紅葉の高幡不動から石田寺 2005年11月25日 (ブログ記事を一部修正)
「沿線のすてきな人」が載っている、京王電鉄広報誌『あいぼりー』を求めての、“沿線のすてきな旅”。
新選組ファンがどうせ行くなら、ここしかないっしょ!!ということで、ちょっと足を伸ばして、高幡不動まで行っちゃいました。 京王線の電車の中には、『あいぼりー』の広告が吊ってあるんですよ。 「山本さんを見つめながら、土方さんのふるさとに行くのか〜」と、イマイチよくわからない感慨に浸りつつ、電車に揺られている私。(笑) 駅を降りて、『あいぼりー』を入手して、それから高幡不動尊へと向かいます。 参道を通り、仁王門を潜って、まずは不動堂でお参り。 昨年はこの後、五重塔を眺めて殉節両雄之碑を見て帰っちゃったんですけど、今日は境内の紅葉も綺麗だし、もう少し奥まで行ってみることにしました。 まずは奥殿を拝観します。(拝観料300円・月曜休館) 思いがけずたくさんの仏画や文化財が展示されていて、びっくり!! ここ高幡山金剛寺は、平安時代後期、武蔵七党の一つ、西党高幡氏によって建立された、由緒あるお寺なんですよね。 土方家は幕末当時、その檀家総代のような立場にあったそうです。 土方家ももとは三沢十騎衆の棟梁の家柄。 多摩がいかに関東武士の流れを汲む土地だったかがよくわかります。 奥殿にお祀りされている、平安時代に造立された不動三尊像。 この仏様たちがね、京都などで見る仏像と違って、豪快で、ちょっと遊び心があって、なかなか良いんですよ。 このような作風も、人々の生き方や考え方の一部として、代々この土地に受け継がれているように感じました。 展示品の中には、新選組や旧幕府軍に関係するものもあります。 ・井上家分家に伝えられていた、井上源三郎の脇差。 ・旧幕府軍の旗印だった、「東照大権現」の幟。 ・中島登の「新選組英名並びに日記」。 これは、中島登が明治3年に土方家を訪れた際、関係者が彼の覚え書を写したもの。 ・土方歳三書簡が2通。 *うち1通は、元治元年一月十日付、平忠右衛門・平作平宛のもの。 年賀状ですが、誰かが代筆したらしい。 将軍警護のため、大坂に布陣した時の略図が付いています。 *もう1通は、慶応二年夏頃の、平作平宛のもの。 これは土方の直筆です。 この6月に武州秩父で起きた百姓一揆を、佐藤彦五郎率いる日野農兵隊が鎮圧しました。 土方はこの時、平作平も出動したと聞いたのでしょう。それを労っている内容です。 と同時に、長州征伐に新選組が出陣できなかったことを悔しがってもいます。 「遠からず都において一戦あるだろう、高幡山貴僧によろしくお伝えください」と その後に続くことから、“死を覚悟して次の戦を待っている様子がうかがえる”と、 説明には書いてありました。 久しぶりに土方さんの直筆を生で見ました〜〜。 あいかわらず、きれいな筆跡です。 土方さんの筆が“くねくねした字”だとか、“女性のようだ”とか書かれている小説などもありますが、これは土方さんが本田覚庵から習った、米庵流独特の書体なんですよね。 その筆致をよく見てみると、文字の大小・太さ細さが自在で、繊細でありながら、勢いがあり伸びやかなのがわかります。 あと、土方さんの書簡で特徴的なのが、 一.×××××・・・ ×××××・・・ 一.○○○○○・・・・・ ○○○○○・・・・・ ○○○○○・・・・・ というように、話題を箇条書きのようにして書いていること。 これがなかなか読みやすいんですよ。 合理的な土方さんらしいなぁと思うんですよね。 それでいながら、「こちらは皆無事です。ご安心ください。」とか、「ご無沙汰して本当に申し訳無い。皆様にもよろしくお伝えください。」とか、細やかな心遣いも忘れない。 土方さんの鬼な部分と仏の部分。豊かな人間性が手紙の書き方にも感じられて、嬉しくなりますね。 他にも、 ・山岡鉄太郎・勝海舟・大鳥圭介・榎本武揚・松本良順・山県有朋の書 これは、土方と仲が良かった平作平が、土方と縁のあった名士たちのところへ行って、 書いてもらってきたもの。 (山県は縁があったという訳ではないでしょうが。) ・松本良順の書 これは、永倉新八が板橋に慰霊碑を建立するにあたり、資金提供者に御礼として贈ったもの。 などがありました。 どれも本当に見事な筆で、眼福でした。 奥殿を出て、さらに先へと進みます。 大日堂は、鳴り龍天井が面白いお堂。(拝観料200円・月曜休館) お仏壇の前で大きく手を叩くと、天井に反響して鳴るんです。 案内してくださったお坊様によると、吊り天井になっているからではないかとのことでした。 このお仏壇の裏側に、土方さんのご位牌が納められています。 土方さんだけではなく、土方さんのご両親・祖父母の位牌も祀られていました。 勇と総司と源さんの、新しい位牌もありました。 大日堂を拝観したあとは、境内の紅葉を堪能しながら、仁王門へと戻ります。 紅や黄に染まった木々がみごとで、カメラを片手に紅葉狩りに来た参拝客がたくさんいました。 本当にいいタイミングで訪れましたね。 ![]() 境内の紅葉。 常緑樹の中に赤や黄の葉が映えて、 こんなに綺麗。 ![]() 紅葉の中に建つ土方歳三像と、 殉節両雄の碑。 高幡不動尊の参道を駅へと戻る途中、「新選組グッズ専門店 屯所」に立ち寄ります。 実は今日高幡不動まで来たのは、ここで買いたいものもあったから。 あさくらゆう氏の書かれた『新選組読本〜隊士外伝2』。 今回は、市村辰之助・鉄之助兄弟と、相馬主計のことが書かれています。 まだまだ謎はあるものの、新たに解明されたことも多くてびっくり。 所縁の地へ足を運んで、史料を一つ一つあたって調査研究するあさくら氏だからこそ、得られるものと感心します。 購入のために、わざわざここまで出向いてきた甲斐がありました。 さて、ずっと外を歩いていたら、すっかり体が冷え切ってしまいました。 今日は晴れてはいるものの、空気が冷たい。 千葉に比べると、ここは気温が2〜3度低いんじゃないかしら。 ということで、思わず駅前のコーヒーショップに飛び込んでしまいました。 店員さんに訊ねると、今日は特に寒い訳ではないということ。 やっぱり日野は、千葉や都心より寒いところなんでしょうね。 そう言ったら、「八王子が近いから」と言われました。 そういえば八王子は、よく雪が降りますもんね。 一服して体が温まったところで、北へ向かい、浅川を渡ります。 橋の上から見渡す景色が、広々としていて大好きです。 今日は残念ながら、山々は霞んでうっすらとしか見えませんでしたが、山を望み、豊かな川の流れるこの環境で、土方さんや源さんや彦五郎さんは育ったんだなぁと思いを馳せます。 江戸に繋がり、横浜に繋がり、八王子から西へと繋がっていたこの土地を、幕末はあらゆるニュースや情報が飛び交っていたことでしょう。 彦五郎さんはもちろんのこと、そんなところで育った土方さんや源さんたちが、世の中の情勢や思想も知らない、ただの農民上がりだった訳がない。 『未完の「多摩共和国」』を読んだ後なので、よけいにそんな考えが頭の中を過ぎります。 東京のベッドタウンとして、すっかり住宅地と化した日野ですが、山の景色・川の流れ・空の色・風の匂い・・・それらは、昔とあまり変わっていないんじゃないかと、いつも思うんですよね。 さて、今日は土方歳三資料館は休館日なので、まっすぐに石田寺へと向かいます。 午後の住宅街は、通る人もなく、それは静かで、私のような人間がふらふら歩いているのが、申し訳なくなる程。 ![]() 石田寺のカヤの木は、今日も青々と元気でした。 土方家のお墓と歳三さんのお墓、両方に手を合わせ、土方さんには「続編の放送が近づいてきましたよ」とご報告。 地下で土方さんは、この盛り上がりをどんな思いで見ているのでしょうねぇ。 「勝手に盛り上がってるんじゃねぇ!」と、照れて、そっぽを向いていたりして?(笑) お墓参りをした後は、今日は“とうかんの森”まで足を伸ばしてみました。 ここは、土方一族の氏神を祀った稲荷社があるところ。 土方さんが幼少の頃、よくここで遊んでいたと伝えられ、小さな祠を守るように、太い大木が聳え立っています。 もっと広い森なのかと思っていたのですが、本当に祠を囲む木々だけが残っている状態で、その敷地を囲むようにすぐ側まで家が建っていました。 あまりうろうろしているとご近所の迷惑になりそうなので、祠にちょっと手を合わせて早々に立ち去りました。 この辺りもやっぱり“土方”の表札が多いですね。 来た道を戻り、浅川を渡って、高幡不動の駅に向かいます。 こうして日野の、石田の地に立つと、文字で読んで頭の中で描いていただけの土方さんの足取りが、実際に体で掴めるような気がします。 実家がここで、彦五郎さんとおのぶ姉さんの屋敷は向こう。 江戸はあっちで、八王子はこっち。 上田村の平さん家はそっち。 多摩川を渡ると、下谷保村の本田覚庵先生のおうち。 逆に浅川を渡っていくと、連光寺の富沢政恕さん家。 そのずっと先が、小野路の小島鹿之助さん家。 ・・・という感じで。 時には石田散薬のつづらを背負って、時には彦五郎さんの命で大切な書状を届けに・・・とか? “公用に 出て行くみちや 春の月”なんて句を思い出してしまいます。 ほんの半日の散策でしたが、日野の風を満喫できました。 帰りはまた広告の山本さんを見つめながら(爆)、京王線に揺られて、土方さんのふるさとを後にしました。 次に訪れる時は、ふるさと歴史館を観に行く時ですね。 じゃぁ、もうすぐじゃん。(笑) 今からその時が楽しみです。 |