平成24年5月31日(木)誰かのために

6月3日のPTNAの曲弾き合い会が、迫ってきました。まだ、本番ではありませんが、第一回目の本番と思って気持を引き締めて弾いてもらいたいです。

大体本番前の1か月前というのは、もう今、どこで弾いても大丈夫なくらいに仕上がっていなくてはいけません。人にもよると思いますが、私の場合は、本番前1か月前を目安に、練習計画を立てます。ギリギリまで、もたもたしていて、本番直前でやっとお尻に火がついたというのは、すごく焦るし、又、一夜漬けで弾いてきたのは、聴いている人にすぐばれてしまうのです。

逆に時間をかけて、すごく丁寧にこの曲の研究をしているなというのも、すぐに聴いている人に伝わるのです。

中学1年生の生徒から質問を受けました。先生は、いつも演奏する時に、誰かのために演奏しているのですか?といった内容でした。
私は、勿論そうです、と答えました。誰かのために演奏するのでなかったら、私は今まで、ピアノを弾いていないと思うし、また、人前で演奏なんてとてもじゃないけど、恐くて出来ません。誰かのため、と思えば、本番での恐怖が愛に変わるのです。不思議です。

レッスンの時は、勿論一生懸命レッスンを受けてくれる生徒たち、見学されているお母様方のために私は心をこめてピアノを弾いています。
私の音を聴いて、どの子も音楽っていいなあ、ピアノが又、さらいたくなってきた、と音楽する喜び、楽しさが伝わりますように、という気持を全身に込めながら・・・・。

リサイタルの時は、聴いて下さる一人ひとりの胸に届くように、聴いて下さった方々が今までよりも、もっとピアノが好きになるように、生きている事が本当に素晴らしいと思えるように・・・・・・とこれも、誰かのためにやっている事です。

自分だけの世界、マイワールドになってしまうと、勿論ピアノを弾く事は自分だけの楽しみというのもあるでしょうけれど、やはりそれは、つまらない世界に段々となってくると思います。

誰かのために・・・ピアノだけではなくて、それは生きている事そのものであり、そう思える時に人間が一番充実感を持てることだと思います。

お料理も上手く出来れば、自分だけで食べるのより、誰かのために作って一緒に食べるとより美味しいのと同じ事です。

ピアノがつまらない、練習がおもしろくない、のは、どこかで、マイワールドになってしまっている時なんじゃないかなと思います。

生徒たちは、一週間に一度、きっと私のために一生懸命練習して心をこめて弾いてきてくれるのだと思います。それは、私への愛。私は十分受け取っています。それに対して、お母さまが、「今日は上手だったね、」とか、「今日は、なかなか直せなくて大変だったけど、あせらずに、じっくり時間をかけて、学んでいこうね、」といった暖かい言葉を子供にかけてやれば、子供も励ましてくれるお母さんのために頑張ろう、という気持ちがわいてくると思います。

お母さんも頑張っている子供を見てやりたくない事や、面倒くさいと思えることも励めるし、お父さんも、頑張っている家族のために一生懸命働かなければ、という気持になれます。

自分のためなら、やる気が起きないけれど、誰かのためにと思えば、それは、すごく愛がこもったものになる。

演奏する事は、誰かに対する愛そのものです。

弾き合い会で、きっと、そういう愛のある演奏が見つかると思います。間違えなければよいが、とか、上手く弾ければいい、とか、コンクールで賞をとることだけ考えている演奏、そういった自分だけの事を考えている演奏と違い、反対に一つ一つがすべて、誰かのために真心こめて愛を込めて弾いてくれている演奏、との違いが、発見出来ると思います。

「人のふり見て我ふり直せ」とよく言いますが、不思議なことに他の人のことは、客観的に見えるものなのです。

お友達の演奏を聴いて、「あぁ、ああいう演奏が、自分の心にすごく伝わったなあ。歌っているということはああいう演奏のことをいうのだな。よし、自分も頑張ろう!!」とか、「ああいう演奏は、ただ弾いているだけだな。でも、自分だってそうかもしれない。ああいう演奏は聴いていていいとは思えないから、自分も直さなくては!」とか、感じられると思います。
ここでも、みんな誰かのために役立っているわけです。お友達から学ぶ事は、私との1対1のレッスンよりも、もっともっと上達度が早いと思います。楽しみにしていて下さい


平成24年5月27日(日)調性判定

私は、レッスン中によく生徒達に「この部分は何調?」といった質問をします。調が変わると、それに伴い音色の変化があるのですが、それを充分に感じ取っていない弾き方をしている時に尋ねます。

ある生徒から「どうやって調性を見分ければいいのでしょうか?」という質問を受けたので、ちょっと書いてみたいと思います。
私は、その子に「例えばイチゴを食べた時にイチゴの味がする、というのを体験上知っているということと同じなんだよ」。と答えました。
ということは、何事も体験第一!!。へ長調のときは、こんな色、二長調のときはこんな色を知っていると、さっと調性判定できます。

生徒達を見ていると、「感覚派」と「理屈派」にわかれます。感覚派はシャープがいくつつくから、
フラットがいくつくっつくから何調、という風には考えません。もっぱら、聴いた感じで、判定できます。私は全く感覚派でしたので、音楽高校に入って「音楽理論」「楽典」を学び、自然に感覚で知っていたことを言葉にするとこうだったのか!と後から言葉を知ったという感じでした。
だから、感覚派の生徒には、私が言葉で一生懸命説明しても、なんにも聞いていません。(笑い)こういうタイプにはとにかく弾いて聴かせればすぐ理解出来ます。

一方、「理屈派」の生徒には、ピアノの音を聴く前に、まず、理屈で知ってから覚えようとするので、言葉で、きちんと説明しないと納得がいかないようです。しかし、私が感覚派なので、説明してあげるのがすごく難しいです。

一応、シャープが2つつけば、ニ長調かロ短調ですけど、その調の中のドミナントをさしているときには、そこだけ見て、ニ長調とは判定できないからです。ト長調のドミナントをニ長調といってしまってはいけないように、頭で覚えようとすると、混乱を招きます。

だから、一番いいのは、その人の中に、豊かな引き出しが沢山あることなんじゃないかなと私は思っています。

ニ長調の曲には、こんな曲があるよ、変ロ長調にはこんな曲があるよ、という風に自分の知っている曲の引き出しが沢山あるとその体験をもとに、感覚で、判定できるからです。

もともと言葉では説明出来ない作曲家の感情を翻訳したのが、音楽です。だから、音を知れば、自ずと自分の身体が調性を聞き分けれると私自身は考えています。


平成24年5月24日(木)心配や不安をもっていいことは何一つない

5月も、もうあと一週間ほどで終わりに近づいてきました。学生さん達もやっと、新しい生活に慣れて来たといったところでしょうか。
私の所を巣立った生徒達も近況を知らせてくれます。皆さん、新しい環境でとても楽しく励んでいるというのをきくと、すごく嬉しいし、ほっとします。

どんな環境にも人間って慣れるように出来ていますからね。何も不安を持たず、毎日自分が出来る事を地道にやっていけば、自然と良い道が開かれてきますから、心配は何もいりません。

私は、仕事柄、色んな方々からご相談をよく受けます。それを聞いていると、人間って満足している時の方が少ないというか、よくまあ、次から次へと見つけ出せるなあと思うくらい、心配事、悩み事ならどれだけでも出てくるといったくらいに、数限りなくあるようです。それも、その悩み事というのは、その時々で変わります。今、置かれている環境によっても、相手によっても、年齢によっても、取り組んでいることに対しても・・・・・・何もかも生きているからこそ、悩んだり、先の事を心配したりするのだと思いますが、私が、今までの体験上、1つだけ皆さんに言ってあげられる事があるとすれば、「心配して、いい事は何一つない」ということです。

先の事ばかり心配して、必ずいい結果をもたらすというのが確実にわかっているなら、心配も不安もしたかいがありますけど、そんなことは全くないし、かえって、不安や心配を持っていると、全然、いい方向に向いていかず、物事はどんどん悪い方向、悪い方向へと落ちていきます。逆に心配や不安は出来るだけ持たないほうがどんどん道が開けてくるのは確かです。

そう考えると、心配や不安はしただけ損。悩んでいる時間も無駄に使いますし、第一、自分の頭が非常に疲れます。疲れるだけで、何一つ良い解決策は浮かばないから、すごくもったいない時間です。

中学生くらいの生徒さんを持つ親御さんは、とりわけ、ピアノを練習しない、というより、学校の事が忙しくてピアノに向かう時間がとれない、ということをよく相談されます。

学校で朝から丸1日勉強して、部活をやって帰ってきて、それだけでもクタクタになっているのに、その後、塾に行って、夜10時まで勉強して・・・・・なんて話を聞くと、もう体力の限界って感じですね。大人だってそんな生活を毎日していたら、いつかキレてしまっても不思議はありません。ピアノをさらう時なんてほとんどないだろうなあ、と思います。勉強とか、スポーツとか、それだけの悩みならまだしも、やはり、学生の一番の悩みは、毎日嫌な子とも鼻をつきあわせなければならない、集団生活、人間関係によるストレスが上位を占めると私は思っています。

自分の気に入った子ばかりが全て同じ教室にいれば、ストレスも少なくてすみますが、残念ながら、そうではありません。相手は自分とはまるで、考え方も感じ方も違う人間の集りなので、当然といえば、当然なのですが。自分と同じ人間は、いないと思って割り切って、人は人、私は私、と他人のいう事を何も気にしなければ、ストレスもないのですが、まだそこまでは大人になりきれていない、というのが、中学生かなと思います。

私の所に来ている子も、中学生がすごく多いです。みんな一生懸命頑張っていますが、なんかほとんど、眠っているか、起きているかわからないような感じで、レッスンを受けている子もたまにいます。
でも、そんな時も私は、心配しません。そんなことも、人生の中の3年間だけ。赤ちゃんの時、オムツがとれないと心配しても、大人になってもオムツをしている人なんていない通りに、その時期がくれば、悩みも変わり、心配事も変わるから、その時々の悩みなんて、すごく馬鹿らしいです。

私自身は、毎日、今置かれている環境や、人間関係、仕事、私生活全てにおいて、とても満足しています。私がいつも心がけている事は、どんな人にも自分の家族に対するのと同じ気持ちで、優しく接する事と、何に対しても愛を持って物事を行うことです。

先日、中学1年生の男の子の生徒が学校で、茶摘をして、その子は誰よりも沢山摘んで、(5、4キログラムも摘んだそうです)クラスで、一番になったそうです。本当に立派な事です。ピアノを弾く事以上にそういうことを根気強くやる事の方がずっと、大切なのです。

普段のピアノにもそれはすごくあらわれていて、ピアノもすごく根気強い子です。ピアノ日記も忙しくても毎日きちんと書いて、その内容は、「先生から言われたとおり30回弾きました。暗譜が出来るまで、何回も何回も弾きました」。

なかなか、暗譜が上手く出来なくても、毎日、自分がやれることを何の不満も持たずにコツコツとやっているのを見て、私はすごく嬉しくなりました。

社会に出れば、そんな子はきっと何をさせても不満を言わないし、まず不満を持たないから、みんなから可愛がられて、いい道を歩んでいけるだろうなあと思います。

きっとその子は、茶摘もすごく愛をもって取り組んだのだと思います。愛を持ってやれば、暑いとか、疲れたとか、そんな不満も出てこないし、自分も相手も気持ちよく幸せになれますものね。

心配、不安、悩み、全てマイナスの思考になってしまうのは、その人の思い方次第なのです。欲が深すぎる人や不満に思う人ならいくらでも現状を不満に思うと思います。

毎日皆さんが私を生かしてくれていることに本当に感謝したいです。



平成24年5月18日(金)ドはドではない

今日は、ピアノを習っている学習者の皆さんに、「音の色合い」について書こうと思います。
何か、自分の演奏はつまらない、一本調子で、単調に聴こえる・・・・という人は、音色の変化が少ない演奏、ともいえます。
私は、よく生徒達に、顔の表情マークを書いてあげます。

例えば、キャッキャッと笑っている明るい笑顔、カッカしている怒った顔、ポロポロと涙を流している泣き顔・・・・・・・。

「こーんな風に、人間の表情がコロコロ変わると、見ていても愉快だし、楽しいよね?だけど、演奏でやってはいけないのは、こーんな顔」。
と言いながら、眼にも口にも全く表情のないボーっとした顔を書いてあげると、幼い子供たちは特に喜びます。

「ね?こんな風に、ボーっとした演奏は、聴いていても、あの人何を思って弾いているのかしらん?と、弾いている人の思いが、ちっとも伝わってこないから、聴いていても、アーァ、退屈ってあくびがでちゃう。音にもそれと同じように、表情が沢山あるのよ。それを多彩なニュアンスのある演奏というの」

「又、不思議な事に、鳴っている音にだけ表情があるのではなくて、特に音のない休符の部分や音と音の間に、ニュアンスは沢山生まれるのよ」とも説明します。

ドはドでしかない、と思う人は多いかもしれません。しかし、ドはその時の調性によってもハーモニーによっても全く、違うドに変化するのです!

周りの色に合わせて身体の色が変わるカメレオンみたい!!だからピアノの音っておもしろい。

C−durの時のドとC−mollの時のドとでは、天と地の差ほどの色合いの変化があります。黄色でもオレンジに近い黄色やレモンに近い黄色、太陽のまぶしい黄色、クリーム色に近い黄色・・・・限りなく色合いが沢山あります。又、黄色がどんどん濃くなって赤みが出てきてオレンジになったり、オレンジが又、優しく変化して、柔らか味のあるサーモンピンクに変わったり・・・・・。

音に対して色のパレットを沢山持てるようになると、必ず、演奏が表情豊かになります。

無表情な演奏にならないよう、ピアノを弾くことだけに、没頭しすぎないように、ピアノの音だけを聴くのではなく、特に歌をうたうこと、上手な歌手の歌を聴く事、オーケストラを聴くこと、詩を読んだり、絵を見たり、バレエを見たり、パントマイムを見たり、あらゆる芸術に沢山触れて音楽をとらえていって下さい。


平成24年5月15日(水)レッスンのトラウマ・・・・

今朝、夢を見ました。まだ、私は留学生で、場所はウイーン国立音大で毎週レッスンを受けていたお部屋。私の師事したローラント・ケラー先生から、何やら怒られています。
「一週間の間、何をやっていたのですか?研究が何一つなされていないじゃないですか?」とご立腹の様子・・・・・
私は、ええと、ええと、・・・・と一生懸命なぜ、研究できなかったかを考えたところで、目が覚めました!!
それこそ、カフカの「変身」のように、「私は朝起きたら、虫になっていた・・・・・」じゃあないけど、ああ、恐かった・・・・・・・・
夢で良かったー。(笑い)冗談じゃなくこういう夢でうなされる事が多いのです。

私が見る夢は、たいてい、ピアノの先生から怒られているか、本番の舞台で、全く暗譜出来ていないのに、オーケストラが最初のイントロを弾き出した、でも私は、その曲を全くさらっていなくてステージに出ているから、全く弾けない・・・・・とか、音楽高校、音大時代のピアノ実技試験の場で、全く暗譜していない曲を弾こうとしている・・・・という恐い夢で汗びっしょり、という夢をよく見ます。学生時代のレッスンや試験が相当トラウマになっているようです。

いっておきますが、ケラー先生はちっとも恐い先生ではありません。怒られた事もないし、優しくて、いつも私の事を気にかけてくださるようなそんな暖かい先生でした。
それなのに、恐い夢を見るということは、生徒にとっては、先生の前でピアノを弾くということが、どんなにプレッシャーになっているかが想像できますね。

私も、生徒達に、めったに怒ったりすることはないんですが、そんな夢を見たりするのかなあ?そんな夢で生徒達がうなされていないことを祈りたいです。(笑い)


平成24年5月13日(日)亜麻色の髪の子供?ん?

めぐみ先生へ

「私が亜麻色の髪の乙女を弾いているとどうしても「こども」になってしまいます。「乙女」の音が出ません。先生のように弾くにはどうすればいいでしょうか?」

今日レッスンに来た生徒のレッスンノートを読んで思わず、吹き出しました。それと同時に、子供らしくてすごくいい表現だなあと感心してしまいました!
彼女が、名曲中の名曲、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を弾いていて「乙女」ではなく、「こども」になってしまうといって何回も何回もああでもない、こうでもないと悩んでいる様子が手に取るようにわかります。

亜麻色ってどこの国の人?どんな乙女なの?色んな疑問がわいてきますね。ピアノを弾くのは、その国の歴史や文化も一緒に学べるから、すごく楽しいですね。もともとは、ルコント・ド・リルの詩集に含まれる同名の詩にインスパイアされて書かれた詩だといわれています。

「スコットランドの美女」だということですが、大まかに内容を見れば、亜麻色の髪の乙女を知り、乙女に恋をして、告白しようか葛藤し、夢から去っていく、結局片思いのまま、結局気持ちは伝えられず・・・・・というようなストーリー。

私は、彼女に言いました。「○○ちゃんが、絶対に手に入らないと思う世界を音で描いてごらん。それは、遠くの世界にあって、自分の手には永遠に届かない所にある。求めても求めても手に入れられないものを求める気持ちをこの曲は表現したいのじゃないかな?」

「なぜ、人は、歌いたいのか、楽器を弾きたいのか、踊りたいのか、あるいは、描きたいのかな?絶対に自分の手には入らない、それがわかった時に人間は、苦しみ、悩む。そこで、葛藤が生まれる。その葛藤から、全ての美しい芸術作品は生まれているのよ」。

小学生の彼女が真からその言葉の意味を理解してくれたかどうかはわかりません。私の大好きな画家のルノワールは、よく絵は何が何でも美しくなくてはならない、なぜかといえば、あまりにも現実社会は汚れているからだといった内容を言っていたそうですが、その言葉に大変共感します。
汚いものは見たくない。現実はあまりにも汚いもので溢れかえっているから、芸術ぐらいは、手に入らないほど美しくなくてはならないというのは、ピアノを弾く人も常に心がけていなくてはなりません。

そこで、彼女に「この曲のポイントはやはり、16分音符にあると思うよ。出だしがすごく難しいよね?レーシソのシソ、とかミーソシのソシが、ゴツゴツしていたり、パンパンしていたりすると、「こども」が出てきちゃう。「乙女」にするには、その16分音符がもう、とびっきり柔らかくて、優しくて、なんか、もうホレボレしちゃうような、そんな音で出てこれると、「乙女」に近づくよ。」

そう伝えました。まだ、表面的かもしれませんが、彼女なりの「乙女」を精一杯思い描こうとしている姿に、心から感銘を受けました。

彼女だけではありません。男の子も一生懸命、音で乙女を描くのに試行錯誤しています。まだ、みんな、小学生、中学生と若いので、心から、誰かのことを本当に好きになる気持ちや、あるいは、絶望感、喪失感にうちのめされて、全身をかかえて泣くほどの胸をもぎとられるような苦しみや、悩みはないかもしれません。
しかし、大人に近づくにつれて、誰しもそんな日がきっとくるはず・・・・・・そんな葛藤が芸術に生まれ変わるのです。

大人になったとき、そんな思いになったとき、先生が昔、何かわけのわからないことを自分に一生懸命話してくれたなあ、あの時は意味がどうしてもわからなかったけれど、・・・・・・と思い出してもらえれば、嬉しいです。


平成24年5月10日(木)歌う事とは?

ピアノを学んでいるほとんどの学生さん達が、先生から毎回のようにいわれる言葉、「歌う事」について書いてみます。

歌う事は、音楽の原点であり、これなくしては、音楽の意味が全くなくなるわけですが、とりわけ、ピアノで歌う、という事が大変に難しいのは皆さんも承知の通りです。

私も音楽学生の頃、友人とこの「歌う事」について何度か話し合った事があります。
ピアノ科の生徒は、皆、歌う事に悩んでいましたが、そうではなく、声楽科の子もやはり、同じように「歌って!!」と注意されるわよ、と話しているのを聴いて、器楽だけでなく、そうか、皆どうすれば、歌えるかで、試行錯誤しているんだなあと感じてもいました。

歌が専門の子でも「歌っていない」という、その意味、わかりますか?
歌には、心があるということを知らないまま歌っている、そういう歌い方を「歌っていない」といわれるのです。

セリフ棒読み、台本丸覚えのような話し方。
歌っていないのは、そういう話し方をするのと同じ事です。

又、自分では、歌っていると信じ込んで、身体をくねくねさせて、頑張って弾いていても、音そのものが歌っていなければ、それもまた、歌っていることにはなりません。

歌うのは、身体を動かす事でもありません。
歌うから、自然に身体が動く、ならいいのですが・・・・。身体の動き、手、腕、その他全て頭のてっぺんから足の先までが歌心というものを感じてなくては、音楽とは関係のないばらばらの動きになってしまうでしょう。

そのために、自分の演奏を遠くから客観的に聴けるようになる事が重要になってきます。
細部にわたっていくら、丁寧であっても、全体を見渡した時に、あるフレーズだけが、強調されすぎて不自然になっていたり、テンポの面でも最初始めたテンポより遅くなっている、とか、呼吸が短くなってきて、どんどん前のめりになっているとか・・・・。
全てが、その人から出てきた、アゴーギクでなければ、表面的にとってつけたものになってしまえば、又、歌って聴こえません。

6月3日の弾き合い会は、そういった意味で、沢山の仲間の演奏を聴けるとてもいいチャンスです。

自分が注意を受けなくても、お友達の演奏で、先生から注意を受けている言葉を自分にも注意されていると思って聞いていって下さい。

自分が注意を受ける時は、直すのに必死で、客観的に聴けませんから、他人の演奏を聴くと、自分の演奏もよーくわかるようになります。
だから、ある程度弾けて来たら、グループレッスンはとても良い効果を生み出すのです。

門下生の方なら誰でも聴いて行ってください。もちろん、門下生で新しく入ってきた生徒さんも是非聴きにきていいですよ。

又、来年受けてみようという生徒さんも聞きにきてください。(ただし、私の門下生だけに限ります。外部の方はご遠慮ください)。


平成24年5月8日(火)心の声が聴きたい

ゴールデンウイークもあけてPTNAの弾きあい会も一ヶ月後に迫ってきました。
ほぼ、皆、暗譜出来る状態になってきたので、1人1人録音させて色んな人の演奏を聴かせて自分の音楽との違いを感じてもらっています。

この時に、「自分のは、フレーズ感がなく音楽にまとまりがない」「音楽が足踏み状態で、前に進んでいかず、止まっている感じ」「バランスが悪い」とか、みんな結構厳しく自分の批評をしてくれる子もいます。

よくある演奏が、「指練習をしているような演奏」すなわち、「歌が感じられない演奏」とか、「何を表現すればよいのか、わからない演奏」です。

つい先日、指揮者の広上淳一先生が東京音大の指揮科クラスのレッスンをしている番組があり見ましたが、実にいいレッスンをされていましたね。

歯に衣着せぬ批評が素晴らしい、と、とりわけ思いました。「君は頭が固い方か、柔らかい方か」とか、「頭が固いのは、音楽だけでなく人間関係をとる時もそうなんじゃないか」とか、その人の内面まで、深く踏み込んで注意されます。
それを、ピアノのレッスンのように、1対1ではなく、大勢の学生や先生方が聴いているところでいわれるので、すごく、傷付きやすい人だったら、大変だろうなあとも思いました。

しかし、プロとして何百人もの人を率いるオーケストラの指揮をするには、それくらい、何てことないという心がなければ、駄目だとおっしゃっていてその通りだと思いました。
だから、指揮台は死刑台ともいわれているとか。

しかし、思い返してみれば、自分が小さい頃から受けてきたピアノレッスンによく似ていて、今思えば、何を言われても平気な人間でなければ、音楽の世界で、プロとしてやっていくことは、難しいのだという事を教えて下さったのだ、有難かったなあと先生の愛を今更ながらひしひしと感じています。

「君は上手く何かをしてやろうとか考えてないか?」「なぜ、もっと音楽が好きだ、ただただ、音楽は素晴らしいと思っている心を全身で、さらけ出さないんだ?」といわれ、その学生さんは困っています。

広上先生の気持ちもわかるし、その学生さんの気持ちもよーく分かります。
あちこち、キューを出したり、指揮にも色んな技術があるから、手を動かす事にとらわれていると、音楽の素晴らしさを表現するどころではないのだろうと思います。
演奏するという事は、自分と向き合うことだともおっしゃられ、大変共感しました。
自分の出来れば人に見られたくない部分や、欠点、弱点をことさら、全部解き放った時に初めて音楽の素晴らしさを相手に伝える事が出来るからです。
すごく勇気がいります。

しかし、勇気を持てないと、音楽が「学校のお勉強」みたいに面白くありません。

心をさらけ出す、これは音楽の世界では非常に大切ですね。


平成24年5月4日(金)閉じた眼

先日、今春から東京の音大に進学した音大生が帰省して久しぶりにレッスンに訪れ、元気な顔を見せてくれました。

コンクールを受けるとかで、武満徹さんの「閉じた眼」を持ってきて弾いてくれました。

この「閉じた眼」は私も彼女と同じ年齢の頃に練習してすごく懐かしい曲なので、まさか、自分の生徒が弾くのを私がレッスンすることがこんなに早く来ようとは予想も出来ませんでしたから、とても嬉しかったです。

この曲を私が弾いたのは、アイルランドで開かれたダブリン国際コンクールの本番で。書類審査が通ったので、そのための準備として、自国の作品を一つ入れると、絶対ヨーロッパの人は喜んでくれるので、準備して持っていきました。

そもそものきっかけは、私が桐朋時代にお習いしていた先生が武満徹さんと非常に親しかったこともあり、先生から、雨の樹素描、フォー・アウェイ、ピアノ・ディスタンス、遮られない休息、リタニ・・・・・・他、全ての曲を聴きなさいとアドヴァイスを受け、一番私が気に入った曲がこの「閉じた眼」でした。

研究の結果、武満さんがすごく大切にされていたのは、「あなた(演奏者)がどう思っているかを知りたい」それでした。

私の武満さんのイメージは、何よりもルバートの感覚が必要不可欠ということです。
ヨーロッパの音楽家はそこにリズムを絶対見てしまうと思うのですが、武満さんの音楽には垂直な線ではなく、流動的なルバートが必ずあって、リズムも流れの中に漂っています。すごく日本的だと思うのです。

だから、確かに譜読みは苦労したけれど、慣れてくれば、やはり、日本人の血がそこに流れていて、非常に弾きやすい。もちろん、ウィーンでも弾きましたし、やはり、ヨーロッパの人達にすごく感動されますね。

やはり、自国の曲は弾いていて自分にぴったりくるものがあるし、さまになるのでしょう。

先日の彼女は、少し、西洋的にリズムの垂直な線を感じて弾いていたので、もっと、想像力を磨いて、響き、音色、感触とか、感覚的に、柔軟に、といった事をアドヴァイスしたのですが、一回で、演奏がガラッと変わって、勘が良いなあと感心しました。

自分の弾きたかった事がイメージ出来たようです。一回のレッスンで音楽の方向性がつかめるとはさすが、大学生ですね。
武満さんがおっしゃったように、突き詰めれば、演奏とは「あなたがどう思っているかを知りたい」それに尽きると思います。

↑鶴舞公園は、お花が綺麗です。


平成24年5月1日(火)諦めきれない事は、生きている間に・・・・

ゴールデンウィークが始まっていますが、普通にレッスンもありますし、学校もあるので、ゴールデンウィークという感じはしません。

そういえば、生徒から、「めぐみ先生はゴールデンウィークにどこかへ行きますか?」と尋ねられたっけ・・・・・。
どこかへ行くといっても休みの日はかえって人が多くて疲れてしまうので、人混みが苦手な私は、家で、のんびりとピアノを弾いている方が楽しいです。

今日、明和へ出勤する前に、門下生コンサートのDVDのサンプルを幹事さんが持って来て下さったので、見ました。
何回見ても、字が間違っていたり色々と間違いが見つかるものですが、皆さんが首を長くして待っているだろうから、もう早速本刷りに仕上げて頂くようにしました。
あと、少しだと思いますので、皆さんお待ち下さいね。

先日、門下生コンサートに見えて下さったご年配の方がレッスンにいらっしゃいました。
この方は、私の門下生たちの演奏を毎年楽しみにして下さっていて、もうかれこれ、6年、毎年続けて聴きに来てくださっているとの事です。
門下生達の小さい頃からの成長を楽しみにして下さっている大ファンの方で、この前どうしても私のレッスンを受けたいとの事で、いらっしゃいました。
正直に言って、受験生や音楽専門に勉強している学生ばかりが主体なので、ちょっと気が進まなかったのですが、その方の第一音を聴いて私の心はガラッと変わりました。
その方が弾いて下さったのは、ランゲの花の歌、そして、ショパンのノクターンの2番。
今までに聴いたことがないくらいのゆっくり、ゆっくりしたテンポで弾かれたのですが、その一音一音に心がこもっていて、そのどれもに魂がこもり、私の胸に沁み通り、涙が溢れてきました。

6年間も私のレッスンを受けたいと待ち続けて下さったその方の忍耐にも頭が下がりました。
「年をとるともう先が長くないと思い、人生が忙しくなってきましてね・・・・・あきらめきれない事は、生きているうちにやっておかなくては。厚かましいことを承知でお願いします。先生には一ヶ月に一度でも、いえ、3ヶ月に一度でもいいから少しの時間を私に分けて頂く事は出来ないでしょうか?」とピンク色に紅潮した頬が
少女のように可愛らしいご婦人のお言葉。

人生が忙しくなってきた、あきらめきれなかった事が私とのレッスンとは・・・。親子程も年齢の違う人生の大先輩からそんなお言葉を頂き
、感激で胸が一杯です。若い時は、まだまだ先があると思って、無駄なことも沢山してきますが、年をとると、馬鹿げたことに時間を費やすのがもったいなくなるというのは仰るとおりです。
ピアノを弾いて来たおかげで素晴らしい愛の豊かな方々とお知り合いになれ、皆様に感謝感激です。

神様がピアノを通して、色んな人と出会いなさい、人生勉強をしなさい、と私をここへ連れてきて下さったのだなあ、つくづく私の天職だなあと感じている今日このごろです。