこの川がイン川です。
ウィーンからは、約5時間半くらい列車に乗っていきます。




1994年10月23日(日)父からの手紙より・・・・。

「電話もあって、安心したけど、手続きなどで忙しい毎日の様子。寒さも厳しいところと聞いているので、体には十分注意するように。めぐみが熱を出したとかで、異国で、身寄りもなく、病気でもなったら、どうするのかと心配が増えた。
宿が安いのに越したことはないが、安全が第一。病気など困った時、親身になって世話をしてくれる人を作っておくように。そのためには、相手に対しても、困った時には、助けるという関係が必要。とにかく、これだけは、生活上の必須条件と思う。
ウィーンでの生活や、勉強は、大変だと思うけど、これが、自分の定めた道と決め、何事にも勇気を持って、チャレンジするように。これからが、スタート、どのようにでも、変われるのだから、自分を最大限試す事。
会社に世界地図があって、ウィーンの街が出ていたので、コピーした。古いかもしれないけど、何かの参考になれば、と思うし、この地図を眺めていると、過去に聞いた名前があったりで、めぐみのお陰で、この街、親近感が湧いてきた。英語をマスターして、一度行ってみたい。しっかりやりなさいとは言ったけど、身体が一番大事。風邪をひかないように。父より」。


平成30年1月22日(月)ウィーン留学時代に母に送った、写真、航空書簡から・・・(1994年~1998年時代)


←ウィーン大学の入り口で。ここで、ドイツ語のクラスの申し込みも出来ます。























←ウィーンのコンツェルトハウスの入り口で。スチュデンテンアウスヴァイズ(学生証)を見せれば、リヒテルでも、ポリーニでも、アルゲリッチ、シフでも、100シリング(1000円)で、真ん前から、見れます。



母へ送った、航空書簡より・・・。

1995年10月16日


今日、ウィーン大学へドイツ語の申し込みに行きました。安いだけあって、すごい人が申し込んでいました。一応、テストをきちんと受けたのですが、どういうわけか、まぐれにも!?ものすごくテストの点が良かったので、上の方のクラスに入れられてしまいました。ゲーテで学んだ文法が身についたのかもしれないけど、こちらの人は、会話がすごく出来るから、その面で、みんなについていけるかとても心配しています・・・。授業があるところは、ウィーン大学も各所に分散していて、1区の方じゃなくて、9区のシュピタールガッセというところで、今日、午前中かかって歩き回って探しました!10月16日から、12月15日までの、朝の8時半から10時で週3回月・水・金(2520シリング)25200円です。
めぐみより


平成30年1月21日(日)ウィーン留学時代に母に送った写真、航空書簡から・・・(1994年~1998年時代)シューベルトの生家の様子


←チェスキークルムロフ(チェコ)に行った時に泊まったペンションの前で。宿泊は、予約など何もしないで、いつも到着してから、探しても十分見つかります。


←エッツタールの駅で。(オーストリア)


1994年11月20日(日)母に送った航空書簡より・・・・。

シューベルトの生家に行ってきました。この家で、シューベルトは、1797年の1月31日に生まれて、1801年の秋まで、住んだそうですが、ウィーン特有のヴォーヌング(アパート)の中にあり、クリーム色の綺麗な建物で、茶色いドアを開けてトレッペ(階段)を登っていくと、2階が、ムゼウム(博物館)になっています。

最初の部屋に入ると、シューベルトが生まれた部屋5畳くらいの天井の低い部屋があって、その次の部屋に行くと、沢山の人が書いた絵が飾ってありました。

シューベルトは、継母に育てられたのかしら?継母の絵や、シューベルトが好きだった女の人の絵、ピアノも置いてありました。茶色くて細長いのだけど、鍵盤は、6オクターブくらいで、どんな音がするのだろう?と思いました。そして、彼の成績表(見ただけでは、読めなかったけれど、大野亮子さんの本に、音楽以外の成績は、良くなかった、と書いてありました)。亡くなった知らせ、シンフォニーの楽譜など、置いてありました。別にこれといって、びっくりするような物はなかったけれど、何百年も昔から、ちっとも変わってないのだなあと思い、来て良かったと思いました。
←シューベルトの生家に置いてあるピアノのお部屋の中で。
シューベルトの家の前は、シュトラーセンバーン(市電)の37と38が通っていて、前は、お花屋さんなど、お店になっていました。

私の家からもそんなに遠くなくて、こんなところで、偉大な音楽家が生まれたのだなあと親しみがわきます。私が小学3年生、4年生の頃三重県のコンクールで弾いたり、コンサートで弾いたりした、アンプロムチュ(即興曲)の作品90の2や90の4などの、シューベルトのあの優しい、もの悲しいメロディーを想い浮かべました。
今更ながら、シューベルトの詳しい伝記が読みたいなあという感じです・・・・・。


平成30年1月16日(火)ウィーン留学時代の母と私の手紙のやり取り(1994年~1998年時代)


←1998年6月18日(木)コンツェルトザールで演奏した、ウィーン国立音大の修士修了試験のプログラム。

この時は、バッハの幻想曲とフーガa-moll BWV904、ベートーヴェンソナタOP.109全楽章、
武満徹「雨の樹素描Ⅱ」ドビュッシーの「版画」を弾きました。

入場料も取って1人だけのリサイタル公開試験となります。


母へ送った航空書簡より・・・・

「1996年5月25日ウィーン

レッスンで、ショパンのコンチェルト1番を全楽章見て頂きました。Keller先生は、ビックリ仰天されて、
「どっかのコンサートで弾いたの?今までに弾いたの?」と聞かれ、私が、「いいえ、初めてです」と申し上げたら、「本当にメグミはフライスィッヒ(勤勉)だ。リサイタルが終ったばかりなのに、又もや、新しい曲、しかも、全部アウスヴェンデイッヒ(暗譜)で、本当に早い。私は本当に嬉しいですよ」。と何度も何度もおっしゃって下さいました。
「この曲は、弱弱しいものでなく、ものすごく激しい情熱的な音楽なのです」。とおっしゃって、Keller先生は弾いてみて下さいました。ショパンって、ノクターンみたいに柔らかいのもあるけど、とても男性的なんですね。何とかしてこの曲を綺麗に弾きたいので、今、必死にさらっています・・・・・」めぐみより


母からもらった航空書簡より・・・

「1995年3月21日四日市

貴女が、ウィーンの様子を沢山書いてくれるので、とても詳しくそちらの様子がわかります。レッスンは、とても実のあるレッスンとの事で、貴女は、大変でしょうけど、本当に良かったですね。教えて下さる事がわかるだけに、自分の指が思う通りにいかないのは、本当に悔しい事だろうと可哀想でなりません。
でも、貴女の言う通り、自分の出来ることを生かせば、良いので、決して、投げ出さず、いつも希望を持ち続けて頑張ってみて下さいね。リヒテルは、80歳までも弾かれている事を思えば、貴女など、4分の1くらいの年数ですよね。よく飽きずに長い事続けているだけでも本当にすごいと思います。あまり辛抱ばかりせず、時々は、貴女が食べたいなあと思った物を買うように。又、高いと言っても、勉強に必要なCDは、見つかれば、そちらでも買いなさいね。貯金が少なくなってきたら、又、送ってあげます。四日市は、CDとか買うのに、とても不便ですが、明日、名古屋へ行った時に、時間があれば、頼まれている残りのCDを見てあげようと思っています。いつも身体に気をつけて、栄養を取って下さいね」。母より


平成30年1月13日(土)ウイーン留学時代の生活から・・・・(1994年~1998年時代)除雪車や、清掃車が、フル稼働


←ウィーンにあるシェーンブルン宮殿や、ベルヴェデーレ宮殿、公園など、敷地内がすごく広いので、こういった清掃車が道路を掃除します。ウィーンは、馬車も街中を通るので、馬のフンが至る所に落ちていて、それを掃除するのも結構大変だなあと・・・・。ドイツもオーストリアも犬が、とても大切に飼われています。地下鉄も、バスも大きな犬がノッシノッシ乗ってきます。お犬様、といった感じ。そういえば、日本では、今年は、いぬ年。


←私の日記の中身。ウィーンフィルや、オペラ座でのチケットも必ず、ノートに貼ってあります。




1997年1月4日のウイーン日記から・・・

いつもウイーンの空は雲がどんよりと覆いかぶさって暗いが、今日は、なお雨が降ってものすごくどんよりしていた。
こちらは、雪が積もるとすぐ、大型の雪を除雪する車が来て砂利を一杯散らしてすべらないようにしてくれるので、歩きにくいということは、全くなくて便利だ。
さすがに、雪の国なので、よく考えられていると思う。


平成30年1月9日(火)ウィーン留学時代(1994年~1998年時代)  日本に住む母に送った実況中継のような手紙の山


←ウィーン留学中、日本に住んでいる母に送った、手紙の山。国際電話は高いので、手紙でその日にあったことを全部実況中継。












←日本にいる母に毎日のように、ウィーンでのその日の出来事を書き綴った、実況中継のような航空書簡。













←毎日のようにお返事を書いてくれた日本に住んでいる母からの航空書簡。普通の手紙より安くて、航空書簡だと90円です。












←4年間の想い出がたっぷり詰まっている、
ウィーンで書いていた私の日記。


私と母との手紙のやり取り、ウィーン日記、私の友人にとってもらった写真など、全て、保存してありますので、20何年も昔の事も、より深く思い出すことが出来ます。その中から、音楽を学んでいる学生さん達に役に立ちそうな事をピックアップしていきます。







平成30年1月8日(祝・月)ニューイヤーコンサート


今日は、四日市市文化会館第1ホールで、ニューイヤーコンサートがありました。

小林ほなみさんのラフマニノフのピアノコンチェルト2番を聴きに行きました。

ほなみさんは、満席のお客様の前で、堂々としたラフマニノフを立派に歌い上げて演奏されました。

門下生のお母様方ともお話出来て、とても嬉しかったです。

生徒の皆さんのご活躍をいつもお祈りしています。




平成30年1月7日(日)第5回岐阜ピアノコンクール

今日は、第5回岐阜ピアノコンクールがあり、椙山女学園高校2年生の神戸菜々美さんが高校生部門で金賞を頂いたと喜びの報告がありました。

良く頑張られました!おめでとうございます!


平成30年1月7日(日)ウィーン留学中の父からの手紙(1994年~1998年時代)


←ウィーンで住んでいた、私のヴォーヌング。(マンションのこと)


←キュッヒェ(台所)。
あちらは、ほとんどパンの生活ですが、ウィーンに住み始めて、しばらくの間、炊飯器がなく、お鍋でお米をたいていました。
1年後に、やっと炊飯器が買えて、喜んでいる私。
あちらの火力は強くて、日本の炊飯器と比べると、すぐに炊けます。

留学中の父の手紙から・・・(1994年11月)

「北海道は、大雪が降ったとテレビで報じているので、ウィーンも北海道と緯度が同じで、気温も似ていると聞いているから、ウイーンも大雪だろうかとつい思ってしまう。厳しい、冬に向かって寒さ対策を万全に!身体が大事だから。
言葉や、生活様式の違う異国で1人で生きていくのはさぞ苦労があるだろうとお父さんは思う。これは、駆け引きなしで・・・。
古いものが消え、新しいものが生まれ、輝きを増す。これは、人生の掟。
めぐみは、まだ、新しい星。ウィーンで勉強して、めぐみ自身の質を充実させるように。昔から、”苦労は買ってでもせよ”といわれてきたけど、めぐみの苦労は買ったのだろうか。
めぐみは、新しい音楽を求めて自分を試すために、敢えてウィーンへ飛び込んでいっためぐみの勇気(苦労)をお父さんは、誇りに思っている・・・・少し心配しながら・・・。
健康に気をつけて悔いのない毎日を過ごすように!
こちらのことは、何1つ心配することはないから・・・・」。    父より


平成30年1月6日(土)留学時代のウィーン日記から・・・(1994年~1998年時代)ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調


←ヌスドルファーシュトラーセにあるシューベルトの生まれた家。シューベルトは、ウィーンの人達にとても愛されています。


↓ウィーン国立オペラ座で。この時の演目は、
モーツァルトのオペラ「魔笛」でした。


1997年3月14日のウィーン日記から・・・


レッスンで、ラヴェルの協奏曲G-Durとバッハの平均律1巻の22番を見て頂いた。
バッハは、プレリュード、フーガ、どこもあいまいな所がなく、全部理論づけられている。
1つ1つの小さなフレーズではなく、大きなフレーズでとらえるように、1フレーズの中の緊張感は、どこにあるか、又、更に全体の中のクライマックスはどこかはっきり聴き手にわかるように弾きなさいと言われた。
そして、このプレリュードは、とても悲しげで、メランコリックなんだけれども、センチメンタリズムとは、違う感情で弾かなくてはなりません、貴女のは、センチメンタリズムと言われた。ラヴェルは、2楽章の強弱が、テーマから変奏部分に移る時に、変奏のところも、テーマと同じように、オーケストラと一緒に、強弱をつけなければいけません、3楽章は、ンチャ、ンチャと左でリズムをとるところがあるけど、そこがどうしてもボテッとなってしまうので、小さなバチで、ドラムをンチャ、ンチャと叩いているような感じですとご注意を頂いた。
4月14日にクラッセンアーベント(門下生のコンサート)で、メシアンを弾くことにしましょう、と言われた。

ラヴェルのコンチェルトの2楽章は、何回弾いても飽きない。大好き。


平成30年1月5日(金)ウィーン留学時代に母に送った航空書簡から・・・・(1994年~1998年時代)ドイツ語学学校の様子


←プラハ、カレル橋で。歴史的な聖者をモデルにした聖像が、30体も両側の欄干に並んでいます


←黄金の小路で(プラハ)。1597年に出来たもので、城内で仕える召使などが住んでいたそうで、入り口など、身を屈めて通るようなおとぎ話の世界のような小さな家が並んでいます。

1994年11月30日ウィーン晴れ7℃~4℃(日本の母へ送った航空書簡から・・・)

「今日から、ゲーテ(ドイツ語学学校)が始まりました。私のクラスは、コレア(韓国)の女性1人、インドネシアの男の子3人、ブラジルの男性1人、スペインの女性1人、エジプト人の女性1人、ルーマニアの女の子1人、そして日本人が私1人。インドネシアの子は、11人も家族がいて、こちらで仕事がしたいとか。
もう1人のインドネシアの男の子は、ウィーン大学のドイツ語専攻で、とても賢そうな人でした。日本の語学学校と違うのは、皆、よく喋れるということ。
何で、ドイツ語学ばなくちゃいけないの?と思うくらい皆、既にペラペラ。
日本人は、私だけなので、何かわからない事が出てきたときに、説明も、質問も全て、ドイツ語で聞き合わなくてはいけないし、大変この上ないけれど、皆、
とっても勉強家。
インドネシアの男の子は特にすごくて、休憩時間もいっつも辞書ばかり見て、辞書を丸ごと覚えている感じ。
クラスの雰囲気は、とても和やかで、皆、よく喋れるので、ハンデのある、日本人の私に、とても気を使ってくれます。
私が、ピアノを学ぶためにウィーンに来た話をすると、皆驚きます。「ワ~オ!どれくらい練習するの?」私が、土、日も練習する、という話をすると、
皆、目を丸くして「えっ!?散歩したり、遊んだりしないの?」と、びっくりされます。(日本の学生なら、毎日練習するのは、当たり前ですよね!)
宿題は、山のように出ます。私が理解出来ない時は、他の皆が、助けてくれます。1人の人が長い事、べらべら喋っていると、イングリット先生が、「メグミ、わかる?」と必ず聞いて下さり、詳しく、ゆっくりと説明して下さいます。エジプトの子は、「私、テレビで、「おしん」を見たけれど、とってもいいドラマだったわ」。と言ってくれました。エジプトで、日本の「おしん」が放映されているとは・・・・。
パウゼ(休憩)の時、皆でアップフェル(林檎)を食べたりしていると、自分が、ウィーンに来て、日本人が周りにいない環境で、外国人ばかりと(私も外国人だけど)一緒にドイツ語の授業を受けていると思うと、ふと不思議な気分になります・・・・・」。


今、子供達を教えていて、やはり、この時の体験が現在に生かされていると思います。子供は、自分の思いが胸の中に沢山あってもそれを上手く言葉で言い表す事が出来ません。しかし、そんな子供達にも、私の方から、何とかして、自分の思いを伝えよう、伝えたい、その思いが一番先にくれば、子供達にもちゃんと伝わるということが、よくわかるので、どんな体験も無駄な事は、何一つないと思います。過去に一生懸命取り組んだこと、今、真剣に取り組んでいる事は、将来必ず、何らかの形となって、全ての点と点がつながっていくからです。


平成30年1月4日(木)留学時代のウィーン日記から・・・・(1994年~1998年時代)阪神大震災


←ウィーン、シュテファン寺院の中。昼間は、ステンドグラスから優しい光が差し込みます。



←デュルンシュタインの聖堂参事会員修道院の教会前で。








1995年1月17日、18日のウィーン日記から・・・
「日本は、大変な地震が神戸で起きたらしい。震度6の大地震だそうだ。父が、会社に出かける前に、丁度トイレに入っていてゆりかごのようだったとのこと。三重県は、震度4だったらしいけれど。
ウィーンのニュースのトップに神戸の地震の事が、とても詳しく放送されている。2000人も亡くなられた方々がいるそうだ。どうして、地震は起きるのだろう。
ウイーンでもこんなに報道されるなんて、ものすごい大地震なのだろうか?・・・・・」


記を改めて読み返すと、そういえば、私がウィーンに行ってすぐの年明けに、阪神大震災が神戸で起きたということを想い出します。先生方も、
ゲーテ(ドイツ語学学校)の友人達も、「メグミの家は大丈夫なのか?」とすごく心配して下さいました。


神戸に住んでいる留学生の友人たちは、日本に住んでいる両親が、無事なのか、連絡を取りたいけれど、そういう時に限って、電話も、FAXも何もつながらないと言っていました。私達の時代は、現代の子達のように、スマホもパソコンも持っていません。国際電話も、ものすごく高いので、手紙か、FAXで、安否を聞き、胸をなでおろした想い出があります。

地震のことは、ドイツ語で「エルドベーベン」といいますが、日本と聞くと、地震が多いというイメージを持っている、ウィーンの人は多かったです。


平成30年1月2日(火)皆さん、有難うございます!


皆さんから、頂いた年賀状が、レッスン室の前を賑やかにしています。

2018年も、レッスン室で、生徒の皆さんを明るくお迎えします!皆さんの健康とお幸せをお祈りしています。











平成30年1月1日(月) 明けましておめでとうございます!


皆さん、明けましておめでとうございます!

今日は、近所の神社に行って、生徒さん達のお幸せをお祈りしてきました。


今年は、大学受験の子も多いですし、受験生の皆さんの念願がかないますよう、しっかり合格祈願してきました。

私も、受験生の皆さんと同じ気持ちです。今が一番辛い時期だとは思いますが、辛い時期は、案外、振り返ると、あの時が一番楽しかったなあ!ときっとそう思える時が来ますから、心配しなくても大丈夫です!それが終れば、皆さん、お待ちかねの門下生コンサート!

今年は、今、ドイツのリューベック国立音大に留学中の生徒さんが、是非、門下生コンサートに出たいとの事で、ドイツから一時帰国して弾いて下さるそうです。皆さん方の先輩ですから、楽しみですね!
留学したいと考えている人達は、是非、この機会に今のドイツの音大の事情など教えて頂くといいと思いますよ。

私のウィーン日記は、20何年も昔の話ですので、今とは、まるで、事情が違うとは思いますが、少しでも皆さんのお役に立てれば嬉しいです。

今年も、よろしくお願い致します。