土方歳三 北征日記

 

参考文献及び雑記

「新選組!」続編放送に向けて、土方さんの足取りを追ってみたいと思った頃、ちょうど、歴史小説家永井路子さんの公演を聴く機会がありました。

永井さんが小説を執筆する際、まず最初にすることは年表の作成、それから系図を書くことなのだそうです。
なぜなら、年表と系図から、いろいろ見えてくるものがあるから。
では、もし土方さんの年表を作ったら、私には何が見えるだろう? 
そう思って、私なりの年表を作りはじめました。


未熟なものですから、原史料から書き上げていくことができなくて、ほとんど研究家の皆さんの書籍を参考にさせていただいたのは、お恥ずかしい限りです。
でも、今までなんとなく読み流していたことが、たくさん見つかりました。
研究家の方によって解釈が違って、面白いこともたくさんありました。
私も年表をまとめているうちに、土方さんとともに戦っているような気持ちになってきて、書き終えた今は、なんだかボーッとしています。


その中で私に見えたこと。
それは、土方歳三という人の、精神的な強さでした。

負けても負けても、戦うことを止めない。諦めない。
追い詰められて、行き場がなくなっても、まだその先に進むことを考えている。

ここまで来たら、自分たちはいずれは滅びるのだと、わかっている。
わかっていて、でも自分は勝ってみせるという。
自分の指揮する戦いは、絶対に負けやしないという。
最後の最後まで戦い続けるのだという、信念。

新選組!最終回で山本土方が言った、「先に死んでいった者たちの為にも、俺たちは、最後の最後まで、戦わねぇとならねぇんだ!!」が思い出されますね。


そしてさらに強さだけではなくて、兵士たちの働きを労ってくれるし、冗談を言って気持ちもほぐしてくれるんですよ。
部下の気持ちを汲んだ言葉もかけてくれる。

あの新選組の鬼副長が、いったいいつから?
はっきり、この出来事をきっかけに・・・とは言えませんが、近藤と別れて、旧幕府軍に身を投じてからなのは確かですよね。
新選組に縛られなくなって、少しずつ解き放たれていったところへ、足を負傷して思いがけず療養生活を送り、その辺りから多摩の頃の歳三が戻ってきたような気がします。

戦いには躊躇い無く突っ込んでいく鬼副長と、気さくで優しくてお茶目な歳三。
その両面がバランスよく発揮されて、魅力的な戦士になっていったのかも。
こんな上官の下で戦うことができたのですから、兵士たちはどんなに幸せだったことでしょう。
その死を聞いた新選組隊士たちが、赤子が慈母を失うように悲嘆に暮れたというのも、わかるような気がします。


箱館の土方は、贅沢はせず、女性も近づけなかったといいますが、だからといって、そんなに自らを律していたような、ストイックな印象は感じられません。
蝦夷地平定から新政府軍攻撃までの3ヶ月、市中取締の監督をしながら、のんびり過ごしていたような印象を受けるんですよ。
見廻りを口実にぶらぶらしてみたり、句をひねってみたり、時には五稜郭を出て町家で息抜きしてみたり。

戦い抜くことを決めてしまった土方は、どこか突き抜けてしまったようで、だから悲壮感や哀愁はあまり感じられないんですよね。
もしかしたら、その死の瞬間も結構呆気なかったのかなぁなんて思ったりして。

だって、総攻撃が始まって、千代ヶ岡陣屋に額兵隊を見つけると、すぐに彼らを率いて出陣して。
引き揚げてくる伝習隊に出会うと、すぐにそれもまとめて突撃させて。
回天から引き揚げた乗組員の危機に気がつくと、すぐに救援に駆けつけて。
・・・まさに八面六臂な活躍。
で、急いで一本木関門に戻って、額兵隊や伝習隊の後方支援・・・と思っていたら。
撃たれた・・・。

ね? 呆気ないでしょう?(笑)
でも、いかにも土方さんらしいかもしれない。

大野右仲がまた、まさか土方が死ぬなんて、微塵も考えていないんですよね。
一本木関門に土方の姿が見えなくて、兵士たちがどんどん関門を通って逃げていくのを見た時も、「奉行と約せしは彼の如くなるに、これを留めざるは何んぞや。」と憤慨してる。
それで、千代ヶ岡陣屋に戻ってその死を聞いて、呆然・・・ってね。


生き残った者たちの何人かは、謹慎中にその戦いの日々を書き綴りました。
『島田魁日記』と『中島登覚え書』、『立川主税戦争日記』、『函館戦記』だけは、抜粋を読んだのですけれど、淡々と書き連ねる中にも、懐古や悔しさ、憤りなどが溢れていて、胸が詰まりました。

一人一人の消息を書いた、中島登の戦友名簿。
戦争日記の他に、旧幕府軍将士による土方の追悼歌集を持って、日野を訪れたという立川主税。
彼はその後、斎藤一諾斎の紹介で、山梨県で仏門に入っています。
降伏を勧める新政府軍への憤りが、これでもかと綴られている、島田魁日記。
その最後は「我隊長土方公モ其正魂社ノ側ニ石台相建チ候ナリ、法名歳進院誠山義豊大居士ト云フ、参リ人タユルコトナシ。」で締め括られます。
大野右仲は函館戦記の最後に、「その夕べ、津軽に航して青森の某寺に囚へらる。吾れは寺に在りては粛然として兀座し、憂ひを隠さんに遣る所無く、偶々砲台に在りし日を思ひて記せり。」と書いています。

斎藤一や永倉新八を思う時と同じように、“残された者が背負う哀しみ”を感じずにはいられません。


最後に・・・。

土方歳三 辞世の歌
  「よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂は東の 君やまもらむ」


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参考文献

・「別冊歴史読本 新選組大全史 新選組クロニクル通史篇」
    完全版新選組詳細年表     (藤堂利寿)

・「別冊歴史読本 新選組大全史 新選組クロニクル通史篇」
    新選組クロニクル         (菊地明)

・「別冊歴史読本 新選組大全史 新選組クロニクル通史篇」
    「近藤勇日記」最終章      (菊地明)

・「新選組全史」下巻           (菊地明)

・「土方歳三遺聞」            (菊地明)

・「土方歳三の生涯」           (菊地明)

・「クロニクル 土方歳三の35年」   (菊地明)

・「写真集 土方歳三の生涯」     (菊地明・伊東成郎・横田淳)

・「文藝別冊 土方歳三 新選組の組織者」
    宇都宮戦の土方歳三      (野田雅子)

・「文藝別冊 土方歳三 新選組の組織者」
    土方歳三と会津戦争      (菊地明)

・「文藝別冊 土方歳三 新選組の組織者」
    箱館戦争を追って        (高畑朋子)

・「会津藩と新選組」
    会津藩と新選組の接点と絆  (畑敬之助)

・「聞きがき新選組」           (佐藤c)

・「新選組史料集」

・「箱館戦争史料集」

                            以上
 

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