平成平成23年3月29日(火)いつまでたっても仕上がりはないのがピアノ演奏

今日は、午前中から、調律師さんに来て頂いてスタインウェイの方を調律。

この前それこそ、大地震の時に、ヤマハの方をして頂いたので、ピッチが狂い放題で、生徒さん達には、ご迷惑をおかけしたと思います。

スタインウェイは音も狂いやすく、調律している間にも狂っていくので、しょっちゅう調律が必要で大変です。
調律師さんに、地震の時にピアノの下にもぐるのは、一番危険だという事は以前にもお聞きしていましたが、なぜ危険かといえば、足がへしゃげて折れるそうです。

すると、ピアノは重いし、頭の上に乗ってきたら、大変な事に。
阪神淡路大震災の時にやはり、そうなったのと、アップライトピアノなんて、あっという間にバーン!!とぶっ飛びますから、つくづくピアノの部屋は危険だなあと思いました。

さて、門下生コンサートも終わり、皆さんからのご感想をとても嬉しく拝見させて頂きました。
生徒達もとても楽しかった様子で、新しい生徒さん達に多かった声は、今まで1つの曲をこんなに長い間掘り下げて研究した事はなく、本番で綺麗に弾くためには、ここまで細かく研究しなければならないのだとわかり、とても良い勉強になった、とか、

一つの曲をこんなに根気強く練習出来たのは初めてで、弾いた後ものすごく達成感があって、今までで一番良い想い出だった、とか

今までにない体験が出来たようで、私もとても嬉しく思っています。
私は、ピアノ演奏のように、本番が一回限りのもので、どうなるかわからない予測不能な事は、「練習」と毎日の「研究」に最善を尽くす事が大事だといつも生徒達に言っています。
もちろん、私自身も学生の頃から、ずっとそうしてきています。

弾いた後で、練習不足、研究不足の演奏をすると、後味の悪い、いやぁな気分だけが残ります。
誰も、そのことで責めたり、文句をいう人はいないと思いますが、自分の心にいやな想い出として残ってしまうので、そういうのが私は大嫌いなのです。

小さい時から「練習しなさい」と先生からも親からも怒られた事は一度もありません。
サボろうと思えば、いつだって、サボれました。
しかし、練習をしないと、自分の気持ちが許しません。それは、曲がった事が大嫌いな私の性格で、かなり小さい4、5歳の頃からありました。

だから、今でも練習に全てのエネルギーを懸けます。
どの音にも表情がついて、バランスは悪くないか、裏の音が表に飛び出していないか、ポリフォニックな部分は一声部ずつ取り出して弾き、上の声部と中声部が交じって聴こえたりしないように弾き分けられているか、ハーモニー感は?フレーズ感は?ペダルの濁りはないか?テンポ感は?拍感は?ハーモニーの緊張感や、解決がきちんと、相手に伝わるように感じて弾いているか?さまざまなタッチのコントロールによって、醸し出される際限なく表現出来る多彩な音の色合いが生み出されているのか?・・・・・・・・・研究する事は毎日、数限りなくあり、これで、完成したという時は、ずーっときません。

恐らく死ぬまで、毎日毎日こういう作業が続くでしょう。

それを、録音したり、CDの演奏と比べてみたり・・・・・・。あれこれ、そういう練習方法を発見して自分なりに納得のいく練習が出来たとしても、恐らく不完全な部分は山のように残されているはずです。

小さい時の曲なら、どうにかこうにか、完璧に近い演奏に仕上がるかもしれませんが、中学生、高校生、大学生・・・・・となるにつれ、不完全な所が山のように出てきます。

まず、テクニック面での問題。
弾くだけでも精一杯なところは、当然、音楽的に自然に聴こえるはずがありません。
又、曲も長くなってくるし、音の数も増えてきて、音楽作りも非常に複雑になっていきます。

中学一年で、習う英語のI am a boyから、突然難しくなって、いきなり、知らない単語だらけの長文読解をさせられているような錯覚に陥るのが、子どもの曲から、大人の曲に移り変わる時だと思います。

比較的平易な曲の間、小学6年生までの間に、自分で、研究をする事、音楽上での文法をよく理解している事が大切です。

この時期にそれが抜け落ちると、大人の曲になった時どうやって、音楽を作っていいか、わからなくなってしまうので、ものすごく大事な時期です。
音楽上での文法がしっかりつかめていれば、あとは、音の数が増えて、長くなるだけで、全て応用していけるのです。
自分の演奏を客観的に良いか、悪いか判断できるようになってもらう事、最終的に、自力で、先生の力を借りなくても、音楽作りが出来るようにさせてあげる事が指導者にとって、一番大切なことだと思っています。

そういった意味で、新しい生徒さん達が、この門下生コンサートを通して、ほんの少しでも、ピアノ演奏の研究の仕方について、興味を持ってもらえた事が本当に嬉しかったです。


平成23年3月22日(火)愛知県立芸術大学音楽学部合格発表

日本全国で暗いニュースが毎日続く中、それを吹き飛ばしてくれるような嬉しいニュースがありました。

今日は、県芸の合格発表の日で、明和高校で私の生徒だった1人が、この4月から、晴れて県芸の大学生となる事が決まりました。おめでとうございます!!

これから、大学受験に向けて頑張っている人達にも参考になると思うので、私と彼女とのレッスン、そして、彼女が日頃どのように勉強してきたかを、書いてみましょう。

まず、彼女との出会いは、彼女が中学2年生の夏の終わり。私の地元でもある四日市の第一楽器さんから、アドヴァイスレッスンを依頼され、その時初めて彼女にレッスンをしたことがきっかけです。
今でも昨日の事のように思い出します。
その時の第一印象は、とにかく、頭脳明晰、聡明で、何より耳が良く、私がこんな風に、と弾いて示すと、すぐそれが反応出来る子でした。

その後、明和高校に入りたいから、どうしても岩野先生につきたいと本人の強い希望で私のところへこられました。

普通お母様の希望で入られると思うのですが、まだ中学生なのに、本人の意志がはっきりしていてすごいなと思ったものです。

そして、これまで、受けてきたコンクールなども本人がどうしても出たいからと自分のお小遣いをためて参加していたという話も聞いて、まだ、中学生なのに自立心が強いなと感心していました。

明和高校に入ってからの彼女の努力は涙ぐましいものがありました。
私と一緒に学んだ明和高校3年間での曲の数は数え切れないほど。膨大な量を彼女はこなしていました。

譜読みも大変早く、私とのレッスンで、聴かせてくれる時に暗譜していない状態の時など一度もありませんでした。

高校2年生からは、大学受験の準備にとりかかり、ショパンのエチュード、バッハの平均律、ベートーヴェンのソナタなど、自分から片っ端から譜読みして、最終的に自分が一番技術的にも音楽的にも完成度が高く弾けるものを選んできて、3年生からは1年間かけて、みっちり受験曲だけに集中して曲を深めていきました。

何が今一番自分に足りなくて、どのように練習していかなければならないかを良く理解していた事、私がレッスンで注意した事が吸い取り紙のように彼女の頭の中に入っていく事など、いつも感心していましたが、それよりも私が彼女を誉めてあげたいと思うのは、私の注意に、とにかく真面目だったということです。
普通、高校生ともなれば、レッスンノートなど書いてくる子はほとんどいません。

もちろん時間も足りないし、私は無理して書かなくていいよ、と皆に言っていますが、彼女は高校3年生の大学受験の日まで毎日きちんと書いてありました。
私とのレッスンの内容、どこを直していかなければならないか、又は、ピアノの事だけでなく明和高校の生活、友達から、こんな事を言われた、など何もかも私に聞かせてくれていましたので、その日記を読めば今彼女の精神状態がどうなっているかを私も深く知ることが出来、レッスンに生かせました。

ただでさえ、遠い所から通っているので、これだけの曲を練習しながら、日記はいつ書いているのかな?電車の中なのだろうか・・・・・と不思議になるほど。

彼女は、今あることの全てに全エネルギーを注ぐタイプで、日記なんてどうせ書いても仕方ないや、とか、物事をわけて考える所がなく、それがとても好感が持てました。
年齢があがるにつれて、人間はどうしても図々しくなってきますが、それが、彼女には全くなく、とっても素直です。図々しくなってきたら、音楽家の寿命は終わりです。死ぬまで、勉強ですから。

良い意味で、すれっからしじゃない。これは大切だからやる、とかこれは大切な事じゃないから、適当にしておけばいいや、みたいなある意味でずるがしこいところが1つもありません。

全てをバカにせず一つ一つ本当に真面目に私のいう事を聞いてくれたことが私にとっては合格以上に、嬉しいことでした。

私もそうでしたが、やはり学生の時は先生のいう事も親のいう事もバカが付くほどの真面目さで忠実に聞くことが出来る人がどんどん上達しますね。

彼女は普段あまりの睡眠不足に練習しながら寝てしまい、ピアノの部屋で1夜明かし、その先の記憶がない・・・・・・という内容の日記も度々で、私は、あまり根つめると続かなくなるよ、といつも彼女に話していました。

私がいつも生徒達によくいうのが、自分の事をよく知りなさい、という事。彼女は明和高校で過ごした3年間の間に、私が貴女はここが良くない、とか直接的には言ったことはありませんでしたし、やいのやいのと怒るような事も一度もありませんでしたが、こちらが言わなくてもちゃんと自分の事がわかるように自然に育ってくれました。

私は、何事も言われなければやらないようでは、その時点で、その面に対しての能力が欠けていると判断します。

出来る子なら、まず、自分から私に言われる前に準備周到でやってきます。
でも、先生が怒らない、だからいいんだろうと勘違いしてしまう子はまだまだ能力不足なのです。
自分を良く知らない。だから、それはそれで、こちらがガミガミ怒っても可哀相なことなのです。
そういう子は、手取り足取り何もかもこちらが手伝ってあげなくてはなりませんが、彼女には明和で過ごした3年間の間、それが1つもなかったと思います。

彼女はこれからも大好きなピアノの道を迷わず歩み続けるに違いありません。今までどおり、全ての事に真面目に向き合っていくでしょう。

何でもない、ピアノの演奏とは直接関係のないようなこと、ささやかな事に対して、真面目な人には、必ず、良い結果が生み出されます。努力している人には必ず、周りが見ています。

彼女はいつも他人に頼らず、自分で学ぶ、という姿勢が培われた明和高校での貴重な財産を胸に、今後更に、素晴らしい大学生活を送ってほしいと切に願っています。


平成23年3月20日(土)門下生コンサートを終えて

昨日、無事に門下生コンサートを終えました。
出演者の皆様、保護者の皆様、長時間の間,大変だったと思います。皆様のおかげで、本当に良いコンサートとなりました。有難く感謝しております。

皆、自分の今持てる力を充分発揮してくれて、本当に嬉しく思いました。

演奏後、すごく上手に弾いているのに、ミスをしたと涙ぐんでいる子、弾く前に恐くて不安でたまらない、とか、止まるかもしれないとすごく緊張している子、そういう子たちを見ると、成長してくれたなあと思って本当に嬉しくなります。

自分の演奏はまだまだ、レベルが低いという事がわかるようになると、確実に上手くなっていきます。

良い意味で、完璧主義者になっていくわけですね。
勿論、精神を病むほどの完壁主義になれとは、いいませんが・・・・・・・。
しかし、素晴らしい音楽家はやはり、完壁主義者が多いですね。

モーツァルトだって、ベートーヴェンだって、ショパンも相当な完壁主義者でした。
シューマンだってきっとそうだったに違いありません。だからこそ、あれほどまでに精神がいかれてしまうほど悩んだのです。

自分の演奏にプライドと高い自意識が生まれてくるのを、静かに見守るのが、私の役目かなと思っています。

親という字は木の上に立って見ると書きますが、本人の意識が全くない、聞く耳がないような時は、周りがやいやい言っても本人は知らんぷりというような時はあまり意味がありません。これではいけない、何とかしなければ、と自分が強く立ち上がった時にハイレベルの演奏が可能になります。

小さい子でも人一倍そういう意識の高い子は、泣くほど悔しいと感じますし、まだ意識の低い子はあっけらかんとしています。

どちらがどうという事はありません。
何歳になっても演奏に対する厳しい姿勢が私とのレッスンで、伝わりますように・・・・・と祈りながら、小さな芽が少しずつふくらんでいくのを楽しみに毎日レッスンしていきます。

来年2012年3月20日は熱田文化において、10周年記念コンサートとなります。皆様、楽しみにしていてください。
更に成長を遂げた生徒達の演奏が聴けると思っています。


平成23年3月18日(金)明日の門下生コンサートを控えて

明日はいよいよ、港文化小劇場で、(午後1時半開場2時開演)第9回門下生コンサートが開催されます。

支えてくださる皆様のおかげで、9回目を迎えることが出来ました。
暖かいご支援を本当に有難うございます。

門下生の皆さんは、毎日心をこめて練習してくれたと思っていますので、思い残すことはもう何もありません。

一年に1度、門下生全員が集まれる機会はなかなかないですので、生徒達は大変楽しみにしている様子です。

私も、生徒達が弾くのをホールで聴かせてもらえるので、毎年の大きな成長がよくわかり、心待ちにしています。

愛知県は被災地ではありませんが、生徒達は、被災者の方々の心が少しでも暖かく、前向きになれるよう、心をこめて演奏すると思います。

物事はかならず移り変わります。世は無常という事が真実ならば、悪い事も長くは続かないはずだと信じております。

被災者の皆さん、強く生きて頑張って下さい。

どうか、沢山の方々のご来場を門下生一同、心よりお待ち申し上げております。


平成23年3月17日(木)日本は大変な事に

門下生の皆さんも、日本中の皆さんが、次は何処に災害が起きるのかと不安な日々を送っています。

生徒達は殆どの子が日記に地震の事を書いていますし、今日も大人の生徒さんが、ちゃんと避難対策を考えて準備しているという話をしたところでした。

先日小学4年生の生徒は、私が出来る事は何かな、とすごく考えた、と書いていました。
被災地の人達の心を暖められるように、ピアノを一生懸命練習する、被災した人達が引っ越してきた時、勉強を教えてあげられるように、私がそのために、しっかり、勉強をする、電気を節電する、など、愛知県にいても出来る事をするという内容で、書かれていました。

しっかりしていますね。1人でも多くの人達がそういう心がけで、毎日を生きないと、と心底思います。

おとといも夜に地震があったので、我が家もいざという時にテーブルの下にもぐれるように家具を移動したり、買い物をしたり避難対策をしています。

しかし、買い物といっても、水も保存食も1人が沢山買ってしまうと、皆に行き渡らなくなってしまいます。
沢山買わないというのも、私達に出来る思いやりの一つかなと思います。

先日、もうこれで、2回も大津波に遭ったおばあさんが「命てんでんこ」のお話をされました。

津波が来たら、親も子どもも夫婦も大切にしている愛する人達の事を考えてはいけない、とにかく、自分の命を守れという教えだそうですが、

私はいざそうなった時、そういう教えを守れる自信がありません。

絶対、愛する人の手を引っ張って助けようとしてしまうと思うのです。

私の敬愛するスマナサーラ長老さんは、地震などの災害自体は、毎日起きるわけではないから、それほど、恐いものでもない、しかし、一番恐ろしいのは、そういう災害が引き金となって、智慧が働かなくなり自分の心がメチャクチャになってしまう事が一番、恐ろしい、最大の敵は自分自身とよく言われており正にそのとおりだと思います。

お釈迦さまも、どんな事が起きても、家がなくなっても、家族がいなくなって1人ぼっちになってしまっても、それを仕方のない事だとあきらめる、そして受け入れて、智慧を働かせる生き方を勧めておられます。

感情的にならない、どんな時も理性ある行動がとれる、なくなってしまったもの(愛する人々)に対して執着しない、今の私にはそれが出来ないので、いかに自分が弱いかという事を思い知らされます。

「命てんでんこ」の話を聞くと何だか、むなしくなって、涙が出てきます。
悲しい事だけれど、1人ぼっちになっても強く生きていかなければならない人の世は本当に切ないです。

お釈迦さまの生き方を毎日心がけて、少しでも強くなりたいです。

しかし、被災地の方々は本当に頑張っていらっしゃいます。
涙をふいて前向きに考えないといけません。

19日の門下生コンサート無事に行えると良いなと思っています。


平成23年3月13日(日)地震

ここ2、3日地震の事で日本は大変な事になっています。
丁度、地震のとき、私は、初めてまとまった時間が取れて、調律師さんが来て下さっていました。

自分の部屋で、本を読んでいたら、急にめまいが・・・・・。と思ったら、船に乗っているような横揺れで、テレビをつけると、どこもかしこも地震の事ばかり。

400年に一度くるような、大地震だと知りました。

地震といえば、阪神淡路大震災が記憶に新しいです。
まだ、私はウイーンに留学したばかりの音大生で、日本のこの大惨事をオーストリアのテレビから知りました。

恩師のケラー先生が「メグミの家は無事なのか」としきりに心配してくださった事を思い出します。

今私の所に通っている生徒達は阪神を知らない子も、又その年に生まれた子はもう高校1年生ですが、又それ以上の大惨事となり、天災とはいえ、被害に遭われた方達の事を考え、この2、3日ほとんど、眠れない毎日を過ごしています。

自分の家族を失ってしまったら・・・・・救助されるまでに見つからないまま、放っておかれたら・・・・・考えてもどうしようもない事が次から次へと頭をよぎります。

心が痛み、ふさぎこんでいるところへ、生徒達がいつもどおり、明るい笑顔でレッスンに通ってきます。

私は涙が出るほど感謝しました。

日常が普通に過ぎていく事はこの上ない幸せだということ、当たり前と思っていることが特別に思えます。

毎日を有難うという気持ちで過ごしたいです。そう有る事が難しい、それが有難うという意味だといわれます。

自然の前では私達は何も出来ないのです。日々、謙虚に生きたいと思います。


平成23年3月8日(火)シューマンのソナタ3番

高校1年生の生徒がシューマンのソナタ3番を持ってきました。生徒が弾いているのを聴いて、ああ、なつかしいなあ、と感慨深く聴いていました。
この曲は私にとってものすごく思い出深い曲。

大学在学中に練習を始め、在学中に浜松で行ったリサイタルの最後を飾ったのもこのソナタ、又、ウィーンの国立音大の大学院を修了する時のリサイタル試験にも弾きました。

しかし、これを選ぶ時、私の恩師ケラー先生からは、すごく反対をされました。

「このソナタは長大だし、音楽的にもまとめにくい。やめた方がいい」。と。

しかし、私は、なぜか、この曲は以前から好きでたまらなく、すごく上手く弾けるという自信があって、「今度のレッスンで弾いてきますので、一度聴いて頂けませんか?」とお願いしました。

40分ほどかかる、全楽章を弾き終えると、ケラー先生は「素晴らしい!!是非弾きなさい」。とおっしゃって下さいました。

シューマンはショパンとは又違って同じロマン派でも、すごく自分の感情を強く入れ込めるところが大好きです。
ショパンよりもっともっと自由な表現が可能です。

彼女が、小学4年生で、初めて私の所に来た時、バッハのフランス組曲や、ショパンの小犬のワルツなど弾いていたことが昨日の事のように思い出されます。

天国のお母様が今、彼女の演奏を聴いたり、姿を見れば、どんなに嬉しい事でしょう。
彼女は高校1年生と思えないほど、大人びて、ものすごくしっかりしています。

音楽高校に入り、勉強もピアノも本当に真面目に努力する姿をいつも一番喜んで天国から見て下さっているに違いありません。
私も、彼女が日に日にたくましく、生への喜びを全身に湛えている姿を見ると本当に嬉しいです。

その後、来た高校2年生もドビュッシーの版画を弾いてきました。

これも懐かしい曲。私がリサイタルで弾いたり、大学院の試験を修了するとき弾いたりした曲を小さい頃から通ってきている子たちが弾くようになってきたことは、生徒達が成長している証です。

喜ばしい限りです。


平成23年3月2日(水) ソルフェージュ

ピアノを専門的に学ばれる方にとって誰もが、通る道、ソルフェージュについて書いてみます。

私が、ソルフェージュを始めたのは小学1年生の6歳になったばかりの頃、三重県の実家から名古屋音楽学校まで、母は、
私を連れて行きました。

初めての授業を今でも覚えています。
私のような小さい子供は1人もいなく、周りは小学6年生ぐらいのお姉さん達ばかり、当然、先生が何をお話されているかもこれから何が始まろうとしているのかもさっぱり分からず、チンプンカンプン状態、ピアノレッスンでは、母と一緒でしたので助けてもらえましたが、1人で多勢のクラスの中に放りこまれ本当に困った事を思い出します。

隣に座っていた大きなお姉さんが小声で教えてくれました。「音符は点で書いていくのよ。こうやって・・・。」と、
見本を示してくれました。
てん!?たまたまそのお姉さんがドの音を書いて示してくれたので、私は、はは〜ん、ソルフェージュというのはドを点でずっと書いていく事なのか!と感違いして8小節ある旋律聴音を全部ドの点で埋め尽くしたのです。(大笑い)

全く今では笑い話ですがその時はもう真剣でした。
答えあわせの時、皆は色んな音符を書いています。

私だけドが並んだ点ばかり・・・。(書くのではなく今、先生が弾いたピアノの音は何の音ですか?)の質問なら、きっとその音を言えたと思うのですが・・・。
日本に生まれてまだ、6年では、日本語能力がまだ全然理解出来ていません・・・・・・・・。

その後とてもじゃないけど導入期しかも6歳の子が小学6年生や中学生と同じではついていけないと分かり個人の先生にお願いして教えていただく事になります。

その後1小節に1つずつ拍の頭を取る時に点で書くという日本語の意味がやっと理解できました。

小学3年の時に始めて楽典も教えていただきましたがこれもまた、難しかった。何故、増4度、完全5度、減7など音程には色んな名称がありますが、小学3年の頭では、到底理解できませんでした。

得意だったのはハーモニー、密集や開離等の4声体、和声聴音です。
和声聴音は簡単です。
この和声が鳴れば、次はこの和声が来るな!とか大体ドラマの展開みたいに予測が付くからです。

中学2,3年になって大人の話している言葉が理解できるようになった時、やっと楽典も少しずつわかり始めました。
なので、私は子供たちにある程度、先生の日本語が良く聞き取れるようになった年齢でソルフェージュを始めるのが良いかと思います。日本語能力の話す力、聴き取る力とも深く関わりがあります。音楽だけではないと思いますが、やはり日本語の聴き取る力が豊かだと、何でもスムーズに事が運びますね。

それも個人差ありで私は言語能力の発達が遅かった子どもでしたが、私の生徒達を見ているとすごく言語能力が発達している子もいます。

そういう子は早くから始めていても構いませんし、人それぞれですね。

小学4年生の生徒で楽典の意味をもうしっかり理解している生徒もいます。すごいなあと思います。
本当に人それぞれですので生徒達を見ていると本当に面白いです。










平成23年3月1日(火)曲選び

PTNAの課題曲が発表になりました。

今年も又、挑戦しようと意気込んでいる生徒、初挑戦だけどやってみたいという生徒、さまざまですが、曲を選択するところからすでにコンクールは始まっています。

私は、譜読みの早い子なら、全ての課題を一応見て弾いてみるとよい、と勧めています。

勿論、私が全て決めてしまえば、生徒達は楽かもしれません。
しかし、大切なのは、その時、「自分に弾けそうかな?」「自分のキャラクターに合っているかな?」とか、じっくり考えるという事をしてほしいのです。

その時に、とにかく早く見てしまわねば、と急いで譜面を読まなければならないので、譜読みの力もつきます。

そうして一応本人の考えが固まったところで、私が、「この曲はコンクールで弾くと損をするよ」。とか、「あなたには合わないよ」。とかいろいろ意見をいう事にしています。

初めから、私の考えを押し付けると、1人1人の生徒は何も考えずに先生から与えられた課題だけをやるという事になり、結果的に何もかも受身的になってしまうのはよくありません。

音楽には、強い感情が必要なので、常に能動的でなくては良い演奏は出来ないのです。

又、よくコンクールをさせたほうが良いのか、悪いのか、という質問を色々な方達から受けます。

私は、親御さん、本人の気持ち次第で、良くもあれば、悪くもある、と答える事にしています。

コンクールをさせてよい場合というのは、結果が良くても悪くてもへこたれず、なお、今まで以上にピアノを好きになって、続けていくんだ、という強い意志がある子なら、多いにさせて良いと思います。

しかし、その結果で、「うちの子は才能がないのかも・・・・・・」「(上手い人と比較して)あの人と同じくらい弾けていなければ、ピアノを続ける意味はないのかもしれない・・・・・」とか、マイナス気分になったり、「もうピアノはやめる」とか、判断してしまう人なら、逆効果になってしまいますので、受けることをあまりお勧め出来ません。

コンクールというのは、その結果が良くても悪くても、子ども達の将来に直接関係はなく、通過点でしかない、という事を冷静にふまえていらっしゃる賢い、理性ある考えをお持ちの親御さんなら、大丈夫と思います。

折角、子どもはピアノが好きなのにコンクールの結果によって、決め付けられ、それによって、親も情熱を失っていく、というのは、子ども達にとって、どれほど辛いことでしょう。

なので、私は、あくまでも本人達のやりたいように自由にさせています。
受けたい人は多いに受けよ、受けたくない人はそれもよし、何れにしても音楽を愛する心だけは、失ってほしくないな、と思っています。

「心」がなくなれば、音楽は死に、終わりとなってしまいます。

芸術を生み出せるのは、いつでも「心」があるからなのです。

「心」が見えなくなった音楽なんて、誰も感動しません。

いくら、コンクールをやっても「心」を失わず、ピアノを愛し続けられるのなら、積極的に挑戦していってほしいと思っています。