土方歳三 北征日記

注:文字の色分けは、以下の通り。
  黒・・・土方歳三の動きと主な情勢の変化
  ・・・土方と別行動の時の、新選組の動き
  ピンク・・近藤・沖田の動き
  ・・・時代の動き

1.流山〜会津編

慶応4年4月
 2日 朝方、新選組、流山に着陣。長岡七郎兵衛方を本陣とし、光明院・流山寺などに
分宿する。
 3日 本陣を新政府軍に包囲され、近藤勇、野村利三郎を供に付け新政府軍に出頭する。 
(途中まで、村上三郎も付き添うが引き返す。)
土方歳三、2名の隊士を連れ(内、1名は相馬主計)、江戸へ向かう。
 4日 近藤、板橋の総督府に連行される。
土佐藩士上田楠次の依頼により、薩摩軍に従軍していた元御陵衛士加納鷲雄・
武川直枝(清原清)が近藤であることを確認する。


土方、近藤救出の援助を請うため勝海舟と面談する。(大久保一翁とも面談か?)
勝は了承し、軍事方松浪権之丞に板橋総督府への手紙を書かせる。
土方、今戸の称福寺で、流山から軍資金を運んできた島田らと合流し、丸ノ内の
酒井屋敷に入る。

新選組、流山にて金策を行った後、安富才輔に率いられ、会津へと向かう。
 5日 近藤への尋問が行われ、投獄される。

夕刻、相馬主計が松浪権之丞の書状(勝の書状もか?)を持って板橋総督府に
届けるが、身柄を拘束される。
 10日 土方・島田ら、今戸より八幡宮別当寺(富岡八幡宮の別当寺・永代寺)に移る。
 11日 江戸城、新政府軍に明け渡される。

土方、島田魁・中島登・畠山芳次郎・沢忠助・松沢乙造・漢一郎を従えて、小梅
村から市川を通り鴻ノ台総寧寺に入って、旧幕府軍に合流する。
 12日 土方、市川大林院での軍議で、先鋒軍参謀に選出される。(※1)
隊長秋月登之助と土方、先鋒軍を率いて進軍を開始。
この日、小金(千葉県松戸市)に宿陣する。
 13日 先鋒軍、布施(千葉県流山市)に宿陣する。
 14日 増水のためか、利根川を渡れず。
 15日 先鋒軍、水海道(茨城県)に宿陣する。
 16日 先鋒軍、宗道(茨城県千代川村)に宿陣し、下妻藩に藩士の従軍を求める。
下妻藩は10人の藩士を差し出す。
 17日 土方、一隊を率いて下館城(茨城県)を取り囲む。下館藩主は病気を理由に出兵
を断り、金五百両と米百俵、食料などを提供する。
この日、城下で宿陣。秋月隊と合流する。
 18日 先鋒軍、蓼沼の満福寺(栃木県上三川町)に宿陣。宇都宮城攻略の軍議を開く。
 19日 先鋒軍、宇都宮城を攻撃。(※2)
宇都宮城は陥落し、刑部(栃木県宇都宮市)の成願寺、蓼沼の満福寺に戻って
宿陣する。
 20日 大鳥率いる中・後軍と合流する。
土方(内藤隼人)、秋月と連名で、出頭要請を無視している、笠間藩を糾弾する
手紙を送る。
 21日 旧幕府軍、壬生城(栃木県)攻撃の軍議を行う。
夜半、出陣。
 22日 安塚(栃木県壬生町)で戦闘が始まる。
正午頃、旧幕府軍、宇都宮に敗走する。
 23日 新政府軍に宇都宮城を奪還され、土方、足を負傷し今市(栃木県)に搬送される。
夕刻、旧幕府軍は城を棄て、今市へと敗走する。(※3)
 24日 土方、中島登に命じて、幼なじみで日光勤番の土方勇太郎を今市に呼び寄せ、
斬殺した兵士の墓碑建立を涙ながらに依頼する。
土方・秋月、今市を出立し、会津西街道を北上する。島田ら6人の隊士も同行。
 25日 近藤勇、板橋で斬首される。

身柄が拘束されていた相馬と野村は、近藤の助命嘆願により処刑を免れる。
 26日 近藤の首級、京都に送られる。

土方、田島陣屋に到着し、秋月と別れる。
 27日 土方ら、会津に到着して、城下七日町の清水屋に投宿する。(※4)
土方、清水屋で唐津藩士松川精一(大野右仲)の訪問を受ける。
土方、清水屋に逗留していた旧幕臣望月光蔵と面談する。(※5)
  
  
※1 この時、総寧寺には2500人もの旧幕軍が集まったといいます。
軍議では、全軍の総督に旧幕府歩兵頭の大鳥圭介を選出。
全軍を三軍に分け、大鳥が中・後軍を率い、先鋒軍は伝習第一大隊長(会津藩
士)だった秋月登之助が率いることとしました。

三軍の構成は、
  先鋒軍:伝習第一大隊、砲兵隊、回天隊、桑名隊
  中 軍:伝習第二大隊
  後 軍:大七聯隊、会津藩別伝習隊、工兵隊
先鋒軍は水海道を、中・後軍は日光街道を北上しました。
 
※2 先鋒は土方率いる桑名隊で、簗瀬橋を越えて下河原門へ進撃。
秋月率いる中軍・伝習第一大隊は、北上して中河原門と今小路門に向かい、後
軍は南に回り南館門に進みます。

開戦は午前10時頃。下河原門前は白兵戦となり、激戦となりました。
この時、土方は逃げようとした兵士を一人斬り倒し、味方が崩れるのを防いだと
いいます。
午後2時頃、土方らは城内へ突入。中・後軍も進軍し、夕刻、新政府軍と宇都宮
藩兵は、二の丸に火を放って逃走しました。
 
※3 午前9時頃、城の西・六道の辻で戦いが始まります。

土方は桑名隊を率いて、城の北、二荒山神社のある八幡山に布陣しましたが、
援軍要請を受けて城の南側に回り、南館門内の竹林の中で戦って、足を被弾し
ました。
伝習隊を率いて城西の松ヶ峰門で戦い、負傷していた秋月とともに、正午頃、
土方は今市へと搬送されます。

増強された新政府軍の前に旧幕府軍は次第に劣勢となり、夕刻、城を棄て今市
へと敗走しました。
 
※4 清水屋には、3月下旬頃に江戸を脱した医師松本良順も投宿しており、以後、
土方は良順の治療を受けました。
 
※5 土方は、旧幕臣が逗留していることを知って、面会を求めました。
望月が部屋を訪れると、土方は床の上に横になっていたといいます。

土方は望月に対し、唐突に「ともに戦え」と言ったので、望月はあまりにも傲慢に
思えたようです。
望月は「自分は文官であり、武事には通じていない」と答え、それを土方は嘲笑
し、その怯懦を詰りました。
そこで、望月が「宇都宮城を奪還されたのを取り戻せなかったのは、あなたがた
の怯懦ゆえではなかったのか」と反論すると、土方は怒りを顔に表し、「多言、
吾が病褥を犯す。聞くを要せず、去れ」と叫んだとのこと。
この時、土方は望月に対して、枕を投げつけたのだそうです。

このシーン、是非とも山本土方で見てみたいんですけどねぇ。
時間的に無理でしょうかねぇ。

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