requiem

 

 大森さんが、逝った。

報を受けた直後は様々な想いが頭の中を駆け巡り、

できる事といえば偲び、泣く事でしかなかった。

繰り返すが私は職業柄、人の死に冷静且つ冷淡でいなければならない。

以てしても、動揺を隠すこともできなければ涙を堪えることもできなかった。

私の想いが届く筈もなく、願いもまた永遠に届かなくなったのだから。

誠に身勝手な話ではあるが、私の願いが届かないという厳然たる事実に際し、

やるせない想いがどうしても払拭できなかったのだ。

そんな想いも含め、長々と連ねてみたい。

唄を書けない私なりの、鎮魂歌である。

 

 私が初めて甲斐バンドに惹かれたのは、小学生の頃だった。

ベスト盤を銘打ったテープ〜東芝EMI独自の編集でアルバムではない〜を、

姉に釣られて父に買わせたのだが、購入から一年近く経った夏休み、

ふとテープの存在を思い出してデッキに挿入してみた。

引き寄せられるように、「氷のくちびる」に魅入られていた。

それは小学生であった私には十分に刺激的であったセクシュアルな歌詩のせいでもあり、

いまだ私を引きつけて止まない甲斐よしひろの声のせいでもあっただろう。

そして、大森さん独特の泣きの効いたチョーキングのせいでもあった。

当然ながらその当時チョーキングという言葉など知る由もなかったが。

下手な口笛でギターのフレーズを真似ながらラジオ体操から帰った記憶がある。

夏を過ぎて熱も冷めたのだろう、ここから数年甲斐バンドに対し深い興味は持たなかった。

再度引きつけられ、そして離れられなくなったのは、正確には憶えていないが、

中学二年になるかならないかの時季だった。

烏滸がましさを承知で人生という言葉を使うが、私の人生の中で最悪の時期は、と問われれば

迷わず中一の秋からの半年と答えるその時期、人を信じることを投げ捨て、

むしろ人は全て忌み憎むべきものとすら考えていた時期を経て、

また人を信じてもいいと、やっと思えるようになった時期、だった。

件のテープを久しぶりにデッキに挿入れてみた私は、

音という手に胸倉を掴まれ、引き擦り立たされたような感覚を覚えていた。

私を立ち上がらせる何かが、そこにはあった。

のめり込む、という表現をここでこそ使うべきだろう。

声と音に魅入られた私は兎に角甲斐バンドの音を求めた。

求めようにも金のない私にアルバムを逐一買う余裕はなく、

先輩からレコードを借りてテープに落としたのだが、

その先輩は明らかに迷惑がっていた。

毎週のようにあれを貸せこれを貸せとせがむのだ。

いくら人が好くても、だったろう。

そうやって金を遣わずにおいて、「流民の歌」のテープを買った。

「100万$ナイト」の甲斐さんのシャウトと大森さんのギターに、痺れた。

言葉もないのに、何故か感動している私がいた。

孤独と絶望を子供ながらに体験していた私にとって、

あの長い後奏の嗄れ声とむせぶギターは私自身の叫びだった。

そう想い込ませる何かがあった。

 

 「Love minus Zero」の発表を経て、そうした私の想い込みは更に加熱していった。

バンドが解散しても、涙するほどの感傷は感じなかった。

「バンドは解散しても唄は残る」そう言い切った甲斐さんの言葉に盲従していたのかもしれない。

まして当時の私はライヴ未経験であり、甲斐バンド=音と映像≠生身の人間だったのだから、

音と映像が在る限り甲斐バンドが解散したにせよ消滅したものではなかったのだ。

バンドが解散しても尚、私は甲斐バンドのアルバムを聴き、

曲それぞれ、アルバムそれぞれに込められたものを解釈しようとしていた。

もちろんソロとしての甲斐よしひろ、そしてKAI FIVEも聴き続け、

甲斐バンド同様にのめり込んだままだったのは言うまでもないが。

 

 そしてバンド解散から10年を経て、再結成の報が届いた。

日程的に大阪に行けなかった私は、東京と博多のライヴに行った。

この時までに、ソロにおいての一郎さん、「Singer」での松藤さんは観ていた。

残る一人が、大森さんだった。

これで初めて大森さんを観ることができる、

「バンド」を観る事ができるのだ、そんな期待を持った。

私の想像力が如何に欠如しているかを思い知らされた。

期待を遙かに越えるものをライヴで感じさせられたのだから。

解散前のような動きがあるわけではなかった。

バンドの息吹、とでも言えばよいのだろうか。

どこか深い処で同一となった者達の息遣い、とでも言えば適当だろうか。

バンドという一個体の体温、では解り辛かろうか。

そのようなものを私は感じ、解散前のライヴを知らない自分を、

初めてのように後悔した。

この塊が更に熱を発し、疾走していたのだとすると、

それは如何ばかりのものであったのだろうか、想像することすらできなかった。

その後「飛天」で観た大森さん。

「きんぽうげ」のイントロで袖から歩み出てきた瞬間、私は叫び声を挙げた。

体調不良を伝えられており、本当に出演できるのかどうかとすら伝えられていたのだ。

あのチョーキングを体感できるかどうか不安を感じていた私にとって、

BIG NIGHTと同じような黒い服、帽子にサングラスという出で立ちで現れた大森さんの姿は

叫びという表現方法でしか表しようがなかった。

ギターを泣かせるといっても憂歌団の内田勘太郎ほどに技巧が優れているわけではない。

かといって田中一郎や蘭丸のような強烈且つ独特な個性を放つ音でもない。

この日は正しく「静」といった感じで、ほとんど動きを見せなかった。

そのステージに在って当然という飄々とした雰囲気と音で、

それでもいなければ成り立たない、そんな感覚だったろうか。

要所要所で一歩前に出て、ギターを泣かせる大森さんを観て。

私は、誠に遅ればせながら、であるが、この日初めて大森さんのギターと

甲斐よしひろの声、そして甲斐バンドとの相性を実感、体感した。

練り込まれ、錬り上げられた形をした音だった。

 

 21世紀に入り、甲斐バンドは更に動いた。

オリジナルアルバムの発表である。

アルバム「夏の轍」の中でも。

私は「Stars」に衝撃を受けていた。

俗に「後頭部を殴られたような」などと表現するが、正にそれだった。

泥沼の底から這い上がろうとする歌詩、

切なく雄々しい甲斐よしひろの声、

大森信和のギター、フレーズ。

甲斐バンドの、現在。

それら数多の集合体としての、唄だった。

この曲をライヴで観たい。

そう、想い、願った。

夏にはBeatnik Tour 2001が行われた。

この時も大森さんの体調により、ステージに上がっても途中出場、

場合によっては欠席ということすらあった。

私は幸いにして広島、大阪で大森さんの音に触れることができた。

しかし、「Stars」は聴くことができなかった。

東京では演奏されたらしいが、それはフルメンバーでのものではなかった。

次の「甲斐バンド」のツアーでは、是非。そう願っていた。

 

 が。

大阪グランキューブでのライヴが、私が大森さんの音に触れた最期となった。

七月五日。訃報が、届いた。

 

 私の涙は甘えでしかない。

解っていながらも止まるものではなかった。

私が願うステージは、演奏は、もう、あり得ない。

暗闇の中、スポットで浮かび上がった大森さんがギターを泣かせることはない。

あの優しく暖かく、切ない音は、もう、ステージの上にない。

もう、感じることも触れることもできない。

そんな想いは私自身の身勝手な感情である。

それは解っている。

しかしそんな身勝手な感情であるからこそ御し難いものだとも解っていた。

映像を観、音を聴きながら涙が流れるに任せるしかなかった。

眠れずに夜を明かし、翌日も酒を浴びつつくだを巻き、初めて平静になれた。

 

 私がここに至るまで、さしての人生ではないにしろ、幾多の人々に、そして音楽に支えてもらってきた。

大森さんも甲斐バンドのメンバーも、そんなことは知ったことでは無かろうが、

私の中の事実として、私が依って立つ中に、甲斐バンドが、甲斐バンドの音があるのだ。

その中には、大森信和の奏でるギターがあるのだ。

ただし大森さんがいなくなったからといって

私が立ち上がれなくなるわけでも、歩みを止めるわけでもない。

それ程に弱くは無くなっている。

おかげさまで、という表現は不適当だろうが。

それに。

私の中の大森信和は、私が在る限り、在る。

私の好きなフレーズは私の中だけではなく、音源として在る。

ただ残念なのは、そのフレーズに未来がないことであり、

それだけを、私は哀しんでいたのだ。

しかし、届かぬ想い、願いを哀しむ時期は、もう、私を過ぎた。

祈りも、ない。

冥福など祈るまでもないとすら思えてしまうからだ。

Heavenだろうが極楽浄土だろうが解脱だろうが、

然るべき処に向かっておられることだろう。

あとはただ、一言だけしかない。

 

 有り難うございました。そして、おやすみなさい、大森さん。

 

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