スコティピペン

 私のスコティの印象は、まだNBAを見始めたころ、ジョーダンの影に隠れ、地道に縁の下の力持ちをしている姿が心に残る。そのころから才能は超一流と見られていたが、まだそんなに超一流と言うほど堂々といたプレイは見られなかった。ところが、ジョーダンが引退した1994年、まさにチームの中心となってチームを牽引する姿から、本当に自信も身につけて、超一流となったような気がした。その後、ジョーダンが復帰しても、ジョーダンは点をとることに集中し、ピペンがチームのディフェンス、リバウンド、速攻と中心になって、絡んでいるように見えた。評価もあがって、ジョーダンとの間に生まれた関係から身につけたオールラウンダーぶりがNBA一と評されるまでになった。

 1965年9月25日、アーカンソー州ハンブルクにて、12人兄弟の末っ子として生まれる。貧しい生活で将来にバスケの夢も持っていなかった。高校時代、ぱっとした成績をスポーツでも上げていなかったピペンはマネージャーになろうとバスケ部に入部する。しかし、三年生になると、PGとしてレギュラーを獲得していた。だが、大学にはマネージャーとして推薦をとるのがやっとで、結果マネージャーとして、セントラルアーカンソー大に進学する。

 しかし、その才能が大学になって開花する。そして、NBAドラフトではソニックスに5位で指名される。その後トレードによって、ブルズにやってきた。同じ年に後の3連覇の中心メンバーの一人となるホーレスグラントも入団する。

 ブルズではプレイとポジションが似ているジョーダンに1ON1などできたえられることになる。この1ON1がピペンを一流選手に育て上げた。よく言うことが、ピペンのディフェンスがうまいことに対して、手足が長いこともあるけど、練習でマイケルジョーダンを抑えようとやっているわけだから、どの選手を相手にしてもうまいのは当然だと聞いたことがある。

 しかし、ピペンは、バッドボーイズのビルにエルボーを食らうと、試合に出なかったり、プレイオフのピストンズ戦で偏頭痛をおこし、絶不調だったりしたため、臆病者のレッテルをはられ、ジョーダネアー(ジョーダンのものまね)と呼ばれるようになった。

 そんなうわさを、プレイによって徐々に払拭していく。そして、ライバルピストンズを91年にスイープし、ファイナルでレイカーズを下して初優勝を果たすころには、超一流の仲間入りを果たしていた。続く92年にはドリームチームTに選ばれ金メダルを獲得。92年、翌93年には3連覇を果たした。

 94年にジョーダンが引退し、BJが移籍、ジョンパクソンが引退。ホーレスグラントも移籍し、優勝チームが崩壊すると、精神的にチームを引っ張るリーダーとしての自覚を迫られる。その中で本当の意味での一流プレイヤーに成長する。オールスターではMVPを獲得し、プレイオフではニューヨークニックスと大激戦を演じた。その後、ショーンケンプとのトレードの噂が流れたりするが、95年にジョーダンが復帰すると、ジョーダンと対等の立場でチームを引っ張っていく。その後、犬猿の仲だったデニスロドマンがリバウンド補強のためにやってくると、ブルズは72勝を記録。圧倒的な強さで優勝をする。翌97年、98年も優勝を果たし、二度目の3ピートを果たす。

 またドリームチームVのメンバーとして、今度はチームを牽引する立場で金メダルをアトランタで獲得し、全盛のときを迎えた。その後、再びジョーダンは引退し、ピペンはフリーエージェントの目玉として、唯一不満だった金銭問題を解決し、ロケッツへと移る。夢のオラジュワン、バークレー、ピペンのコンビが成り立つも優勝には届かない。チャンピオンリングを求め、ブレイザーズに移籍するも、カンファレンスファイナルでレイカーズと大激闘を繰り広げた結果敗れるとピペンは年と怪我のため、全盛期の姿を取り戻すことはなかった。最後に有終の美を飾ろうと古巣ブルズに戻るがほとんどプレイすることなく、
2004年引退した。

 ピペンはジョーダンがいるブルズに入り、その必要性からオールラウンドにならざるを得なかった。ジョーダンが得点を取る中心になる間、その他の必要なところを全てカバーしていたのが原因だと思う。至上最高のオールラウンダーや、至上最高のナンバー2選手などと呼ばれるが、各チームがエースを抱える中で優勝するためには、必要なところをカバーできるピペンのような優秀な選手が必ず必要であると思う。