マイケルジョーダン

 どんなにバスケットボールを知らなくても大抵の人がこの名前を聞けば、一度は聞いたことがあると答えるでしょう。14000億ドル、この男が入団して以来の経済効果である。そのあまりにも有名であまりにもすごすぎるこの男について語らずにはいられない。

 マイケルジョーダンは1963年2月17日、ニューヨークの住宅街ブルックリンで生まれた。ジェームスとデロリス夫妻の4番目の子供である。その3週間後、一家はジェームスの母が住むノースカロライナに戻る。父は工場のオペレーターとして、母は銀行で働いていた。マイケルは子供のころは野球とバスケとアメフトでスター選手だった。

 レイニーハイスクールに入学したマイケルの身長は178cmになっていた。この時、ジュニア代表チームから1人代表チームに昇格できるという噂がながれ、マイケルにはアベレージ20点以上をあげているから選ばれるという自信があった。しかし、連絡をもらったのはリロイ・スミス(80年代日本リーグの熊谷組に在籍)だった。これは身長が196cmあるという理由からだった。マイケルにとってバスケットボールで味わった最大の屈辱だった。これからハードな練習に積極的に取り組むようになった。3年生を終えた後、フェイマス・ファイブスター・バスケットボール・ゲームに出場し、2週間の戦いで過去最高の9個の個人トロフィーを獲得した。「あれが人生のターニングポイントだった。」と後にマイケルは語っている。

 そのあとディーンスミス率いるノースカロライナ大学に進んだマイケルは、4人目の1年生スターターになる。この時に残したアベレージは34ゲームに出場して、13.5点

だった。そしてジョーダン伝説の出発点になったのがパトリック・ユーイングのいるジョージタウン大とのNCAAファイナルだった。62対61と負けていた残り17秒でマイケルが劇的なジャンプシュートを決め、伝説が始まった。このころ身長も198cmになっていた。そして大学2年目のシーズンにカレッジ・プレイヤー・オブ・ジ・イヤーに選ばれ、その後大学3年のときにロサンゼルスオリンピックで1つ目の金メダルを獲得した。

 過去最高の年と呼ばれる84年のドラフトで、アキーム・オラジュワン、サム・ブウイ(ほとんどを故障のために過ごし過去最大の失敗と呼ばれる)に続き3位で指名される。そして1年目にしてすでにスーパースターになっていた。このころナイキとのシューズ契約をまとめドル箱シューズ、エアジョーダンが誕生した。

 しかし2年目にマイケルは左足を骨折して64ゲームを欠場する。そんな中なんとかプレイオフ進出をきめるが、堂々たる顔ぶれのセルティックスが相手だった。そして第1戦でマイケルは49得点、第2戦ではプレイオフ記録となる63点をあげる活躍をするが、チームは負けてしまう。この試合の後ラリー・バードは「神がマイケルジョーダンに姿を変えていたんだ」とジョークにしていた。結局このシーズンもプレイオフ1回戦突破はならなかった。

 3年目のシーズン、アベレージ37.1点を記録し、初の得点王に輝く。このあと、大リーグに転向した1年を除き、今まで得点王を取りつづけている。しかし、プレイオフはまたも1回戦にセルティックスの厚い壁がたちふさがり、1回戦突破はならなかった。

 そして4年目に将来有望な2人の選手を獲得する。スコティ・ピペンとホーレス・グラントである。この年にマイケルはMVPと最優秀ディフェンス選手賞を獲得。オールスターのダンクコンテストでは、今でも語り継がれる、フリースローラインからのダンクシュートを決め、優勝した。それでもブルズはプレイオフでは好成績を残すことができなかった。1回戦ではジョーダンの活躍により、キャバリアーズを下すものの、2回戦でバッドボーイズとよばれるピストンズに敗れた。このころワニータ夫人と結婚し、自由の利かない私生活では、ゴルフを始めるようになった。

 5年目と6年目はキャバリアーズ(最もジョーダンにやられたチームと言われる。69点入れられたりした)をジョーダンのブザービーターで倒したりするが、バッドボーイズと呼ばれるピストンズにNBAタイトルを奪われることになる。紳士的なガード、アイザイヤ・トーマス、ジョー・デュマース、ビニー・ジョンソン、タフで時にはダーティーといえるプレイをするフォワードのビル・レインビア、ジョン・サリー、ジェームズ・エドワーズ、デニス・ロドマンらが率いる‘ジョーダンルール’と呼ばれるマイケルを抑えるためのディフェンスに苦戦した。

 しかし7年目、ヘッドコーチ2年目のフィルジャクソンとうまくいくようになり、ピペンやグラントの成長によって、プレイオフを勝ち抜き、ピストンズ(3年分の復讐を果たす)を一掃し、ファイナルではマジックジョンソン率いるレイカーズを4勝1敗で破り、7年目にしてようやく優勝を果たす。初のNBAチャンピオンシップを獲得した。マイケルは今でもこの時の優勝を人生で一番うれしかったことと話す。この優勝のあとマイケルは日本でもNBA人気の火付け役となったドリームチームTに参加し、バルセロナオリンピックで二つ目の金メダルを獲得した。

 そして脇役たちが固まってきたことにより、ブルズは続く92年はクライド・ドレクスラー率いるブレイザーズを破り、93年にはチャールズバークレー率いるフェニックスサンズをアウェイで3勝し、破り、3ピート(3連覇)を達成した。マイケルはこの3年間ファイナルMVPを獲得している。

 そんな中ここで悲劇が起こる。父ジェームズが強盗に殺されたのだ。マイケルはこの年、もうバスケットでは証明するものがないと引退を表明、父の夢だった大リーグに挑戦することにした。

 しかし95年3月に「I‘m back」という短いコメントのあと突然バスケットボールに復帰する。そのころシカゴブルズはジョーダンの抜けた穴を埋められず苦戦していた。ジョーダン復帰により勢いの増したブルズはプレイオフに進むのだが、シャキール・オニール、ペニー・ハーダウェイ率いるマジックにジョーダンのミスで破れてしまう。ジョーダンでも2年間のブランクは大きかった。しかしこの屈辱がマイケルの忘れていた闘争心に火をつける。翌シーズンオフにかつてないほどのハードトレーニングをして、かつてのバッドボーイズの一員であり、最高のリバウンダーであるデニス・ロドマンを獲得し、ピペンとロドマンの確執やロドマンの悪い評判など問題を抱えながらも至上最高のシーズン72勝10敗の成績で終える。ジョーダンは得点王を獲得し、圧倒的な強さでプレイオフも勝ち抜きファイナルではゲイリー・ペイトン、ショーン・ケンプ率いるソニックスを破り、4個めのチャンピオンリングを手にした。この年のチームは至上最高のチームと呼ばれる。

 さらに翌97年にはジョン・ストックトン、カール・マローン率いるジャズを破り、2連覇、翌98年にはカンファレンスファイナルでラリー・バードが監督就任し、勢いに乗るレジー・ミラー、リック・スミッツ率いるペイサーズに初めての第7戦までもつれるものの、チームメイトの活躍によってなんとか振り切り、ファイナルではジャズとのリベンジマッチを跳ね返して2度目の3ピート(3連覇)を達成した。リピートスリーピートと呼ばれたりする。まさにだれもジョーダンを倒せないのである。これがジョーダンのジョーダンたる所以であると思う。

 ジョーダンは神と呼ばれたりする。本人は嫌がっているらしいが、私は、ジョーダンは神がかりのプレーはするものの、感情剥き出しで、どちらかといえば人間らしいと思う。

ジョーダンのすごいところは世界一の負けず嫌いなところと絶対的な集中力、だれよりも練習するところだと思う。有名な話だが、私生活のトランプでも相手が参ったと言うまで続けるそうだし、負けたら勝つまで付き合わされるそうだ。「何をやるにも一番敵にまわしてはいけない奴だね。」とブルズのチームメイト、スティーブカーは話す。

 ジョーダンが負けたところを見てみたい気もするが、今世紀最後の伝説的プレイヤーであるため、負けないで伝説になってほしい気もする。う〜ん矛盾してるなあ。

 しかし、99年1月13日(日本時間14日)ついにマイケルジョーダンの引退発表が行われた。ついに20世紀最大のスーパースターが引退した。肉体的にはまだできるが、精神的につかれた、もう精神的にモチベーションを保つことが出来なくなったと話す。彼は最高の状態で引退したとは言えないが、最強の状態で引退してしまった。だれもマイケルジョーダンを倒すことも超えることもできなかったのである。数多くのネクストジョーダンが生まれたが、だれもそのふもとにさえたどりついていない。ジョーダン引退の損失は一兆円とも言われている、翌日ナイキの株が5%下がった。私の辞書には挑戦しないという文字はない、なんて日本のインタビューに答えていたっけ。かっこよかったな。

 98年シーズン終了後印象に残った引退会見の言葉、最高に楽しかったよ…。

 その2年後、ウィザーズにて2年間現役に復帰するも年齢による衰えはあきらかであった。当初衰えてから引退するのを嫌っていたジョーダンであるが、バスケットボールを本当に愛しており、最高の舞台でのプレイを続けていきたかったという強い意志を感じた。しかし、チームをプレイオフに導けず、歯がゆい思いをしているジョーダンの姿ばかりが印象に残った。