マジックジョンソンとラリーバード
この2人のライバル関係はNBA至上最も有名で、毎年のように名勝負を繰り返し、80年代のNBAを支え今のNBA人気の土台を作り上げた張本人達である。
80年代のNBAチャンピオンを羅列すると、
80年ロサンゼルスレイカーズ
81年ボストンセルティックス
82年ロサンゼルスレイカーズ
83年フィラデルフィア76er‘s(対レイカーズ)
84年ボストンセルティックス(対レイカーズ)
85年ロサンゼルスレイカーズ(対セルティックス)
86年ボストンセルティックス(対ロケッツ)
87年ロサンゼルスレイカーズ(対セルティックス)
88年ロサンゼルスレイカーズ(対ピストンズ)
89年デトロイトピストンズ(対レイカーズ)
80年にこの2人が入団して以来、10年のうち8回はどちらかのチームが優勝しているのである。まさにこの2人が80年代のNBAを震撼させていた。マジックジョンソンはスーパースターへの道を幼いころから歩みつづけ、ラリーバードはスピードもなくジャンプ力もなくとてもNBAでは成功しないだろうと言われていた。
マジックジョンソンは1959年8月14日生まれ、本名アービンジョンソン。幼いころからバスケを好きになり、毎日ドリブルをついて遊んでいた。どんどんバスケがうまくなり、スポーツライターによって、マジックというあだ名をつけられた。その後ミシガン州大に進学。
ラリーバードは1956年12月7日に生まれ、貧しい少年時代を過ごす。ゴム製のバスケットボールをストーブであたためて膨らまし練習していた。高校時代活躍するも認められなかった。そしてインディアナ大に進学。しかし田舎者とばかにされ、恥ずかしさからすぐにやめてしまう。その後、町の仕事にしばらくついたあと、バスケをやるためにインディアナ州大に進む。
そして79年のNCAAチャンピオンシップでこの2人は初めて対戦する。しかし総合力で上回るミシガン州大が勝利した。
そしてドラフト。マジックは1位指名。バードは運動能力がなかったため、NBAでやっていけるか心配されたが、セルティックスの名将レッドアワーバックにその闘志を買われ、当時としては破格的な契約を結んでNBA入りした。
マジックはジャバーとともに最高のコンビといわれ、1年目からチームをNBAチャンピオンに導く。そのトリッキーなプレイやスカイフック、1番(PG)から5番(C)までこなす器用さ、力強さがあり、レイカーショーと呼ばれるようになる巧みなパスで観客を魅了しつつ勝ち進んだ。しかし、ルーキーオブザイヤーはラリーバードにとられる。バードは頭がよく、元祖3ポイントシューターと呼ばれ、3ポイントをここぞというとき、また試合を決めるシュートを何本も決める。そしてなにより、勝ちへの執念がすごく、ルーズボールには必ず飛びついていた。翌81年今度はセルティックスがケビンマクへイル、ロバードパリッシュ、そしてラリーバードらを有し、初優勝を果たす。
続く82年にレイカーズが再び優勝を取り戻すとその2年後の84年に、2人がNBAではじめてファイナルという最高の舞台で戦うことになる。この時の全米注目度はすごく、レイカーズの充実ぶりからレイカーズ有利と言われていた。そこでのセルティックスの勝ちへの執念はすさまじく、フィジカルなプレイで7戦までもつれこむ接線の末セルティックスが優勝した。
翌85年リベンジに燃えるレイカーズはセルティックスに対して闘争心をむきだしにし、みごとファイナルでセルティックスにリベンジを果たし、マジックにとって3回目の優勝を果たす。
翌86年はセルティックスの番である。プレイオフでは急成長中のマイケルジョーダン率いるブルズ、アイザイヤトーマス率いるピストンズを破り、ファイナルではアキームオラジュワン、ラルフサンプソンの元祖ツインタワー率いるヒューストンロケッツと対戦。バードは研究の末、ゴール下において、オラジュワンを翻弄。(オラジュワンはこの負けによって後に大きく成長する)セルティックスが3度目の優勝を果たす。しかしこれがバードにとって最後の優勝になる。
そして87年三度目の宿命の対決を迎える。3度目となるマジックのレイカーズ対バードのセルティックス。選手層の厚いレイカーズに対して、ラリーバードは背中のけがをかかえていた。総合力ではやはりレイカーズが上でレイカーズがみごと優勝を果たした。
88年レイカーズは順当にファイナル進出を果たす。それに対しセルティックスはアイザイヤトーマス率いる‘バッドボーイズ’ピストンズに敗れ、この後バードはけがが悪化し、試合にはあまり出なくなる。チームが充実しているレイカーズは新勢力ピストンズを破り、マジックにとってはじめての連覇をはたし5回目の優勝はたした。これがマジックにとって最後の優勝になる。
89年レイカーズは再びファイナルに進出する。しかし今度のピストンズの執念はすさまじく、NBA屈指のPG対決はマジックが怪我のために途中で退場すると、このシリーズはもう登場せず、一気にピストンズが持っていった。
91年にもう一度マジックはチャンピオンのチャンスを得る。相手はマイケルジョーダン率いるシカゴブルズ。衰えを見せているレイカーズはそのころスロータイムショーなどと呼ばれ、試合でもブルズの勢いはすさまじく先勝するものの、その後、4連敗。マジックはこの後あの衝撃のHIV感染を発表し、引退した。
92年NBAはオリンピックにドリームチームの派遣を決定。マジックジョンソンを中心にチーム作りを決める。マジックジョンソンの誘いで一度は断ったマイケルジョーダンとラリーバードも承諾する。ラリーバードは引退を表明していたため、最後の花道をNBAのスーパースターたちに送られることになった。(アイザイヤトーマスはマジックジョンソンと仲がよかったが、このころスーパースターだったジョーダンとの不仲によって呼ばれなかった。)ドリームチームではみんな楽しそうにプレイしていた。ラリーバードは背中の痛みのために床に横たわり、マッサージを受ける姿が印象的だった。そしてみごと金メダルを獲得し、ラリーバードにとって最後の花道を金メダルで飾った。
その後マジックジョンソンは、一度は復帰をするものの、若手の成長に良くないとシーズン終了とともに再び引退。今はレイカーズ関係の仕事につきながら、さまざまな事業に挑戦している。
ラリーバードは引退後、セルティックスで若手の発掘をしていたが、97年についにヘッドコーチに就任。チームはセルティックスと見られていたが、バードは自分の故郷のインディアナで指揮をとりたいと、ペイサーズのヘッドコーチに就任した。「名選手名コーチになれず」という格言を吹き飛ばす躍進ぶり。前年の不信がうそのようなペイサーズの活躍は、前半戦にブルズを抜いて1位で通過。オールスターでのコーチも務め、レギュラーシーズンチーム記録の58勝を記録。コーチオブザイヤーを獲得。プレイオフではブルズとカンファレンスファイナルで大激戦を展開し、惜しくも敗れた。2000年にはファイナルにも進出する。現在はペイサーズの球団社長として、チーム優勝のために尽力している。
伝説と化したこの2人はNBA人気を作り上げた本当のスーパースターであったのかもしれない。
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