土方歳三 北征日記

注:文字の色分けは、以下の通り。
  黒・・・土方歳三の動きと主な情勢の変化
  ・・・土方と別行動の時の、新選組の動き
  ピンク・・近藤・沖田の動き
  ・・・時代の動き

5.蝦夷地平定

慶応4年10月
 22日 旧幕府陸軍、鷲ノ木より出陣。箱館五稜郭に向かう。(※1)
土方軍、砂原(北海道茅部郡森町)に宿陣する。
 23日 土方軍、鹿部村(茅部郡鹿部町)に宿陣する。
 24日 土方軍、川汲峠(函館市川汲町)で新政府軍に勝利。川汲に宿陣する。(※2)

新選組、七重村(亀田郡七飯町)に遊撃隊・工兵隊とともに派遣され、戦闘とな
る。
 25日 土方軍、新政府軍を撃破し、湯の川(函館市湯川町)に宿陣する。

新選組、前日大野村で戦っていた大鳥本隊と合流。赤川(函館市赤川)に宿陣
する。


海軍の回天と幡龍が鷲ノ木から回航し、箱館市中を制圧する。
箱館府知事の清水谷公考は、外国船を手配し青森へと敗走。
 26日 大鳥軍・土方軍、五稜郭に入城する。
土方軍の出発に際し、陸軍隊長春日左衛門と野村利三郎、先陣をめぐって抜刀
して対立する。(※3)
 27日 土方、亀田屋旅宿にて、松前藩士渋谷十郎らと面談する。
 28日 土方・松平太郎、五稜郭にて渋谷らと面談する。

土方、彰義隊・額兵隊・陸軍隊・砲兵・守衛新選組、合わせて500余人を率い
て松前城攻略に向かう。有川村(上磯郡上磯町)に宿陣する。
土方、渋谷と面談する。(※4)
 29日 土方軍、茂辺地(上磯郡上磯町)に宿陣する。
 30日 土方軍、木古内(上磯郡木古内町)に宿陣する。

新選組、箱館市中の取り締まりを命じられて、本陣・称名寺に入る。
新選組は一本木関門を警備する。
  
  
明治元年11月
 1日 土方軍、知内村(上磯郡知内町)に宿陣。
夜半に敵の夜襲を受けるが、撃退する。(※5)
 2日 土方軍、一ノ渡(松前郡福島町)で戦い、これを破り、福島村(松前郡福島町)
に宿陣する。
 3日 土方軍、福島村で再び戦うという。
 4日 土方軍、吉岡峠(松前郡福島町)で戦い、荒谷(松前郡松前町)に宿陣する。
 5日 土方軍、松前城を攻略。午後には陥落させる。(※6)
 6日 土方軍、松前城(松前郡松前町)に入城する。
土方、民家に隠れていた松前藩主の妻たちが、兵に囲まれているところを助け
て、江戸に送り届けたという。(※7)
 10日 額兵隊・衝鋒隊、松前藩兵を追って江差に向かう。
 11日 陸軍隊、江差に向かって出立する。
 13日 彰義隊、江差に向かって出立する。大滝(檜山軍上ノ国町)で敵兵を破る。
 14日 土方軍、石崎(檜山軍上ノ国町)に到達する。
 15日 土方軍、箱館から回航してきた開陽丸の援護を受けて、江差(檜山軍江差町)
の松前藩兵を敗走させる。

夜になって、開陽丸が暴風によって座礁してしまう。約10日後に沈没。
救援に来た神速丸も、風浪のため座礁、沈没してしまう。

松岡四郎次郎の率いる一聯隊、松前藩主松前徳広が避難していた館城を攻略
し、藩主たちを熊石(爾志郡熊石町)に敗走させる。
 16日 土方軍、全軍江差に着陣する。(※8)
 18日 土方、後を一聯隊に託し、松前に帰陣する。
 19日 松前藩主ら、船で青森へ脱出する。
 20日 一聯隊、熊石に進軍し、残っていた松前藩兵を降伏させる。
ここに、蝦夷地は平定される。
  
  
明治元年12月
 5日 新選組、伝習士官隊と交代し、五稜郭へ赴く。毎日雪の中で、仏式演習を行う。
 15日 土方、松前より箱館五稜郭に凱旋する。
旧幕府軍、全軍をあげて蝦夷地平定の祝賀会を催す。(※9)

旧幕府軍、入札(選挙)によって、箱館政府の閣僚を選出する。
土方は、陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取となる。(※10)

新選組、ふたたび箱館市中取り締まりを命じられて復帰する。
弁天台場で、仏式演習を行う。
 29日 夜、土方、大津屋にいる桑名藩の酒井孫四郎・生駒伝之丞を訪ねる。(※11)
箱館の俳人・孤山堂無外の年忘れの句会に、土方、中島三郎助・川村録四郎と
ともに招かれたという。(※12)
  
  
明治2年1月
 2日 新選組、市中大巡邏を行う。(※13)
 6日 酒井、土方を訪ねる。
 14日 土方・榎本、酒井と面談する。
 15日 陸軍隊の青山次郎ら二十四名、彰義隊の八名、新選組に入隊する。
 19日 土方、酒井の訪問を受ける。
 25日 土方、酒井の訪問を受ける。
 28日 土方、酒井の訪問を受ける。
この頃 箱館政府、新貨幣を鋳造し流通させる。
市民は新貨幣での売買を嫌ったため、永井尚志・相馬主計、これを取り締まる。
相馬ら、市中でゆすりをはたらいている兵士たちをを取り締まる。
  
  
明治2年2月
 3日 土方、酒井の訪問を受ける。
 4日 土方、酒井の訪問を受ける。
 28日 土方、新選組の市中取り締まりの功に対して、石井勇次郎に金千疋(2両2分)
を与える。
  
  
※1 旧幕府陸軍は、箱館府への嘆願書を持った遊撃隊の人見勝太郎ら、先発隊
三十余名が、まず内陸の本道を。さらにその後から、大鳥圭介が新選組・伝習
士官隊・伝習歩兵隊・遊撃隊を率いて進軍。海岸沿いに南下して川汲峠を越
える間道を、土方が額兵隊・陸軍隊を指揮して、箱館五稜郭へ向かいました。

新選組は安富才輔が率いて大鳥軍の先鋒を務め、それとは別に、島田魁率い
る数人の守衛新選組が土方に従います。
また陸軍隊には、近藤勇とともに板橋総督府に拘束され、処刑を免れた、野村
利三郎・相馬主計が所属していました。
 
※2 間道を進む土方軍が悩まされたのは、敵の襲撃よりも蝦夷地の寒さと難路でした。
海沿いの道は北風が吹きつけ、雪混じりの雨が降る中、ほとんどの兵が蓑や笠
もなく、足袋さえ履いていない者も多かったようです。馬を立たせることもできな
いほどの断崖絶壁、雪山は凍って鏡のようになっていたとか。その厳しさを、額
兵隊隊長の星恂太郎が書き残しています。
 
※3 隊長の春日が、野村の隊を常に後方に置くことに不満を募らせ、この時野村は
進軍命令が出ていないにもかかわらず、兵を進めてしまいます。
これを咎めた春日に対して、野村は抜刀して激怒。春日も刀を抜いて、まさに
斬り合いになろうとしたところを、土方が間に入って事を収めたといいます。
この時、野村が率いていたのが、陸軍隊のうちの一隊だったのか、守衛新選組
だったのかは不明。
 
※4 恭順と抗戦に分かれて対立していた松前藩は、7月に恭順派が藩の実権を握り、
渋谷十郎らが江戸と京で抗戦派を殺害して、新政府への恭順が確定しました。

江戸から戻ってきた渋谷らは、旧幕府軍に対して、松前城に復命のため帰藩す
ることを希望し、松前までの通行を保証するよう要求します。
有川で渋谷と会談した土方は、「前松前藩主松前伊豆守崇広は徳川家の老中
として勲績もあった。しかし、現藩主志摩守徳広は我々に対して出兵してきた。
松前藩は何を考えているのか。徳川家と戦うつもりなのだな。」と追求します。

これに対し渋谷は、「一国の興廃に係わる一大事であるから」と、松前に戻って
評議することを希望。回答期限を11月10日として、それまでの進撃停止を求
めます。
土方は停戦を受諾しました。

このやり取り、私はすっかり見落としていました。
前藩主伊豆守が老中在職の時、松平容保の意向により、近藤勇が永倉新八を
連れて江戸に下向。伊豆守に対し、早期の将軍上洛を求めていましたね。(この
留守中に葛山武八郎が切腹させられた、あの時のことです。)
 
※5 土方は停戦に応じましたが、実は渋谷は、新政府軍の援軍を待つ間の時間稼ぎ
として停戦を提案しており、和平の意思は毛頭無かったのです。
松前藩はすでに、砲台を設置するなど、旧幕府軍を迎え撃つ準備を勧めており、
1日には秋田・弘前両藩に援軍を要請しました。
また旧幕府軍が、渋谷に同行していた桜井怒三郎を和平の使者として松前藩に
送ったところ、松前藩は桜井を福島村で処刑してしまったといいます。

このような松前藩の動きを察知した旧幕府軍は、軍艦・幡龍を松前湾の探索に出
しました。そして、海岸で大砲を設置している兵を発見。幡龍は艦砲射撃を行い、
戦端は開かれたのでした。
 
※6 土方はまず額兵隊に、城東の高台にある法華寺から、大砲による砲撃を開始。
彰義隊に城門を攻撃させている間に、自分は陸軍隊と守衛新選組を率いて城の
裏手に回り、梯子をかけて城内に潜入。
一斉に銃撃を開始すると、松前藩兵は大混乱に陥り、城と城下に火を放って敗
走しました。
 
※7 このエピソードは有名ですが、これを伝えたという松本捨助と斎藤一諾斎は仙台
で離隊しており、蝦夷地には渡ってきていません。
また、遊撃隊の人見勝太郎が同様の話を自分の体験談として残していますが、
遊撃隊は松前城攻略軍には参加していません。
本当に松前藩主の妻だったのか、土方が助けたのかどうかはわかりませんが、
このような出来事はあったのかもしれませんね。
 
※8 16日に江差に入った土方は、本陣であった檜山奉行所から開陽丸の無残な姿
を目の当たりにし、松の幹を叩いて悔しがったといいます。   
後年、土方が叩いたその松の幹には瘤ができ、その松は“土方歳三、嘆きの松”
と、幹の瘤は“歳三のこぶし”と言い伝えられています。
 
※9 すでに榎本は、英・仏両国の艦長から、“事実上の政権”であるという承認を得
ていました。
そのため、祝賀会は各国領事や艦長・箱館の有力者を招いて盛大に開催され、
港では祝砲が撃たれ、市内には提灯が提げられて、大変な賑わいだったそうで
す。
 
※10 閣僚は士官以上の投票で選出され、予備選挙と本選挙の2回(諸役の選挙も
含めて3回か?)行われたようです。

予備選挙と思われる、最初の入札結果は次のとおり。
   1位 榎本武揚 156点
   2位 松平太郎 120点
   3位 永井玄蕃 116点
   4位 大鳥圭介 86点
   5位 松岡四郎次郎 82点
   6位 土方歳三 73点    以下省略

すごいですよね?土方さん。百姓出身のたかが新選組副長が、桑名・松山・
唐津の殿様たちを押さえて、6位です。
藩を越えてできた、言うなれば軍事政権の中では、土方さんに限らず、統率力
や戦闘指揮能力、そして人気が重要視されたということでしょうか。

この選挙結果に基づき、箱館政府の主な閣僚は次のように決まりました。
   総裁 榎本武揚 副総裁 松平太郎
   海軍奉行 荒井郁之助 陸軍奉行 大鳥圭介
   会計奉行 榎本対馬 会計奉行 川村録四郎
   箱館奉行 永井玄番 箱館奉行並 中島三郎助
   江差奉行 松岡四郎次郎 江差奉行並 小杉雅之進
   松前奉行 人見勝太郎 開拓奉行 沢太郎左衛門
   陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取 土方歳三

この他に、陸軍奉行添役として相馬主計・大野右仲・安富才助らが、陸軍奉行
添役介として野村利三郎が選出され、五稜郭詰となっています。
 
※11 桑名藩の酒井孫四郎・生駒伝之丞は、藩主松平定敬に恭順を説得するために、
箱館に来ました。
土方はこの後、3月4日まで何度も面談を重ねています。
 
※12 成瀬櫻桃子が『万蕾』16号「俳人豊玉の死」の中で、村山故郷が『明治俳壇史』
の中で、この時の土方の句として、

   わが齢(よわい) 氷る辺土に 年送る        豊玉

を紹介していますが、本当に土方の句かどうかは確認できていません。
 
※13 仕事始めの行事としてのデモンストレーションだったと思われます。
 

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