平成23年7月31(日)C級小学6年生全国決勝大会へ

今日はPTNAの本選が始まりました。

C級小学6年生全国決勝大会へ進出。

同じく小学6年生優秀賞、小学5年生2人優秀賞でした。

皆さん、素晴らしい好成績を残しておめでとうございます。
私も、来週から、審査に出かけるので、全国各地の同じように頑張っているピアノ学習者の皆さんに出会えるのがすごく楽しみです。

日本の暑い夏に一生懸命ピアノを練習して本当におつかれさまと皆さんに言ってあげたいです。

笑いあり、涙ありだったと思いますが、人生の一コマを彩ってくれる素敵な夏の思い出になったのではないかなと思います。

まだ、後に続く参加者の皆さんも是非、のびのびと弾いて来てもらいたいです。

私の所では、本番前に生徒達1人1人にやってあげるおまじないがあります。

そのおまじないを私がたまに忘れると、生徒の方から、「先生、おまじない・・・・・・」。と催促されます。(笑い)
みんなやはり、最後はそういうものの力を信じるのですね。何かを信じる、頼れるものがあるということは、生きていく一番の助けになりますから、一生懸命努力をしたら、あとは、そういう事も私がやって、安心させてあげるように努めます。

ピアノを教えていくだけでなく、1人1人が私を思い出して本番、安心して演奏が出来る、それが一番大切と思っています。


平成23年7月28日(木)うさぎとかめ

来週、大学の学生達のピアノの試験があるので、昨日リハーサルをしました。今回は、みんなが好き、弾きたいと思った曲を各自で選んでくれたので、前回の時よりみんな生き生きと楽しそうに弾いてくれましたので、聴いている方も気持ちよくなれました。
そこで、気付いたのは、どちらかといえば、結構よく弾ける子が油断して、あまり練習せず、あまり器用に弾けない子の方が一生懸命努力して、最終的に上手く弾けるようになっていたことでした。
一通りみんなの演奏を聴き終わった後、私はこんな話をして聞かせました。

「ねえ、みんな幼い頃読んだ、うさぎとかめのお話は知ってる?かめはのろいけど、油断したうさぎが昼ねしている間にのろのろと歩いていって、結局ゴールに早くたどり着いたのは、かめだったでしょ?ピアノの演奏もそれと同じ。自分は上手く弾けると思って油断している間に、あまり弾けていなかったような子が着実に力をつけてきて、追い越していくこともよくある。だから、良く弾ける子も、いつでも、油断は禁物」。
学生達、そうだ、そうだ、としきりに頷いています。

才能に恵まれた人は、いつでも、どこでも、自分の力を維持し続けるための努力を怠らず、常に上に向かって進んでいかなければなりませんから、はたから見るとものすごく大変に見えると思います。子供時代は普通の子供のように、遊ぶ事も出来ず、才能があるだけに普通の人がやれる多くの事を犠牲にしなくてはなりません。しかし、どんなに才能豊かな人でも、いい時もあれば、何をやってもうまくいかないということもよくあることです。しかし、それで、苦しくなってしまい、反対にそうでもなかった人が、いつでも努力を怠らず、そうやって苦しくなった人を追い越して成功するという事もよくあることなのです。

私は、自分の生徒達には、どの子も、かめであることを勧めています。特に才能豊かな人は、ついつい頑張りすぎるので、適度に休憩しながら、頑張りすぎずということもとても大切です。人間誰しも、全速力で、何年間も走り続けていたら、絶対身体も精神も破壊されてしまうに違いありません。折角才能があっても、頑張りすぎたために燃え尽きてしまって続かなくなってしまうのは、悲しい事です。

どの分野でも同じだと思うのですが、やはり、長く続けてこそ判ってくることがあるからです。ピアノの練習は、食べる事や眠る事と同じなのです。人間、今日沢山食べたから、明日はもう食べなくていいやという事はありません。どれだけ、食べても、明日にはおそらくおなかがすきます。睡眠も、今日まる1日寝たから、一週間眠らなくていいや、という事も出来ません。毎日、食べて睡眠をとる、それも身体に必要な分だけ。ピアノも食べだめ、寝だめが出来ないように、少しずつ少しずつ、しかし毎日歩みを止めないかめのように、毎日練習しなければ、才能ある人も、普通の人、いえそれ以下に転落していってしまうのです。

ものすごく若い時に、パーっと華が咲いてしまって、あっという間に散ってしまったというような感じよりも、年をとればとるほど、演奏が熟してきて、シワの音が聴こえるというか、人生を重ねてきたその人でしか出せないような味わいのある音、年輪を感じさせる演奏になっていくというのが、私の理想です。

木も棒みたいに真っ直ぐは立っていません。どこか、ねじれたり、横に曲がったりして大きな木に成長していきます。
どんなに苦しい時があっても、又、反対にものすごく上手くいっているときも、常に、一喜一憂せず、焦らず、のろのろと、しかし、着実に歩みを止めないかめのようにピアノの練習を続けて下さい、と大学生達にお話したようなことでした。


平成23年7月21日(木)音楽性

今日は、調律師さんに来て頂きました。その間、生徒達がレッスンに来るまでに日記が書けるから嬉しいです。

ピアノの音について、今日は書こうと思います。音楽性があるとかないとか、歌があるとかないとか、学習者の皆さんがよく聞く言葉だと思います。

音楽を目指している人達にとって、一番傷つく言葉は、音楽性がないという言葉。
よく指が回りますね、とか、テクニックは十分あるけれど、何か面白くない演奏ですね、と言われる事ほど、屈辱的な言葉はありません。

それなら、あまり、器用なテクニックの持ち主ではないけれど、とても味わいのある演奏をしますね、感動しました、と言われるほうがまだ、嬉しいと思うのは、ピアノを弾く人なら誰でもそう願うはずです。

音楽を目指しているのに、音楽性がない、あるいは歌えないとなれば、音楽をやっていても意味がない、と一般にそう早合点しがちです。しかし・・・・・・。

私が沢山の生徒達を見てきて確実に言えるのは、始めから音楽性のある子供はほとんどいないということ。

これだけ沢山見てきて今までに、1人か2人くらいしか、いわゆる音楽の歌を本当に「持っている子」は少ないのです。
そういう子供は例えば、4歳で、大人でも難しい漢字だらけの新聞をすらすら読んで理解するような、どこか、片寄った、特殊な能力を持っているだけにすぎません。

そして、具合の悪い事に、「持っている子」というのは、私が見る限りあまり、努力をするタイプではなく、才能がすごくあるにも関わらず、平気で、ピアノをやめてしまったりもします。
だから、音楽性は長年かけて、膨大な曲に触れ合って勉強していくうちに培われていくものと思った方が良いのです。

又、歌いたいのだけど、どう音に反映させてよいかわからない、と言って悩む人も多く見受けられます。
そこで、大切なのが、「音そのものが歌う」事の大切さ。

あちこちで、審査をしていると、子ども達がいかにも全身で音楽を表現するかのように、時に目にうるさいほど、身体や腕や頭などひっきりなしにクネクネクネクネ揺り動かして弾いています。

しかし、音をじっくり聴いていると、多彩な変化に乏しく、見た目とは裏腹に、とても単調で一本調子に聴こえ、音自体は全く歌って聴こえない、そんな演奏は音楽的、歌っているとは言わないのです。

では、音が歌うにはどうすればよいのでしょうか?ここで、お勧めできるのが、素晴らしい歌手の歌を沢山聴いて下さい、という事が一番にあげられます。
素晴らしい歌手はまず、音域が広く、喉を締め付けることなく、高音部にいっても柔らかい裏声が使えます。
かといって、柔らかいだけでなく、低音部の深々とした、豊かな声も出す事が出来ます。

ピアノでは、正に音色の変化。ずーっと、固まったままとか、柔らかい音だけとかいうのは、やはり、一本調子に聴こえてしまいます。

締めるところは、パリっと締まり、柔らかく今にもとろけてしまいそうな柔らかさが、タッチや腕や肘のコントロールで、多彩に変化を出せると、聴いていて飽きません。又、音から音の間が腕が固くて音が伸びないと歌ってきこえない原因の一つになります。

音そのものを歌わせるには、まず、よく音を聴かなくてはなりません。身体を動かしすぎたり、心がざわついていると、歌っている音かどうかも冷静に聴けなくなってしまいます。

音そのものが語っている演奏が出来るようになるには、ものすごく長い年月と時間を要するのです。
音楽がない、とか、歌がないとかいわれて簡単にあきらめてはいけません。


平成23年7月17日(日)筋肉で音を聴く

今日もPTNAの予選がありました。D級中学2年生1人、同じく中学1年生2人、C級小学5年生1人、全て優秀賞、全員予選通過です。
暑いところを皆さん、長い期間、本当にお疲れ様でした。


夏休みも近づいてきました。学生さん達は嬉しくてたまらないと思います。

今日は、私がよく生徒達に話す「筋肉で音を聴いて」という事を書きます。

皆さんは音楽を聴く時、自分の筋肉の変化を感じたことはあるでしょうか。
それとも、ただ漠然と、あー、音楽が流れているなあ、という感覚でしょうか。

生徒さん達にいつも私がアドヴァイスすることは、「音楽を表面的に聴かないで、中身を聴きなさい」という言葉です。
まだ、初心者の方には、この言葉が何を意味するのかよくわからない人も多いと思います。
しかし、長年音楽に触れてさまざまな芸術分野を幅広く知ると、この言葉の本当の意味がよくわかるようになります。

ある程度まで、美しい音を出すにはどうしたらよいか、フレーズ感はどのようにするか、多彩な変化を持たせるにはどうすれば良いか、技術的、音楽的な面を生徒達に教えてあげる事は出来ます。

しかし、芸術的な面は教える事が出来ません。
なぜかといえば、一言で言えば、悲しくもないのに私といっしょに泣いてください、と頼んでいるようなものだからです。

演奏する人自身がその音楽を感じていなければ、どうする事もできないのが芸術面です。

だから、演奏している人の手をとって筋肉の変化を伝えられるといいんだけどなあ!と教えながらもどかしく感じることもしばしばです。
これが、書道だと書く人の手を握って、「打ち込んですーっと払って抜く・・・」とか言って一緒に書けるのですが、ピアノはそういうわけにはいきません。
たった一音の音を出すために手を持って力加減を伝える事なら可能です。

でも・・・・音が動き出し、指が早く動くときに、ここは筋肉が段々盛り上がっていく感じ、ここからは、筋肉がゆるむ感じ・・・なんて一緒に手を持ちながら弾いてあげる事は不可能です。

弾きながらの呼吸も同様です。

ここは、吸うところなんだけどなあ、息をゆっくり吐いているところなんだけど・・・・・。歌っていれば自然にそうなるのだけどなあ・・・。
ありゃりゃ、吸ったまま肩をあげて窒息しそうになりながら弾いてる(笑)とか、色々あります。

こういう時にやはり、どれだけ、観察力があるかどうかがポイントになってきます。
書道で言えば、私がお手本をまず弾いて示します。
すると、私が伝えたい音を表面的に聴いている子と、その中身を聴ける子とでは、随分上達度が違ってくるのです。
真似が上手い人は上達もとても早いです。

タレントのコロッケさん、美川憲一さんとか淡谷のり子さんとか、森進一さんとか色んな物まねをしてお客さんの笑いをとっていますが、本当に上手い。
顔や衣装をそっくりそのまま真似しているのではなく、
その人の特徴をすごくよく観察しているから、見ていて本当によく似てるー、面白い!!と笑えるのです。

前にも書きましたけど、書道のお手本を見る時にただ、ぼーっとして見ながら書く子と、書いた人の筋肉の力、書いている時のスピード感、書いている人の呼吸まで、感じとりながら、観察して書く子とでは、随分上達が違ってくるわけです。

そうやって芸術面を磨いていくと、あらゆる芸術が全て一つにつながっていくことに気付かされます。

バレエだって、絵画でも彫刻でも、作る人の「命」がそこには、通っています。

イタリアなどにある素晴らしい彫刻を見ると、もう何百年も昔の作品なのに、その筋肉からは、今にも血があふれそうな脈を感じる、レンブラントの書いた目は今、正に自分に語りかけてくるような真に迫る目だとか、感じる事が出来ます。

そのいずれもが、何かを題材にして芸術作品が生まれるわけですが、絵を描く人なら、描く人が、踊る人なら踊る人が、彫刻を作る人なら作る人が、その題材の中身を非常によく観察し、呼吸まで、感じているから、素晴らしいものには、脈が、筋肉の変化が感じられるのです。

従って多彩な音色の変化、メリハリ、音楽の立体感もそこから生まれるわけです。

ピアノを習っている人達もその筋肉で、音を感じ取る事が出来るまで、是非とも続けて欲しいと思います。

綺麗に間違える事なくきちんと弾けた、だけでは駄目なのです。


平成23年7月14日(木)皆さんの近況を知ることが出来る良い機会

生徒さんの保護者の方々には私のリサイタルの件で色々とご協力下さいまして大変お世話になっています。

皆さんチラシを置きにあちこちのホールや楽器店にお配り頂いたとメールを頂き有難うございました。
チラシを置きに行って下さったお母様から、楽器店に勤めている方が明和出身の方だったとか、明和高校の卒業生のその後の様子も聞けて大変嬉しく思っています。

又、昔教えた生徒達や、色々な方からお返事を頂くと、皆さんの近況がよくわかり懐かしくお手紙を読ませて頂いています。

何年か前に60代か70代だったか忘れましたけれど、新聞の投稿欄に載っていた年配の女性の投稿をふと思い出しました。
確か昔小学校か中学校かの教師をされていた方だったと思いますが・・・・・。

その方は、もう人生、後少しとなってきたこともあり、昔担任をしていた教え子達に1人1人今どうしているか尋ねるためにお手紙を書いたそうです。
すると、1枚、そして又1枚、と毎日のように昔の教え子達からお返事が来て、それがすごく楽しみとなっていて、ほとんどの生徒達から返事が来て教師冥利に尽きる、しかし、返事がこない人は何かあったのではないかと心配している、といった内容でした。

私も、人生折り返し地点の年齢に達しましたが、今だに、小学一年生の担任の先生に毎年必ず年賀状を出しています。
又、幼稚園(5歳)の時からの幼なじみの友人も今だに交流があります。

勿論私の周りは、皆、結婚して、家庭を持ち、娘さんや息子さんを立派に育てている人達ばかりです。

幼なじみの友人の娘さんもピアノを一生懸命にやっているみたいで、そういう話を聞くと嬉しくてわくわくします。

私の友人もピアノを習っている人は多かったので、又その子供さんもピアノを習わせている人も多くそうやっていくと、人と人とのつながりは絵巻物みたいにずーっとずーっとつながっていくのだなあと思うとすごく不思議な感じです。

私がリサイタルを開くことで、又、昔の知り合いの方々が今どうしているのか、聞く事もでき、そういう意味でも良かったなぁと思っています。


平成23年7月9日(土)コンクールの結果で、自分の価値を決めないで

今日もPTNAの予選結果の報告が次々とありました。

C級=小学6年生3人、小学5年生1人の全て優秀賞、全員本選へ通過します。

その中の小学6年生の1人は代表で、新名古屋支部賞を頂いたと大喜びです。
皆さん、おめでとうございます。

昨日、本番直前に来た生徒から、質問がありました。
本番で緊張しないコツがあったら、教えて下さい、という内容。
私は、「それがあったら、先生が教えてほしいな」と。(笑い)いえ、冗談じゃなく本当にそうです。「先生もすごく緊張する」。
そして、こうも続けて言いました。
「緊張するという事は、それだけ、音楽に対しても自分に対しても厳しく、責任感が強いという事。
才能のある完ぺき主義の人に多いわね」。と。

そうです。物事をどうでもいいや、と、とらえていれば、緊張なんてしませんから、緊張するという事は音楽に対して強い愛情を持っている証拠、才能のある証拠なのです!!

しかし、才能があっても、あまりにもそんな風に自分を追い込んでしまって、本番で良い演奏が出来ないとなると悲しいですよね。
そういう人には、これで、自分の価値が決まるわけではない、と思って、のびのびしていなさいと言っておきました。

全ての生徒達に言っておきたい事ですが、コンクールはピアノを一生懸命に練習している途中の通過点であって、それで、その子のピアノ人生が決まってしまうわけではないという事をはっきり言っておきたいと思います。

私が見てきた生徒達の中でも、コンクールに入って、勿論音楽の道でやっていけるなぁと確信出来る人達も沢山います。

しかし、コンクールに入っていても、大人になった時、どこかで、つまずくだろうなというのもわかるのです。

音楽の器が広ければ、実力があれば、必ず報われるのもこの世界。

コンクールも、頑張りたい人は多いにやっていいと思いますが、その結果で、一喜一憂しないで、地道な努力を毎日していく事。
力をつけて、音楽の器を広く、大きくして下さいと生徒達には言っています。


平成23年7月3日(日)PTNA予選通過報告

今日も蒸し暑い一日でした。
昨日と今日で、PTNAのG級高校2年生、D級中学2年生、中学1年生、C級小学6年生2人、小学5年生1人  計6人
全て優秀賞で、予選通過と喜びの報告がありました。

暑いのに皆さん大変でしたね。

昨日、今日いらした、生徒さん達から、私のリサイタルのチラシをお配りしていますが、皆さん、快くお引き受けくださって本当に有難うございます。
昨日も今日も、レッスンに来てくださったお母様方が私のリサイタルのチラシを配って下さると仰ってくださり、感謝しています。

今年の幹事様からも、チラシをお配りしましょう、とメールを頂きました。皆さん、ご協力有難うございます。


平成23年7月1日(金)10月1日のリサイタルを控えて思うこと

10月1日(土)電気文化会館ザ・コンサートホールで開催予定の(PM4:30〜開場 PM5:00〜開演)私の8回目のソロリサイタルのチラシが出来上がりました。

プログラムはショパンマズルカOP.24、グリンカ=バラキレフひばり、ドビュッシー夢、ロマンティックなワルツ、バラード、マズルカ、そして、ラフマニノフ楽興の時OP.16です。

今日、愛知県立芸術大学に今年晴れて入学出来た1年生の生徒が久しぶりに顔を見せてくれました。

とても元気そうで、自分の希望の大学で勉強できて充実そのものといった明るい笑顔で本当に嬉しかったです。

彼女は快く、県芸やお世話になっている四日市の第一楽器さんにもチラシを置きに行って下さるとの事で本当に感謝しています。
有難うございました。

前回2007年のリサイタルから、4年ぶりのリサイタルとなります。
生徒達の面倒を見ている間にあっという間に時が過ぎた、という感じがします。

その間に本当に色々な事がありました。

まず、留学中の恩師に10年ぶりにウィーンで再会できた事、フランスに行った時に御一緒した方と偶然お知り合いになり、そのお孫さんがレッスンに見えて大喜びしていた矢先、まだお若いのに突然亡くなられ、私達は大ショックを受けたこと、そのお孫さんが、つい最近、大変な手術を受けられ、半年近く入院生活を送られたけど、今では、又元気に復活して、レッスンを再開できて、来年の10周年門下生コンサートに出演出来ると今からとても心待ちにしているようす・・・・、

又、4年間の間の生徒達の成長は目覚しく、日々楽しみでなりません。
1人1人の生徒達は私の生きる原動力になっていて宝物のような存在です。

そして、何といっても今年に入ってからは、戦後最大の大震災が起き、心を痛めているのは私だけではないはずです。

今もあちこちで、余震が続いています。
そして、この異常な猛暑。原発問題。何が起こってもおかしくないような感じで、環境が破壊され続けています。

このように、たった4年間の間でも確実に物事は変化し続けるのですから、私の演奏も生徒達の演奏も刻々と秒刻みで変わって変化し続けています。

私は朝起きると、すぐ自分のレッスン室に向かってピアノを練習するのが、毎日の日課です。

人生の半分をそうやって過ごし、これは、今までも私自身が生きている事を確認する儀式でもあったんだなあと思っています。
変わっていない事といえば、毎日ピアノを練習するという事くらい。

昨日できた事が、今日も同じようにやれるとは限りません。
だから、ピアノを弾いて確認します。今日も私は生きている、両手が動いている、と。

当たり前と思っている事全てが実は全て奇跡的に素晴らしい事の連続なのです。

だから、いつも私がリサイタルを開く時は、次のリサイタルは・・・など未来の事は予測しません。
次回は、ないと思ってこれまでも一回一回を大切に心をこめて全力を尽くして弾いてきたつもりです。

人の命だって明日どうなるかもわからないのです。
いつも、これで、最後、その最後を精一杯生きよう、というつもりで、今回のリサイタルにも望むつもりです。

音を出す瞬間もこの世の終わりで、一番最後に出す音と思えば、限りなく優しい気持ちで慈しんで弾きたいと強く願わざるをえません。

その日は私の母の丁度誕生日です。私の全てのサポートをしてくれる母や生徒達にこれまでの感謝の気持ちを込めて演奏出来たらと思っています。

4年間の間、生徒達を「育てた」と私が言うよりは、生徒達に「育てて頂いた」というのが今の本当の気持ちです。