新選組の軌跡を辿る旅

秋の日の、日野・町田詣で    2006年9月17日  (ブログ記事を一部修正)

夏の暑さも落ち着いてきた、9月17日、第3日曜日。
ちょうど八坂神社の例大祭で、出かけるならこの日しかないだろう〜〜と、ダンナと息子を叩き起こして日野&町田詣でに行ってまいりました。


*佐藤彦五郎 新選組資料館

最初に訪れたのは、佐藤彦五郎新選組資料館

この日はちょうど八坂神社の例大祭に合わせて、八坂神社の鳥居の掛け額となった、有栖川宮熾仁親王直筆の『八坂社』の掛け軸が特別展示されていました。
これは、明治7年9月に彦五郎さんが熾仁親王にお願いして、この三字を戴いたのだそうです。

ひの新選組まつりのときに訪れているので、既に一度見ている展示品が多かったのですが、初見だったのは彦五郎さんの佩刀。
慶応3年12月15日、八王子で浪士を捕縛した“壷伊勢屋事件”や、翌4年3月に甲陽鎮撫隊とともに春日隊として出陣したときに、実際に彦五郎さんが使用したものです。
2尺7寸4分。長いですよ〜〜。どうやって鞘から抜いたんだろう?
それに重さも半端じゃないですよね。
(でも土方さんの和泉守兼定は、さらに長い2尺8寸だそうですが。)
その鈍い輝きを見て、あの幕末の混沌とした時代、日野宿を、多摩一帯を、そして徳川の治世を、彦五郎さんは先頭に立って守っていたんだなぁと、改めて実感しました。

それからとても興味深かったのは、佐藤仁さん(彦五郎さんの孫)が書かれた『籬蔭史話』の原稿と、『籬蔭史話』執筆にあたる仁さんへ宛てた子母澤寛氏の手紙でしょうか。
子母澤氏は手紙の中で、
「土方(歳三)氏は新選組には不幸な人だった」
と書いています。
この“不幸”というのがどういう意味だったのか・・・。
“新選組には不幸”という表現をしていますから、やっぱり鬼副長という立場にいたことを指しているのでしょうか。
「子母澤氏の歳三観が窺える」
と、佐藤福子館長はおっしゃっていましたね。

資料館を出ようとすると、板橋の近藤さんのお墓がある、寿徳寺のご住職が来ていらっしゃいました。
来年4月の近藤勇140回忌に向けて、ご住職が中心になって、「近藤勇と新選組隊士供養塔」の大規模修繕を計画していらっしゃるそうです。
明治9年に永倉さんが奔走して建てた、あの供養塔です。
風化が進んでしまって表面の剥落がひどく、石塔も傾斜してきているのだとか。
来年4月25日まで修繕費用の寄付を受け付けているそうなので、もし是非にと思われる方がいらっしゃいましたら、協力して差し上げてくださいませ。
※詳細はこちらに書かれています。



*大昌寺

彦五郎資料館を出て向かった先は、大昌寺
佐藤彦五郎さんの菩提寺です。
これだけ何度も日野を訪問していて、今まで一度も彦五郎さん・のぶさんのお墓にお参りしていなかったんですよね。
申し訳ない。

大昌寺は浄土宗知恩院の末寺だそうで、小さいながらも、趣のある立派なお寺でした。
私たちが訪れたときは、ちょうどお昼の勤行の声が聞こえていました。

下佐藤家のお墓は、墓地のかなり奥にあります。
日野宿名主まで務めた彦五郎さんのお墓にしては、意外と質素で驚きました。
胸の中で彦五郎さんの業績を讃えつつ、静かに手を合わせてきました。



*八坂神社

この日は例大祭とあって、八坂神社境内にはたくさんの露店が並び、家族連れの参拝客で溢れています。
実は、恥ずかしながら私。
これだけ長く新選組ファンをやってきて、去年の例大祭にも今年の新選組まつりにも来ていながら、今まで一度もここで「天然理心流奉納額」を見たことがなかったという・・・。(赤面)
もうね、お参りもそこそこに中へ上がらせていただきました。

でも、奉納額よりもまず目を奪われてしまったのは、全面に見事な彫刻が刻まれた本殿でした。
建立されたのは寛政12年(1800)ではないかと考えられる、総檜造り。
竜に牡丹、『史記』を題材にした彫刻などが、全面にびっしりと彫られています。
まさかこんなに豪華な本殿が、大切にしまわれていたとは知りませんでしたよ。

その本殿の右手へ回っていくと、イーゼルに「天然理心流奉納額」が立て掛けられていました。
現物は墨書きの文字がかなり薄くなって、読み難くなっていましたね。

改めてこの奉納額を見てみると、最初に“近藤周助藤原邦武”、最後に“嶋崎勇藤原義武”、勇さんの一つ前が“沖田惣次郎藤原春政”なのはいかにもなのですが、周助こと周斎先生の次に名前が書かれているのが“井上松五郎一俊”。つまり源さんのお兄さんなんですね。
その次が“佐藤彦五郎正俊”“佐藤芳三郎信房”・・・と名主さんが続いて、“井上源三郎一重”は門人の6番目。かなり上位なんですよ。
私たちはつい近藤さんや土方さんから辿ってしまうから、まず彦五郎さんに目が行ってしまいますが、日野という土地での立場や日野道場での力関係というものを見ていくと、八王子千人同心の井上松五郎さんとその弟の源さんの存在が、本当はもっともっと大きかったんじゃないかと感じました。


さて奉納額を見た後は、説明を聞きながら本殿裏側の彫刻を堪能し、なぜか欄干に1枚結わえられている絵馬に首を捻りつつ、靴を履いて外へ出ようとしたらダンナが一言。
「山本耕史の絵馬、見た?」
げぇぇーーーっ! あれ、山本さんの書いた絵馬だったんかいっ!!
思わず靴を脱ぎ捨てて、駆け戻ってしまいました。(苦笑)
ちょうど反対側に、2004年に山本さんが訪れたときの写真が飾ってあって、普通に考えれば山本さんの絵馬だとわかりそうなものなのに、バカだ、私・・・。(恥)

「古の魂を今に。2004年の土方歳三」
と書いてあって、ズキュンと胸を撃ち抜かれたような気持ちになりました。


境内に出て、ぐるりと露店を覗いて歩きました。
「一度、金魚すくいってやってみたいなぁ。」と息子。
「あれ、やったことなかったっけ?」
そういえば縁日とか何度も行ってはいるけれど、金魚すくいは、やらせたことなかったかも。
でも、この日は家に着くまでに金魚が死んじゃうから、諦めてもらいました。
まさか、浅川に放流する訳にもいかないし・・・。


境内を歩いている稽古着姿の一団は、もちろん天然理心流の門人の皆さん。
“誠”の法被を着たお兄さんたちもいっぱいいましたよ。
境内にはお神輿が飾られていました。
明治13年に完成したこのお神輿は、彦五郎さんの発起によって再建されたんですって。
帰りに、鳥居の上の「八坂社」の扁額もきちんとチェックしてきました。



*井上源三郎資料館

井上源三郎資料館を訪問するのは、2度目になります。
今回も井上雅雄館長が丁寧に説明してくださいました。
館長、朝のうちに八坂神社で天然理心流の演武をなさったそうで、見たかったなぁ。

近藤さんが松五郎さんに贈った大刀・大和守源秀國は、長くて反りが少なくて、突きに有利な刀であること。
周斎先生や総司が囲んだと伝わる囲炉裏では、その灰の上で天然理心流の口伝がなされたこと。
源さんが勇のことを“局中先生”と書いた書簡が残っていること。
嘉永2年(1849)日野宿が火事になり、彦五郎宅で男が刀を抜いて暴れ回ったとき、駆けつけたのが松五郎・源三郎兄弟だったこと。
この時、松五郎さんは彦五郎さんの前に素手で立ち塞がり、彦五郎さんを守ったこと。
源さんも京へは木刀を2本持っていき、通常の見廻りなどではその木刀で相手の鎖骨を折って捕縛したこと。

源さんは、「ふだんは無口で温和しい人だったが、一度こうと思いこんだら梃子でも動かない一徹なところのある人だった」という甥の泰助の言葉が残っていますが、その源さんの率いる六番隊はみな勇敢な小隊だったんですって。
鳥羽伏見の戦いで戦死した新選組隊士17人のうち、10人が六番隊だったそうですよ。

文久3年(1863)、松五郎さんは八王子千人同心として、将軍家茂に付き従って上洛していますが、そのときの日記が「文久三年御上洛御供旅記録」として残っています。
松五郎さんは京で仕事の合い間を縫っては、壬生浪士組のみんなを飲みに連れていってるんですけど(ときには妓楼へ上がったりも。笑)、実は上洛に際し、松五郎さんはご近所から30両ずつとか集めて、100両くらい持っていったんですって。
日野の兄分は、そうして弟分たちの相談に乗ってやったりしていたんですね。

館内の展示を見たあとは、外の売店で資料館発行の書籍を購入しました。
『井上松五郎・源三郎兄弟の事蹟』と『八王子千人同心井上松五郎 文久三年御上洛御供旅記録』です。
先日日野図書館で読んだ時、手元に置きたくなったので。



*小島資料館

最後に向かったのは、多摩のゆかりの史跡の中でも、離れていてなかなか行けないでいた小島資料館
小野路村寄場名主の小島鹿之助さんの邸宅を、改築して資料館にしてくださっています。

驚いたのは、資料館の前の道。
多摩センター駅から鶴川駅へ抜ける道で、バスも通るし交通量も結構あるのですが、昔の街道がそのまま道になっているので本当に細いんですよ〜。
小島家の向かい側には水路がそのまま残っているので、歩道のスペースさえない、車2台がすれ違うのがやっとの道です。
私たち歩行者がいると、車はすれ違うこともできません。
宿場の風景がそのまま残っているのはとても嬉しいことなのですが、現在の車社会でも主要道路として使われていることに驚きました。
でもそんな道だからこそ、多摩川沿いの日野から多摩丘陵へ入り、小野路へと行った土方さんや近藤さんたちの足跡が感じられるような気がしましたね。

板塀に囲まれた小島家。
瓦葺きの門をくぐると、池のある庭。その向こう側に母屋があります。

館内には小野路農兵隊の装備などが無造作に置いてあったりして、まるで江戸〜明治時代に紛れ込んでしまったかのよう。
ショーケースの中には、
・新選組結成当時の覚悟を伝える、近藤さんの七言絶句の掛け軸、
・小野路村名主橋本家の長男誕生を祝う、土方さんの七言絶句の掛け軸、
・つねさんが髑髏の刺繍を施した、近藤さんの稽古着
・大石鍬次郎の獄中絶筆
・近藤さんが長州訊問使の永井様に随行するとき認めた、「剣流名、沖田に譲りたく」の書簡
・土方さんが追伸に馴染みの女性の名前を書き連ねた、「報国の心をわするる婦人哉」の書簡
などなど・・・。
特に土方さんの書簡には、「ほら、ここ、ここ!」と爆笑してしまいました。
(140年後にその手紙を指差して笑われる土方さんって・・・。爆)
いや〜、幸せでしたね〜〜。

さらに感動したのは、新選組とは関係ありませんが、幾つものガラスケースの中にぎっしり積み上げられた、和綴じの貴重な書物の数々。
『大日本史』だの、『日本外史』だの、『論語』だの、『十八史略』だの、『三国志』だの・・・。
息子に、
「三国志、読んでみる?」
と訊いたら、
「レ点、付いてる?」
と訊き返された。(苦笑)
あとで小島政孝館長にうかがったら、これらの書物は東京都の有形文化財に指定されているとのことでした。

展示を見終わったあと、『小島日記』と『幕末史研究』を購入。
館長と少しお話しさせていただきました。
最近、武田観柳斎の書簡が国立国会図書館で見つかったんですって。
まだまだどこに史料が眠っているか、わからないものですねぇ。
あとは、個人情報保護法ができて研究がしにくくなったお話とか。
大変だとは思いますが、これからも鹿之助さんや新選組のことをもっともっと明らかにしていっていただきたいですね。


小島資料館に着いたときに降り始めた雨は、資料館を出る頃には本降りになっていました。
資料館のすぐ傍にある小野神社もこの日がお祭りだったようで、境内に吊り下げられた提灯が雨の中に滲んで、幻想的な風景が浮かんでいました。
鹿之助さんが生きていた時代にもこんな情景があったのかもしれない。
東京都内とは思えないほど穏やかな里の空気に、140年前の時間を感じたひとときでした。

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