My name is KAI

at IMP HALL in OSAKA 2000.7.15

 まずは通法に従い、曲順から。

1.ブライトン・ロック

2.三つ数えろ

3.港からやって来た女

4.観覧車’82

5.東京の一夜

6.噂

7.薔薇色の人生

8.裏切りの街角〜安奈

9.Against the Wind

10.甘いKissをしようぜ

11.冷血(Cold Blood)

12.嵐の季節

13.風の中の火のように

14.漂泊者(アウトロー)

15.翼あるもの

16.Blue Letter

17.熱狂(ステージ)

18.最後の夜汽車

19.CRY

 Egoistの分類はもう飽きたのでやめ(笑)。

まずは曲に沿って。感じたままを。

 

ブライトン・ロック

 わしの予想は外れた。まあ奇をてらった予想ではあるので当然といえば当然。

甲斐さんのギターは意外な程(失礼!!)に上手い。

大阪の客をヒートアップ させるのに十分。照明はシンプルそのもの。

三つ数えろ

 歌い始めるまで何の曲か判らないのが良い。

アフターにてしげの言葉だ。 確かにその通り。

元々リアレンジの能力では定評のあるアーティストだ。

ギリギリまで飾りをそぎ落としたアレンジ。原石とでも言うべきか。

そう言う切り口としては最たるものだった。

港からやって来た女

 これは演って然るべき。何故なら、

1.コード進行は簡単で、2.起伏があって、 3.応用を効かせ易い、等という、

ギター一本という形式では実に「オイシイ」 曲なのだから。

しかし、それだけで済ませないのが甲斐よしひろ。

いつもの 掛け合いまでキッチリ決める念の入れよう。

かなり高密度に仕上げられた曲だった。

間奏のハーブはスプリングスティーン「The River」風。

観覧車’82

 ふと疑問。観覧車「’82」としたが、

この曲はヴァージョンを変える毎に 年を変えて表記されている。

ならば「’2000」とでもするべきなのか。

でもそうすると某バンドのタップ・ソロが5分続く曲を連想するのでこうしておく(爆)。

原曲のリズム感を損なうことなく唄い上げ、

弦が切れても動じることなく ギターを取り替える様は本当に恰好良かった。

「威風堂々」と「切なさ」の両面を同時に魅せる妙。

シンプルな照明は雨上がりのイメージ。

東京の一夜

 数少ない博多を書いた曲を。始めて直ぐのブレイク。

「汗で滑った」 ほんま甲斐な(笑)。

冗談めかしても曲に入ると表情が変わる。

こういうメリハリ、いいね。 愛するものとの距離。

昔サンストでその微妙さ加減について喋っていたのを 思い出す。

適度じゃないと、ね。

「ウンザリ・モード」。そりゃそうじゃろ。

TVの甲斐さんはこじんまりとして好きじゃない。

それはそれで嬉しいけどさ。 ただ、「生の迫力」を伝える力はTVにはないよね。

TVに在るのは、断片を見せる事のみ。 その意味で、この曲はこの夜のキーかもしれない。

薔薇色の人生

 松藤さん登場。やはり、いい。

語弊を恐れず言えば、甲斐よしひろという 素材を活かすためのコーラスは、彼をおいて他にない。

オリジナルに近い形で演奏された。

裏切りの街角〜安奈

 「かりそめ」が季節はずれなら、「安奈」もじゃん。

そんな揚げ足取りをしたくなるほど見事な構成。

ずるいよなあ、こんな展開。

この2曲をメドレーで演奏することにより、それぞれに物語的な繋がりを 持たせ、

季節のズレを解消し、且つそれぞれの深みを増す。

上手いね、ほんと。

Against the Wind

 この曲を生で聴くのは二度目だが、前よりも、沁みた。

汗に紛れて涙が零れていった。

甘いKissをしようぜ

 DLした着メロと全然違う!!! いいじゃん、これ。

甘いも辛いキスを想い出す。

そんなことはここでないと、言えない(爆)。

冷血

 個人的感情だけで言えば、わしはこれだけで満足です。はい。

思い出せば「Singer」のリクエスト葉書にわしは、

”Egoist、呪縛の夜、冷血、この三曲を生ギター一本で演って欲しい”と書いた。

マジな話。

この三曲、ギター一本で演るには相当な力量が要る筈。

そして甲斐よしひろならばその力はある筈。

そんな思いを乗せてしたためた葉書でした。

しかも予想を軽く凌駕する力量を見せつけてくれた甲斐よしひろに、 驚嘆と感動の拍手と涙。

嵐の季節

 この辺りはほとんど喋ることなく。

「座るなら今のうち」と言った言葉に偽りなく。

もう一度個人的感情を吐露すれば、わしに対する最高のエールじゃった。

こんなんゆうたら怒られるかもしれんけどね。

わしも、現在を耐えよう。いつかは。そんな気になった。

風の中の火のように

 完全に頭に血が上ったみたいね。 叫んだ事しか記憶ねえや(笑)。

漂泊者

 これまでにない漂泊者。こう来るかあっ!?

ギター一本なのに、すごいね、この表現力。

頭の中で、大森さんが喋っていた。

デモ、こんな感じじゃったんかなあ。

しかもこれを「聴かせる」とは・・・・・

翼あるもの

「Story of us」とはまた違ったヴァージョン。

拍手するのも忘れて、拳握り締めてました。

まだ小指の付け根、痛い。

Blue Letter

 ここから、アンコール。松藤さんと一緒。

詩が、躰に滲み込んでくるような錯覚。

失ったものへの愛憎と現在ここにある、もの。

すうっと甲斐さんの声が遠くなった。

しかし、躰の中で、反響していた。

熱狂

 本当に素敵なショーだった。 また、甲斐さんの声を聴きたい。

甲斐さんのショーを観たい。

甲斐さんとともに在りたい。

最後の夜汽車

 マウス・ハーブが切なく泣いた。

何時か感じた無力感を思い出す。

ステージから目を離し。横を見た。

無力では無い事を証明してくれる人が、在た。

CRY

 ギターをかき鳴らす甲斐さん。

こ、このコード進行は・・・・・・・・・・・・・・・

「私は何の曲か判らなかったけど、フリーズしたの、判ったよ」と証人。

出だし、「だそ」の二文字でわしの涙腺は崩壊しました。

ギター一本だからこそ増すこの切なさ。

「何するんよ・・・・」と嘆きたいぐらい。

躰を締め付けるような甲斐よしひろの声。

曲が終わり、甲斐さんが去るまで動けなかった。

ふと左肘に当たった暖かい腕。 切なさの呪縛から解放された。

拍手。声は出なかった。

 やられっぱなしで悔しいので、言っておこう。

どうじゃ。やっぱり演ったどぉっっっ!!!

                ・・・・・オープニングじゃないけどさ(笑)。

 

 判っとるとは思うけど、まだ終わらんよ(爆)。

 さて。例によって分析作業に移りましょう。

いつものように、「甲斐は何を言いたかったのか」ということについて、 わしなりに考察してみる。

まずはそのヒントとして、このライヴで明確な事、気づいた事、 引っかかった事を列挙してみる。

1.楽器はギターとハーブ。

2.他ミュージシャンは松藤のみ。

3.照明は全ての曲においてシンプル。

4.MCが長い。

5.MCは笑わせ系がメイン。

6.MCでの一言。「エンターテインメントである」事。

7.アンコール前のスパートは通常のライヴと同様のメニュー。

 とりあえず、このぐらいにしておこう。

 1〜3は要するに、ステージ構成の事である。

「必要」最小限。 全てにおいて、簡素、シンプル、そんな言葉を連想させる。

飾りを一切取り払った構成。 虚飾、無駄とまでは言わないにしろ。

ただ、椅子とマイクスタンドのみのステージ。 楽器も照明も至ってシンプル。

甲斐よしひろの周囲には、派手なモノは何もない。

これだけを読めば、なんと地味なステージだったんだろうかと思われるかも知れない。

ではあのライヴを観た人の感想はどうだろう?

果たして「地味だった」等と思ったろうか?

人も物も明かりも寂しい、場末のフォーク・コンサートのようだと思ったろうか?

否。断じて否の筈だ。

「飛天」に比べておとなしい、いつもより静か、そんな感想を誰が抱いただろう?

「地味」だとか、「簡素」だとか、そんなある種ネガティヴな言葉は合致しない筈だ。

いつもの様に、否、むしろいつも以上の熱気を感じるロック・コンサートだった筈だ。

7.で指摘した通り、前回の「飛天」に遜色ないラインナップを魅せた筈だ。

1〜3.と7.が如何に矛盾している事か、解っていただけるだろうか。

そしてその矛盾を誰が感じ得たのだろうか。

それこそが。このツアーの本質なのであろう。  

 次に、MCに関する4,5.について。 わしにはどうしてもMCでの一言が引っかかってしまったのだ。

「俺が始めたんだ(笑)」との一言が。

あの長過ぎるMCに、一つの意味を見る。

あれは、「冷ます」為でもあったのではないか、と。

”ふうっ”と客も一息吐く瞬間。何かしら心地よい空気を味わった様に思う。

暖めたり冷やしたりしながら、終盤のスパートをかけたい。

そんな願望があったのではないか。 そう考えると。

松藤が入ってからの曲が、もちろんフィンガーまたはアルペジオの曲なのだから 当然かも知れないが、

静かなおとなし目の曲ばかりであったことにも合点が行く。

火を着けて、熾き火にして、最後は盛大に。

そんな展開を望んでいたのかも知れない。

だからこそ、笑いを生むような喋り〜ニッポン カトチャは滑ったが(笑)〜を、

敢えてしたのではないか。 甲斐よしひろ自身の望むステージを形作りたかったのではないか。

 MCに関しては、それだけではない。

一郎をネタにし、さんざん笑った後で「Against the Wind」である。

並みの歌い手なら、真面目な顔をして「昨今の大人」について 一席ぶって始める所だろう。

並みの歌い手ならば。 しかし「一郎一人っ子」ネタである。

それでも尚且つ。

この曲の時、その笑いを引きずっていた者は。在ない筈だ。

あの時の空気。甲斐よしひろに引き込まれるような錯覚。

唄うのも喋るのも同一人物でありながら、全く別の空気を感じている観客。

ここにもまた、矛盾がある。

 更に、6.。「エンターテインメント」。これがキーワードだと確信する。

「実験的」等との冠は付いていない。

「エンターテインメント」そのものだと言い切ったのである。

エンターテインメントというと、派手派手しく仰々しいイメージを与えてしまうのは 必然とも言えよう。

しかしこの形では、そのようなイメージとは全く異なるものに思える。

最初に指摘した矛盾はここにおいて強調される。

 それでも、「これはエンターテインメント足り得ない」と感じた者が在るか否か。

何故だか、ほとんどの観客は納得尽くだったのではないだろうか。

エンターテインメント然とした「飛天」よりもむしろ・・・。

むしろ、楽しかった、感動した、エンターテインメントだった。

そう感じた人は少なくないと思う。

 何故。

シンプルな構成の唄。

笑いをメインにした語り。

そんな中でロックを感じる観客。

そんなものが共存し得たのか。

いくつもの矛盾を矛盾と感じることがなかったのか。

 これを解き明かす唄が、在る。 ここで唄われている。

わしはそれこそ、「噂」だと確信する。

TVの断片的な見せ方を拒否する発言、行動。 そして甲斐よしひろ自身。

人はその人間なりに連続的な存在である。

その中にいろんな角度の視点があり、側面がある。

そうやって自身の中に、いくつもの矛盾を抱えている存在である。

その連続的な存在である「エンターテイナーとしての甲斐よしひろという人間」 を

魅せるのがこのツアーの目的であったのではないだろうか。  

 エンターテイナーだからこそ構成に関わらずロックを魅せることができ。

 エンターテイナーだからこそステージの流れに留意し。

 エンターテイナーであろうとも笑い話を語る事はあり。

 そして。

 エンターテイナーであるからこそ唄うだけで空気を全て変えることができる。

 このツアーの名称は、”My Name is KAI”である。

ここに、もう一文付け足したものが、本意なのであろうと思う。

簡単な英語だ。

 ”I am a Entertainer”

これだけだ。

生身の、一個の。エンターテイナーなのだ。 こう言いたかったのではないだろうか。  

 こう考えると、最大の矛盾も氷塊する。

「たった一人の甲斐よしひろ」というお題目だ。

「松藤がおるがな」

そう突っ込むのは当然の事。

しかし、エンターテイナーは甲斐なのだ、そう考えると矛盾は無くなる。

エンターテイナーとしての甲斐を支えるもの。

エンターテイナーとしての甲斐よしひろを引き立てるもの。

そういう存在の一人として、松藤がここに在たのだ。

乱暴な言い方をすれば、それが松藤でなく。

鎌田ジョージであっても、荻原メッケンであっても意味的には同じ事だ。

「飛天」の時のように、松藤の存在が多様な意味を持つことは、

少なくとも今回に限って言えば無かったのだ。

ただ、「甲斐よしひろを活かす」という意味において松藤が 最高だったというに過ぎない。

いくら最高級の米でも、炊く水が水道水では美味しくないのと同じ事だ。

最高級の米である甲斐を炊くにつけ最高の水が松藤という湧水だったという事だ。

 蛇足ながら、「飛天」とも対比させてみよう。

やはり今回のツアーでも「25年」を口にした以上、 共通する何かがあったと考えるべきだと思うのだ。

 前回のレポートでも書いたが。「飛天」は。

大雑把に言えば「エンターテインメントの手段の集大成」であったのではないだろうか。

ならば今回は。 「エンターテイナーの在り様そのもの」と言ってしまってもいいのではないだろうか。

 更に蛇足を。 「この夜にさよなら」と「熱狂」をわしは同義のものであったのではないかと考える。

後者は明らかに観客に感謝を述べた唄である。

前回、わしは「さよなら」=「ステップアップ」であると書いた。 ならば。

”「誰の」愛を身に纏うと言うのだ?”

そんな疑問を抱いた方も多かろう。

今回のツアーにてわしは確信した。

「あんた」=「わしら」である。観客である。

だからこそ、MCで「初めての客の前で唄うつもり」等と言ったのだ。

要するにこの二曲とも、直接的に観客に向けて唄われたものではないかと思うのだ。

 これをわしは「飛天」と今回の共通点であろうと決めつける。

そして両方ともエンターテインメントであるからこそ、

観客に感謝を述べる唄がそこに在ったのであると思うのだ。

 ツアータイトルをもじってまとめる事にする。

「俺は甲斐よしひろ。エンターテイナーだ。だからこそ、観客に謝意を表す」

 またしても長文になってしまったが、如何だったでしょうか。

このように考える過程、材料などは極力省いているので解りにくいかもしれません。

MCの内容も完全に憶えている訳でもないしね(笑)。

また、ある意味当然の帰結と言える結論で呆れられるやもしれません。

 おつき合い、有り難うございました。

 

KAI Lives