以下の文章をここに掲載する事については少々ためらいがある。

楽しめる文章ではない事が判りきっているからである。

わしはこのHPを自分が楽しむために作った。

他人が楽しんでくれるのはあくまでもついでである。

楽しんでくれるのに越したことはないが。

 

しかし、こういう意思、思考を明確に表すことも必要だとも思う。

もしかしたら誰かの参考になるかもしれない。

リンクを貼ること、転載することで無意味な論争を避けることができるかもしれない。

もう一度お断りしておく。楽しめる文章ではない。

わし自身、楽しんではいない。

以下の論証は、

批判のつもりで自分の醜さを垂れ流す輩を叩き潰す為のものである。

 

 

 

 

人間のみならず動物というものは、自分の意思を伝えようとするものである。

その意思が本能か感情かはその生物学的条件により異なるが、

全ての動物に於いて意思を伝えようとする行動をとる。

犬は尻尾を振り、

蛇は鎌首を持ち上げる。

昆虫である蜂でさえダンスと呼ばれる手段を持つ。

これら意思疎通を図る能動的な手段を総じて表現と呼ぶ。

人間の場合はそのような意思疎通方法の種類は

身振り手振り言葉表情など様々であり、

尚かつその内容もより高度である。

言葉一つをとってみても、それを修飾するものは数限りない。

声の大きさ、語尾の上げ下げ、イントネーション・・・

あらゆる方法を駆使し、人間は意思の疎通を図っているのである。

 

しかしながら逆に、表現方法を限定する事もある。

それは文章であったり絵画であったり建造物であったり、楽曲であったりする。

端的に言えば表現の手段を限定する事で内容に深みを持たせ、

そこにある意思を強調したいがための表現方法である。

それは多くの場合個人または少数の表現者対多数といった形をとる。

こういった表現活動は、一般的には芸術とも呼ばれる。

 

その反面、表現手段を限定し、さらには抽象化する事も しばしば行われるために、

表現を受ける側としては理解できない事が多いのもまた事実である。

例えばピカソの絵画では、

ある人が見れば心を揺さぶられ、

数秒間息を止めてしまう程の衝撃を得るものであるが、

またある人が見ればそれは三角四角の落書きでしかない。

いくら「ゲルニカ」が戦争の惨禍を描き、

反戦を主張した絵画であると ピカソ本人が言ったところで、

観る人に依ればそれはただのモノクロの漫画である。

 

お断りしておくが。

ここで言う理解はこれこれこのように感じたと

論理的に思考しまた記述できる事などではない。

 

極論すれば、論理など必要ないのである。

 

 

何故ならば表現方法の限定、抽象化という作業に加え、

表現者自身論理に依らない事、

則ち直感的に自己の精神世界を示そうとする事もある為、

結果としてその表現自体には論理以外のものが多く含まれる事になる。

それは則ち表現者の精神世界であったり、感情や感性である。

受ける側はそのようなものを受け、

言葉にならずとも、 またその理由が解らずとも涙を流す事すらあろう。

それは何某かのものが心を揺さぶった結果であり、

そこに精神活動における意思疎通は成立しているのである。

 

 

ここに於いて精神活動における表現者と受ける側の関係は変化する。

少数対一、一対一の関係に変化するのである。

「表現者 対 表現を受ける者一人」の関係が成立するのである。

それは感情的、感性的であるが故、論理的には脆い関係に過ぎないが、

精神的には非常に強固な関係となりうる。

 

 

ただし一点、ここで問題が生じる。

通常の社会的人間関係ではなく、物理的精神的な一対一ではない時。

精神的な一対一しか成り立たない時。

この関係の成立は表現を受ける側に依る事になる。

表現者からのアプローチはその表現方法しかなく、最低限に絞り込まれた手段である。

また、表現を提示するにあたりプロモーションなりビジネスなりが発生するが、

これらはあくまで付与的なものであり、その表現そのものではあり得ない。

せいぜいがその表現を理解するためのヒント、氷山の一角である。

これらプレゼンテーションを

どう受け取るか、

どう咀嚼するか、

どう取り込むか、

は受ける側次第、なのである。

 

 

そしてまたここから問題が生じる。

理解できた、感性が通じ合った、感動した、そのようなものが得られれば良い。

しかしそうでない場合。

理解できない、感性に合わない、感動できない、といった場合。

理解できないものはしょうがない、でその関係に終止符を打てる人は良い。

また、理解できなくとも何某かの価値を認め、

それを得るためにそのまま関係を維持する事もあるだろう。

通常の社会的人間関係に於いては、これが一般と言って良い。

一般的な論理、理性、感性、感情とはこのようなものである。

 

 

一般的な行動が取れない輩は、ここにおいて己を破綻させる行動に出る。

言うなれば無責任な感情、しかも醜く屈折した怨恨をさらけ出す。

このような輩がどれほど醜いか。

 

 

まず精神的に一対一の関係を自覚しているかどうか、から話を初めなければなるまい。

一人の人間と接して、その表現が解らないとしよう。

いきなり他のどこか別の場所で悪し様に評する事が普通と言えるだろうか。

表現者と人間としての関係があるのであれば、

その様な行動は愚行蛮行と呼ぶべきものである。

一般社会に於いて、そのような人間は軽蔑されて然るべきではないのか。

則ち表現者との人間関係を否定するものと断ずる事ができる。

わしであれば、そのような輩は軽蔑する。侮蔑する。

明言するが、

 

人として扱う気にもならない。

 

人を人として扱ってない輩を、何故に人として扱わねばならないのだ。

 

 

そしてまた、理解しようとしても理解できない人も多いだろう。

わし自身、正確に理解した等とは露ほども思っていない

わしなりに理解しただけと信じているに過ぎない事は先にも述べた。

完全な理解など、如何なる人間関係に於いてもあり得ないのだ。

できる事であればより深く理解したいとは思う。

しかし理解する為、感動するの為に説明しろ等とは微塵も思わない。

その説明の一端でもあれば確かに有り難い事ではある。

また他者に理解の為の援助、助言を頼むというものであればまだ理解はできよう。

その点は明確に認めよう。

 

しかし表現者に対し、その表現方法以外での説明を求める事は、

その表現方法自体を否定、拒否する事と同義である。

敢えて表現方法を限定し、それを生業とする者に向かい

それ以外の表現方法を取れという行動は

画家に筆を折れ、役者に躰を動かすな、

そう言っているに等しい。

 

 

即ちそれは表現者に対する侮辱である。

そのような物言いが許されるべきものか否か。

考えるまでも無かろう。

 

しかもそれを表現者個人ではなく、それ以外の誰かに言う事が、

如何に卑劣、愚劣な事か。

 

まして表現に付随する言質に対し異様に拘り批判する事など論外である。

表現に付随する一義にのみ拘り表現自体を論じない、

また体感しようとしない事は、

 

自己の感性、精神の否定である。

 

表現者ばかりか、

己をもを人として扱っていない証左である。

 

 

天に向かって唾を吐く、という言葉がある。

己の立場もわきまえずにいると災難が己の身に降りかかる、という諺である。

わしは件の輩にこの言葉を捧げたい。

表現というものを理解せず、

人間関係も解せず、

人を人とも思わない言動を吐き、

卑劣、愚劣、卑怯な愚行蛮行を

無責任に人前にさらけ出す輩に。

 

それが上を向いて吐瀉するに等しい行為だと微塵も思わない輩に。

自己否定そのものであると露ほどにも想像できない輩に。

 

 

己自身の吐瀉を浴びる趣味は存分にされるが良い。

 

 

しかし、人目につかない処でされるのを勧める。

人目につけば、元々正常な人間関係を築けないものが、

更に築けなくなるであろう事は必至である。

 

 

品性の欠如と下劣さ

はその文章だけで十二分に伝わってくるのだから。

 

 

批判をするのは勝手である。

洞察、推察、論理的思考、倫理、そんなものがある批判であれば。

しかしそれほどの理性があれば、

己の批判が無意味かつ愚かな感情論と理解されよう。

しがみつかず離れれば良いだけの事なのだ。

ただし論理的な批判をも抹殺するというものではない。

批判が論理に則ったものであれば、こちらも論理倫理ともに則って 読む事もでき、

また反論なり意見なりを述べることができるだろう。

あくまで百歩譲って、だが。

 

 

また、理解したいのにできない事もあるだろう。

それは先にも書いたが、

素直に理解できない自分を認めた上で、 助言なり思考方法なりを求めるべきである。

理解したいのであれば。

理解したくないのなら、

 

 

無駄な努力は辞める事だ。

無駄な時間、無駄な金、

無駄な労力、無駄な自傷行為は慎む事だ。

 

 

 

人は理解するために表現の中に隠されたものを探る。

そこでは洞察、推察、論理的思考、倫理が駆使される。

しかしそのような努力を怠った場合。

洞察推察は空想に堕す。

推理のない空想はいわば幻覚である。

批判は悪口に堕す。

論理のない悪口を罵詈雑言と呼ぶ。

幻覚に則り罵詈雑言を垂れ流すものを、一般的にどう呼ぶか。

 

 

き○がい   である。