平成22年5月30日(日) 高いレベルに引き上げる時と、妥協する時と

5月も終わりに近づき、6月に入ろうとしています。

PTNAの予選も始まります。
同じ級を受ける生徒同志で一緒に聴きあう、弾き合い会が6月5日に行われます。PTNAに出ない生徒さん達も勉強になるので是非聴きにいらして下さい。

早く受ける子は、もう後、1、2回のレッスンで本番を迎えます。
演奏には、ピークがあってここで本番を迎えると上手くいく、というのが必ずあります。

譜読み、暗譜共に早く、レッスン時の反応がよく、指のよく回る子はピークを過ぎると、崩れてしまうので早く挑戦させます。

又、まだまだ、弾くのに精一杯で、さぁこれから音楽作りをという子には、充分準備期間が必要です。

1人1人のペースがありますので、いつでもその子を見ながらです。
その子のエネルギーが全開してきた時にステージで、弾いてもらうのが良いですね。

レッスンをしている時、いつも私は生徒達に最善のものを与えたい一心でベストを尽くします。
が、時々、子供なのにあまりにも高いレベルを要求しすぎているのかも知れない、と、思う事もあります。

レッスンの間中、ここは出来るまでやらせるべきか、それとも本人の頭がまだ全くついてきていないのに自然にわかってくるのを待つべきか、考えが行ったりきたりします。

(故)中島和彦先生が、(故)井口愛子先生が同じところを何回弾いても「ちがう、ちがう」と言われるので、しまいには
ブン殴ってやりたくなりましたよ。(笑)と、おっしゃられるのを、きいた事があります。

私にも同じ経験があります。
小学4年生で弾いていたショパンの幻想即興曲の、初めの出だしのソーという長い音符からドに移る時の
音の出し方が違うと、播本先生から言われ続けて一体何が違うのかその当時さっぱり分かりませんでした。

しかし、レッスンを聴いている母は、よく分かっている。
周りで聴いているライバル達のお母様も見かねて「まだ小学生なのにねぇ、そこまでやらなくても・・・。」と、後年、
笑い話になりました。

要するにドミナントから、トニカに移る和声の緊張感、解決が上手く出来ていなかったわけですね。
今になれば、笑い話ですが、先生やお母さんの頭では、分かっている事が子供だけには伝わっていない。
しかし、お母さんが理解すると、比較的早く子供に伝わりますね。

子供の時は、お母さんの力が大きいですね。
お母さんなら子供に分かりやすい言葉で説明してあげられるからです。

「本人の気持ちがないのに、待ってあげなきゃダメよ」と、私は母からいつも言われ続けています。(笑)


平成22年5月26日(水) 可愛い生徒達

今日は朝から大学。

来週は試験なので、試験の流れを一通り説明した後、「何か他に質問はありますか・・・・?」と聞くと、
学生達が、「先生!結婚してますかー?」よくきかれる・・・やはり、大学生の興味はそこなのかな?試験とは何の関係もない(笑い)・・・・・・。

「ううん、していませんよ。独身でーす!」

「えーっ!?」(学生達目を丸くしておどろきの声)

「じゃあ、恋人は?」(興味津々の表情をした学生達)

「ハハハ、昔は、いたけどね、今は皆さんのお世話で手一杯で、時間がありません。
でも今は皆さんが恋人よ」と答えると、

「ワァーッ!」と歓声が上がります。本当にお茶目で可愛い学生達です。

午後からは明和高校へ、高校2年生たちが、先日行ってきた、修学旅行の可愛い白い花びらの石鹸や絵葉書などのお土産を手にレッスン室の前で待っていてくれました。

九州へ行ってきたそうです。

来週はPTNAの弾き合い会があり、皆一生懸命その曲を練習しており、やがて本番を迎える生徒もおり、又、高校の試験も始まります。

ビデオにとったり、録音したり、自分の音楽が芸術になっているかどうかを丹念に研究している生徒もおり、最後の仕上げ、どう展開して聴かせてくれるかが、本当に楽しみです。


それにしても、この白い花びらの石鹸、本当にいい香りがします・・・・。
白とピンク、私の大好きな色。みんな、そう思って選んでくれたのでしょう?

その心がとても嬉しいです。

どうもありがとう!

平成22年5月21日(金)一本調子

音楽を愛している人ならば誰もが一本調子の音楽はつまらない、とわかっています。

なのに、なぜ、実際ピアノで弾くと平板で一本調子になってしまうのでしょうか?

音色のニュアンスを沢山持つには、それだけ沢山の微妙なニュアンスを感じ取って聴き取れる「耳」が一番のカギとなります。

音には色々あり、柔らかい、固い、鋭い、静かな感じ、なめらかな感じ・・・・・・・まだまだ沢山あります。
が、どれもこれも大きな音でうるさく聴こえるとか、どれもメゾフォルテのような曖昧な音で、何か今いち、煮え切らない感じの演奏も平板に聴こえる原因ですね。

こんな感じ・・・・・・・・。と思って音を鳴らす前にまず、イメージがあって、それに近づいた音が出ているかを聴き取るのが耳です。
このとき一番大切な耳が鈍感ですと、その微妙なニュアンスが聴き取れません。

学習者は特にそんな風に弾いていないと思っていて、いざ録音してみて初めて、何とおかしな演奏かしらと愕然とくることはよくあると思います。
この場合気付いたというだけでも素晴らしいことですね。気付けば直せますけれど、わからなければ直し方がありません。

全ての音に耳がいっていないとか、神経が通ったタッチになっていないと、そういう音になってしまいます。

あと、音色も勿論ですが、弾きながら確実に安定感のあるテンポがとれている、という事も結局は「耳」のよさにつながります。
弾きながら興奮してくると、そのままテンポがのめって、走っていってしまうような場合は、客観的に自分の音が聴こえなくなってしまっているわけです。
弾くのに翻弄されてしまっている時、そうなりがちですね。

そしてよくいわれるメリハリがないという言葉は単に音が強いか弱いかを指している言葉ではありません。

ハーモニーが、ドミナントへ向かっていくときの身体の隅々の筋肉が熱く盛り上がってくるような緊張感や、それがトニカへ解決する時の身体全体の筋肉の緊張がほどけていくように弛緩するとき、又、音が空中へ舞い上がってきらきら、星屑のように零れ落ちてくる感じ、地の底からわきあがってくるような力強さ、手に汗握るドキドキ感・・・・・・・・・などなど、様々な変化に乏しいと「メリハリがなく平板な演奏」になってしまいます。

人間の表情でいえば、能面のように表情のない、むっつり顔かな?

よくある例では、1フレーズの中で、どこもかしこも力を抜いてしまう例。

フレーズの終わりまで緊張が続いてほしいのですが、すぐゆるめてしまうと、メリハリのない演奏となってしまいます。

又私が生徒達によく言うのは、長い音符や休符のとき。
長い音符や休符は「休憩する場所」ではありません。

「ずーっと、ゆるめないで、力をこめて、歌い続けてー!!」と、こめかみに青筋たてて、エネルギーを全開にして、歌う私の気持ちと裏腹に、涼しい顔をして平然と弾いている生徒を見ると、フレーズの緊張感を理解するまでは長い長い年月がかかるのだなあ、とつくづく思います。

だから、ピアノのレッスンって楽しいのでしょうね。

一生学んでいくだけの価値があり、モノと違って、確実に生徒1人1人の身に、心に、貴重な財産となって残っていきます。

生徒達が、自分のそばで、先生が青筋たてて歌ってくれたのは、何だ、こういうことか、ハハハハ・・・・・と笑い話になって遠い将来、わかってくれれば、と祈りをこめてみんなにレッスンしています。


平成22年5月17日(月)目を閉じて

先日高校1年生の生徒がレッスンノートに「色々な情景が目に浮かびます・・・・・・・自然に目をつぶって弾いている自分が・・・・・・・・・」と書いてありました。
そうですね。音楽の中に入り込むと自然に目を閉じて弾くようになります。

彼女が私のところへきたのは、まだまだ本当に小さい小学4年生でしたが、今ではもう高校生になって弾くだけでなく音楽の心を味わえる年齢になったんだなあと、とても嬉しく感じました。

元々、小さいころから、歌心がありエネルギーを沢山出して演奏してくれる子で、
当時から、ピアノが好きで好きでたまらない様子がレッスンの度よく伝わってきました。

私が桐朋の高校3年生だった時、我が桐朋の誇りでもある、大先輩の世界的な大指揮者、小澤征爾さんが授業の一環としてオーケストラをレッスンして下さったことがあります。

その時すごく印象的だったのが、チェロの子があまり歌って弾いていないので、小澤さんが、「みんな、そこ、目を閉じなさい」と注意されました。
そうしたら、何とも素晴らしいハーモニーとなってどの楽器もピッタリ調和したのです。
そして、この世のものと思えないほどのハッとするほどの美しさがそこから生み出された時私達は心から感動しました。

人間が目を閉じる時は、その世界に入り込んでより感覚を研ぎ澄ましたい時、自分の心の内面を見つめたい時、そしてより深く精神を集中して統一させたい時に目を閉じると思います。

ピアノを弾く時もスーッとその音楽の中に入り込めた時吸い込まれるように自然に目を閉じて弾いていますね。
そして、その時初めて音楽と一体になれた、という気がします。そんな時は必ず響きと一体になっているから、聴いている人達の心もそんな演奏に引き寄せられていきます。

高校生は人生における最も多感な時期。

先日の彼女がピアノを弾いていると自然にそうなった、というところに彼女の成長と月日の確かな流れを感じました。

長く続けてこそ、そういう世界を味わえるというものですね。

平成22年5月13日(木)指先に宿る魂

私が生徒達をレッスンしていて最も伝えにくい事の一つに「指の先まで自分の気持ちを伝える」というのがあります。

気持ちはあってもそれが指先まで伝わっていなければ何もなりません。
歌っているつもりの生徒達の演奏を聴いてどこかしっくりこないなと思って指先を見ると案の定、指の先はペロンペロンでフニャフニャ。

タッチのコントロールは強いものも弱いものも、本来音楽を感じる「歌心」からくるものだと私は思います。
フォルテだから強くしたり、ピアノと書いているから、弱くするのではありません。音楽を感じれば結果としてたまたまそうなるわけです。

手が小さい、指が細い、手の平が薄い、関節が弱い・・・・・・・その他、さまざまな手の悩みは誰しもあると思いますが、私が見ている限りでは、音楽を感じていつも練習していると手もつくられていくように思います。

ピアノを弾くのに必要な音楽を感じる鋭敏な指先に・・・・・・。
だから、極端な話、指先を強くするためといって、全部同じ大きさの音で粒を揃えて毎日指を訓練したところで、それは音楽とは何の関係もないことです。

その時点ではただの指の体操にすぎません。
それをどう演奏に生かしていくか、から始まって、私がよく生徒達に言うのが、その音楽が持っている「歌心」と「キャラクター」をよく知って音を出してごらん、と言います。

ここの部分はとっても生き生きしていて活気あふれた音を出したいのに、表情は暗く、指先はションボリうなだれていたら、もちろん生き生きした音は出せません。

悲しい淋しげな静かな音を出したいのに、身体は、ゆらゆら大きくあっちこっち揺れ動いたり指はバタバタとひっきりなしにざわついて弾けば、絶対に淋しい音は出ません。

暖かい音を出すところで自分の指が冷たくつき離したようなタッチをしていれば、当然その通り冷たい音がでてしまいます。

ピアノってとっても正直に自分の心が出てしまうのです。
自分が感じている表情がバラバラで、音楽と食い違っていると、もちろん聴き手に上手く伝える事は出来ません。

全ては何のイメージもなく、ただボンヤリとしていたり、キャラクターがどんなものか、感じていないとそういう音が出てしまうのです。

悲しいのにニコニコ笑っているとか、嬉しいのにションボリして悲しげな顔をしている人間なんて、ちょっと、おかしく思えますものね。
ピアノ演奏もそれと同じ。

だから、私は音楽の前で、もっともっと素直に自分の心に自然になるのが一番だよ、と生徒達に伝えます。
もしかしたら、人間関係では、相手を傷つかせないために話す言葉が必ずしも真実を語っていない事も多いと思うのですが、音楽は違いますね。

本当にまっすぐに、真実を語るから、嘘がない。
私が音楽に恋焦がれるのは、その真実性にこそあります。
音楽の心にぴったり寄り添って真心をこめて響きと一体になっている人間の姿はこの世で文句なく一番美しいですね。

そんな演奏に出会うと心から感動します。

人間の本当の美しい心が見える気がして・・・・・・・・・。
人間の心も分析不可能ですが、音楽の心も分析不可能です。

ある程度、ハーモニー、調性感、大まかな構造をアナリーゼ出来ればそれ以上あまり理詰めになってしまわない方がよいと私は思います。

暑いときには暑い、寒いときには寒い、好きなら好き、嫌いなら嫌い。そういった人間が本来持っている感性を失わない事がとても大切です。

敏感に他人の心を察知するように、音楽の心を読み取り全身に音楽の心を感じて指先に伝えていってほしいです。

ピアノを弾く人の指先に「魂」は宿っているからです。


平成22年5月8日(金)「伝える」とは?

休み明けの明和でのレッスン。高校生達が休みボケになっていないか、ちょっと不安でしたが、そんな事はなく皆それぞれ、よく頑張っていました。
生徒のうちの1人が、音に気持ちをこめるというのがいまいちよくわからないと言うので、私は相手に自分の気持ちを伝えるにはどうすればよいか考える事と同じよ、と話しました。
私が話して聞かせた内容は・・・・・・・・・。
「もし、OOちゃんがトイレに入っていて鍵が開かなくなって閉じ込められたら、どうする?」と聞きました。
すると、
「ケイタイで知らせる」。
と返ってきたので、ズッコケタのと同時に、そっかー、さすが現代っ子だな、と感心したのですが・・・・・・・・・。

私の期待していた答えでは、ドアをドンドンたたいて大声で「助けてえー!!」とわめきちらす、という感じかな、と思っていたんですが・・・・・・。
「もし、ケイタイが圏外でつながらなかったらどうするの?」と2人で大笑いしたのですが。

それと音楽とどう関係があるのと思うかも知れませんが、相手に「伝える」という事はそういうこと。
今、ここで、何とか相手に伝えなきゃ、知らせなきゃ、そういう強い気持ちがあってこそ、音にも気持ちが、こもります。

私は先週彼女に「ただ弾いているだけで何も気持ちがこもっていない」。と注意したばかりでした。
この休み中に私の言ったことが痛く胸に響いたようです。

彼女いわく、「テクニックがない、ひけていない、といわれるのは平気だけど、気持ちがこもっていない、といわれるのは、一番辛い」、とノートに書いていました。
私はそうやって、彼女が私の言葉を真剣に受け止めてくれた事が何より嬉しかったです。
それこそ、私の気持ちがやっと彼女に伝わったな、という気持ちでした。

1年前の彼女なら、そういうことは何も疑問に思わなかったようですが、自分の演奏に疑問を持ち、何が自分に足りないのだろうか、自分では一生懸命気持ちを入れて練習しているつもりなのに・・・・・・という歯がゆい気持ちになっただけでも大きな成長です。

自分の気持ちが上手く相手に届いていない、届かぬ想いは誰しもが生きていくうえで感じる辛いところですが、しかし
伝え方が上手な人と不器用な人といるのは確かですね。

自分の気持ちが上手に相手に伝われば、ストレスもたまりませんし、物事がすんなり、運びます。
しかし、不器用な人は黙ってイライラしているだけで、相手が自分の気持ちをわかってくれない、と嘆いているだけになってしまい損な生き方です。
音楽も黙りこくってしまってはダメ。お話して、相手に上手く伝わるよう、努力が必要です。
それも、ケンカ腰にならずに・・・・・・。
そう考えると人間関係のコミュニケーション術と音楽はとても深い関係がありますね。

上手く伝えるにも沢山沢山練習が必要なんです。悩んで悩んでやっと少しずつ、解決法が見えてくるものです。

私が注意した事になんらかの反応が返ってきた、想いが通じた嬉しい1日でした。


平成22年5月6日(木) 研究は大切

ゴールデンウィークも昨日で終わりました。この前あった、門下生コンサートの集合写真が出来上がり、皆に渡しています。今年の写真は写真屋さんが「ミッキー」と言って笑わせて下さったお陰で生徒達全員が何ともいえない明るい笑顔のステキな表情です。見ているだけで心が和むね、と皆さんからいわれます。

昨日レッスンに来た高校1年生は、この休みの間に必死で研究した成果がよく表れていて「よく頑張ったね。」とほめました。
彼女の楽譜を見ると、実にいろんなことがメモされています。

大体のテンポは、メトロノームでどのくらい、1つ1つの音型に、ここはオシャレにひくなどの雰囲気、又、ルバートやアゴーギクの印などなど。
事細やかに書き込まれています。
きっとCDをきいたり、文献を読んだり自分なりの練習を工夫しているのでしょう。
とても嬉しかったです。

研究した成果は必ず音に現れます。
そういう感じでレッスンを受けてくれると、「こことここはね・・・。」という感じで二言、三言、注意をすればよい感じですが、
1小節の間にあそこもここも飛び出たり引っ込んだり、バランスも悪く、歌われていないところだらけだと、注意する箇所だらけになってしまい、レッスンが遅々として全く進んでいかないのでそれはとても効率が悪いのです。

音楽的には、年を取れば誰でも頭では分かってくるようになりますが、技術はそうはいきません。
スケール、アルペジオ、などを初め、ありとあらゆるテクニックを使って、ものすごく練習しなければならないのも20才頃までだと思います。

若いころものすごく練習して研究した学生は、その後の練習時間が少なくても曲中での指の配置や、パッセージの動きなどがパッとつかめるので年をとってから
すごく楽になるのです。彼女もきっと今はものすごく苦しいと思いますが、若いからどんな事でも頑張れます。それが、学生の良いところですね。


平成22年5月2日(日)1つの曲を知るには、それ以上の多くを知っている事が大切 

   今日レッスンをしていると、小学6年生の生徒から、岐阜国際音楽祭コンクールで第一位になったと大喜びの電話がありました。
どんなものでも第一位を獲得するのは至難の技ですから、大したものです。


5月に入りました。ゴールデンウィーク中ですが、普段通り生徒達とレッスンをしているので、私の方は休日という感じがあまりしません。

PTNAを受ける生徒たちは、皆かなり仕上がってきて予選と本選、暗譜で4曲通してとても上手に弾いている子も出てきました。

昨日、C級を受ける小学5年生の子で、上手に弾けてきたので「少し作曲家の事についてお話しようね」。といいました。

近・現代にプロコフィエフの曲が出ています。「プロコフィエフの事について知っている事を何でも言ってみて」というと
答えに困っているので、その作曲家の事を知るには、その人が生きて来た伝記を読んだり(子供向けの素晴らしい伝記が沢山出ている)他の作品についてもよく聴くように、と話しました。

私はプロコフィエフの音楽といえば、真っ先に思い浮かぶのが、「ロミオとジュリエット」のバレエ音楽です。


あらゆるバレエの演目の中で一番好きで、ウィーンに住んでいた頃、マラーホフの踊る「ロミオとジュリエット」に夢中になってウイーン国立歌劇場に足しげく通いつめたものです。
美しいハイライトがバルコニーのシーン。
何度見ても聴いても心奪われます。

「月は草原に昇る」は、D−durですが、「ロミオとジュリエット」の「バルコニーの情景」もD−durで始まります。
ジュリエットがバルコニーで胸をときめかせながら、ロミオが、自分のところに来てくれるのを待っている・・・。
そんなドキドキした気持ちと共にプロコフィエフの音楽とあいまってとても素晴らしいシーンです。

この曲が若さゆえの真剣さから出ている純真な永遠の美しさに私は心打たれます。

そしてプロコフィエフは、新しい世界を開拓するために、それまでの作曲家を全部否定した自信家でもあり、反逆児だったということも彼女に話して聞かせました。

「戦争ソナタ」のような曲のイメージと又、全然違う叙情性が「ロミオとジュリエット」にはあり、そんなイメージを知っていると、
随分曲作りも変わるはずです。

ちなみに「グリエール」は、プロコフィエフの先生でもあったことを知ると、2人の間に又、つながりがあるのだなぁ、と、
親しみもわくと思います。

1人の人を知るには、その人とかかわりのあった人達との出会いと別れ、好きだった本や、絵、音楽、食べ物、恋愛関係、家族関係、全てを知ろうとすることで少しずつ見えてくるのです。