土方歳三 北征日記

注:文字の色分けは、以下の通り。
  黒・・・土方歳三の動きと主な情勢の変化
  ・・・土方と別行動の時の、新選組の動き
  ピンク・・近藤・沖田の動き
  ・・・時代の動き

3.会津戦争

慶応4年7月
 1日 新選組、羽太村(西白河郡西郷村)から出陣。
再び白河奪還戦を試みるが、羽鳥村(岩瀬郡天栄村)まで敗走する。
 6日 土方、このころ前線に復帰し、福良に来る。(※1)
 7日 土方、長沼(須賀川市)から町守屋(須賀川市)に向けて出陣を命じる。

新選組・伝習隊・回天隊、3日間長沼に宿陣する。
 10日 新選組ほか、町守屋に至り、しばらく滞陣する。
 11日 土方、福良の武藤彦四郎宅に泊まり、内藤介右衛門の訪問を受ける。
 12日 土方、付属隊士とともに、福良より羽太口へ出陣する。
土方、福良本陣に酒を贈る。
 14日 土方ら、酒宴を開き、夕刻大平口へ戻る。
 15日 会津軍は最後の白河奪還戦を試みるが、敗れて白河奪還を断念する。
 18日 土方・内藤、大谷地口で捕縛された2名の不審者を福良にて尋問し、一人から
情報を得る。
 19日 土方、米村吉右衛門を呼び出し、白河の形勢を聞く。
 20日 土方、会津藩の小森一貫斎・辰野源左衛門・新選組付属隊士らとともに、湖水
見物を行う。
 29日 新選組、町守屋から郡山へ行くための人馬の手配を行うが、思うに任せず。
すでに三春は敵地となり、二本松もこの日落城したことから、郡山への進軍を
断念する。
  
  
慶応4年8月
 1日 新選組、町守屋から湖南方面に戻る。
 3日 土方ほか八十余名、成田(郡山市安積町)から、三代、中地村(郡山市湖南町)
まで戻る。
 4日 伝習隊、須賀川の夜襲に成功する。

新選組・伝習隊・回天隊は合流して、三代、中地、舟津村(郡山市湖南町)に
宿陣する。
 18日 新選組ほか、二本松方面に救援のため出兵。猪苗代城下に宿陣する。
 19日 軍議により、新選組・伝習第一大隊の母成峠(郡山市・猪苗代町)出陣が決定
する。


土方・内藤、中地村より福良本陣に入る。
 20日 会津軍・旧幕府軍が母成峠に集結する。
会津藩兵を主力として、二本松・仙台・唐津の藩兵、伝習第一・第二大隊、新選
組を加えてその数800名。(※2)

一方、二本松に集結した新政府軍は3000名だった。(※3)
 21日 午前10時頃、母成峠の戦争が始まる。
圧倒的な兵力の前に、会津・旧幕府軍の陣地は次々と抜かれ、本営が炎上して
大敗。
午後4時頃、全軍猪苗代方面へと敗走する。(※4)

土方、福良にいる内藤介右衛門と御霊櫃峠滞陣の小原宇右衛門に宛てて、猪
苗代への援軍要請の手紙を出すが、援軍は来ず。

土方・斎藤、猪苗代城にて会津藩の軍事方と軍議。
土方、斎藤に隊士を預け、戸ノ口(猪苗代町)から十六橋へと向かう。
 22日 新政府軍、猪苗代を突破する。

土方、前会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬の滞陣する滝沢本陣に着陣する。

新選組は東山の天寧寺に宿陣する。
斎藤ら25名と兵卒13名は、城下一ノ町の斎藤屋に宿陣する。  
 23日 新政府軍、戸ノ口を突破。

松平容保は定敬を米沢方面へと逃がし、自らは銃弾の飛び交う中を帰城。
市街戦となった城下は激しく炎上し、会津藩は籠城戦へと突入する。
足手まといになるのを嫌い、城内に入らず自刃した女性たち多数。
戸ノ口に出陣していた白虎隊士中二番隊20名は、飯盛山で自刃する。

土方、大塩に立ち寄り、大鳥に新選組を預けると、援軍を求めて庄内藩(山形
県鶴岡市)へ向かう。

新選組、塩川村に転陣し、旧幕府軍と合流する。
 25日 土方、米沢(山形県米沢市)で松本良順・壬生藩士友平慎三郎とともに、庄内
藩士服部十郎右衛門と会う。(※5)
  
  
※1 ようやく前線に復帰した土方ですが、7〜8月と湖南方面に展開しているこの
時期は、ほとんど後方に待機して、戦況を見守り指示を出しているだけのように
見受けられます。

 「島田魁日記」には、“土方公医療を受け、ようやく全快す”とありますが、歩行
や日常生活には不自由はしなくなったものの、まだ戦場を駆け回るまでには回復
していなかったのでしょう。
 
※2 会津・旧幕府軍は、山麓の石莚口からやや上った萩岡に第一台場、中軍山に第二
台場、峠の頂上に第三台場である本営を設置して、石莚口から登ってくる新政府
軍に対して布陣。さらに銚子ヶ滝の上の勝岩に、新選組と伝習第一大隊を置いて、
間道の伊達路からの兵に備えました。
 
※3 新政府軍の兵の振り分けは、母成峠の南方・中山峠に陽動部隊として400名、
石莚口から正面を行く部隊に1300名、伊達路から勝岩を攻めるのに1000名。
さらに、西側間道の達沢口から背後を突く部隊が300名でした。
※4 午前10時頃、戦闘勃発。石莚口から攻め登る1300名の新政府軍の前に、瞬
く間に第一台場は陥落し、第二台場で激しい戦闘が繰り広げられます。
勝岩から援軍が送り込まれますが、やがて第二台場も突破。
伊達路から攻めてきた部隊と戦闘に入っていた勝岩の軍は、第二台場突破と同
時に廻り込んできた部隊に背後を突かれ、正午ごろには新選組も伝習第一大隊
も散り散りになって敗走しました。

濃霧に包まれていた本営は、敗走してきた兵たちが殺到して混乱。
そこへ、達沢から登ってきた迂回部隊に背後を突かれ、陣屋が炎上します。
午後4時ごろには、退却命令もまともに出せない状態で、全軍総崩れとなって猪
苗代方面へと潰走しました。
(迂回部隊は、地元農民が手引きしたともいわれます。)

この時の混乱は本当に凄まじかったようで、斎藤一も大鳥圭介も、敵兵の追撃を
受けて山中に逃れました。
斎藤は沢に出たところを敵に追われ、対岸の急峻な崖を猿のようによじ登ったそ
うです。
その後会津藩士と出会い、案内を請うて、夜遅くに猪苗代城下に到着。
大鳥は山の中をさんざんに彷徨って、23日にようやく大塩村で旧幕府軍と出会え
たといいます。
 
※5 庄内藩への経路にある米沢藩は、すでに新政府軍への恭順を決定しており、土
方は領内の通行を許されませんでした。
服部と会ったのは、足止めを喰らっていた時のことと思われます。

土方はこの後、奥羽列藩同盟の公儀府が置かれた白石(宮城県白石市)に向か
い、そこで榎本武揚率いる旧幕府艦隊の仙台入港を知って、白石から仙台へ向
かったのでしょう。

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