注:文字の色分けは、以下の通り。 黒・・・土方歳三の動きと主な情勢の変化 青・・・土方と別行動の時の、新選組の動き ピンク・・近藤・沖田の動き 赤・・・時代の動き |
2.会津 療養中 (※1)
慶応4年閏4月 | |
5日 | 新選組、会津若松城に登城し、白河方面への出陣を命じられる。 |
6日 | 新選組、斎藤一(山口次郎)を隊長として出陣し、赤津(郡山市湖南町)に宿陣 する。 |
7日 | 新選組、三代(郡山市湖南町)に宿陣する。 |
8日 | 近藤の首級、京都三条河原に3日間晒される。 |
21日 | 新選組、勢至堂峠(須賀川市)から白河城に向かう。 この日、会津軍は白河城を奪取。 |
22日 | 新選組、白河城下に宿陣する。 |
23日 | 新選組、白坂関門(白河市)の守備につく。 |
25日 | 新政府軍は白河を攻撃。新選組・会津軍、これを撃退する。 |
29日 | 新選組、白坂関門の守備を仙台藩兵と交代し、白河の脇本陣・柳屋で休陣する。 |
慶応4年5月 | |
1日 | 新政府軍の第二次白河攻撃が行われ、会津軍は死者304人を出して敗退、 白河城を明け渡す。 新選組は黒川(西白河郡西郷村)で応戦するが、勢至堂峠へと敗走する。 |
2日 | 新選組、勢至堂より三代に転陣する。 |
26日 | 会津軍、白河城奪還に失敗し、参戦した新選組も上小屋村(西白河郡大信村) まで敗走する。 |
27日 | 新選組、大谷地村より白河口に進軍するが、敗れて牧ノ内(岩瀬郡天栄村)まで 退却する。 島田魁、負傷して福良(郡山市湖南町)に搬送され、千手院で治療を受ける。 |
29日 | 会津藩世嗣の松平喜徳、白虎隊を率いて福良に到着。6月10日まで滞陣する。 (※2) |
30日 | 沖田総司、江戸千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で病死する。 |
慶応4年6月 | |
3日 | 新選組、福良本陣の松平喜徳に拝謁が許され、牧之内から福良に転陣する。 |
4日 | 新選組、福良で喜徳に拝謁し、閲兵を受ける。 |
6日 | 新選組、福良より大平口(岩瀬郡天栄村)に出陣し、羽太村(西白河郡西郷村) に休陣する。 |
8日 | 千手院に入院している島田、会津藩家老内藤介右衛門の見舞いを受ける。 |
9日 | 千手院に入院している島田、喜徳の見舞いを受け、直接二十五両を賜る。(※3) |
12日 | 会津軍、白河奪還のため、進軍。 新選組も羽太村から進撃するが、敗れて福良へと退却する。 |
13日 | 新選組、千手院に入る。 |
15日 | 土方、会津若松城に登城し、覚王院義観と面会する。(※4) |
16日 | 会津城下に残っていた新選組隊士と伝習第一大隊が、福良に到着する。 |
この頃 | 土方、旧幕臣竹中重固と面談し、近々会津が入手する新式銃50挺の使途を 協議したと思われる。(※5) |
※1 | 「流山〜会津編」で“枕投げエピソード”を引用した、旧幕臣望月光蔵によれば、 土方は宇都宮での負傷で立つこともできなかったといいます。かなり重傷だった んですね。 土方は会津で、およそ3ヶ月、療養生活を送ります。 この間、土方が東山温泉で湯治をしていたという伝承が残っており、“旅館不動 滝・旗亭濫觴”の猿の湯が土方戦傷湯治の湯であるといいます。 これについては、旅館の「猿の湯宿ブログ」2005年7月11日の記事に、 > 平成四年に発見された古文書や慶応四年当時の羽黒山東光寺の住職の日 記などから土方歳三が戦傷湯治をしたとのお墨付きをいただくに至りました。 とありますが、詳細はわかりません。 土方とともに宇都宮で負傷した秋月登之助が東山温泉で湯治していたことは確 認されているので、土方もということは考えられます。 他に土方湯治を裏付ける確かな記録は、見つかっていないようです。 |
※2 | 白虎一番士中組の永岡清治と白虎二番士中組の安達藤三郎が、この頃、土方 歳三と出会ったというエピソードを伝えていますが、土方はいまだ療養中であり、 戦線へは復帰していません。 彼らが会ったのはおそらく、喜徳拝謁のために福良に転陣してきていた、斎藤一 ら新選組隊士であろうと思われます。 |
※3 | 会津9代目藩主松平容保は、2月に江戸から会津へ引き揚げると、3月には家 督を養子喜徳(徳川慶喜の末弟)に譲り、謹慎しました。この時、喜徳は14歳。 若殿ではあったけれど、藩主自らがわざわざ見舞いに来てくださり、手ずからか どうかはわからないけど、お見舞い金まで下さって、島田は感激したでしょうね。 照英島田さんだったら、嬉し泣きしていそうです。 |
※4 | 覚王院義観は、彰義隊に擁立され、のちに奥羽越列藩同盟の盟主となる、輪王 寺宮公現法親王の執当。 輪王寺宮とともに2日から会津若松に滞在しており、土方は挨拶に訪れたと思わ れます。 |
※5 | 竹中丹後守重固は、鳥羽伏見の戦いで、伏見方面の総指揮官を勤めていた陸 軍奉行。 「新選組!」では、軍議の席で、土方や永倉の建言に耳も貸さなかったあの方で す。 竹中は6月20日付で会津藩士藤成郷右衛門に宛てた手紙に、「江戸から七発 込め小銃50挺が今日あたり会津若松に到着する。ついては、伝習隊士官の中 から24、5名、土方歳三の兵から24、5名、砲術熟練の者を選んで2小隊を組 織し、小銃を貸し与えて白河戦に参戦させたら、効果があるのではないか」と書 いています。 しかしこの新式銃による攻撃は行われないまま、7月15日の敗退をもって、会 津は白河奪還を断念しました。 土方が、天寧寺に近藤勇の墓を建てたのもこの頃でしょうか。 ようやく歩けるようになった足を引きずりながら、毎日のようにあの山を登ってい たのかもしれません。 |