土方歳三 北征日記

注:文字の色分けは、以下の通り。
  黒・・・土方歳三の動きと主な情勢の変化
  ・・・土方と別行動の時の、新選組の動き
  ピンク・・近藤・沖田の動き
  ・・・時代の動き

4.仙台編

慶応4年9月
 3日 土方、仙台城での奥羽列藩同盟の軍議に榎本武揚らと参加。榎本より総督就任
の推薦を受けるが、列藩同盟との交渉は決裂。榎本・土方は席を蹴って退出する。
  (※1)
 4日 斎藤一ら13人の隊士(歩兵を加えると20数人)、援軍要請を受けて高久村の
如来堂(会津若松市神指町)に布陣する。
 5日 如来堂が襲撃され、斎藤らは散り散りになって敗走する。
 8日 明治元年となる。
  
  
明治元年9月
 9日 新選組および旧幕府軍、小田付(喜多方市)を出立する。
 10日 新選組ほか、土湯村(福島市)に宿陣する。
 11日 新選組ほか、土湯村を出立して烏渡村(福島市)に向かい宿陣する。
 12日 仙台藩の藩論が恭順に転じる。
土方、榎本武揚と仙台城に登城し、恭順派の藩執政・大条孫三郎、遠藤文七郎
と面談する。恭順を批判し、藩論の変更を求めたが、無駄に終わる。
土方、藩主伊達慶邦に拝謁し、刀の下げ緒を拝領する。(※2)

新選組ほか、福島を経由して桑折(伊達郡)に宿陣する。
 13日 旧幕府艦隊の入港を知り、大鳥圭介・小笠原長行・竹中重固ら、仙台行きを決
める。
 14日 新選組ほか、桑折を出立し、越郷(宮城県白石市)を経て白石城下に宿陣する。
 16日 新選組ほか、白石から仙台に到着する。
この頃 土方、松本捨助・斎藤一諾斎に故郷に帰るように諭す。(※3)
土方、松本良順に江戸へ戻ることを勧める。(※4)
新選組ほか旧幕府軍兵士の一部、離隊し、仙台で降伏する。
 17日 桑名藩隊の17名、藩主定敬に随行するため新選組に入隊する。
 19日 松山・唐津の藩士、同じく藩主・世子に随行するため、新選組に入隊する。
  (※5)
旧幕府軍、仙台より木舟(加美郡加美町)に転陣する。
 20日 旧幕府軍、松島に転陣する。
 23日 会津藩、新政府軍に降伏する。
 24日 新選組、里ヶ浜(東松島市宮戸)に転陣する。
行軍演習ののち、石巻に転陣する。(※6)
  
  
明治元年10月
 7日 新選組、渡波(石巻市)に転陣する。
 9日 旧幕府艦隊、蝦夷渡航に向けて東名浜(東松島市大塚)より折浜(石巻市)に
移動する。
土方、渡波で物資搬入の指揮をとり、船人足に賃金を支払う。
 10日 新選組・伝習士官隊・歩兵・工兵隊・付属士官隊、渡波より小舟で折浜に移動
し、大江丸に乗船する。
 12日 旧幕府艦隊の開陽・回天・幡龍・神速・長鯨・鳳凰・大江、折浜を出航する。
 13日 旧幕府艦隊、南部宮古湾の鍬ヶ崎(岩手県宮古市)に入港し、食料・薪水などを
補給する。
 17日 旧幕府艦隊、南部宮古湾の鍬ヶ崎を出航し、蝦夷地を目指す。
 19日 旧幕府艦隊、蝦夷地鷲の木沖に順次到着する。
 21日 旧幕府陸軍、鷲の木(北海道茅部郡森町)に上陸を開始。土方も上陸する。  
  
  
※1 土方は総督就任の条件として、生殺与奪の権を与えるようにと主張。
しかし、その権利は藩主にあるという意見が出て、土方の総督就任は認められ
ませんでした。

鳥羽伏見から会津へと戦ってきた土方には、同盟軍であるからには総督の権限
が藩を越えなければ、まとまって戦うことはできないという認識だったでしょう。
しかし列藩の宿老たちには、藩を越えることはできなかったのですね。
ここが、新政府軍と旧幕府軍の力の差になったともいえます。

これも、山本土方で見てみたい1シーン。
居並ぶ列藩の重役方を、凍るような視線で睨みつけて、「背命の者があるときは
ご大藩の宿老衆といえども、この歳三が三尺の剣にかけて斬ってしまわねばな
らぬ。」って、脅しをかけてみてほしいですよね。
 
※2 この時拝領した下げ緒は、沢忠助によって佐藤彦五郎のもとに届けられ、今は、
土方が彦五郎の長男源之助に贈った刀・越前康継に巻かれて、佐藤家に伝わ
っています。
昨年、ふるさと博物館で見られた時には、感激しました。
 
※3 土方は蝦夷地に渡るにあたって、希望者には離隊を許すことにしました。
21名の隊士が離隊して仙台藩に降伏しましたが、特に松本捨助と斎藤一諾斎
は、同じ多摩の出身で長男でもあることから、土方から帰郷を勧め、餞別を与えた
そうです。

この時土方は、頼るべき親戚のある松本には20両、身寄りのない斎藤には30
両を与えたので、斎藤はその心遣いに感涙したというエピソードが残っています。
 
※4 土方はこの頃、米沢から仙台に移ってきていた松本良順にも、江戸に帰ることを
勧めています。
「蘭疇自伝」によれば、土方は良順に、「あなたは前途有用な人だから、断然
江戸に帰るべきである。自分のような無能者は、ただ国家に殉じるだけだ」と
言ったのだそうです。
 
※5 離隊を認めたことで、新選組の隊士の数は23人にまで減ってしまいました。
一方、桑名・松山・唐津藩士は、それぞれ藩主や藩世子に随行したいと希望す
るも、榎本が同行人数を制限したため、随行が叶わなくなっていました。両者の
願いは一致し、新選組は、桑名藩士17名、唐津藩士23名、松山藩士8名を
受け入れます。
 
※6 石巻では、フランス人将校ブリュネによる調練を受けたようです。

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