Egoistについて

 

 

 ここを開設した当初、このHNの由来について簡単に述べた。

それは周知の通り、甲斐よしひろの曲にまつわるものであるが、 この場で詳しく書いてみたい。

何故、この曲に惹かれ、拘り、そのタイトルを名乗るのかを。

もちろん

メロディやアレンジ等音楽的技法も素晴らしいと思う事も

付記しておくが、

ここではその詩に拘って書きたい。

 まずはその詩である。

 

  星のない 闇夜 日の昇らぬ昼間

  空がおちてきそう 地面にしばられ

  俺は うちのめされ 悲鳴をあげる

  ねじ曲がった祈り 恋の火に焼かれ

  愛に救われたくて かなわず

  泳ごうとして  なお溺れてる

  よじれた運命 世界は今

  征服したい 征服したい すべてを

 

  銃を手にして 太陽の下で

  泣きじゃくる 子供達

  恐怖の顔が 通りをにげまどう

  地を走るフリーウェイが 脇腹にささる

  毒の雨が降る 激しく

  愛がさびていく 愛がさびていく

  よじれた運命 世界は今

  征服したい 征服したい おまえを

  

  悪魔の種をまきちらし

  火の花を君と育てる

  ハンマーのような風が 荒れ狂う

  真夜中の橋がふるえる

  夜に 夜に 夜に 夜に 夜に

 

 一見すると戦争紛争に対するアンチテーゼにも思える。

反戦的な意味合いを表現したかったのだろうと考えても間違いではあるまい。

ただ、単なる反戦ソングとは一線を画する

その一線とは何か。

本物の詩、なのである。

例えば、「ねじ曲がった祈り」というのは、本来「打ちのめされた俺」の祈りだろうが、

宗教や思想が戦争に大きく影響を与えている現実をも示しうる。

というのも、詩の形態としては、散文詩であり、

さらに倒置隠喩が多く用いられている。

この形態では段落や文章の繋がりを無視することもできる。

直接の繋がりを無視してしまえば。

離れた部分と繋いでしまえば。

また違う観点が現れてくる。  

 ノストラダムスの詩は1999年を過ぎて取り沙汰されなくなってしまったが、

彼の詩は倒置法を多く用いた散文詩であるために様々な解釈が可能となったものであり、

その解釈によっては予言的に未来を示すと取れなくもなかったからこそ、

「予言詩」としてもてはやされたのである。

その観点からすれば、この「Egoist」の詩は

いかなる解釈の仕方をも許容しうるものであり、

さらに予言的な内容でもありうるのだ。

 この曲の発表後半年を経た1991年初頭、何が起こったかを思い出されると良い。

湾岸戦争である。

イラクはイスラム国家であり、そのクウェート侵攻に際し

宗教的フレーズがどれほどあったか思い出されれば良い。

正に「ねじ曲がった祈り」により太陽の下で銃を取り、

子供達が泣きじゃくる状態が生まれたのである。  

 それだけではない。

銃を手にして、というフレーズを除いてみれば。

戦争とはまた異なる苦境が浮かび上がってくる。

自然災害も含めた、民衆の苦難や苦境をも詩として示し得ているのである。

 例えば、阪神大震災をも連想できはしないだろうか。

横倒しになった阪神高速の高架「真夜中の橋が 震える 夜に」

わしの中では重なってしまう。

ここにある災禍は戦争だけでは無いと思うのだ。

全ての災禍をも含むと思うのだ。

1990年当時、予測し得る災禍を言い当てていると言ってしまっても良いかもしれない。

 わしは決してオカルト的なものを認めるわけではない

詩にはそういう側面があると思うだけである。

そしてそのような側面を持つ詩こそが優れたものであると思うのだ。

それは見るもの、聴くものにより異なる解釈を生む事にはなるが、

それこそが詩の持つ深みであり、怖さであると思う。

 わし自身、この曲に拘りだして10年を過ぎたが、

未だに この曲の意味はこうだ、と詳細を言い切れないのである。

 こうやって書きながらでも、いろんな解釈が湧き出して来、

収拾がつかなくなってしまうのである。  

 

 

 

10年楽しめる詩である。

優れていない訳がない(独断爆)

 

 

 そんな詩の中で、甲斐よしひろは「征服したい」と唄う。

単純に捉えれば、幾多の苦難苦境がある世界を征服したい、と唄っているのである。

如何にも短絡的な思考であるといえばそれまでである。

ただし、その裏側に「征服したら問題を解決できる筈だ」

という自信確信と責任感がある事は明記しておくべきだろう。

そしてまた徹底的な征服の後に平和があるのは、

歴史的事実でもある。

この日本を見れば判るだろう。

徳川300年のミラクル・ピース然り、第二次世界大戦戦後50年然り。

いっそ征服してしまった方が平和になる、

という考え方それ自体は決して間違った事ではないのだ。  

かといって。それだけが正しいというものではない

むしろ狂気という方が近い考え方でもある。

これは最後のフレーズからも判る。  

  悪魔の種を まきちらし  

  火の花を 君と 育てる

誰が。征服者である「俺」が、である。

征服して平和になったところで、

「悪魔の種をまき散らし火の花を育てる」

事に過ぎないかもしれないと警鐘を鳴らしているのである。

征服という考え方は、繰り返すが間違った考え方ではない。

しかしながら、そこに一片の狂気もない、とは言えないものでもあるのだ。  

 

 ここで、呉智英氏の「はだしのゲン」愛蔵版の解説での言葉を参考にしたい。

呉氏は言う。 「人間を描けているものが名作なのだ」と。

  翻ってこの詩をもう一度読んでもらいたい。

人間が描けているか否かを考えながら。  

 わしは、描けていると断定できる

一個の人間として、自分の中にあるものを認める。

責任、慈愛、自信、過信、憤怒、そして、狂気。

かねがね言うことであるが、人間とは複雑且つ多面的な存在であると思う。

人間を社会的な側面から多面体として示したのは西部邁氏であるが、

常識的、倫理的な側面からも多面体で示しうる事は間違いなかろう。

 わしはわしの中に、一方で倫理的側面がありながら、

他方で非倫理的側面がある事を否定しない。

 

非倫理的側面が狂気と呼べるものである事をも

否定しない。

 

その狂気を飼い慣らし、なんとか社会的に生きている事を認める。

それは狂気と正気の鬩ぎ合いである事を認める。  

 先程、「収拾がつかなくなる」と書いた。

 この詩は、人間そのものを描いた詩だからこそ、

その理解に収拾がつかなくなるのだと思う。

人間というものは、それほど複雑なものなのだから。    

 

 更に言おう。

わしは狂気が自分の中で、何処にあるかも明記できる。

自分の極私的感情の中にある。

Egoismの中にある。

わしは人間であるために、自己のEgoismを認め、

ある部分で肯定し、また別の部分で否定したいのだ。

 

 

わしは人間でありたいのだ。

自覚的なEgoistでありたいのだ。

 

 逆に言えば。 無自覚なEgoistやEgoismの否定は、人間ではないと思う部分もある。

則ち、この曲に何故惹かれ、拘るのかというその理由は、

人間そのものを描いている詩だと思うからである。

自覚的なEgoistという人間を描いていると思うからである。  

 

 だから、わしはEgoistと名乗るのである。  

 

尤も、元々好きだった曲で人間を表す単語だったから

最初そう名乗ったに過ぎないのは事実である。

しかし何故この曲が好きで、何故名乗り続けるかと自答した結果が、

上記の如く、なのである。

 

 

 

 

 

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