戦
術って?
〜世界が指摘する岡田ジャパンの決定的戦術ミス より〜
常日頃からわしは「フットボール」と「サッカー」
端的に言えば「美」か「醜」の違いである。
「美しく無いものはフットボールではない」のだ。
さてその美しさがどこに生じるものか、と言えば、
これも明言してきたが「選手個々の連動性」である。
一番判りやすい例を挙げれば、
サイドバックが動いてからボランチやセンターバックが動くのでは
サイドバックと同時にボランチやセンターバックが動くのである。
こういった美しさは、ボカJ、イタリア、
この一見、僅かな違いに生じる美しさの差異は限りなく広い。
ここにおいて「フットボール」と「サッカー」
則ち11人が一つのチームとなり連動するものがフットボール足り
そうでないものはフットボールではないのだ。
従って本邦でいう処のサッカーはフットボールではないのだ。
烏合の衆と呼ぶに相応しく連動性を欠く11人で行うスポーツは。
皮肉か冗談か知らないが、本邦のエンブレムは烏である。
ある意味の言行一致かもしれない。
それはさておいて、本屋でこんな本を見つけた。
余談だが、こういう発見があるから本屋での散策は楽しいのだ。
「世界が指摘する岡田ジャパンの決定的戦術ミス」
在イタリアのスポーツジャーナリストである著者が、
優秀と目されるイタリア人指導者にニポーンの試合を見せ、
特に守備戦術について分析の上、改善すべき点を挙げてもらう、
一応断っておくが、
しかしこの著書に於ける著者の姿勢は、
ジャーナリストと呼んで差し支えないものと思われるのでこの場で
脱線はこのぐらいにしておいて、そしてその分析結果はというと。
正直な処、タイトルに偽り在りという結論である。
正しくわしが添削すればこうなる。
「イタリア人は見 た!岡田ニポーンには基本がない」
もしくは「メガネジャパーンの戦術ってプッ」で
ある。
「ミス」というものは、こなすべき役割、仕事、
この場合はフットボールなのであるから、
それが遂行されなかった場合に用いる言葉である。
従って、「こなすべきプレイ」が定まって無い以上、
それは「ミス」ではないのだ。
そもそも「こなすべきプレイ」が定まっているとは思えない、
そういう指摘の雨霰なのであり、
つまりはメガネ君には基本戦術の構築能力がない、
わしが常々言ってきた、「美しさの欠如」
連動という言葉とは懸け離れた実態がそこにある。
それは則ちわしが言う通り、
自己を正当化する作業に堕してしまうのを承知で言ってしまうが・
これまで何度も言ってきたことだが、
フットボールに於ける「プレイ」とは、
ボールに触れていない時の動きも当然含まれるのだ。
何度と無く出てきた「あり得ない」という言葉。
「ユースレベルで叩き込まれる」という言葉。
要するに「子供でも教えられている事をダイヒョーは知らない」
ただし、不本意ながらメガネ君の擁護になってしまうのだが、
残念ながら本邦に於いて、こういったことを知らないのは
ダイヒョーだけでは当然なく、おそらくは大多数の指導者、
当然の事を誰も知らないから指摘もできず、
結果基本を知らないダイヒョー監督が生まれるという恐るべき事態
この点に於いてのみ、メガネ君には同情する。
誰も教えてくれなかったんだね、と。
・・・・
この本を見つけた時、購入を迷った事は告白しておく。
わしは素人として、
そう思ったからだ。
あまりにも具体的な理論を基に批判するのはどうかなあ、
まあこれまで大概酷い言い方をしてきたのだが、
自分としては相当我慢して言葉を選んできたつもりである。
ましてこれを基にサイトに記述するつもりなど毛頭なかった。
だが購入して正解だったし、わしが「感じてきた」
それに加え、これを紹介するのは、
「ユースレベルで叩き込まれる」
イタリアでは子供でも知っていることを、
ニポーンではダイヒョー監督が知らない、という事実である。
プレイしたことがない者が読んだとしても、
この内容は理解可能な筈である。
フットボールを知る手がかりとしては最適なものだ。
指導者やプレイヤーであれば、ではどう教え、どう身につけ、
そこまで知る必要があるが、
観る者からすれば、この内容を理解しておけば良いのだ。
少なくとも現時点に於いては。
当たり前のことが当たり前になされるまでは。
つまりわしは、
逆に言えば、この本、この本自体でなくとも、
ニポーンではサッカーしてます♪のまま、という事だ。
とりあえず、君は読みなさい>メガネ君