2008年4月24日(木) モディリアーニの絵(その2)

モディリアーニの絵を見て内に向かうエネルギーがその人自身の絵の中に、全て凝縮されていると思いました。
どの絵も皆悲しくて淋しげ。
モディリアーニの絵で裸婦はあまり好きでないけれど、子供を描いた絵などは、その純粋な子供の目に私の心がスーッと吸い込まれていくような気持ちでした。

ピアノの演奏も全く同じだと思います。
その人の内側から出てきたエネルギーが音楽を通して表現され、聴く人は、その人の心の中に吸い込まれて入っていくー。
私としては、そんな演奏が理想であり生徒達にもいつもそれを求めています。

その絵が語りかけるとか、その演奏が語りかけるとかそれを感じるのは、ただ、目で見るのでなくて心の中の目で、耳で、見たり聞いたりしなくては、
何も語りかけてこないし、何も聞こえません。

私が生徒達にレッスンのとき弾いて聞かせる時は、表面をただ、見たり聞いたりするのでなく、
心の中の目と耳を使って聞いて欲しいと思っています。

私も1人1人の生徒の演奏を自分の心の中の目と耳を最大限総動員して聴きますが、今日のモディリアーニの絵みたいに胸にクーッとくるものもあれば、
何もないときもあります。

私が高校に入った時、「美術館へは、時間を見つけて出来る限り行きなさい。あなた方の音楽が絶対変わりますよ。」と作曲家の先生がおっしゃって下さいました。

その言葉の意味が、今となっては、心にとっても響いてきます。
絵を見た後で、ピアノを練習するのはとても気持ちよく私にとっては至福の時間です。

とにかく芸術家は、自分の気持ちが外に向かないで、内に向かうから、絵描きなら絵を描いているときが、楽器を演奏する人は、楽器を弾く時が、
一番、自由で、のびのびしているはず・・・・・・・。というわけで
私もピアノを弾いている時が、一番幸せです。


2008年4月23日(水) モディリアーニの絵(その1)

今日は大学で、ピアノを教えた帰りに、美術館へ行ってモディリアーニの絵を見てきました。

ウィーンに住んでいた頃、近くの美術史博物館を度々訪れましたが絵画だけでなく内部の装飾も素晴らしくて感動したものです。

レンブラントの絵は、その前に立つと何か語りかけてくるようで本当に心を奪われました。

さて、モディリアーニの絵は、青い目が特徴的で、一方の目は、外に向けて見ている目、もう一方は、内に向かっている目
といった感じのもありましたし、両方の目がぬりつぶされて目は開いていても全て内に向かっているという感じでした。

モディリアーニは、生きている間ずっと報われなかった芸術家だったと思います。
それこそゴッホなどは、モディリアーニよりもっと悲惨な人生だったと思いますが・・・。

画家に限らず、昔の音楽家達も純粋で、本当に偉大な人たちは、皆、悲惨な人生を、たどっていると思います。
悲惨というか、気質的に芸術を愛する人は、単純な事では楽しんだり、喜んだりできません。、要するに気分転換が、普通の人たちと違って
上手くいかないのだと思います。

この世にないものを求めたり、美に対する憧れや、感受性が人一倍強く、そういったものが全て外に向かうのでなく、
内に向かってしまうので現実の世界に生きにくい人種だろうなとも思えます。


2008年4月21日(月)拍感

毎年PTNAの課題を見て感じるのは3拍子、メヌエットやサラバンド等踊りをイメージする曲が出題されています。(特に小さい子の級で非常に多い)
音楽は元々踊りからきているものが殆どで、かなり幼い頃から、
そういった踊りの拍子感を身につけていく事はとても良い事だと思います。

まずピアノを弾く事自体、指をキイの下まで下げて弾かなければならないので全ての音が全部下へ向いてしまいやすく、そのためにうたいにくく、
拍子感も取りにくくさせているといえます。

特に3拍目から1拍目へうつる時になんのイメージも持っていない場合は3拍目も1拍目も皆同じ表情になってしまいます。
私が1人1人の生徒のひじや腕や手首を持ってみると1拍目も2拍目も3拍目も全て同じ力を入れて力んで弾いている事が良くあります。

ある程度、ピアノを操る事に手慣れてこなければ、自由になりにくいというのもあるでしょう。
しかし、その拍子感を、しかも生きた拍子感でとらえて弾ける子、どうしてもとらえて弾けない子とでは演奏が全く違ってきます。

踊ったり、歌ったりする事は、とても好きで上手なのにピアノの前に座って弾くと言うだけでロボットのようにガチンガチンになってしまう子もいます。
拍子を感じて弾いていくとテンポがはしったり、のめったりしなくなると思うので、幼い頃からの習慣がもっとも大切です。


慣れれば拍感を持って弾かなければ気持ち悪いというくらいになって来ます。
習慣になって言葉を話すように、考えなくても自然に出来るようになったらしめたものです。


2008年4月18日(金) 自分でまいた種

昨日も今日も雨が降り、気分がめいりそうですが、そんな時は、生徒達が私に元気を与えてくれます。

昨日も中学3年生の生徒で、受験生の生徒が、受験曲3曲全て暗譜して弾いてきました。
大体まとまったので高校に入学しても困らないように受験曲は少し脇において沢山レパートリーを増やそうね、
といったところでした。
もう明日にでも本番で弾くというような真剣さでもって弾いているので「あまり根つめちゃダメよ。間際になればもっと精神的、
体力的にも疲れてくるんだからね」と言っておきました。

今日は、明和でしたが、とても遠いところから通っている生徒は少しの時間も惜しんで、練習に励んでいる様子。
試験課題の「スケール、アルペジオは、4月中に暗譜しようね」という事を先週言ったら、きちんと守って今日は殆ど理解して弾いていました。
遠いから練習時間が取れないとか、そういうことは全ていいわけに過ぎないのだなぁということが彼女を見ると良く分かります。

全ては、やりこなそうという強い意志と集中力。ボーっとして過ごすのでなく時間をとても上手に使っている彼女を見るとすごいなと思います。

帰宅後小学6年生の生徒、中学2年の生徒がレッスンに来ましたが、2人とも、レッスンの間の集中力は、見事なものです。
私が、次は何をいおうとしているかということがすぐ分かり、言葉で言わなくても音楽で補ってくれる生徒達です。

小6の生徒は、「学校から帰って疲れてやりたくないときもあるでしょ?よく頑張ってるね。えらいね」というと  にっこり!
中学2年の生徒は、それこそもう明日ステージにたって弾くの?というくらい、一心不乱になって演奏しています。
レッスンのたびに良くなりバッハのフランス組曲もとても上手に弾いています。

彼女達を見ていると、あぁ、人生の中で、何か1つの事に本当に真剣に打ち込めるものがあるということは、本当に幸せな事だなと
胸を打たれます。

人生の中でどんなに辛く悲しい出来事があっても打ち込める何かがあると悲しみを忘れる事が出来るし、前に向かって進んでいけるからです。
要するに自分が自分を救うわけです。
私はこれまでに困難にぶつかった時ピアノだけは、自分を見捨てないで何度も私を救ってくれました。

彼女達も一生の中で、自分が救われたのは、ピアノのお陰と思えるような、人生を送って欲しいです。
種をまくのが自分ならその実を刈り取るのも自分。
将来彼女達も沢山の実を、喜び一杯に刈り取って欲しいと思っています。


2008年4月14日(月)音楽の魔術とは?(その2) 

例えばよく言われることの1つに受験英語が良くできても文法が分かっても、いつまでたっても英語が話せない
という状況に似ています。

音楽もそれと同じ。B−durの調性を弾くと、こんな色合い、A-durだとこんな音色、とかそれはそれは人間の感性
と同じくさまざまな変化が音楽にはあります。
それが弾く人によっては皆違う変化となって現れます。
それは、どうしたって言葉では説明など、出来っこありません。

テンポ感などもどうしてここからゆっくりしたり、早くなるのかと聞かれても音楽がそう語りかけてくるから自然にそうなる、としか答えようがないのが音楽です。

調性が変化すると、又、ハーモニーが変わったり、場面が変わる事で、自分の気持ちが変わっていく感性を持っていることが何より大切ですが、
その上でさらにここにドミナントがきているから、緊張するんだとか、トニックがきたから、解決するのだという風に頭でも理解していければ素晴らしいと思います。

音楽には物質面(音の質の作り方や弾き方)、形式面、解釈面の3つの教育が必要ですが、
最後は何といっても芸術の魔術を使わないとなりません。

それも言葉では、説明できません。魔術を使える人は本当に魅力的な演奏になるのです。
そして又、その魔術はアナリーゼが完璧に出来たからといって出てくるものではないのです。

そこが音楽のとらえどころのなさですが、最終的には、知識だけでなくその「魔術」を使えるように是非なって欲しいと思っています


2008年4月13日(日) 音楽の魔術とは?(その1)

今日のレッスンで小学6年生の生徒が、モーツァルトのロンドD−dur K.485を弾いていて私に尋ねました。
ロンド形式でとらえるならどこがAなのかBなのかよくわからない、という事でした。
とても良い質問だと思ったので今日はアナリーゼについて書いてみたいと思います。

この曲は、確かにロンドという題名でもA,B,C,の3つの主題を備えたロンド形式ではなく、むしろ
ソナタ形式としてとらえる方がよいと思います。
しかし、1つの美しい主題が繰り返し転調し、変奏して現れるので本質的にはロンドと感じとれるでしょう。

先日中学2年生の生徒もアナリーゼの楽譜を買ってバッハを研究してきたのですが、彼女にも「知識として知るだけではダメよ。
それが音楽(うた)と結びつかないとね」と話したばかりでした。

私は音楽を勉強していく上で楽曲を頭でよく理解しておく事と、感性で弾いていくところの2つのバランスがとれているのが一番良いと考えています。

頭の中の知識だけあっても、それが音楽(うた)に結びつかなければ、何の意味も持たなくなってしまうからです。


2008年4月11日(金) 美しい演奏は、徹底した基礎から

学生達は新学期が始まり、毎日何かと落ち着かない日々を過ごしているでしょう。

私達教える側も同じ事で高校、大学のオリエンテーションなどで、あっという間に1日が過ぎていきます。

今日は明和高校でのレッスンでした。
私の生徒でとても遠いところから毎日、明和高校に通うようになった生徒がいます。
レッスンノートを見ると毎日見るもの、やる事全てが刺激的で圧倒されっぱなしの様子がよく書かれていました。

朝は5時起きだし、慣れるまで相当大変だろうなと彼女の心情が良く分かります。
又、制服が届いた時も「わぁ、可愛い」と感動している様子など、憧れの明和高校に入れた喜びが満ち溢れていて見ている側もほほえましい限りです。
その感動を胸に3年間情熱を持って音楽に取り組んで欲しいと思います。

私も学生の頃慣れない東京での生活、ウィーンでの生活において唯一頼りに出来るものといえば、矢張りピアノの実技の先生でした。

そのように恐らく彼女達もさまざまな科目を音楽高校で勉強するとしてもピアノ実技の先生は、一番大切な存在だろうと思います。
学生の間にスケール、アルペジオは必ず、どこの音楽高校、大学でも弾かなければならないものですし、
モーツァルトや、ハイドン、ベートーヴェンのソナタなどの古典派、バッハの平均律、ショパンのエチュードは、
音楽学生なら誰しも全て知らなくてはいけないし、弾かなくてはいけません。
その他、ショパンのバラードなどの大曲をこなす力も必要になってきます。
そのために音楽高校にはいっても困らないよう中学3年までにある程度の曲のレパートリーを
作っておく事がとても大切です。

私が今、幼い生徒達にさせていることは、全て将来必要なことばかりと考えてもらってよいと思います。

どうしてスケール、アルペジオを弾かなくてはならないのかといえば、学校の試験に出るからというより以前の問題で、美しいモーツァルトのソナタを美しく弾くために、
ベートーヴェンを力強くひくために、ショパンやリストなどの華やかさを本当に華やかでダイナミックなものに仕上げるために
全て必要な事なのです。音楽性も勿論必要ですが、美しさを自由に表現できるテクニックがあってこそ、成せる技といえるでしょう。
徹底した基礎、基本が叩き込まれていてこそ、本当の美しさに出会えるからです。
そういった本物の美しさを身に付けていって欲しいです。


2008年4月3日(木) 相手を理解する心(その2)

どんな生徒も1人1人皆違っています。
私が正しいと思ってやっている事が相手には充分理解されなかったり、又、勿論逆の場合もありです。
しかし、私の方が正しい、あなたは間違っているという事にだけはならないよう日々気をつけています。
皆、それぞれの視点でものの見方が違います。

人間と人間の関係って音楽みたいだなぁと思えます。
相手の事を完全に理解しつくすのは、難しいけれど、音楽を作っていく時みたいに、愛をこめて理解しよう、
理解しようという気持ちを持つ事で暖かい人間関係が生まれてくると私は信じています。
何でも機械がやってくれる便利な世の中にはなりましたが、直接手を取って教えてもらえる、
人間が人間を教える、教えてもらうという行為は最も尊いものと思われます。

私自身の経験を振り返ってみても今思い出されるのは、私のピアノを弾く手つきを直してくださる先生の暖かい手だったり
私が上手く弾けた時に先生がとても嬉しそうな表情で、ほめてくださった事・・・。そんな本当に取るに足らない事です。

きっと私の生徒達もそんなどうでもよいような事で、将来心を暖めるような気持ちになってもらえれば嬉しいなと思います。
相手を理解しようとする心さえあれば、どんな人間だって理解できると思います。

だからどんなに世の中が進んでも人間からしか学べないものが絶対にあるのです。

学生達は、そんな素晴らしい時代を精一杯無駄にせず人間から吸収して欲しいと願っています。


2008年4月2日(水) 相手を理解する心(その1)

4月に入り、私の周りもバタバタとあわただしくなってきました。

大学の学生や、高校の生徒達、まだ出会っていない新しい出会いに今年は、どんな面白い事があるかな?
とドキドキ、ワクワクしています。
プライベートのレッスンの生徒達も1人1人の目標に向けて頑張っていますし、新学期、新学年を向かえ
皆同じように期待で一杯でしょう。

私も幼い頃は特に、どんな勉強をするかという不安よりも、どんな先生に受け持たれるのかな?恐い先生?
優しい先生?誰と一緒のクラスになるかな?という事を一番不安に考えていました。

その中でももっとも私の心を不安にさせたのは、私という人間を理解してくれる人がいるだろうか?
という事でした。
振り返れば自分の全てを理解してくれる人など、いるはずもなく、自分が出会った相手をどこまで、
自分の身になって理解できるかにかかっているという事に気付いていなかっただけで、幼い頃を思い出すと
本当におかしくなります。

私が生徒と接する時は、まず、自分のことを知ってもらうより先に、相手をよく知ること、理解しようとする事につとめています。