ティムダンカン

 ティムダンカンはNBA入りする2年ほど前から、NBA入りを発表すれば1位指名されることは確実と言われていた。しかし、ダンカンはアーリーエントリーせず、大学は最後まで行って卒業しようと決め、卒業後サンアントニオスパーズに1位指名された。当時の若手では、シャキールオニール以来、有望なセンターが少ないと言われていた。

 大学時代、また入団当初ダンカンの印象は余計なことは話さず、黙々とプレイをこなしているといった感じだった。評判通りの賢いプレイをこなす。ちょうど同じ若手センターでパワーのシャキールオニールと正反対のタイプのように思える。パワー勝負できる相手にはきれいにターンアラウンドシュートをバンクショットで決める。ドリブルもうまくセンターをたくみに外側に引き出し、1ON1で瞬時に抜き去る。きれいなシュートフォームでミドルシュートを得意とし、時にはフェイドアウェイを決める。リバウンドとブロックショットはとくに強く、ゴール下で一流プレイヤーたちと争い、1年目にして驚異的な数字をあげた。ちょうどオラジュワンのようなセンタータイプのような気がした。入団シーズンは復活したデビッドロビンソンとツインタワーを形成しゴール下を圧倒した。もし、ロビンソンがいなくてインサイドを一手にまかされていたら、平均25点13リバウンドくらいの成績を上げていたかもしれない。しかし、ロビンソンはいいお手本になっていたと思う。その後のMVPを獲得するまでの順調な成長を助けていたと思う。

 1976年4月に米国領ヴァージン諸島のセント・クロイという島で生まれた。彼は幼いころ水泳に夢中になっていた。その才能はいまだにヴァージン諸島の記録に残るほどの成績をあげている。

 しかし中学生だったダンカンは、89年に巨大なハリケーン‘ヒューゴ’にヴァージン諸島は襲われ、プールが破壊されてしまう。さらに90年最愛の母アイオヌが乳がんで他界してしまうのである。そのハリケーンの恐ろしさとあまりのショックに水泳をやめてしまう。そこで姉の夫、リック・ロウリーと遊びでバスケをしたのが始まりだった。

 めきめき実力をつけたダンカンは名門ウェイクフォレスト大に進学。1年目はディフェンスを身につけた。そしてブレイクしたのが2年目。チームの中心に成長し、ACC制覇をなしとげNCAAに進出する。2回戦で敗れるものの、全米にその名をとどろかせた。(このころキースバンホーンと戦い、マジック、バードのようなライバル関係が生まれる。2人とも学業を全うしたいとアーリーエントリーしなかった)大学4年目には数々の記録を樹立。当然のようにスパーズから1位指名された。

 2試合目にはもうプロの水に慣れていた。その後はダブルダブルをかさね、1年目にしてNBA一のダブルダブルの数を記録。オールスターにも選ばれたうえ、全月にルーキーオブザマンスを獲得。当然ルーキーオブザイヤーを獲得し、さらにはオールNBAファーストチームにまで選ばれた。プレイオフでもその強さを発揮し、1年目にしてすでにスーパースターの仲間入りを果たしてしまった。センター不足と言われる今日に、すごすぎるセンターが登場した。足りないものはフリースローだけだと感じた。

 最初の栄光はロックアウトで期間の短縮されたシーズンであった。もうその頃にはツインタワーの中心はロビンソンからダンカンに移っており、インサイドで圧倒的な存在感を示した。エイブリージョンソンやショーンエリオットらとともに初の優勝を勝ち取る。毎年優勝候補に挙げられながらプレイオフで敗れ去り、大舞台に弱いと言われ続けたチームとロビンソンにとっては格別のものであったろう。優勝チームを作り上げるのにマイケルジョーダンは7年の月日を費やしたが、ダンカンはわずか2年目のシーズンで達成してしまった。

 しかし、この優勝はロックアウトによる期間短縮の影響があり、本当の強さではないと批判を受けた。と同時にここから3年間ライバルであるロサンゼルスレイカーズにことごとく優勝を阻まれるのである。

 プレイオフになると無類の強さを発揮したレイカーズ、とくにコービーブライアントに大量の得点を許しプレイオフで生き残れずにいた。

 しかし、新たなチームメイトを得て、ダンカンは再び栄光の時を迎える。フランス人ガードのトニーパーカーたちの協力を得て、ついに本当の優勝を果たした。この優勝によってデビッドロビンソンの引退に花を添え、本当のスーパースターになったと思う。

 ティムダンカンがいる限り、スパーズは優勝候補であり続けるであろう。