愛のろくでなし TOUR OSAKA 2011.7.31
大阪二回あって良かった(^o^v
いやマジな話。
今回は「ステージ」を堪能できた。
やはり照明が凄い。
いつもながらではあるが、ステージ上に微塵の隙もない。
漂泊者の淫靡かつ退廃的な雰囲気にも、暗転に近い嵐の季節にも。どこにも隙間は認められない。
メンバーも同じである。昨年の半分のメンバーしかいないのに、それでも隙間は感じられない。
感じさせない、の方が正しいか。ギター二枚は適宜中央に寄ったり前に出たりし、ステージを生き物に変えてゆく。
渡辺等は激しい動きをするでもなく、丁寧に、かつインパクトのあるベース音を敷いてゆく。
佐藤強一も丁寧に強弱を付ける。激しいのに、丁寧。全く五月蠅いと感じない。
「このバンド」と甲斐よしひろは言った。
ドラムの佐藤強一、ベースの渡辺等は長年スタジオで一緒だった、それは事実である。
しかしそれだけで「バンド」足り得るとはわしには思えない。極私論的に定義付けるが、バンドには一塊となったグルーヴが存在していなければならない。
それが甲斐バンドではうねりを持ったグルーヴであるのに対し、このバンドでは縦波なグルーヴになっていた、それが前回の結論であった。
ジョルトをボディに突き立てるようなグルーヴを持つことができたからこそ、「バンドである」と明言できたのだろう。
まさしく、有機的なバンドとしてのステージがそこにあった。
この日のライヴを観て、もう一つ気づいたことがある。
上にも繰り返したが、メンバーそれぞれ、勿論甲斐よしひろさえも、丁寧だったということだ。
アルバムとは違うメロディで唄ったジャンキーズも、細かく変わってゆく翼や港も、オーラスの光も、全て丁寧に唄おうとしているように見えた。
黒い夏では発狂したようなリフを奏でる1ROだが、それすらも丁寧に発狂しているように思える。
佐藤強一も一つ一つ慎重に強さを定めて叩く。
渡辺等のベースもまた、跳ねないように抑えつつゴツンとインパクトを混ぜてくる。
そしてその中心には佐藤英二がいたように見える。ドラムと並ぶわしの角度からはそう見えた。
W佐藤のインパクトのせいかもしれないし、ジャンキーズでボトルを取る時の動作が痺れるほど格好良かったからかもしれない。
元々丁寧に弾く印象の強い佐藤英二であるが、このツアーではリフもソロも、一音一音、より丁寧に弾いていたように思う。
しかしW佐藤の相性はなんじゃこりゃである。
十年ぐらい一緒にやってましたかな雰囲気である。ビジュアル的に重なっていただけでは勿論無く、とにかく音の重なり方が絶妙だった。
左端でもむしろよかったとすら思う。
それはともかくだが、「丁寧な」演奏とこのグルーヴは表裏一体であろうと思われる。
この辺は全くの私見であり根拠は皆無な話になるが、例えてみれば急所をピンポイントで狙うボクサーのように思える。
つまり、K.O.するためには強く正確に急所を打ち抜かなければならない。
この場合の「正確に打ち抜く」は「丁寧に弾く」と同義ではないのか。
従って、丁寧な演奏でグルーヴを打ち抜く、これがこのバンドのコンセプトなのではあるまいか。
わしの場合は脊髄を打ち抜かれたように感じたが、他の人はどう感じたのだろうか。またご意見などいただければ幸いである。