2008年5月26日(月) 確信に満ちた演奏

PTNAの予選が近づいてきました。
ほとんどの生徒は、あと4,5回のレッスンで本番を迎えます。
この時期になると、1人1人レッスンのとき、すべての曲を通させて録音したものを聞いて、感想を言ってもらいます。

又、自分の演奏を聴いた上でその後、すぐ、さまざまな人の演奏(CD)を聴かせます。
そのCDが、良くても悪くても少なからず、自分との違いを聴きわけられるようになってもらうのが目的です。

そして、解釈があいまいだったり、表現方法がうやむやだと、何となく演奏に説得力がないということもよく理解させます。
どの生徒も自分の演奏は、スケールが小さく単調だということは十分わかるみたいです。

自分ではかなり歌っているつもりでも歌いこみがたりなかったり、バランスが悪かったり、テンポ感やルバート、アゴーギクの
仕方が不自然だったり、聴いていない音,、生きていない音など、録音すると、何もかもはっきり分かります。

私も録音機は、小さい頃から必需品でした。
自分の家での勉強が一番大切だと感じ、それこそカセットから大きなステレオタイプのもの、本格的な録音装置もありましたし、
MD・・・。何度買ってもらった事でしょう。又、すごく気に入った音楽と出会うとその音楽に近づきたい一心で、一緒にレコードと
弾いてみたり、自然な表現法が見つかるまである音、あるフレーズを何回も弾いては録音して・・・弾いては録音して・・・ということも良くやりました。

しかし1ついえる事は、どんなに誰かの歌いまわしや、アゴーギクのとり方等、まねしようとしても絶対にまねできない・・・というのが結論です。

ある部分だけまねしても又、さらに次の部分とのつなぎ目のところで決定的に「自分」が出てくるからです。
誰かの真似+自分では当然不自然な音楽となります。

指導する立場になって改めて芸術とは教えられないものだなぁとつくづく感じます。

指導者側は、本番間近の生徒たちの演奏に対しアドバイス出来ることといえば、いかに自由に泳がせて上げられるかにかかってきます。

1人1人の生徒の長所を引き出し、誰の真似でもない、たった1人のその子だけの持つ音楽の世界がきっとあるはず。
ステージで一番その子自身の音楽がより輝くように確信に満ちた演奏をしてもらえるよう導いていきたいといつも思っています。


2008年5月21日(水) 頭の中で音を聴く(その2)

私も学生時代、先生から「あぁ随分よくなったね」か、「あら!くずれちゃったねー」のどちらかを行ったりきたりしながら本番を
迎えていました。
人それぞれその人が今、現時点で出せる最高のレベルを過ぎれば、あとは、平行線をたどるか、崩壊していくかのどちらかです。

私がこの頭の中で、音を鳴らす練習をよくしていたのは、小学5年の時、毎コン(全日本学生音楽コンクール)西日本大会第一位を頂いたときです。
あの頃は東海大会はなく西日本大会といって三重の家から大阪まで受けに行きました。
全国大会の福岡へ進んだとき、飛行機の中でも、電車の中でも、眠る前もいつも頭の中で弾いていました。

私が桐朋の高校時代、大先輩のピアニスト清水和音さんのお宅へ伺ってお話した時「1週間ぐらい全くピアノを弾かなくてもバリッと
弾けるようじゃなきゃとてもピアニストになんてなれないよ」とおっしゃっていましたが、同感です。

清水さんは素晴らしいピアニストですが、普段の練習時間ゼロだとおっしゃっていました。
まぁ、冗談とは思いますがきっとすごく練習の仕方がうまいのだと思います。

崩れてきたら、頭をしっかり使ってイメージトレーニングをすると良いでしょう。


2008年5月20日(火) 頭の中で音を聞く(その1)

先日、受験曲を弾いている中学3年生のレッスンノートに「ツェルニーが崩れてきました。崩れたときは、どのような練習をすればよいのでしょうか?」
とありました。
そこで本番に備えてのイメージトレーニングとあわせてお答えします。

ピアノを弾く人には大きく分けて2通りのタイプがあります。
1つ目のタイプが日ごろから練習不足で周りからいつもやいのやいの言われないとなかなか本番の日を迎えるまで腰を上げようとせず指導者泣かせで
ヒヤヒヤものです。
レッスンのときにちっとも良い線が出ていないのでこんな調子でステージでちゃんとひけるのかしら?
と周りが心配になるタイプです。

もう1つのタイプは日ごろから非常に熱心にピアノを練習していて指導者もあぁ、この線でいけば大丈夫と思える安心型です。
このタイプは毎日とてもよく研究してさらう(さらいすぎる)ので、ステージの日が近づいて来る前に段々とくずれてくる傾向にあります。
私はまさにこのタイプでしたが・・・。

そこで私は、曲がくずれてきたなぁと感じたら、その崩れた曲は、一切弾かないことにします。
しかし、ピアノの上で弾かないということだけで、頭の中では、1つ残らず音を思い浮かべてイメージして弾いて見るのです。
勿論譜面を見ないで。頭の中で弾くのはとっても難しいです。
どこか必ずあやふやな部分が出てきます。特に左手はいかにいい加減に普段聴いていないかが、一目瞭然になると思います。
そこが完全に頭の中で整理されて弾けば、指でもひけます。音が頭の中で聴けてくれば指も確実になるのです。

そして、手のひらや指の筋肉はおとさないために、スケール、アルペジオなどの指練習もプラスしておけばよいでしょう。

明日へ続く


2008年5月18日(日) 天使の声を書きとめた作曲家、モーツァルト(その3)

昨日の続き
 「恋愛というのも1つのよいイメージね。
人間は恋をするということで男の人と女の人が犬と猿ほど違う生き物(?)
だということに気づき、お互い全然考え方も思いも全く違うんだという事実にまず愕然とするわ。
しかし、それによって本当の孤独の意味がよくわかるようになる。
そして、1人1人みんな違って孤独だから相手の淋しい心を温めてあげることは、出来るのよね。」という
話もしました。
「そんな気持ちをピアノの音に託してごらん!」

利発な彼女は、私の心を敏感に察知して、又、2楽章の頭をひき始めたのですが、先程とは全く違う「悲しみ」の音がつむぎ出されたのです。

レッスンしていてこんなときです!
私が心から幸せと思えるのは。私の想いがなかなか届かないこともありますが、彼女のように「あっ!こんな感じかな?」と
想いが届くと本当にうれしくなってしまいます。

帰りの電車の中でもずっとモーツァルトの2楽章が私の耳に流れていました。

そういえば、ウィーンでの私のケラー先生も私がピアノコンチェルト27番の2楽章(この曲も最高)を弾いていた時、いつも口ずさんでいらしたなぁと
ウィーンの風景とともに懐かしく思い出されます。

しかし、モーツァルトは本当にうつくしいなぁ。
先日小学2年の生徒がレッスンノートに「天使の声を書きとめた作曲家モーツァルト」と書いていましたが「美しい言葉ね」、と話したのでした。

モーツァルトの音楽はまさに天使の声。最高に美しくて又、最高に難しいのがモーツァルトです。

終わり

2008年5月17日(土) 天使の声を書きとめた作曲家、モーツァルト(その2)

昨日の続き

彼は本当に演技が上手だと思います。
モーツァルトのコンチェルトの踊りは、マラーホフがソロで踊っていて、初めてDVDで見せていただいたのですが、ふと今日
、高校生の生徒がその楽章をひいているとき、思い出していろいろと話しあったのでした。

「あなたは、この曲にどんなイメージをもっている?」と聞くと彼女は「恋愛。男の人が女の人に別れ話を持ちかけて さようなら と去っていくイメージ」(笑)
「あらま!随分急な展開ね」(笑)という話から、私がマラーホフの踊りを例に上げて話しました。

「ピアノが上手になるには、上手なバレエダンサーの踊りや、上手な俳優さんの演技を沢山見て研究しなさい。感性を高める事で
ずっと音楽がわかるようになるわよ」とも。
「マラーホフは、飛行機の中が家だというくらい世界中を飛び回っていて、ちっとも1つのところに落ち着いてその土地とも人間とも親密になれないまま、
移動をし続ける世界最高のダンサーなの、その彼が抱えているのは「孤独」。

まぁ、マラーホフに限らず、人間は、1人1人みんな親しくしているように見えて実は、とっても1人1人が孤独なものよね。
それがとってもよく表現されているおどりだったんだけどね、○○ちゃんもそれが内面から湧き上がるように音楽にあふれ出してこなければ」
という話をして聞かせたのでした。

明日へ
続く


2008年5月16日(金) 天使の声を書きとめた作曲家、モーツァルト(その1)

今日高校生の生徒が、モーツァルトのソナタ KV.280 F−durをレッスンにもって来ました。
この曲の2楽章は出だしが、ピアノ協奏曲の第23番の2楽章にとてもよく似ていると思います。
シチリアーノ風のリズムで、絶えず流動して、私はモーツァルトのコンチェルトの中では、この23番の2楽章が、
一番美しいと思っています。

そういえば昨日大人の生徒さんが、私が、ウラディーミル・マラーホフ(バレエ・ダンサー)の大ファンだという事を知って
DVDを貸してくださったのです。
早速見せて頂いたのですが、モーツァルトのコンチェルトの2楽章を使った「ヴォヤージュ」という踊りで本当に素晴らしかった!!

マラーホフの事は、以前日記にも何度か書きましたが、ウィーン国立歌劇場のプリンシパルでしたので
私がウィーンに住んでいた頃、マラーホフが大好きで、彼の演目は、ほとんど見ました。
「ロミオとジュリエット」や、「マノン」や「白鳥の湖」もどれもみんな素敵でしたが、私が一番心惹かれるのは足音の全くしない、柔らかな
着地、その体からヴァイオリンのような音楽があふれ出るしなやかな音楽性と、演技です。


明日へ続く


2008年5月14日(水) 経験はつめばつむほど怖くなる(その3)

完璧に弾こうとするとまず力が入り身構えてしまいます。
人間固くなってリラックスしていない時はどんなに歯を食いしばって頑張っても良い結果は出ません。

日ごろの練習は、真剣にやり、本番は遊ぶという感覚でステージに上がると良いと思います。
何度でも怖い思いをして自分の弱さを実感するのもよし、要は自分に一番合う方法を見つけてピアノ人生を歩んでいってほしいと思っています。

この件については、まだまだ書きたいことがあるので後々又、書いていきます。そして私が実際本番に向けて行うイメージトレーニングについてもご紹介していきたいと思っています。


2008年5月13日(火) 経験はつめばつむほど怖くなる(その2)

数え切れないほど場数をふみ経験をつむことで明らかになることは、いかに自分の苦手な部分が、もろに出るのがステージであり、
又、自分が本当に精神的にも弱いのだなぁと強く実感でき益々謙虚になっていけるということが、一番の利点ともいえます。自分の本当の実力がわかるのが本番だと私は考えています。

人間は生まれてまだこの世をあまり知らないときは、何に対しても無知で、怖いもの知らずです。
そこで年齢を重ねさまざまなことをいろいろ経験するうちに、何に対しても少しずつ身構えるようになってきます。

幼い子供が熱いお湯のそばにいってお母さんが「あぶないよ」と怒っても自分で試してみないうちは、分からない。
大やけどをして病院に連れて行かれてものすごく痛い目を体験するともう2度と熱いお湯のそばに近寄らなくなるでしょう。
そのようなことを注意されなくてもはじめから分かる子供もいる。

ステージで上がるという子はある意味で非常に優秀で大変賢く早熟で知恵がついている証拠です。

かの グレン・グールドもそうでした。
彼は大変早熟であり、天才的ですが、人前でひくのは、集中できないとある時点からパタッとステージでは演奏しなくなってしまいます。

ホロヴィッツがステージに出て行くのが怖くて楽屋のロッカーの中に隠れていたというのも有名な話です。彼も数え切れないほどのステージで演奏しているにもかかわらず、素晴らしいピアニストであればあるほどステージの怖さを良くわかっているのです。

リヒテルも暗譜が怖くていつも楽譜をおいて弾いていましたし、みな、体験を積めば積むほど精神的にも追い込まれ、臆病になってきます。

要するに「完ぺき主義」でいこうとすると怖くなってしまうという事です。この世に完璧なものなんて決してありません。完璧を求めようとすれば必ず失敗するものです。

私が生徒たちに勧めるのは、家での練習は、本番で弾くような緊張度をもって完璧に近い集中した練習をすること。
そして本番では、失敗してもいい。完璧に弾こうとするなということです。

明日へ続く


2008年5月12日(月) 経験はつめばつむほど恐くなる(その1)

大学へ教えに行く電車の中で日記を書いています。
今日はピアノを弾いている人達がステージでの場数を踏めば踏むほど安心して弾けるようになるかという質問にお答えしてみたいと思います。

まずはじめに私の体験を交えながら書いていきますのであくまでも、これは私の場合の話であって、そうでない
方もきっといらっしゃるでしょうから、まずは自分が一番よい方向へ向いていけるよう自分なりの道を探してほしいと思います。

まず私の体験でいえばステージの回数に比例して不安がなくなるかと聞かれればそれはまずないです。ステージを沢山こなせば精神も強くなるかときかれればそれも全く関係ありません。
むしろ、同じ曲をものすごくよく勉強すればする程、1回よりは2回目、2回目よりは3回目と回を重ねる毎に段々恐さが大きくなってくるといえます。

原因はそれだけ曲の細部にわたって自分の苦手な部分が明らかになってきて、よくわかってくるからです。
この際、練習すればうまくいくという部分と何ヶ月練習しても絶対うまくいかないというところが必ず出てきます。
練習のとき、うまくいっていないところが本番でうまくいくということはまずありません。

そこで、又、その気になる部分ばかり、やっきになって練習を重ねます。
するとさらに状況は悪くなる一方です。練習は上手にしないと今まで弾けていたものも弾けなくなってしまうのです。弾きにくい部分の練習しすぎは練習不足同様、よくありません。恐さばかり先にたってしまって他の部分まで崩壊してしまう恐れ大です。

よく子供のときは、人前で弾くのが大好きだったのだけど年齢が上がるにつれてあがりだして困るというのはよく聞く話です。
しかし、これは単に子供のときは、少し、おつむが足りないという事と、自分にあまり責任を持っていないという事、又、
曲が非常に単純でやさしく簡単だからです。

大人の曲になってくると、テクニック的に弾きにくいところがまずたくさんでてきますし、
曲の構成や音もハーモニーも非常に複雑になってきて第一、曲の長さがとても長くなってきます。
それだけ長く弾いても暗譜できるよう集中力がものをいいます。

明日へ続く


2008年5月7日(水) 子供にはその子にしかできない責任を持たせて

パソコンの先生に持って帰っていただいたパソコンの調子がやっとよくなりました。
素人がいろいろ試してもだめですが、やはりプロは違うなぁと感謝感激です。

プロの人はどこが悪いのか、どこがよいのかパッと即座に発見できます。
お医者さんでも名医ならおそらくその患者の病名をさっと言い当てるでしょう。
この場合は、あまりはっきりしたことは聞きたくないということもあるでしょうが、どんな世界でもプロだと思える人は、
その分野のことに関して知り尽くしており、本当に人間の能力は、人それぞれすばらしいなぁと感動します。

ケーキを作るのがすごくうまい人なら自分がケーキを作っているときも、それを誰かがおいしそうに食べている様子を思い浮かべながら作っているから幸せだし、
野菜を育てる人は自分の育てたトマトでもきゅうりでもお店に並んで人々の食卓にのるのを本当に楽しみにすると思います。

さて今日は大学で学生達のレッスンでした。
彼女たちは、小、中学校の先生や幼稚園の先生になるためにピアノを学びますが、実際に社会に出て働いてみると、子供なんておそらく自分の思い通りに
動いてはくれないでしょうが、働く方が学生のときよりずっと生きがいを感じられると思います。

子供時代、学生時代というのは、ある意味で、人生の中で一番葛藤の多い苦しくつらい時代だと思います。むしろものすごく幸せな子供時代を送れる人はごく僅かではないでしょうか。

なぜかといえばすべてのことにおいて誰かにいつも頼りきらなくてはならないし、いつも周りの大人たちから「ああしなさい。
こうしなさい」ばかりでちっとも自分から何かをするということができない時代だからです。
だから私は子供の気持ち、学生の気持ちが痛いほどよくわかります。

子供はただ身体が小さいだけで考えていることはもうすでに大人と同じです。
反抗したり、やる気がなかったり、問題のある学生にはその子供に頼れるような、茶碗洗いでも何でもよいから
「あなたがいなくては困るの」というメッセージを送り続けられるような責任を持たせてやると絶対生き生きとやる気を持って変わってきます。

「あなたは何もできないからだめ」とはじめから決め付けて大人が子供の自発性を失わせていきます。
多少失敗しても、要領悪いなと思っても目をつぶって子供に責任を持たせてやりたいと私は考えます。

よくピアノ練習を嫌う子がいると聞きますが、私のクラスの生徒たちは、そのような子は1人もいないと思います。
みな、自分が親もひけないようなピアノを弾いている事に、ほこりをもち、しっかりと責任をもって毎日ピアノを練習しているはずです。

私は1人1人の学生の持つ力を信じたいー。
まったく違う悪い方向に進んでいってしまわなければ、ほんの少し、舵を取ってやるだけで十分、立派に育っていくと信じて教えていく毎日です。


2008年5月3日 (土)うれしかった小学6年生の成長

大型連休で遊びにいっている人も多いと思います。

今日はとてもうれしい事がありました。
小学6年生の生徒で、今、PTNAのD級の課題曲を練習しているのですが、彼女なりに、日々レッスンで教わったことを
忠実に消化して丁寧に曲を仕上げていこうとする姿勢がとても強く随分上達してきました。

レッスンしていてとてもうれしいのは、こういう時です。
1回1回のレッスンをとても大切に真剣に受けているんだなぁと心を打たれます。

彼女は日々本当によく努力すると思います。

さてさてこういう子ばかりではなく勿論その逆もしかり。直すところだらけで、どこから手をつけてよいのか困るような場合は、
もうお手上げ状態、となってしまいます。
怒らないと直してこない生徒は、本当に頭を抱えてしまいます。

「つくづく子育ては、忍耐の連続だな」と思います。
何度いっても直してこない生徒には神様が私にもっと忍耐することが上手になるようみちびいて下さっているのかなと思えてきます。

”何度でもかんで含めるようにして教えていこう”が私の方針ですが、私の粘り強さが、そんな生徒の心にいつの日かまっすぐ届けばいいなと願うのみです。

2008年5月1日 (木) パソコンの調子

最近パソコンの調子が悪く、皆様にご迷惑をおかけしています。
パソコンの先生に持って帰って見て頂いているところです。
そのような事で、頻繁に日記がかけていませんが、今日は、昔の古いパソコンで書く事にします。

5月に入り学生達も、少しは、新しいクラスになれた頃でしょうか?私達指導する側も同じです。
特に大学生は人数が多いので、やっと顔と名前が一致してきたという感じです。
新しい世界は、何かにつけ違和感を感じるものです。
新しい人との出会い、新しいピアノのレッスン、新しい曲、全てにおいて慣れるのに大変です。
学生達を見ていても割とサッと順応性があり、すぐ、新しい先生や、友達、授業にとけ込める子がいますが、
そうでない子も勿論います。
さっとなじめる子は、放っておいても大丈夫ですが、そうでない子はこちらが何かと、相手の事を聞くようにして
淋しい思いをしていないかな?と心配りをします。初め大学生達は、私の弾くピアノや、レッスンが物凄く珍しいようで私のする事なす事笑ってばかりいました。
まぁ、お箸が転げてもおかしい年齢なんでしよう。

とにかくにぎやかで、明るいのが大学1年、そして年齢が上がってくると、段々と現実が目前に迫ってきて
「花の1年、地獄の4年」とよく言いますが、そんな感じです。

学生の頃に自分は、何になろうとか、はっきりとした目的意識を持って勉強に取り組んでいる子と、周りに流されるまま、学生時代を過ごした人とでは、将来大きく差がついてくるのは、当然です。
自分の思うようにままならないのが世の常です。
しかし、
自分が何かになろうと決めてそれに向けて勉強しているなら、他のことを全部犠牲にしてでもとことん熱中して欲しいです。
それには我慢する事や、耐える事が山のようにあり気が遠くなると思いますが、それをいくつもいくつも乗り越えてきた人なら、恐らく人の気持ちにとても敏感になり、人にやさしく社会のために役立つ人になれると思います。