代官山アパートメントハウス 東京都渋谷区代官山町
代官山アパート1
 同潤会とは、関東大震災直後の大正13(1924)年5月、被災者への住宅、および必要な施設の供給を目的として、国内外から寄せられた義捐金一千万円を元に設立された内務省社会局の外郭団体(財団法人)である。

 同潤会の住宅建設事業は(1)木造小住宅、(2)アパートメントハウスの二つに大別される。
 当初は大正13年から14年の二カ年計画で、木造小住宅七千戸、アパートメントハウス一千戸、計八千戸の小住宅を東京・横浜両市に建設する予定であった。しかし大正13年度においては、年内に竣成することが困難であるとの理由からアパートメントハウスの建設を断念。かわって計三千二十戸の木造住宅を建設する。
 しかし14年度には、東京及び隣接町村の住宅供給状況が良化したことから、木造住宅の建設は僅か73戸にとどめられ、いよいよ同潤会は耐震・耐火構造を備えたRCアパートメントの建設に着手する。

 同潤会のアパートメントハウスは、大正15年8月竣工の中ノ郷アパートメントを皮切りに、青山、柳島、代官山、清砂通り、山下町、平沼町、三田、三ノ輪、鶯谷、上野下、虎ノ門、大塚女子、東町、そして昭和9年8月竣工の江戸川アパートメントまで、東京・横浜の計15カ所に建設された。これが現在でも都内数カ所に現存する同潤会アパートである。
 また同潤会は内務省の資金援助により不良住宅地区改良事業にも手を染めており、深川区猿江裏町、横浜市中区南太田町、荒川区日暮里町の3カ所で同事業を行っている。その結果誕生した住吉共同住宅は、その構造がRC造のアパートメントハウスであったため、同潤会アパートの一群として研究対象に加えられている。

代官山アパート2
 昭和13年1月、厚生省の誕生により、内務省社会局は厚生省社会局となり、同潤会も厚生省社会局の管轄となる。昭和16年3月、厚生省に新たな住宅供給組織である住宅営団が創設。同年5月、同潤会は住宅営団に吸収され、発展的解消を遂げる。その結果、同潤会アパートの管理経営も住宅営団に引き継がれることとなった。

 同潤会アパートは耐震・耐火構造という看板に偽りなく、そのすべてが戦災を乗り越えて終戦を迎える。昭和21年12月、住宅営団は戦時政府の関係団体としてGHQに解散を命じられる。しかし戦争協力団体というのは建前であり、実際には住宅営団が抱えていた多額の負債を解消するためのリストラ策であったという。この際、同潤会アパートの多くは住民に分譲され、また一部は都営住宅として存続してゆくことになる。

 代官山アパートは36棟337戸。昭和2年1月14日(一期工事完成)から昭和5年4月19日(四期工事完成)にかけて建設された。円形アーチの建物は、敷地のほぼ中央にあった「文化湯」の入口。ここはアパート住民でなくても利用できる共同浴場だった。

 同潤会アパートの多くは戦後も長く存在していたが、平成になって建て替え計画が次々に実行され、現存しているものは青山、清砂通り、三ノ輪、上野下、虎ノ門、大塚女子、江戸川の7カ所のみ(平成11年10月現在)となっている。

(99.10.8改訂)