祀り事 

 

 小泉総理が公式参拝するか否かでもめているらしい。

それに対する批判は次のようなものである。

1.政教分離を謳う憲法に反する

2.侵略戦争とされる大東亜戦争の戦死者、A級戦犯も含まれており、近隣諸国の感情を逆撫でする

 わしは肩書きはどうあろうと、政治家であろうとなかろうと、

戦没者に対して敬意を払う姿勢が日本人には必要だと考えるので、

その代表たる総理大臣はもちろん戦没者を祀る場所、

すなわち靖国神社に参拝するのは当然のことと考えている。  

 よってここでは上記の如くの批判に反論してみよう。

 

 

   1.憲法違反云々に対して  

 まず、幼稚園から大学まで、教育を「私立」の機関で受けた者

憲法違反云々と述べる資格はないので黙っていただこう。

名実ともに私立の学校など無いのだ。

国が私立の学校に対し資金援助を行うことは憲法で禁じられている。

しかし実際のところ、公的な資金抜きに学校経営が成り立つ学校などあるまい。

 従って私立の学校の生徒並びに卒業生は全て憲法違反な存在と言って差し支えない。

自らが憲法に違反し、または違反により得られる利益を甘受しておいて

他人に対し違反をするなというのは、どのような了見なのか。

 

まるで仏教国を今まさに侵略しながら

日本が行った過去の侵略を

声高に言い立てるどこかの国のようである。

ま、Dさんとこなんかはこの国のシンパじゃけね・・・・

 

 百歩譲って、一銭たりとも援助を受けていない機関があるとして、

そのような学校の卒業生のみこれを言われるが良い。  

 

 更に、靖国神社への参拝がダメというのであれば、

冠婚葬祭はどうなるのか。

政治家名義の祝電弔電など、お決まりのように届くし、

震災の被害者の通夜、告別式には政治家の顔が必ず見える。

これもダメというのか。

言わないだろう。  

 憲法自体が空洞化し、事実上効果を発揮していない状態であるのは、

普通に考えれば言を待つものではない。

憲法違反云々を言うのは無意味という他ないのである。

従ってこの批判自体、無意味なものと断ずる。

 

 

   2.「侵略者」の祭祀  

 大東亜戦争(太平洋戦争)が侵略であった側面は否定しない。

少なからず日本人ではない人々の財産を 日本のもの、

日本人のものにした事に疑いはないからだ。

ただ、その事実が全てだとは毛頭思わない。

別の側面として、固有の領土、国民、財産、文化を守る事、

すなわち「日本」を守る事、という側面もあった事も事実である。

下手をするとアヘンまみれの植民地になっていてもおかしくはなかったのだ。

植民地にならず、独立を保つための策として日韓併合があり、

満州の建国があったのだ。  

 

 しつこくなるが、だからと言って

「日本を守る為に行った戦争なのであり、

そのやり方に問題がなかった」

とは断じて言わない。

 

日韓併合、日中戦争、大東亜戦争を通じ、

どこかで歯止めをかける事ができたのではないか、

他の対策もできたのではないか、これは検討しなければならない問題である。  

っていうかなんでまだちゃんとやってないんだか・・・・・

 

 いずれにせよ、少なくとも建前上は「日本」のための戦争だったのであり、

「日本」のために死んだ人々が靖国には祀られているのである。

A級戦犯はどうなる、という声も聞くが、これもまた同様である。

戦犯と認定された東京裁判自体が司法の呈を成すものではなく

ただの、しかし文字通りの吊るし上げである。

「平和に対する罪」という観点から言うのであれば、

例えば東條英機は民主的手続きの上に総理大臣になったのであるから、

彼だけに責任や罪があるものではない。

強いて言うならば、大なり小なり国民全体に罪と責任はあったのだ。

 ここから延長して考えるのであれば、今この日本に生きる我々は、

罪のあった日本人の子孫であり、

そしてその罪の上に裕福な生活を送っている罪深き存在と言えよう。

 

 

 一応。

この罪とやらが全世界平均的に罪であると

わしは全く思っていない事は断っておく。 

 

 

 罪を濯ぐために、日本人はその文化として「禊ぎ」を行ってきた。

則ち、「水に流す」事を是とする文化である。

人間関係において悪かった事を水に流し、

無かった事にするのが 道徳的とされる文化に我々は生きているのである。

狭い国土で友好的に暮らすための知恵だったのだろうが、

これでは弊害ももちろん出る。

水に流し忘れてしまうため、同じ過ちを繰り返してしまうのだ。  

 これと対照的にあるのは、「祀る」事で記憶を留める文化である。

元来、「祀る」という行為は罪深き、業深き者に対し行ってきた行事でもある。

力あるものが死後に悪影響を及ぼさぬよう、 則ち祟りを怖れ、

崇め奉る事でその念を諫める事を祈念したものである。

これはおそらく日本特有の文化なのだろうが、ここに歴史の英知がある。

 

祀る事でその者に纏わる史実を

記憶、記録するという効果もあるのだ。

 

祈念する事で記憶を呼び戻し、我がものとする効果もあるのだ。

これは即ち、過去の過ちを忘れず、二度と繰り返さぬと誓うことに他ならない。

幾多の観点から、かの戦争が過ちであった点は、それが全てでないにせよ少なからず在る。

戦争など、無いに越したことはないのである。

 

 以上の事から、わしは総理大臣の公式参拝を支持するのである。

しかしながら、 上記同様のの観点から行うという条件は付ける。

もし万が一、昨今の社会状況から鑑みたパフォーマンスであれば。

それは許されるものではない。

わしが許す許さないに関わらず、英霊達は怨霊と化すだろう。

護国の念で死をも厭わなかった英霊達である。

その念が怨念と化す時。

 正にこの国が滅ぶ時かも知れない。

 

 

 などと書いてはいたのだが。結果は、下記のごとくである。

滅びる日も、遠く無さそうだ。

 結局こういう結果になった。

無惨としか言い様がない。

父祖を祀るという正論を述べることもなく、

しかも例によって侵略戦争云々の反省書付きである。

これは結局あの戦争に至る経緯、そこで生じた事象、

そしてその結果に対する非が日本にのみあると認めたようなものである。  

 

 非は確かにある。

戦場における殺傷は当然あったことであるし、

末端の戦線における略奪など「戦争犯罪」が存在していたことも事実である。

戦争以前に国を併合されたという屈辱もあろう。

戦争が実力行使以外の何物でもない以上、

そこにはなんらかの犠牲を払う人々が出現するのは必然である。  

 

 しかしその否定的側面を持ってしても尚、

当時の大多数の日本人はそれを支えたのである。

その支持により、莫大な犠牲者を国内外に出す結果になったのである。

わしは東條英機すら犠牲者だと思う。

彼が戦争を押し進めたというのは明らかに誤りである。

世論として戦争を望む声があり、 ハル・ノートがあった。

断固として避けるべきではあったが、 その状況では避けられなかったのだ。

 

 

 東條英機も犠牲者であるというのはあくまで私見である事は明記しておく。  

 

 いわゆる戦犯に限らず、靖国に祀られ英霊となった人々に 大なり小なりの非があった事は、

疑うべくもない事実である。

他人を殺傷するという戦争行為に参加した人々であるのだから。  

 

 では。功はなかったのか。

わしにはあったとしか思えない。

彼らが在ってこそ、現代の日本の繁栄があるとしか思えない。

我々は彼ら英霊のみならず彼らが殺傷した累々たる屍の上に

三度三度の飯を喰らっているとわしは思うのだ。

縦に繋がる血や世間、国がある以上、父祖の非は わし自身の非でもあると思う。  

 

 非を非と認め、功を功と認めるのでなければ彼らの死は 犬死としか言い様のないものとなる。

それは戦争の犠牲者でなくとも、墓に入った祖父、先祖も同様である。

功も非も認めるために祀るという行為があるのではないのか。

そしてこれがこの日本における文化であり、美徳ではないのか。

これを否定することは則ち日本文化の否定であり、

日本に暮らしその文化の恵みを享受する自分自身の否定ではないのか。  

 

ならば、言葉も文化も国も捨て、どこへなりとも出て行け。

非国民どもめ。

 

 

 

 

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