平成22年12月29日(水)一年たち、又成長して

いよいよ、今年最後のレッスンが明日に迫ってきました。

どんな生徒達も、レッスンノートに1年間のそれぞれの思いを書いてくれたり、感謝の言葉を頂いたり、私の方こそ本当に感謝しています。

どの生徒も一年たち、本当に成長して上手になりました。
新しく入られた幼い生徒さん達は、1年間でこんなに弾けるようになった、又長く続いているベテランの生徒さん達はますます、ピアノが好きになっていることを感じている、など、ピアノに対する思い、私とのレッスンの思いを熱く書いてくれるのが、本当に嬉しいです。

特に小学4年生の「今日は、今年最後のレッスンと思うと悲しい」。は印象的で心に残りました。
そうですね、10歳と言う年から、確実にこういう感情が芽生えます。

消えていく儚いものに対して淋しさを感じ始めることの出来る年齢です。

儚いものは美しい、それが永遠に続いてほしい、と強く願うけれど、時は過ぎ去る・・・・・・・・・・・。

この世で起こる全ての出来事は常に移ろい、無常だということを・・・・・・。
正に美しい「音楽」を聴いた時に強く感じる感情ですが、そういう感受性が芽生える年齢は音楽も確実に成長しています。

私も皆さんのお陰で、今年一年、本当に楽しく、充実した年を過ごすことが出来ました。

冬休みに入り学生さん達はさらにピアノを熱心に練習している様子がわかります。

子供たちの表情がとても和らぎ、落ちついて穏やかになってくるのです。
そういうのを見ると、どの生徒も長時間学校に束縛されなければ、どんなにピアノが沢山さらえて、今の2倍は上手くなるだろうな、とつくづく感じます。

学校という場所は、自由がなく、束縛され、自分の気に入らない科目の時もじっと我慢して授業を受けなくてはなりませんし、

とにかく周りと同じことをしなければ仲間はずれになる、というように子どもにとっては最大のストレスのかかる場所でしょう。

特に特殊なことをやりたい子には、大変な場所です。

ピアノの練習みたいに自分自身でクリエィテイブな作業を生み出さなければならないものは1日学校へ行ってクタクタに疲れた頭からは、何も生まれてきません。

子ども達を見ると、休みがどれだけ大切かよくわかります。
休むと身体も精神も成長できるのです。

もともと、詩を書く、絵を描く、ピアノなどの楽器を演奏する、などの芸術が生まれるのは「暇」から生み出されたものだからです。

私の先日の日記も生徒達に大変反響を呼んで、それぞれが感じたことを色々と書いてきてくれました。
私の日記を読んで色々と感じたことを書いてくれるのは本当に楽しいし、嬉しいです。

そうやって、自分の頭でいろいろな事を考える事がとても大切なのです。
しかし、時間的ゆとりがなければ、何も考える事すら出来ず、周りに流されていくだけになってしまいます。

日本の子供たちにもう少し、精神的にもゆっくりさせられる「時間的ゆとり」があれば、もっともっとピアノも上達して、地に足をつけた落ちついた研究が出来るだろうになあ、と思います。


平成22年12月27日(月)繰り返す事の大切さ

ピアノを学習している方の多くの方々が、知っていて以外と実践できていない事の1つに「繰り返すこと」の大切さです。
弾けていないところを放っておかない、左も右も暗譜出来ていない不完全なところをそのままにしておかない、ということですね。

特にまだ、私のところへ来て間もない初心者の生徒さんの多くはたいてい楽譜の読み方が甘く、指使いはメチャクチャ、弾けていないところも平気で放ったらかしです。そのために何回も何回も石につまずいて転び、先へ進まなくなり、止まっては弾き直す、止まっては弾き直すの繰り返しばかりになってしまいます。

私達から見るとこういう練習はものすごく効率が悪く、親御さんもイライラし、本人もなかなか上手く弾けないので、練習する意欲を失っていくと思います。
何事も頭がボンヤリしたままの練習では決して上手くはなりません。
どうしてかといえば、そこに「意識が向いていない」からです。意識が向いていないなら、人間は何をしても学ぶことは出来ないのです。
どうして、出来ていないところを何回も繰り返して徹底しないのでしょうか?

そこで、私がよくそんな生徒達にいうことは、「音を鳴らす前に頭で考えてちゃんと準備してから、音を出す」ということです。ピアノは音を鳴らしてしまえば、もう終わりです。
音を鳴らす前に、ちゃんと指使いも音も間違えていないかな?と細心の注意を払って頭で思い描いた音を鳴らしていくのが大切なのです。

そうやって、左手も右手も1本1本の指に意識を持てるようになるとタッチもよくなり、結果的に音が歌うようになってきます。

しかし、意識が持てないとかなり大きくなっても指先はお化けみたいに、ダラリとたれて、だらしのないフニャフニャのままになってしまうのです。

音楽的な気持ちがいくらあっても、その気持ちが、指先に伝わらなかったらどうしようもありません。

そんな生徒達と一緒にレッスンしているとグチャグチャでも何でもとにかく先へ行けばよいと思っているみたいなので、1小節だけとか、2小節だけとか、すごく細かくわけて、とにかく何回でも繰り返します。

まちがえたら、間違わないようになるまで、何度でも繰り返す、いたって単純なことですが、こういう練習を怠っている学習者は大変多いですね。

上手になっていく人は弾けない所を放っておきません。そこが違う所なのです。
私とそういう練習が出来るのは、1週間に1回なので、後の6日間はお母様が見てあげなくてはいけません。

ピアノの上達は、本人の力が一番物をいうのは言うまでもないことですが、それプラス練習の時のお母様の努力が一番必要なのです。
それが協力するということです。
毎日の練習で、特別なことは何もしなくてかまいません。
子どもが間違えている所を放ったらかしにしていないか、指使いがメチャクチャになっていないか、くらいは、近くで見ていれば、お母様方もよくわかるはずです。

そして、その際一番大切なことは、「何で出来ないの!」とか、決してケンカ腰になって怒ってはいけません。
怒らず、何事もない顔で、「はい、もう一回」「はい、もう一回」と平然と20回でも30回でも出来るまで子どもにつき合う、その時間が大切なのです。
よほど、ひねくれた性格の子どもでない限り、必ず親の忍耐に子どもは報いてくれるはずです。
そこ、ちゃんと練習しておきなさいよ、とか、指使い直したの?と口でいうだけでは、絶対駄目です。
自分も子どもと一緒に、出来ないところを繰り返す、を徹底させてください。
私が子どもと一緒にハノンのような単純な指練習1つとっても、横で一緒に弾いてあげるのはそのためです。

子どもは、大人がやることをまねしますので、何でも一緒にやらなくてはならないのです。
それくらい、忍耐強く子どもと向き合うことで、必ず上達します。


平成22年12月25日(土)斬新なアイデア(NO.2)

私が、ウィーン国立音大の留学生だった頃は、バッハの研究者として大変権威のあるヘルマン・ケラーのお孫さんにあたるローラント・ケラー先生から沢山バッハを教わりました。

ご自身も大変に研究し尽くされ私が日本に帰国する際にバッハ平均律1巻2巻のCDを「メグミにプレゼントするね」とおっしゃって下さったのですが、それを聴くとどこまでも自由。

テンポもアーティキュレーションも今まで聴いた事のないような斬新な発想で演奏されていて、驚かされます。
胸がドキドキするほど、アイデアが素晴らしいのです。

私は、そのCDを聴くたびに思います。
音楽っていくらでも自由に創造していいんだなぁ、と、すがすがしい気分になれるのです。ここでいう「自由」とは、歌として、誰が聴いても納得のいく自然さでの話ですが・・・・。「自由」といっても「自分勝手」と取り違えてはいけませんよ。

ケラー先生はよく、レッスンの時おっしゃられました。「私なら、こう弾きます。しかし、他にも色々な弾き方が出来ます。
メグミはメグミの方法を見つけ出しなさい」。と。

ケラー先生は、私に一つの道を示して下さったけれど、音楽の美しい世界を見るためには、右から行っても、真ん中からいってもジグザグに行ってもよいのですね。

しかし、その先生についている間はその先生の教えて下さる事全てを一途に守る事が大切だと私は思います。
そうでなければ、その先生にお習いしている意味がないですし、反抗する生徒には、何も教えようという気にどんな先生もなれないでしょうから。

しかし、解釈は違っても目指すべき音楽の美しい世界の頂上は誰もが同じなんですね。
なので、私の生徒達もレッスンの時、「先生はそういう考えなんだなぁ。学生を離れたら、自分なら、どんな解釈で音楽の世界を描こうかな?」と楽しみに思っていてくれれば嬉しいです。

誰かにピアノを教えるという仕事は、自分が演奏する以上に大変にクリエイティブな作業だなぁ、と日々生徒を教えながらつくづく感じます。

クリエイティブな仕事は本当に楽しい。
1人として同じ人間がいないので、全部弾き方も音の出し方も全てその子に合わせた教え方をしなくてはいけません。

ペダルの使い方一つとってもその子のタッチに合わせた踏み方を考えなくてはいけません。
話す内容も1人1人皆変えます。
それこそ、マニュアル通りにはいかないところが、私には最高におもしろく思えます。

しかし、もともと自由で、いくらでも創造できるのが音楽の素晴らしいところ。
昔から、型にはまる事が大嫌いだった私には自由を追い求められる音楽をやっていられれば、最高に幸せを感じます。
羽が生えて飛んでいってしまうような鳥のような自由な気分になれるのです。

いつの日か、こちらを納得させるような、斬新なアイデアのバッハを生徒達の演奏から聴いてみたいな、とワクワクしています。


平成22年12月24日(金)斬新なアイデア(NO.1)

先日小学5年生の生徒が、とても良い質問をしてきました。

「トリルとかアーティキュレーションは、先生が思っているとおりに弾いていくには、どうすれば良いのでしょうか?」

非常に難しいですね・・・・・・。(笑)読心術でもない限り、その人の思っているように弾くのは、その人が今何を食べたいと思っていてそれを準備してあげるようなことと同じで、到底不可能なことだからです。

私も小学生の頃よく思ったものです。
自分が考えていった、それどころか、校訂版のとおりに弾いていったのに、違う、とおっしゃられ全部先生から直されてしまい、じゃあ、一体何を頼りに弾いていけばいいの?と思ったものでした。

これは、特に何も書かれていないバッハの作品に多いですね。
恐らくそういう疑問は学生の間中つきまとうと思います。

しかし、先生から教わるということは、そういうこと。
色んな先生につけば、それだけ色々な意見が飛び交い、まだ音楽がどういうものかも分からない時に何人もの先生につくことは
迷いを多くするもとになります。

ある程度その人の中に「音楽」が固まっていて、確信的なものがあれば問題ないのですが、A先生はこういった、B先生はこういった、と混乱を招く結果になってよくありません。

「音楽」に迷いがあることはピアノ演奏に一番悪い影響を及ぼすからです。

もちろん、トリルの種類で、モルデントはこういう風に入れる、とか、一応の決まりはあります。
アーティキュレーションも楽譜に忠実に守らなくてはいけないと教えますが、それですら、10人のピアニストがいたら10人とも違うように演奏すると思います。

私は小さい頃から、バッハの作品1つとっても何人かの巨匠達の演奏をレコード、CD、又、コンサートなどで聴いたり、原典版以外に校訂版1つとっても、春秋社版や、ムジェリーニ版や、バルトーク版など多数の版を参考にして、又あらゆる文献なども読み研究してレッスンに持っていきました。

しかし、それですら、版によってトリルの入れ方も違うし、学生の頃は本当に迷ったものです。

算数なら、1+1は2と答えがはっきりしています。
誰も3とは言わないはずです。しかし、音楽の場合は誰が聴いても歌として、自然に聴こえていれば、1+1は3でもかまわないわけです。

私が小さい頃トリルの入れ方やアーティキュレーションでよく注意を受けたのは、トリルの入れ方そのものより、音楽として、それは成り立っていない、という事が先生は注意されたかったのだなあということが、今はよく理解できます。

トリルが途中で途切れたり、合わせ方がクシャクシャだったりすると、その子の今、弾けるテクニックでトリルを考えてあげなくてはならないわけです。

だから、同じ場所の同じトリルがAさんには上手く綺麗に聴こえても、Bさんに上手くいくとは限りません。

その子の指の関節の強さ、弱さにも関係してきます。
だから、お医者さんが与える、処方箋みたいな感じで、私の解釈を生徒達に伝えます。

CDを聴いたり、原典版のほかに何種類もの校訂版を重ねて研究していくうちに段々とバッハはこんな感じ・・・・・とか、
モーツァルトならこんなトリルやアーティキュレーションが好みだろうな・・・・・とか、予測できるようになってきます。

いつも一緒にいる人のことだと何となく今こんな気分でいるんじゃないかな?て想像できますよね。それと同じ。
だから、その人の事をよく観察して知らないといけない。

その人に似合う色合い、洋服選びみたいな感覚にも似ています。
その人の好きな色も1人1人皆違います。

水色が好きな人もいれば、緑が好きな人もいるし、赤が好きな人もさまざまです。
自分なら、この色が似合うと思うというのを研究していくうちにつかめてくるようになるものです。

そして、その色を他人も同じように似合うねと言ってくれれば、それは本当にその人にピッタリ合っているわけです。
音楽もピッタリその人に自然になじんでいる、そういう感覚をつかまなくてはなりません。

明日へ続く


平成22年12月17日(金)想像力

日ごとに寒さが増してきました。
これで、雪が降ってくれれば、クリスマスらしくなるのですが・・・・・・。

さて、3月19日の門下生コンサートのチラシを幹事さん達がとても綺麗に作ってくださり、レッスンに来た生徒さんから、お配りしています。

聴いて下さる方がいらっしゃらないと、演奏する方も張り合いがないと思いますので、沢山の方にお声をかけて、聴いて頂きましょうね。

毎年、幹事さん達には、本当に感謝しています。チラシ配りも行って下さるとおっしゃって下さるお母様方もいらして本当に助かります。

皆さんの力で行えるこのコンサート、初めて参加される生徒さんもとても楽しみにしているようです。

門下生全員が一斉に顔を合わせられる機会なんて、そうあるものではありません。一年に一回のこの機会、弾く人も聴いて下さる方も是非楽しんでいって下さい。

先日、高校2年生の生徒から、質問されました。
「歌もピアノも誰かを愛するとか、恋するとかそういうことを題材に書かれている事が多いけれど、先生は、学生の時、そういう誰かを思って演奏していたのですか?」。
やはり、青春真っ只中のお年頃の質問ですね。小学生ではこんな事を疑問にも思いません。

私は、「うーん、難しいなあ・・・・・。そんな事をいくら考えても音楽が自然に歌えるものでもないしね・・・・・。
恋愛の事に関しても、青春真っ只中にいる年齢の時は、客観的になれないし、何か他の事で、頭が一杯になっている時は音楽どころではないよね?もっともっと年を重ねて冷静に青春時代を振り返ってみた時に、ああ、こういうことだったのか、って思うようになるよ。

すごく好きだった人と別れた後とか、辛さを乗り越えて前向きに生きようと立ち上がった時に、音楽や、詩や、絵画などの芸術が生まれるのではないかしら?だから、そういった悲しみを人間は誰しも皆、心に持っていて、その埋め合わせをするために芸術が生まれるんだと思う。
だから、そういう芸術に触れ合えた時に人は感動を覚えるのではないかな?」と答えました。

音楽は確かにそういうところから、生まれますが、実際ピアノを演奏する時は、演奏だけに集中し、何も考えない方が良いと思います。
勿論、研究の段階では想像力を働かせたり、いろんな事を考えておかなければなりませんが、特に本番は「無我の境地」が一番良い演奏が出来る元になります。

心象風景や心理描写が見えてくるのは、その大切な「音楽」が聴こえてきた時です。

だから、聴こえてこない人にはどんなに頑張ってみても何も聴こえてきません。

そこで、大事なのが、「想像力」かな、という気がします。想像力豊かな音楽は聴いていて飽きません。

そのメロデイが、恋人同士のスウィートがかった、幸せにも聴こえたり、自分の故郷へ帰っていくような懐かしい感じにも聴こえたりします。
聴き手のその時々の微妙な心の動きで音楽のとらえ方が変わってきますね。
その年齢によっても感じ方が変わってきます。

昔あまり意味がわからなかった小説が今になれば、知らぬ間に理解できる小説になっていた、という感覚と同じ。
自分は昔からずっと変わっていない、と思いがちですが、10歳の時の○○さんと20歳の時の○○さんとでは全く別人のように人間って変わります。
確実に無常であり、変化し続けているのです。

演奏もどんどん変わります。
実際本番などでは、客観的な自分がとても大切です。
音楽に100パーセント感情を注ぎこんでしまうと、演奏そのものがグチャグチャになって、崖から転落してしまいます。
音楽に没頭している自分をどこか冷めた目で見つめている自分、そして、上手く弾こうとか、あらゆる欲を一切捨てて無我の境地になりきれた時に音楽がこの世のものでなく天国へいってしまうような感覚になって、素晴らしい音楽の世界が描けるのだと思います。


平成22年12月11日(土)もう、自立し始めている中学2年生の生徒

2010年も終わりに近づいてきました。
今日来た中学2年生の生徒は来年明けてすぐ行われるショパン・イン・アジアに向けて頑張っていますが、来年の目標を立てたみたいです。
それもコンクールで賞をとるとか、そういう目先の事だけにとらわれた俗っぽい目標ではなく、来年もこれまで以上に一杯一杯練習することを目標としているそうで、素晴らしいと思いました。

それでこそ、本物の音楽家ですね。
いつも、私が音楽をやっていくには、実力をつけることが一番大切と繰り返し言っているので、よく理解してくれているようで、大変嬉しいです。

コンクールの結果だけでは、本当の力は判断出来ません。
音楽家になろうという人はまず、初見力、ソルフェージュ力、ピアノを何時間でも飽きずに練習出来る、精神力と意志の強さ、完璧に弾きこなすまで徹底する、
頑固なまでの忍耐力が普通の人以上に必要不可欠なのです。

今日もショパンのコンツエルト2番1楽章、エオリアン・ハープ、スケルツオ2番全部通して弾いてもらいました。
何分間でも弾きとおせるよう持久力を保てる練習を毎日しているようで、息切れせずに弾きとおしています。

オーケストラの作品は、ピアノの部分だけ研究するのでなく、スコア(総譜)を買ってみながらCDを聴くと良いよ、とすすめると、早速買ってスコアリーディングして勉強しているようです。
CDなんかあまり聴かないウィーンの若者達は、実際に演奏会場に行って、スコアを見ながらオーケストラを聴いている若者を沢山見かけました。

私が音楽高校一年に入学して、すぐ勉強したのが、シューマンのコンツェルトイ短調でした。
私は、その美しい世界にすっかりはまってしまい、早く全楽章弾けるようになりたいと思い、真夜中じゅう練習してカラスが鳴くころ、仮眠して、頭がフラフラの状態で、
高校に通うような、ひどい生活を送っていましたが、それくらい魅力的な曲でした。

高校1年生からは、先生から、ここをこういう風に歌わせて、だの、ここが飛び出ただの、いわゆる、そういう手取り足取りレッスンは全くされたことがありません。

恐らくどんな生徒もそうなってくるのが普通でしょう。
そういったことは、中学3年生までに培われていることが望ましいのです。

私の場合は、指揮者でもピアニストでもあった先生が、ご自分の練習をされている様子を見たり、先生のお手伝いをさせて頂きながら、学ぶ事がほとんどでした。

私の演奏を聴いても、一言、つまらない演奏の時は、「何かつまらない、」とおっしゃられるだけです。
具体的に、ここは強くとか、弱くなど何も言ってもらえません。
何故つまらないのか、退屈されないように勉強していく、というのが、もう音楽高校生なのです。
1を聞いて10を知るという風に、音楽に限らず、先生から学べるのは学校の勉強でも1ぐらい。
それを10に広げていくのは、自分の力です。
先生の表情を敏感に察知して、その一言だけを頼りに自分で何とかしなければ、と試行錯誤していました。

一見、その先生は冷たいようにも感じましたが、今となれば、あの時、先生はそこを強くとか、弱くとかいったところで、その子が本当に心から、感じて弾いているのでなければ、いちいち注意してもだめだ、という事がよくお分かりになられていたんだろうと思います。
他の曲になれば、又同じことの繰り返しだということも・・・・・・。しかし、放任されたおかげもあり、ものすごく、自分から学ぶ、自分で、練習し研究する事がよく出来るようになったのは、その先生のお陰だと今は思っています。

物は考えようで、自分が学ぼうという気持ちさえあれば、どんなに放っておかれる先生でも、どんな居場所でも最高のレベルに持っていけるものなのです。
要は自分次第。

中2の彼女に例のシューマンのコンツェルトの指揮者用スコアを見せて、ここはチェロと一緒に弾くところ、とかフルートが響いているところとか、スコアを見ながら、CDを聴くとより音楽が広がるよ、とアドヴァイスしたところ毎日やっているみたいで、今日は又さらにショパンの音楽に広がりが出てきました。

彼女は譜読みも大変早いので、今すぐ、シューマンのコンツェルトも弾けると思うよ、と言っておきました。
又、すぐ、練習を始めると思います。

彼女は、来年受験生となりますが、コンクールの曲だけでなく、受験の曲に必要なバッハやベートーヴェンや、ツェルニーも毎週違う曲を持ってきます。
小学1年生の6歳の頃から、私の一言一言を忠実に守ってきてくれたなあ、と感じています。

それこそ、1を聞いて10を知るようになってくれました。
彼女なら、もう、1人で充分練習出来るようになってきています。

彼女が、レッスンに来るたびに雛だった鳥が飛び立っていけるようにやがて自立できる日が近いことを感じさせてくれるようになり、本当に嬉しく思っています。


平成22年12月5日(日) 久しぶりにレッスンを再開できた小学6年生の生徒

今日は約3ヶ月近く体調を崩していた小学6年生の生徒が久しぶりにレッスンにやって来ました。

背が高くなって思っていたよりもずっと元気そうでほっとしました。

彼女は以前からものすごく頑張り屋で人一倍頑張りすぎたためか、とうとう夏の終わりにバタンキューになってしまったのです。

初めはスプーン1杯のご飯を飲み込むのに1時間もかかっていたほど衰弱していると聞いて私達はものすごく心配しました。

私がレッスンの時彼女が大変に能力がある子なので、ついつい完璧に弾かせようとし過ぎて知らず知らずのうちに彼女を追い詰めてしまったのかもしれないと、気が気ではありませんでした。

それでも少し体調がよくなってきた彼女が「どうしても岩野先生のところで又、レッスンを再開したい」と言ってお母様とご挨拶にいらした時は本当に嬉しかったです。

今日は門下生コンサートで弾くショパンの即興曲1番を聴かせてくれました。

まだ体調が完全ではないので自分のペースでやっています、
との事でしたが、さすが○○ちゃん!!1回目から暗譜でその細い身体から、信じられないような大きな音楽のエネルギーが満ち溢れ、以前よりずっと音もしっかり響いていることに感動して聴いていました。そして、私は彼女の身体がよくなっている事と、私とのレッスンを又再開できた事、休んでいたにもかかわらず、全身これ音楽という感じで魂のこもった素晴らしい演奏をしてくれた事に涙があふれ、何度も「○○ちゃんありがとう!、ありがとう!」と心の中で感謝していました。

彼女は本当は、全日本学生コンクール(毎コン)の本選に進めていた事と、PTNAあしながコンサートも出演予定だったのですが、又、ぶり返すと、いけないので、残念ながら参加を断念したのです。

しかし、来年3月開催される私の所の門下生コンサートは、出演できそうで本当に嬉しい限りです。

友達からの信頼も厚い彼女は学級委員も任され学業成績もピアノも優秀です。
しかし、それだけ優秀だという事はどこかに無理がかかっているはずです。
せっかく、優秀でも身体が悪くなるほど頑張りすぎれば元も子もありませんから、「何でも、物事は、ほどほどに、がいいのよ。ほら、いい加減って聞くとあまりいい意味に聞こえないけれど、それは、良い加減、という意味でもあるのよ」。と他にも私のところに来ている頑張りすぎの生徒さん達にもよく話しています。

私も今日彼女に「○○ちゃんのペースで、ゆっくり、のんびりやっていけばいいのよ」と話したらにっこりしていました。

もう1人門下生コンサートに出演できるはずの小学3年生の生徒さんは、11月17日に手術をして病院で入院生活を送っています。

先だって手術をしたばかりの全身、ギブスになっている写真をとって送ってくれたのですが、それを見て私も母も泣いてしまいました。

どんなに病院での暮らしが辛いだろうなぁとか、自分の身体が思うようにならない不自由さは、身にしみて、私も母もわかるのです。

彼女は来年3月末に退院予定です。

「先生、私のこと忘れてなくてよかったー。退院したら又、1からピアノを教えて下さい」と寝ながら書いてくれたお手紙をもらいました。

元気になってレッスンを再開出来た小6の生徒、今、入院中の小3の生徒、どんなにブランクがあっても生徒1人1人の事を決して忘れる事はありませんし、私はいつでも大きく手を広げて待っていますよ・・・・・・・・・・。

身体が不調のときも私とのレッスンを又、再開したい、だから頑張って辛い入院生活も乗り越えられたという気持ちになってくれれば本当に嬉しいです。

昔から「病は気から」という言葉があります。身体が不調でも希望があって、待っていてくれる人がいると思えれば、心が優しくなって癒され身体が自然に良くなっていくものです。
私自身もあまりレッスンを細かく一生懸命やりすぎて、却って生徒達の負担になったり、ストレスをかけていないだろうかと日々反省しています。

私とのレッスンで、前向きな気持ちになってくれればこんなに嬉しい事はありません。


平成22年12月4日(土) とても根気強い小学5年生の男の子

12月に入り2010年も残りわずかとなりました。

子ども達はあっという間に大きくなり、ピアノも益々上手になってきて嬉しい限りです。

毎週通っている小学5年生の男の子の生徒は、今、カスキの「激流」を弾いています。
この曲はアルペジオが大変多く、初め弾きにくそうにしていたのですが、毎週毎週本当によく頑張って立派に弾けるようになりました。

毎週台所で聴いている父が、「○○君、音も見違えるようになってきたなぁー上手いなぁー」と言って大喜び。

彼の素晴らしい所は、ものすごく根気強い所です。
レッスンの時何回も同じ事をさせても決して嫌そうにしませんし、「これをやっておいてね」というと、「ハイ」。
必ず、次週にはきちんと守ってやって来てくれるところが最近の子ども達には珍しく、しかも男の子なら飽きっぽく、なかなかいう事も聴きませんが素晴らしいと感心しています。

○○君の学校は自然の多い所でよく田植えをやったりする学校で野外授業があるようなんですが、大人よりも○○君はよく働くとお母様がおっしゃっていました。

ピアノを弾いている時も何故これをやらなければならないのか?見たいな理屈が入ると、駄目だと、私は思っています。
ピアノを黙々と弾く彼の姿は、学校のお掃除一つとってもきっと嫌がらずに、黙々と掃除をしているだろうなという姿が想像できます。

○○君は大人になったら何でも嫌がらずに働いてくれそうで、そういう男性は頼もしい限りです。

プライドばかり高くて「私にはこんな仕事は出来ない」とか、「僕のレベルに合っていないからこんな仕事は向かない」とか、
いうような人は何の仕事も結局は続かないと思えますが、彼の場合そういった態度は微塵もなく、人間として一番立派なキャラクター
を持ち、それがピアノの演奏にとってもよく表れています。

私のところに来ている全ての天使のような生徒達が、どんな小さな事も大切にする根気強さを持ち、いつまでもその無垢で純粋な気持ちを失わずに大人になっていってほしいです。