新選組の軌跡を辿る旅

“新選組の日”は、日野で。    2007年3月13日  (ブログ記事を一部修正)

3月中に一度、新選組のふるさと歴史館で開催されている第2回特別展に行っておきたかったので、春の日差しに誘われて出かけてきました。


ふるさと歴史館に着いてから気づいたのですけど、3月13日は実は“新選組の日”だったんですね〜。
2月27日を“新選組の日”とするところもありますが、こちらは、京都に残留する浪士組を会津藩のお預かりにしていただけるよう、京都守護職に建白書を提出した日。
一方3月13日(未明)は、松平容保公から会津藩お預かり内定の知らせが届いた日。
うん、やっぱり後者の方が“新選組の日”にふさわしいかな。

ちなみに3月13日を“新選組の日”とすることは、日野新選組同好会さんが中心になってアンケートをとり、2004年3月に第1回全国新選組サミットin日野で決定。
その後、日野市観光協会が日本記念日協会に認定の申請をして、正式登録されたそうです。


文久3年(1863)3月26日付で近藤さんが多摩に宛てた長〜い手紙『志大略相認書』には、

「十二日夜九ツ時、漸々(ようよう)願之趣意御聞済ニ相成、会津公御預リと相成候。」

と報告されています。
未明に会津藩お預かりが内定した近藤さんたち。
この日、清河八郎率いる浪士組が京を出立するのを見送り(見送りに出たかどうかは知らないけど・苦笑)、将軍家茂の上洛に随行してきていた井上松五郎さん(源さんのお兄さん)と酒宴を開いています。

「十三日、曇昼より降。
(中略)
近藤、土方、井上参り酒宴。」
(『八王子千人同心井上松五郎 文久三年御上洛御供旅記録』より)

身の振りどころが決まってホッとして、この日の宴会は盛り上がったでしょうね。
そして翌々日15日。
会津藩本陣で、正式にお預かりの沙汰を受けます。

「当十五日御次江罷出、公用方ニ而及面会候所、此度私とも御差配ニ可随旨被、仰付候。」
(『会津藩庁記録』)

八木さんから紋付を借りていったのは、この時ですね。
子母澤寛著「新選組遺聞」の中に、八木為三郎の談話として書かれています。
同じ紋なのを気にしていた、香取近藤が懐かしいですね〜。



おっと、前置きが大変長くなりました。


*本田覚庵邸と下谷保常夜燈

実はふるさと歴史館に行く前に、谷保をちょこっと見て回ったんですね。

JR南武線を谷保駅で下りて、南に向かい甲州街道に出ます。
甲州街道を少し東へ歩くと、大きな本田家が並んでいます。
その中の一番東側の邸宅が、土方さんが米庵流の書を習っていたという本田覚庵さんのお家です。

書家であると同時に、名主であり医家であった覚庵さん。
板塀の続く東角には、「薬医門」という美しい門が残されています。
(ごめんなさい。写真を撮ってこれなかった〜。)
江戸中期に建てられた母屋も文化財に指定登録されているそうですが、こちらは公開されていません。

“石田の歳蔵さん”は、よく覚庵さんのところに顔を出しているんですよね〜。
覚庵さんの養母が土方さんのおばさんだったから、ということもあるでしょう。
石田から多摩川を渡れば、すぐ谷保。
土方さんも歩いた道・・・と思えば、さらに足取りも軽くなります。


覚庵さん家の前でUターンして、来た道を戻ります。
歩道の脇に建っているのが、下谷保の常夜燈です。

下谷保の常夜燈











下谷保の常夜燈
文久3年(1863)に造られたもので、街道を灯すと同時に、火伏せの神を祀る意味もありました。

細い歩道の脇、住宅の敷地に割り込むように建っている常夜燈。
こうしてずっと、谷保を護ってきたんですね。



*谷保天満宮

甲州街道を南へ渡って、谷保天満宮にお参りします。

谷保天満宮








交差点の向こうにでーんと建つ大鳥居。
梅の季節の週末は、多くの人で賑わいます。

ここに天満宮が建てられたのは、養和元年(1181)。
以来、湯島、亀戸とともに関東の三天神と呼ばれ、人々に親しまれてきました。

大鳥居をくぐり、参道を下りていきます。
この“下りていく”ことになんとなく違和感を感じたのですが、本殿脇の説明に解説がありました。

「普通、神社は高台に鎮座しているものであるが、下へ降る神社は珍しい。
拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためである。」

なるほど。
街道が南の谷側にあったとすれば、当然の位置や配置だった訳ですね。

さて、今月は梅祭りの最中のはずなのですが、今年は暖冬のせいか、花は散ってしまったあとでした。
残念!! もっと早くに来れば良かった〜〜。(涙)
梅林は思ったより狭く感じられましたが、いっせいに花を付けたらさぞかし綺麗でしょうねぇ。
豊玉宗匠の梅の句のどれかはここの梅林を詠んだもの?と考えるファンは、きっと私だけではないはず。



*くにたち郷土文化館

さて、甲州街道をぶらぶら歩いて、くにたち郷土文化館へ向かいます。

ここは、休館日が第2・第4木曜日なので要注意。
常設展示はけして多くはないですが、無料なのが嬉しい。
古代からの国立の歴史が、よくまとめられています。

ハケ(段丘崖)に湧き出る泉を中心に人々が住み着き、ハケ沿いに城山や天満宮、南養寺がつくられた谷保。
府中から日野に通じる道がとおり、やがて江戸時代に入ると甲州街道として整備されました。
南には豊かな多摩川が流れ、雑木林が広がっていた谷保村。
街道筋が栄えると、村人の教育にも目が向けられるようになります。
名主宅には寺子屋が開かれ、南養寺の学僧も大きく貢献しました。
江戸後期には俳句が盛んになり、文化人の集まる句会がさらに地域の文化レベルを上げたようです。

谷保の甲州街道の模型が展示されていました。
本田覚庵さん家は一番東に位置していたんですね。


覚庵さんの日記はもちろんのこと。
息子の定年(退庵)さんがいろいろな人から受けた揮毫を綴じたものが、展示されていました。
ちょうど開かれていたのは、大鳥圭介さんに書いてもらったページでした。

定年さんは佐藤俊宣さん(彦五郎の息子の源之助さん)と一緒に3ヶ月もの旅をして、近藤さんの首級や土方さんの愛妾を探したりしてるんですよね。
定年さんや俊宣さんにとって、二人はどんなにか憧れの人だったことでしょう。
定年さんは大鳥さんを訪ねて、どんな話をしてもらったのかなぁ。
「土方くんはよく、私のもみあげを触ってね。」
なんてことは絶対に言わなかったと思いますが。(笑)


水と緑に囲まれていた谷保。
文化人も多く行き来していた谷保。
当時の谷保の豊かな自然と文化を想像したとき、頻繁にここを訪れていた土方さんも、きっと人間的に豊かな人だったに違いない・・・と思いました。

帰りに、本田覚庵日記と本田定年日記、それから昨年秋の企画展の図録「幕末から自由の権へ−本田家の人々が見た時代−」を購入しました。
電車の中で覚庵日記を読んでいたら、万延元年(1860)10月14日のところに
「近藤勇石田歳蔵来」
と書かれているのを見つけてニヤけてしまった。
え? ツーショット?(爆)



いよいよ日野へ移動します。


*八坂神社と日野館

八坂神社の前を通ったら、境内の木が綺麗に剪定されていました。
神社が丸裸になって、一瞬どこかへ移転してしまったのかと思ったよ。(汗)

八坂神社 鳥居









青い空、高い梢、眩しい春の太陽です。



で、日野館で遅めのお昼ご飯。

日野館 天付きせいろ









美味しいんですよね〜、ここのお蕎麦。

天付きせいろです。
海老が、圧倒的な存在感。
さらに、それに負けないお蕎麦の美味さ。
幸せだ〜。
お昼は3時までなのに、ぎりぎりに飛び込んでごめんなさい。



*新選組のふるさと歴史館

お腹が膨れたところで、本日の目的である新選組のふるさと歴史館を訪問しました。
今年は2月3日(土)から5月20日(日)まで、第二回特別展「新選組 京都の日々」が開催されています。

展示内容はこちらにありますが、「実相院日記」とか「新選組八日市宿探索有増覚帳」とか、新聞や「見聞雑書」などから、新選組の活動を炙り出しているのが面白かったです。
今回、山崎丞大フィーチャー。(笑)


京都町奉行所の人間が天誅のターゲットになったため、町奉行所が機能しなくなってしまっていたこと。
そうした中で、新選組は治安維持部隊として京都守護職の下に置かれたこと。
けして尊攘浪士殲滅のための暗殺集団ではなくて、被疑者を探索・捕縛・尋問する(ちょっと過激に?苦笑)武装集団だったこと。
新選組の警邏地域が、京から大阪、そしてさらに周辺へと拡大していったこと。
それとともに、奉行所の扱うべき訴訟や調停まで新選組に持ち込まれるようになったこと。
その一方で人脈も広がり、情報収集や軍事力強化にも役立ったであろうこと。

などなどが、資料によって解説されていました。
少し細かく感想を書いていくと・・・。

「見聞随筆」に描かれた梟首之図。
こういうの、よく描けますよねぇ。
並べられてもちょっと・・・。(苦笑)

富澤政恕さんの「旅硯九重日記」。
元治元年(1864)2月2日に、「山南ハ病に臥し逢ハす。」という記述がある史料ですね。
いろいろと想像が膨らみます。

「桝屋喜右衛門屋敷図」。
デ、デカイです!
こんなに広い屋敷だったんですか?
これなら、かなりの量の武器を隠しておけたことでしょう。
恐るべし、古高俊太郎。


筋違いの訴訟や調停の持ち込みについては、近藤さんが丁寧に書簡でお断りしたりしていてね。
(「中羽田村庄屋代官小澤文次郎宛 近藤勇書状」)
思わず組!のキャストで想像してしまいましたよ。

山本土方「そりゃ、筋違いってもんだろう。こっちは浪士の捕縛だけでも手がいっぱいなんだ。ほっとけ。」
香取近藤「そうもいかんだろう、トシ。この人たちだってどうしようもなくて、俺たちを頼ってきてるんだ。せめて話をどこに持っていったらいいか、教えてやろう。」
山本土方「あんたは人がいいな、近藤さん。」

・・・なぁんてね。(爆)


長州征討に際し、新選組に出陣命令が下らなかったのは、たぶん京阪の治安維持に、新選組の存在が欠かせなくなっていたからであること。
新選組が会津のために金策していたのは、元治元年(1864)秋から一時的に幕府と会津藩の間に深刻な対立が生じて、会津藩が幕府からの財政援助を差し止められていたからではないかということ。

この辺りは大変興味深く、もっともっと掘り下げてみたいなぁと思いました。


慶応3年12月8日の新選組借用証文。
時期的にも、このお金は踏み倒されたんだろうなぁ、きっと。

伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎の母への手紙。
本当に尊王思想の篤い兄弟だったんですね。

慶応3年9〜11月の新聞に掲載された、新選組廃止の建言書写。
一生懸命京阪の治安に勤めてきたのに、「乱暴な浪士集団など、この際廃止すべき」などと建言されていて、その存在の哀しみを感じさせます。

当時洋式調練は珍しく、絵に描かれたり、歩兵の紙人形が作られたりしました。(調れん両めん合)
長沼流調練の学習用資料には、勉強するときに使われたコマが。
ふと、五稜郭で大鳥さんが作っていたジオラマを思い出してしまいました。
ンなもん、作る訳ねーだろーーと思ってましたけど、意外とほんとに作っていたのかもしれません。(笑)


それから、音響ボックス「幕末京都人の息吹を聴こう」では、京都の町の人たちが新選組の噂をしている設定で、京都弁の会話が聴けるようになっていました。
展示のいいアクセントになっていましたね。


展示スペースの最後、以前大河の小道具が展示されていたところに、“平成19年度全国の主要新選組関連イベント”というスケジュール表と、市内のご子孫が運営されている資料館のチラシが置いてありました。
以前は、ふるさと歴史館と個人の資料館がバラバラな印象を受けましたが、こういう連携を取れるようになったことはいいですね。
大河熱もすっかり引いて、市内にだんだらの幟も見かけなくなりましたが、逆にブームに流されることなく、市の歴史を守っていこうという姿勢が感じられてとても嬉しく思いました。


第二回特別展の展示内容は、一部3月31日から変わるそうです。
もう一度足を運ばなくては!
さらに今後、第三回特別展では戊辰戦争を、第四回特別展では新選組のその後から自由民権運動を取り上げてくださるそうで、まだまだ楽しみが続きますね。

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