新選組の軌跡を辿る旅

下町桜紀行 江戸グルメ付き    2006年3月31日、4月3日  (ブログ記事を一部修正)

桜の開花宣言に誘われて、“お江戸の縁の地めぐり”。
2日分のレポを2つのコースに分けてみました。
桜の見頃はとうに過ぎてしまいましたが、楽しんでいただけたら嬉しいです。


*上野 寛永寺  最寄り駅:JR鶯谷駅

縁の地めぐりの最初は、上野の東叡山寛永寺から。

元和8年(1622)、徳川家康の意を受けた僧天海に、徳川秀忠が上野の地を寄進。
寛永2年(1625)、3代家光の時に本坊が完成。東叡山寛永寺と命名されました。
承応3年(1654)、後水尾天皇第三皇子・守澄法親王が入寺、門主・初代輪王寺宮となってからは、全国の天台宗寺院を総括する絶大な宗教的権威を持つようになりました。
最盛期の寺域は、現在の上野公園のほぼ2倍。
現在の東京国立博物館南の大噴水広場に、根本中堂があったそうです。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に戻ってきた徳川慶喜は、2月12日、寛永寺大慈院に移り、謹慎の意を表しました。
新選組がこの護衛についたことが、『島田魁日記』と、近藤芳助の『新撰組往事実戦譚書』に記録されています。
『島田魁日記』によれば、2月15日から25日まで、隊士を2隊に分けて交代で任務に着いていたようです。

寛永寺は、5月15日の彰義隊と新政府軍との戦いで、堂塔伽藍のほとんどが焼失してしまいます。
現在の寛永寺本堂も、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を移築したもの。
しかしこの場所こそが、慶喜が謹慎していた大慈院のあとなんですね。

寛永寺本堂








寛永寺本堂
 寛永15年(1638)建造の、川越喜多院
 本地堂を移築しています。

この日の寛永寺は、お花見に沸く上野公園の喧騒もどこへやら。
木立の中にそれは立派な本堂がどっしりと建ち、境内の桜が静かにその枝を揺らしていました。
さすが、徳川将軍家の菩提寺。境内には「東軍」の慰霊碑もさりげなく建てられていました。

新選組は、自分たちを大坂に置き去りにした慶喜を、どんな気持ちで警護していたのでしょうね。
それでも将軍は将軍だったのかな。
2月25日に護衛を解かれた新選組は、いよいよ甲陽鎮撫隊として甲府に向かうことになります。


寛永寺からは、お花見がてら、上野公園を歩いて上野駅に出ました。
途中、東京国立博物館東側の輪王寺に、旧本坊の表門が移築されています。
上野公園を歩くと、つい思いは彰義隊へいってしまいますね。
彰義隊士の墓所にも寄りたいところですが、今日の予定はいっぱいいっぱいなので我慢我慢。



*浅草 浅草寺  最寄り駅:地下鉄浅草駅

次に目指すは今戸なのですが、せっかくなので浅草寺にも寄っていきました。

浅草寺 雷門









浅草寺 雷門
 今日も人がいっぱい!!

雷門をくぐり、仲見世を通って、浅草寺本堂へ。
懐かしいな〜。よく、祖父に連れられてお参りに来ました。
帰りに必ず寄るのは、甘味屋の梅園
おしるこやあんみつを奢ってもらったっけ。(遠い目)



*今戸 今戸神社  最寄り駅:地下鉄浅草駅

浅草寺からさらに北へ歩いていくと、今戸に出ます。
今戸神社は後冷泉天皇康平6年(1063)、京都の石清水八幡を勧請し、今戸八幡として創建されたのがはじまりとか。

鳥羽伏見の戦いのあと、和泉橋の西洋医学所で負傷者の治療にあたっていた松本良順先生は、新政府軍が江戸に入ってくると聞いて、患者とともに今戸に移ってきました。
八幡宮宮司の家に寓居し、患者を診療したと書いています。(松本順『蘭疇自伝』)
労咳を患っていた沖田総司も、ここで治療を受けていたとみられ、永倉新八は『同志連名記』に、「沖田総司 江戸浅草今戸松本順先生宿にて病死。」と書いています。
しかし、たぶんこれは永倉が、総司が千駄ヶ谷の植木屋に移ったことを知らなかったからではないかと思われ、今は総司の死亡地が千駄ヶ谷であることは定説になっています。

今戸神社








今戸神社
 鳥居の脇には、だんだらの“沖田総司
 終焉の地”の看板が。


沖田総司終焉之地碑












沖田総司終焉之地碑。
 碑の字は、日本テレビ「笑点」の字を書かれた
 橘右近氏の手による。


この今戸は“招き猫発祥の地”でもあるそうです。
境内には、絵馬ならぬ絵猫がいっぱいでした。



*今戸 称福寺  最寄り駅:地下鉄浅草駅

今戸神社を北東に3分ほど歩くと、称福寺という小さなお寺があります。

今戸 称福寺










今戸 称福寺

良順先生が和泉橋の西洋医学所から今戸に移ってきた時、負傷者が移されたのが称福寺です。
池田七三郎の「新選組聞書」(子母澤寛『新選組物語』)によれば、勝沼の戦いで負傷した新選組隊士たちも、ここに収容されたといいます。
今は、檀家さん以外訪れる人もなさそうな、小さな落ち着いたお寺でした。



称福寺からは、隅田公園の中をお花見しながら、隅田川を南へと下ります。

隅田公園の桜







隅田公園の桜
 八分咲きといったところでしょうか。
 お花見の場所取りする人、お弁当を
 食べる人・・・。すごい混雑でした。


浅草駅を通り過ぎて、地下鉄大江戸線の蔵前駅へ。



*深川めし 深川宿  最寄り駅:地下鉄清澄白河駅

下町めぐりの昼食は、やっぱり江戸グルメでしょう。
ということで、一度きちんとした深川めしが食べたいと思い、「深川宿」にやってきました。
並ぶと聞いていたのですが、お昼の時間をだいぶ過ぎていたせいか、10分ほど待っただけで中に入ることができました。

“深川めし”というのは、葱とあさりを味噌で煮込んで、熱いご飯にぶっかけた、漁師さんたちのご飯。
昔は江戸湾であさりが採れていたんですよねぇ。
そしてこのぶっかけご飯から、お弁当にも持ち歩けるような、あさりの炊き込みご飯が生まれました。
お店のメニューにも、ぶっかけのセットと炊き込みのセット、両方楽しめるセットがあって、やっぱり最初は両方味わってみたいと、どんぶり炊き込みセット“辰巳好み”を注文しました。

お値段は2,000円。ちょっと高めではありますが、この内容なら全然高くない。
ぶっかけのどんぶりは、煮込んだお味噌がすごく美味しくて。
お味噌って味にすごくインパクトがあるから、普通は味噌の味が目立ってしまうのだけど、全然味噌臭くないんですよ。
あさりの出汁と、効かせた甘みが味噌の味をまろやかにしています。
炊き込みご飯も、すごく柔かい味で。

他には、青海苔(たぶん)のお吸い物、大根ときゅうりの浅漬け、しいたけ・たけのこ・かぼちゃ・わかめの煮物、甘味(白玉)。
お吸い物と煮物も美味しかった〜。
江戸の味なのに、全然濃い味付けじゃない。
炊き合わせって言いたいほどの、薄味なんです。
さらにこのセットだけは、くずきりが付くんですけど、このくずきりがまた美味しくて。
黒蜜の味がしつこくない。すごく上品な甘さでした。
もうね、お腹いっぱい。

お店はこの本店の他に、門前仲町の富岡八幡宮参道にも八幡宮店があります。
お店を出たあと、外観の写真を撮ってみました。

深川宿 入り口









深川宿 入り口
ちょっと時代劇に出てきそうでしょ?


猫も立ち寄る 深川宿













猫も立ち寄る、深川宿
 好きだろうなぁ、ぶっかけご飯。

かわいいにゃんこが通りかかったので、被写体になってもらいました。
絵になってます。



*江東区深川江戸資料館  最寄り駅:地下鉄清澄白河駅

ここはもう、ほんと楽しい。
江戸深川の町並みと生活を再現した展示施設で、時代劇ファンの方には是非お薦めしたい。
年中行事を再現した特別展示や、新内流しや小唄のイベントなんかもあるみたい。
面白そうですよね〜。

資料館を出て、駅に戻る途中、こんな建物が。

何だかわかります?














何だかわかります?


公衆トイレ!!
楽しいでしょう?


ここから少し南西に歩いた江東区佐賀は、伊東大蔵(甲子太郎)先生の道場があったところです。
寄る暇がなくて、残念。



*富岡八幡宮  最寄り駅:地下鉄門前仲町駅

富岡八幡宮は、寛永4年(1627)、御神託により創建されたのだそうです。
「深川の八幡様」として今も変わらぬ信仰を集める、江戸最大の八幡様です。

富岡八幡宮










富岡八幡宮


なぜこの八幡様に来たかというと、『島田魁日記』の慶応4年(1868)4月10日に、次のような記述があります。

「十日夜半、仕度ヲシ今戸ヨリ八幡宮別当寺ニ来ル。」

『中島登覚え書』にも。

「十日夜七時仕度、今戸ヨリ八幡宮別当寺ニ参ル。」


この八幡宮別当寺とはどこなのか。
研究家の菊地明氏は、当時富岡八幡宮の別当寺だった永代寺のことではないかといいます。
菊地氏の説の真偽はわかりませんが、土方さんたちが江戸での最後の夜を過ごした八幡宮別当寺と思われる場所を、訪ねておきたかったんですよね。

ちなみに当時の別当永代寺は、今の深川公園の辺りにありましたが、明治9年に廃寺となってしまったそうです。


深川公園










深川公園

小さな町の公園でした。
当時を感じさせる雰囲気は、残念ながらまったくありませんでしたね。
深川は、関東大震災と第二次世界大戦の空襲でほとんど焼けてしまっているので、仕方がないのかもしれません。


土方さんたちは、江戸での最後の夜を、どんな思いで過ごしたのでしょうか。
少しは感傷的にもなったかな?
翌11日、彼らは小梅村に立ち寄り、市川を過ぎて、鴻ノ台(国府台)に入り、旧幕府脱走軍と合流します。
小梅村に立ち寄ったのは、その近くに伝習第二大隊が屯集していたからではないかと、菊地氏は書いています。
おセンチになるよりも、土方さんはすでに前しか見ていなかったのかもしれませんね。


12日、旧幕府軍は北へ向かって出陣します。
2度と戻ることのない、戦いの旅へ・・・。


(「桜紀行 旅の始まり旅の終わり」につづく) 

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